ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
幕間です。第10話と第11話の間、22日目のお話です。朝の食堂で、ジョニィの向かいに見知らぬ医者が座ります。
「食べてくれないと困るんです! 今日のは野菜十二種のミックスサラダに、蒸したお豆と、苦い根っこのお茶なんですから!」
配膳台の前で、白衣の少女が盆を両手で突き出していた。
その真向かいで青い顔をしているのは、同じ顔立ちの、ずっと目つきの悪い少女だった。
「いらないって言ってるだろ、ハイビス。アタシはそれ見ただけで……お"え"ぇ……」
「ラヴァちゃん! 好き嫌いは体に毒です!」
姉妹喧嘩らしい。周りの卓の隊員たちは慣れた顔で、巻きこまれまいと一斉に皿へ目を落としている。窓際の卓で黒パンをちぎっていたジョニィも、それに倣って朝食へ戻ろうとした。
補給の荷を待って、艦が岩山の陰に停泊したまま二日目の朝。テラに来てからは二十二日目になる。
音もなく、卓の向かいの椅子が引かれた。
「ふむ。そなたが、例の『うまの人』か」
いつの間に座ったのか、華奢な女が頬杖をついてこちらを眺めていた。白い髪に、尖った耳。風が吹けば折れそうな細い体つきなのに、口ぶりは祖母のように古めかしい。何より、こちらを見る赤い瞳の色合いが、食堂の誰とも違っていた。
獲物の値踏みをする目だった。
「……あんたは」
「ワルファリン。血液学が専門の医師で、ロドス血液センターの責任者でもある」
女はにこりと笑い、傍らに引いてきた台車をぽんと叩いた。
三段重ねの銀の盆に整然と並ぶのは、ガラスの筒と細い針の群れだった。一本や二本ではない。ざっと数えて、三十本はある。
「艦に乗る者の血液型を記録するのは、ロドスの必須事項でな。たとえ当事者が嫌がっても、だ。そなたの分が、まだ妾の帳面にない」
「ぼくはオペレーターじゃない。それに血なら、週に一度ケルシーに採られてる」
「艦に乗っている者は、妾の帳面では皆オペレーターだ。それに、あれはケルシー先生の分であって、妾の分ではない」
即答だった。理屈の体をなしていない。
卓越しに身を乗り出したワルファリンが、すん、と小さく鼻を鳴らす。赤い目がうっとりと細められ、白い頬にうっすらと血色が差した。
「……やはりな。ケルシー先生の記録は読ませてもらった。源石の粉塵の中に三日いて、なお一粒も寄せつけぬ血。こんな香りは、妾も初めてだ。たまらん……いや、医学的に、極めて興味深い」
「今、たまらんって言ったな」
「言っておらん」
「言った」
「患者と食料の区別くらいついておるわ。案ずるな、小童。痛いのは最初の十本ほどだ」
十本。
ジョニィは静かにパンを置いた。大陸を横断したレースの間、この手の目つきで近づいてきた相手には、三度ほど殺されかけている。
「ケルシーは、このことを知ってるのか」
「ケルシー先生が妾に禁じたのは、常軌を逸した行為だけだ。採血は医療行為。よって、常軌の内だ」
「三十本は常軌の外だ」
「数は常軌に含まれん」
胸を張って言い切ると、ワルファリンは盆から一本目の注射器を取り上げた。針の先で、窓から差しこむ朝日がきらりと跳ねる。
次の瞬間、ジョニィは椅子を蹴って立ち上がっていた。
「冗談じゃあないッ!」
「待て! 逃げると針が曲がる!」
背後で台車の車輪が鳴った。卓の間を縫って走るジョニィのすぐ横を、さっきの目つきの悪い少女が、負けない勢いで駆けていく。健康食の盆から逃げてきたらしい。
並んで走りながら、ラヴァはちらりと背後へ目をやった。台車を押して迫る白い髪と、山盛りのサラダを掲げて迫る姉の姿を、見比べるように。
「……お前も何かから逃げてんのか」
「血だ。全部抜かれる」
「アタシは野菜十二種だ。……こっちだ。裏の配膳口が開いてる」
同志の顔で顎をしゃくったラヴァが、返却棚の脇の小さな扉を蹴り開ける。ついでに、自分の盆から失敬してきたらしい葉物の一株を、ジョニィの胸へ押しつけた。
「持ってけ。アタシは要らない」
礼を言う暇もなく、ジョニィは葉物を抱えたまま、扉の奥の通路へ転がりこんだ。
