拝啓、クソガキのママになりました。~百年以上も働いたブラック企業に退職金を踏み倒されたので、拾った生意気な娘と組んで取り戻すことにした~ 作:パッタリ
退職初日に古巣の兵士を叩きのめし、その会社が回収しようとしている金髪の少女を拾った。
冷静に考えると、これまでの人生の中でもかなり悪い部類の一日だ。
「ママ、お腹すいた」
「さらに悪化したわね」
「何が?」
「こっちの話よ」
私は後ろを歩くイリスを見る。
軍用コートの裾を掴みながら、物珍しそうに周囲を見回していた。
ここは中央区から二つ離れた第七居住区。
高層建築の隙間を縫うように集合住宅がひしめき合い、その上を無人輸送機が飛び交っている。
裕福でもなければ貧困でもない、シティでは面白みのない区域だ。
私の家はここにある。
「わー、おんぼろ」
「捨てるわよ」
「育児放棄二回目」
「まだ育児を始めた覚えがないんだけど」
扉を開けると、イリスは私の脇をすり抜けて勝手に上がり込んだ。
「お邪魔しまーす」
「あなた、警戒心ないの?」
「あるよ。だからママを盾にするつもりだった」
「頼もしい娘ね」
皮肉を言いながら中へ入る。
部屋は広くない。
最低限の家具に、古い端末が一台。
あとは現役時代の装備がいくつか。
百年以上生きている人間の住居としては、我ながら殺風景だ。
なにせ、人生の大半を軍事施設かコールドスリープ用のカプセルで過ごしていたのだから。
「うわっ」
冷蔵庫を開けたイリスが声を上げる。
「酒、酒、栄養ゼリー、酒、よくわかんない肉」
「合成肉のジャーキーよ。腐りやすいものは置いてない」
「人間ってそう簡単には死なないんだね」
「百年以上かけて実証してる」
イリスは冷蔵庫を閉じると、露骨に嫌そうな顔をした。
「なんかまともなもの買って」
「退職金が出なかったから、あまりお金ないの」
「かわいそ」
「その哀れむような目をやめなさい」
私は戸棚から保存食を二つ取り出し、片方を投げる。
イリスは受け取ったものの、すぐには開けなかった。
ひっくり返し、製造番号を見て、封が破られていないことまで確認している。
「毒なんて入ってないわよ」
「……別に」
「私があなたを殺すなら、食事に毒を入れるより首を折った方が早い」
イリスはしばらく私の赤い目を見つめたあと、ようやく包装を開けた。
まず一口。次に二口。
妙に小さく食べている。
「味はどう?」
「普通」
私はそれ以上聞かなかった。
戦場にいた頃、似た食べ方をする人間を何度も見たことがある。
この子が何者なのか。
そろそろ聞いておいた方がいいだろう。
「イリス」
「なに?」
「あなた、オルグラムで作られたの?」
動きが止まった。
「言いたくない」
「会社の部隊が出てきて、あなたを資産と呼んでた」
「うるさい、百二十七歳」
「年齢で攻撃するのやめてもらえる?」
私は卓上の端末を起動した。
認証キーを接続すると、オルグラムの内部回線へ潜り込む。
とっくに私の社員アカウントは抹消されているが、百年以上も会社に籍を置いていると、システムの改修時に放置された古いバックドアがいくつかあるものだ。
「……あった」
回収指令。
対象──IRIS。
危険度、特級。
回収優先順位、最上位。
生体での回収を最優先。
脳組織への損傷は禁止。
「脳の損傷は禁止ときたか。本当に何者?」
「どこからどう見ても可愛い娘」
「自称するものじゃないわ」
イリスは保存食を口にしながら、少し考える。
「わたしの頭には、オルグラムの情報が入ってる」
「どの程度?」
「いっぱい」
イリスが自分の首筋を指差した。
皮膚の下に、細い光が走る。
「頭に最初から入ってたの。わたしが盗んだんじゃない」
「じゃあ誰が入れた?」
「知らない」
嘘をついている目ではなかった。
つまりこの子は、誰かが作った生きた機密データベースというわけだ。
さらに追及しようとしたその時、玄関のインターホンが間の抜けた電子音を鳴らした。
「誰?」
「知らないわ」
ほぼ確実にろくでもない相手だろう。
画面を見る。
そして私は、無言で端末を切った。
「はぁ……」
「知ってる顔?」
「最悪な意味でね」
直後、爆発音と同時に扉が吹き飛んだ。
「サンドラ隊長ぉ」
続いて甘ったるい声が響く。
煙の向こうから現れたのは、一人の若い女だった。
赤茶色の髪を後ろで束ね、細身の黒い戦闘服を着ている。腰には大型拳銃。
第七特殊作戦班副隊長、ミレイ・ハーグリーヴス。
「お久しぶりです、隊長」
「昨日も会ったでしょう」
「退職前の隊長と退職後の隊長は別人ですから」
「気持ち悪い理屈ね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
ミレイはうっとりと微笑んでいた。
