——6回裏、ツーアウト一塁。彗勢は2点ビハインドを追い掛ける。
白楼学園のマウンド上に変わらず立ち続ける神童。疲れの見える今攻め立てたい彗勢ナイン。逆転と部の存続を懸け、美空の女房役・聖川が右打席へと入った。
(
——この打席が、この試合のターニングポイント。それをバッテリーは重々理解している。ここで切るか、ツーアウト一塁二塁で扇詩を迎えるか。運命の分かれ道が、神童の右腕と聖川のバットで決まる。
賽は投げられ出目がはっきりと姿を現す。初球が、聖川の眼前を通過した。
(初球、
今、彗勢の未来は聖川のバットに託された。そしてそれを当然バッテリーも理解している。
白楼の捕手・坂本は今日、
だがこの回、もし聖川を出塁させたとなれば扇詩にまわる。途中出場ながら神童の球を豪快に弾き返し、得点に繋がらなかったとはいえチーム唯一の長打を生み出した。
その記憶はバッテリーの脳裏で鮮明に焼き付いている。ツーアウトでもランナーを得点圏に置いて彼にまわすか、ノーアウトから仕切り直して彼を迎えるかでは、その意味は大きく変わる。
だからこそ、ここで聖川が倒れる事は彗勢ナインの息の根を止めることに直結するということになるのだ。
(初球は外のスライダー。変化の大きいボールを見せて内を意識させ、決めるのは外。バッターを惑わす最高の球だ。次の球が全く見えて来ない——)
——同じ球が続いた2球目に手を出す。だがそれは明らかなボール球。釣り球につられ、聖川はたった2球で追い込まれた。
(……花咲のボールを受けてから左手に力が入らない。何なら感覚も無い。バッティンググローブをしているから尚更、バットが上手く握れない……外にストレートを投げられたら——)
——
(この女、恐らくあの
——坂本が構えたのは、
(——利用させてもらうぜ、その手)
神童は迷った。無論神童も聖川の状態に気付いている。初球はスライダー、2球目はカットボール。そして3球目に求められたのはスライダー。同じようなボールが続いたことで一度サインに首を振った。だが坂本は譲らない——その確信に、神童は坂本を信じる決断を下した。
サインに同意し微笑む神童。聖川にはそれが、裁定を下されたような恐怖心すら覚える。来る、始まる。運命の分かれ道が目の前にある。心臓が跳ね、思考回路が停止していく。考えられるのは、体に刻まれた動きを反復する事だけ。
聖川も気付いている。この左手が使えない事を。先刻の2球はそれを確かめるか、確信する為のものであったということも。
そんな最悪の事態に備え、聖川は更に初動を早くした。左手だけでなく右脚もダメになりそうなほど酷使してバッテリーの決定を待った。キャッチャーとして座り続けた脚は限界に近い。疲労で震え今にも崩れ落ちそうな体をそれでも奮い立たせるのは、親友の言葉。
【……私、まだ投げる。投げたい壊れても良いから投げたい! まだ、試合を終わらせないで!】
【壊れても良いから投げる! 私のせいでチームが無くなるのは嫌! 何よりみんなとまだ野球がしたい! みんなとする野球が大好きだから……壊したくない! 私のせいで、終わらせたくない!! だから……投げさせて! お願い!!】
【……っ、おわらせたくない……! まだ……私はなげ、られる……!!】
【こんな肩壊れても良い! だから——】
正捕手として、投手の異変に気がつくべきだった。チームの勝利、チームの秩序、規律——色々なものに囲まれて、聖川果補は目の前にある最も大切なものを見落としていた。
【——壊れても
それを気付かせ、そして1人でこの試合に希望を齎した男が、すぐ後ろに居る。
何としても、扇詩に打席を——。
(何でもいい! 打て! 前に打て! そうすれば、何かが起こる!!)
博打など縁が無い。興味すら無かった。しかし今、それにすら縋りたくなるほどの苦境に立たされ、本来の冷静さすらも投げ出し、聖川果補はバットを振る。
押し込まれたように畳んだ肘。それでも握り締めたバット。快音でも鈍音でもなく、グラウンドに打球音が反響するよりも前に、ボールは地面を這っていく——。
「——サード!!」
マスクを乱暴に外した坂本の声が響いた。打球は三遊間。しかし無情にも、サードの守備位置でゴロの勢いは掴み取られる。
一塁ランナー・螺子松は打球が飛んだ瞬間スタートを切っており、サードは二塁が間に合わないと判断。一塁へと、送球する。
(間に合ってくれ、頼む——!!)
