拝啓、クソガキのママになりました。~百年以上も働いたブラック企業に退職金を踏み倒されたので、拾った生意気な娘と組んで取り戻すことにした~ 作:パッタリ
「退職金が出ない?」
聞き間違いだと思った。
だから私は、受付カウンターの向こうに座る男へもう一度確認した。
「ええ。出ません」
「百二十七年間も勤めたのに?」
「実働期間は二十六年と四か月です。コールドスリープ中は勤続年数に含まれません」
「起こされるたびに戦場へ放り込まれていたんだけど」
「契約書に記載されています」
男は無表情だった。
オルグラム社、退職手続き窓口。
私と男の間にある端末には、退職者情報が表示されている。
【サンドラ・クロウ】
【第三総務部所属】
【勤続期間 二十六年四か月】
名前の横には、いつ撮影されたのかも覚えていない私の顔写真。
長い黒髪に赤い目。百年以上前とほとんど変わっていない若い女の顔が、ひどく不機嫌そうにこちらを見ていた。
まあ、今の私も似たような顔をしているだろう。
天井まで届く巨大モニターには、企業理念が映し出されている。
【人類の未来を、より豊かに】
私は心の中で、その下に一文を付け加えた。
ただし社員を除く。
「特殊作戦部隊の隊長だった」
「表向きの所属は、第三総務部の一般社員です」
「敵対企業の研究施設を十四か所潰した」
「業務内容として登録されているのは、社内備品の管理補助です」
この糞会社、爆破してやろうか。
そう思ったが、残念ながら私は社員ではなくなる。
退職直後に爆破すると、まず私が疑われる。
せめて三日は空けるべきだろう。
「では、こちらへ署名をお願いします」
端末に表示された退職同意書を眺める。
退職金も功労金もゼロ。
危険手当は精算済み。
その精算とやらも、半世紀前の通貨単位であり、二度ほど紙くずになっていた。
「ちょっと聞いていい?」
「なんでしょう」
「あなた、家族は?」
「妻と娘がいます」
「そう。幸せそうで何より」
私は笑顔で署名した。
男が怯えた顔をしたのは、たぶん気のせいではない。
こうして私は、百年以上所属したオルグラム社を退職した。
所持品は古い軍用コート、拳銃一丁、予備弾倉二つ。
そして、百年以上も働いたにしてはかなり軽い口座残高だった。
***
シティでは、企業を辞めた人間は三種類に分かれる。
競合企業へ移る者。
企業の下請けとして生きる者。
そして、数日以内に死体になる者だ。
私はできれば四つ目になりたかった。
昼まで寝て、適当に働き、夜は安酒を飲む日々。
「ま、無理でしょうね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
シティ中央区の通りには、オルグラム社の広告が並んでいた。
向かいのビルには敵対企業であるヴァルヘイム・インダストリの巨大看板。
少し先では、両社の警備部隊が道路を挟んで睨み合っている。
企業同士の抗争は違法ではない。
正確には、議会が去年、企業間紛争適正化法という名前で合法にした。
議員は企業に飼われている。
首輪が見えないだけで、野良犬より従順だ。
「ひったくり!」
女の叫び声が聞こえた。
見ると、小柄な影が人混みを縫って走っている。
金色の長い髪。
年齢は十二、三歳くらい。
腕には女物のバッグを抱えていた。
「待ちなさい!」
「待てって言われて待つ馬鹿がいるなら、そいつの脳みそは中古品でしょ!」
少女が振り返り、鮮やかに罵倒した。
なかなか元気な子どもだ。
関わらないことにしよう。
今日から私は自由人である。
善良な市民として警備局へ通報する義務も、会社の評判を守る義務もない。
そう考えて歩き出した瞬間、少女がこちらへ飛び込んできた。
「どいて、縦にでかい、邪魔!」
「誰が邪魔よ」
反射的に腕を伸ばし、その襟首を掴む。
少女の足が宙に浮いた。
「ぐえっ」
「子どもにしては威勢がいいわね」
「放して! 誘拐犯! 変態! 顔だけはいいのに人生終わってる女!」
「罵倒の種類が豊富ね」
追いかけてきた女が、息を切らしながら到着した。
「そ、その子です! バッグを──」
「これ?」
少女の腕からバッグを取り上げると返す。
女は何度も頭を下げると、すぐに去っていった。
「余計なことしやがって、この企業の飼い犬」
少女は私のコートを見て吐き捨てた。
胸元には、剥がし忘れたオルグラム社のエンブレムが残っている。
「元飼い犬よ。今日、捨てられたところ」
「へえ。退職金は?」
「出なかった」
「ざまあ」
この子どもをゴミ箱に入れて帰ろう。
そう決意しかけたところで、少女が私の顔をじっと見た。