だが、私の後ろにいるイリスに視線を移した瞬間、その顔から表情が抜け落ちた。
「ああ。それが例の回収対象ですか」
「見た通り人間よ」
「会社の定義では資産です。生かして持ち帰れば、ボーナスが出るそうで」
「相変わらず会社の犬ね」
「隊長の犬になりたかったんですけど、勝手に辞めちゃうから」
そして再び私を見る。
ねっとりと、全身を舐め回すような目つきだった。
「今回の件、敵対者の扱いは私に一任されてまして」
「……へえ」
「拘束、尋問、殺害。現場判断で自由です」
ミレイが頬を染め、嬉しそうに両手を胸の前で合わせた。
「つまり隊長を拘束しても、誰にも怒られません」
「あなた、会社の命令を何だと思ってるの?」
「結婚許可証ですかね」
「眼科と精神科に行きなさい」
イリスが私の後ろから顔を出す。
「ママ、この人キモい」
「子どもは正直ね」
「……誰が、ママですか?」
ミレイの声から温度が消えた。
「そこのガキ。私の隊長に、そういうこと言わないでもらえます?」
「わたしのママだけど」
「違います」
「本人がさっき、期間限定でなってくれるって言ったもん」
「隊長、どういうことですか?」
「そこで私に話を振らないで」
ミレイは数秒間、沈黙した。
それから、花が咲くようなとても綺麗な笑顔になった。
「わかりました。そちらの子どもを回収して、隊長は私の家に監禁します」
「わかってないわね」
「大丈夫です。防音設備も拘束具も、すでに完備してありますから」
「いつから準備してた?」
「七十年前から」
怖い。いや、気持ち悪い。
「婚姻届も用意してありますよ。署名は私が代筆しておきますので、隊長は首輪をつけて座っているだけで結構です」
「立派な犯罪よ、それ」
「シティでは、企業の承認さえあればあらゆる書類が合法になるという法律が制定されてるので」
「議会の糞犬どもめ!」
私は今日、二度目の悪態をついた。
ミレイの指先がわずかに動く。ほぼ同時に私もホルスターから拳銃を引き抜いた。
乾いた銃声が二つ重なり、お互いの頭を弾丸がかすめる。
私はそのまま床を蹴り、一気に間合いを詰めた。
「やっぱり──!」
ミレイが歓喜に満ちた声で笑う。
「隊長は私の動きをわかってくれる!」
「長い間一緒に戦ってきたからね!」
狭い室内、この至近距離では銃はただの鈍器だ。
ミレイの銃を持つ手首を叩き払い、腹へ肘を打ち込む。
紙一重で躱され、飛んできたカウンターの蹴りを腕で受け止めた。
そのまま軸足を掴むが、空中で強引に身体を捻って逃げられる。
「ふふっ、あははっ!」
「何を気色悪く笑ってるの」
「だって、隊長と二人きりのダンスみたいで!」
突き出された拳を首を傾けてかわし、懐へ潜り込んで細い腕を絡め取る。
そのまま流れるように背後へと回り込み、首を後ろから腕でガッチリと固定し、チョークスリーパーが決まる。
「よし、捕まえた」
「……っ」
ミレイが抵抗する。
私の腕を剥がそうと指をかけ──。
「……はぁ」
妙に満足そうな息を吐くと抵抗が止まった。
「なぜ諦めるの」
「もう少し、このままで」
「嫌よ」
私は悪寒に襲われ、即座に腕を放して突き飛ばした。
ミレイは床へ崩れ落ちながら、名残惜しそうに自分の首元を撫でている。
「隊長の腕に締められると落ち着きますね……」
「本当に気持ち悪いわ」
「ママ」
部屋の隅に退避していたイリスが、心底冷めきった顔で私を見た。
「知り合いは選んだ方がいいよ」
「ただの元部下よ」
「同じじゃん」
「違う!」
言い返した瞬間、建物の外から装甲車の重苦しいエンジン音が複数響いてきた。
窓の外へ目をやると、床にいるミレイもそちらを見た。
「……部下を呼んだわね?」
「はい。念のため、外に二個小隊ほど待機させてあります」
「つくづく迷惑な元部下ね」
「愛が重いと言ってください」
「重い上に迷惑なのよ!」
私は舌打ちし、近くにいたイリスの脇の下に手を突っ込んで軽々と抱き上げた。
「逃げるわ」
「抱っこよりもおんぶがいい」
「その注文は却下」
助走をつけて窓ガラスを蹴り破り、外の非常階段へと飛び移った。
ガラスの破片が舞い散る中、部屋の奥からミレイの黄色い声が追いかけてくる。
「隊長ー! 地下室、いつでも空けておきますからねー! 死なないでくださーい!」
「誰が入るか!」
階段を駆け下りる私の肩越しに、イリスは上を見る。
「ねえ、ママ。家なくなったね」
玄関は吹き飛び、窓は私が割った。
おまけに会社には完全に場所が割れているので、もうあそこには戻れない。
「誰のせいだと思ってるの?」
「オルグラム」
「正論なのが腹立つわね」
路地裏へ着地し、闇に紛れて走り出す。
イリスは私の腕に揺られながら、少しだけ楽しそうに笑った。