聖川、ヘルメットを飛ばして決死のヘッドスライディング。サードの動きを見る事もなくただただ直走った彼女は、その焦りと博打に賭けた恥じらいを砂煙に隠すようにして、ベースに飛び込んだ。
送球はファーストへと向かっていく。サードの指からボールが離れた瞬間、嘘のようにグラウンドには静寂が訪れた。心臓が止まるような感覚に襲われる聖川——その手前で、ファーストは——。
——滑り込む体が起こす砂埃。捕球音と重なる結果。万事休す——重苦しくなる胸を両腕で持ち上げるその背後で、何故か不自然な程に盛り上がるベンチ。
異変に気付いて慌てて顔を上げた。塁審の判定に、聖川は思わず目を見開いた。
「——セーフ!!」
広がる両手、生き残った自らの体。自分と同じように腹部を砂で新しい汚れを作ったファーストを見て全てを把握した。
(サードの悪送球……助かった)
胸を撫で下ろし、ベンチで手を振る美空に振り返る。優しく微笑み、痛む左手を振り返した。飛び跳ねる姿を見て、大役を果たした自らの褒賞とした。そして——。
「……不恰好だが、繋いだぞ」
「——花咲」
——舞台は整った。ツーアウト一塁二塁。ここに、彗勢の正念場がある。
美空が試合を作り、聖川が繋ぎ、そして受け取った
——4番・投手。かつて
「扇詩くん! 頑張れ!!」
今思えば、美空と出会ってからだ。松尾と良く似た美空と出会ってから。ここに戻って来るきっかけになった。
もしかしたら、松尾が美空を連れて来てくれたのか——。
(……慶四郎)
捕手・坂本がサインを出さない。プレートを外した神童がロジンバックを地面に捨て置く。
この状況を受け入れられないのは神童よりも坂本。当然まだ可能性はある。この扇詩を抑えられる未来はまだ残されている。そしてそれも当然熟知しているのだが、それでも取れるアウトを取れなかった事が彼に立ち直る時間を必要とさせた。
なんて事のないサードゴロ、それを取れなかった。捕手は監督の分身。負ければ捕手の責任も大きい。なにより、坂本はそのリードに確信と同等の自信を持っていた。
(左手を握る事すらできない
睨みつけられている事に気付いたサードは目を逸らすだけ。主審に会釈しマスクを被った坂本は、ゆっくりと体勢を立て直す。
(……悪い、旦那……)
(構わないさ。こうなる事は分かっていた。そうなってだけの話さ)
神童は意に介さない。歩かせても良い。次は5番の三田村。ここで無理をする理由は無い。仮に1点を取られても、まだもう1点ある。だが何より、坂本が見据える彼女は——。
(何で勝負する気で居るのかねぇ……)
既に神童は、扇詩を意識している。この夏、秋——そして来年。いずれぶつかる強大な敵として、認めている。
ここでその経験を積む。抑え込み、自らの糧とする為に。
(慶四郎)
(……分かってるよ。旦那)
目の前の勝負に淡々と集中する。そんなプロフェッショナルに、坂本も我が身を奮い立たせ律する。
頭は冷えてきた。いつもの周到さを取り戻しつつある。その中で出すサイン、構える場所は——
「——あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっ!!!!」
この細く伸びた体のどこからこんな声が捻り出されるのか——。喉が焼き切れる程の唸り声をあげて、神童の右腕は渾身の一投を繰り出す。
目掛けるのは
「——。」
唸り声、炸裂音、沈黙——そして、青空に向けられた全ての視線は、やがて響めきに変わる。
過去より松尾からこのグラウンドで彗勢ナインへ。全ての因果が重なった今、扇詩のバットが切り開くのは——。
「きたぁああああーーーーーっっっ!!」
響き渡る大歓声、一際叫ぶ美空。空高く舞い上がった打球は左中間。その打球の行方を疑う者などいるはずも無い。
痛烈、一閃。高めのストレートを弾き返した当たりは、試合をひっくり返す値千金の逆転スリーラン。2-3、遂に彗勢が試合をひっくり返した。
「新入りぃぃぃいい!!」
「扇詩くーーんっ!!」
「おうおう、おうおうおうおう。おい鈴原、さりげなくケツ触んなや気持ち悪い」
「花咲」
「ん」
「……よく、打ってくれた」
「お安い御用や、カミさん」
そう言って微笑む聖川とハイタッチを交わす。扇詩にとって、今この瞬間は万感たる思いだろう。仲間が繋いだバトンを最高な仕事で返せた。打者としてアスリートとして、これ程までに喜ばしい事はない。
事実扇詩は聖川と同じように、どこか心地良い疲労感と安堵を混ぜた様相で笑っている。
そんな姿を、乾や螺子松は畏怖の眼差しで見つめていた。
「……神童」
「……ああ、分かってる。僕の役目は終わりだね」
そう言って、坂本の目を見て話した神童はゆっくりとマウンドを降りて行く。7イニング制の混合野球において6回途中3失点の結果は先発投手として上々。ただ逆転を許しての降板——最後の最後、坂本のリード通りに投げられなかった失投が悔やまれる。頭からタオルを被り、らしくなく項垂れる様が、坂本の視界に入っていた。
2番手投手に交代した白楼は、続く5番・三田村をファーストゴロに打ち取る。スリーアウトとなり、歓喜の6回裏が終わりを告げた。
「行けるんか? カミさん」
「誰に向かって言っている?」
「さーせん」
「頑張ってみんな! あと1イニングだよ!」
「おっしゃ!! 頼むで兄弟!」
「兄弟?」
「……なぁ、ホンマにあーしら白楼に勝てる感じ?」
「そうなんちゃう……?」
「遊神子、有左! あと1イニング! 頑張って!」
「う、うん……」
今日3イニングス目となった扇詩だが、その勢いは衰えない。誰ひとりとして彼のツーシームに当てる事さえ敵わず、気付けば外へ逃げていくスライダーに泳がされ三振を喫する。狙い球を絞った所で当てることがまずできない彼らに、なす術など無い。
ワンナウト、ツーアウト。ワンストライク、ツーストライク——勝利まであと一歩。遊び球は無い。勝利を飾るウイニングショットが、扇詩の手から放たれた。
「——ピッチャー!」
擦った当たりは頭上。勢いは無く、目で終えた。
色めき立たず、慌てず。両手で包み込むように、扇詩はゆっくりとグローブを持ち上げ——
「——アウト! ゲームセット!!」
——溢れ出した歓喜の渦が、勝利を告げるアウトコールを掻き消したのだった。