濁りのない、妙に鋭い緑色の目だった。
「退職金、手に入れたい?」
「今なんて?」
「オルグラムから退職金をふんだくりたいかって聞いたの。耳まで型落ち?」
「百二十七年生きてきて、初対面の子どもにここまで腹が立つとは思わなかったわ」
「百二十七?」
少女の表情が変わった。
驚いたというより、何かを確信した顔だった。
「やっぱり、あんたがサンドラ」
「どうして私の名前を知ってるの?」
「元オルグラム特殊作戦部隊、第七班隊長。公式には第三総務部所属。戦死記録六回、死亡取消記録六回」
私は襟首を掴んだまま、少女を壁際へ運んだ。
「普通のひったくりじゃないわね」
「そもそも店から盗んだのはあっち。こっちは隙を見て拾っただけ」
少女の首筋を見ると、皮膚の下に淡い光を放つ回路のような模様が見えた。
民間用ではない。
企業の研究施設で使われる、生体認証端末に似ている。
「わたしはイリス。あ、名字はないよ」
「所属企業は?」
「全部嫌い」
簡潔で結構。
イリスは周囲の視線を気にするように一度だけ通りへ目をやり、私の軍用コートの裾を掴んだ。
「ねえ、サンドラ。わたしをここから連れ出して」
「ずいぶん簡単に言うわね」
「ただで助けろとは言ってない。わたしを守ってくれるなら、あんたの退職金を取り返してあげる」
「どうやって?」
イリスは自分のこめかみを指先で軽く叩いた。
「オルグラムの秘密口座、裏金の流れ、議員への送金記録。会社が隠したがってる情報は、全部わたしの頭に入ってる」
「なるほど。それをネタに会社から金を引き出せと?」
「脅すなり、売るなり、好きにすればいい。これまで働いた分くらいは取れると思うよ」
「魅力的な話ね」
「でしょ?」
「でも、情報を無償で渡すつもりはない、と」
私がそう言うと、イリスは当然だという顔で頷いた。
「追ってくる連中から守って、安全な場所と食べ物を用意して」
「つまり、保護者になれと?」
「少し違う。わたしのママになって」
一瞬、銃声より理解しにくい言葉が聞こえた。
「ごめんなさい。もう一度」
「ママになって」
「なぜ?」
「書類上の保護者が必要だし、どうせ一緒にいるなら他人より家族の方がいい」
「家族というものをずいぶん軽く考えてない?」
「あんただって、退職金のために会社を脅そうとしてるでしょ。似たようなものじゃん」
「まったく似てないし、そもそも私は育児経験ゼロよ」
「殺人経験は?」
「数えるのをやめた」
「なら大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
その時、周囲の空気が変わった。
人混みが不自然に割れ、通りの両端から黒い制服を着た男たちが近づいてくる。
どこの所属かは隠されているが、装備の規格はすべてがオルグラム社製だった。
イリスは迫ってくる男たちを顎で示す。
「わたしに近づくクズを殺せる」
先頭の男が立ち止まり、無機質な声を投げてくる。
「サンドラ・クロウ元社員ですね」
「退職初日から元職場の人間に囲まれるなんて、人気者はつらいわ」
「その少女は会社の資産です。引き渡してください」
「人間を資産扱いする法律は、まだ通ってなかったと思うけど」
「来週、施行予定です」
「こういう時は仕事が早いわね」
男たちが一斉に銃を構える。
私はため息をつき、イリスを背後へ押しやった。
「社員番号を返却したばかりなのに」
コートの内側から拳銃を抜く。
「退職者に残業させる会社は、ろくなものじゃないわ」
「警告します。武器を捨て──」
乾いた銃声が四つ、ほぼ同時に重なった。
遅れて鈍い打撃音と複数の短いうめき声が響く。
三秒後、男たちは全員、地面に転がっていた。
急所を正確に外したから死んではいない。
硝煙の匂いが漂う中、イリスが物陰から顔を出した。
「強いじゃん、ママ」
「まだ承諾してない」
「退職金、欲しくないの?」
「卑怯ね」
私は銃を収め、倒れた男の通信端末を踏み砕いた。
もう後戻りはできない。
まあ、それもこれも退職金を払わなかった会社が悪い。
「期間限定よ」
「何が?」
「あなたの保護者。オルグラムから金を取り戻すまで」
イリスは少しだけ目を見開き、それから意地の悪い笑みを浮かべた。
「よろしく、ママ」
「その呼び方はやめなさい」
「やだ、ママ」
「ゴミ箱に捨てるわよ」
「育児放棄。最低。カス。老害」
「誰が老害よ、クソガキ」
拝啓、かつての同僚たちへ。
私は本日、クソすぎる娘を拾いました。
最悪の出会いでした。
ついでに近いうち、会社へ退職金を取り立てに行きます。
爆薬を持って。