当てがあって走ったわけではない。それでも足は自然とエンジニア部へ向いていた。この艦の中で、こういう頼みを聞きそうな相手が一人いる。
途中の通路の真ん中に、なぜか寝袋が一つ転がっていた。中から小さな寝息が聞こえる。飛び越えた拍子に裾が寝袋を掠め、中の誰かが「ぐにゅー?」と唸ったが、目を覚ました気配はない。
数秒後、後ろの台車が同じ寝袋を器用に避けていく音がした。手慣れた運転だった。
工具と油の匂いが立ちこめる作業場の奥では、クロージャが端末の画面に顔を寄せていた。息を切らして飛びこんできた客を見るなり、片方の眉を上げる。
「おはよ。朝から運動? しかも野菜持って」
「匿ってくれ。医療区画の、白い髪の医者だ。注射器を三十本持って追ってくる」
「あー、ワルファリンか」
同情するでもなく頷いたクロージャが、端末をくるりとこちらへ向けた。画面に並んでいたのは例の請求書の数字だった。
「匿う料金は請求書に上乗せね。一時間ごとに」
「足元を見るな」
「見るよ。商売だもん」
けろりと言ったのと同時に、作業場の入口で車輪の音が止まった。
「クロージャ。そこに、いい香りの小童が来ておらんか」
「来てる来てる。そこの棚の裏」
指まで差しての密告だった。
「おい」
「ごめんね。同族のよしみってやつ」
片手で拝む真似をしてみせたクロージャの、笑った口元からのぞく尖った歯に、ジョニィはようやく気づいた。台車の向こうで、ワルファリンがふんとそっぽを向く。
「機械のオイルばかり嗅いでおる同族に、礼など言わんぞ」
「じゃあ請求書に情報料つけとくね。ジョニィのほうに」
「なんでぼくのほうなんだ」
言い返している暇はなかった。台車が作業台を回りこんでくる。
ジョニィは棚の陰で、胸に抱えた葉物へ目を落とした。外葉から芯へ、葉は渦を巻いて重なっている。その渦の比率に、黄金の長方形が重なって見えた。
右手の爪を回し、自分の胸へ向けて撃つ。
ACT3。胸に開いた弾痕の穴が、ジョニィの体を呑みこんで床へ移り、棚の下を這って作業場の反対側へ逃げていく。前に一度見せた手を、クロージャが「あ、それずるい」と指さした。
暗く狭い穴の中で、息を殺して八つ数える。
八秒で穴が閉じ、作業台の反対側の床へ押し出された刹那、ジョニィの鼻先には白い髪が垂れていた。
「見つけたぞ」
真上から覗きこんだワルファリンが、注射器を片手に微笑んでいる。
「どうして分かった」
「香りだ。そなたの血は、床の下を這っていても分かる。隠れても無駄だぞ」
跳ね起きたジョニィは作業台を飛び越えた。背中に追いすがる車輪の音を聞きながら、頭の半分だけが冷えていく。
射程は匂いの届く範囲で、壁も穴も遮るものにならない。見られていなくても、嗅がれれば終わる。この手の能力の持ち主に限って、どこまでもしつこいのだ。
背中のあたりで、桃色の装甲が身を乗り出した。ACT4はなぜか張り切って籠手を打ち鳴らし、台車の前へ回りこむと、ワルファリンに向かって片腕を差し出した。
『チュミッ! チュミッ!』
自分も採血の列に並ぶつもりらしい。
ワルファリンは目の前の像に一瞥もくれず、その体を素通りして、ジョニィの方へ台車を押してきた。見えていないのだから当然だった。差し出した腕をそのままに、ACT4がしおしおと萎れていく。
『……チュミィ……』
「……並ぶな」
小声で言ったところで、聞こえるのは一人だけだった。
エンジニア部の裏口から通路へ出て、角を二つ曲がっても、後ろの車輪の音は少しも遠のかない。走りながら、ジョニィは考えた。
匂いで追ってくるなら、もっと強い匂いで紛らわせばいい。
角をもう一つ折れた先の訓練区画には、足音と掛け声が響き、通路の両側に揃いの扉が並んでいた。その一枚の隙間から、湯気と石鹸の香りが漏れている。
ここだ。迷わず引き開けて中へ飛びこみ、ジョニィは背中で扉を閉めた。
壁一面に縦長の戸棚が並び、長椅子にはタオルと訓練着が投げ出されている。その真ん中で、三人の少女が着替えの手を止めたまま、扉の方を凝視していた。
垂れた犬の耳の少女と、長い兎の耳の先から雫を垂らした少女と、馬に似た耳と尾を持つ少女。三人とも、上着を羽織りかけた格好のまま固まっている。
訓練区画の、女子更衣室だった。
推理は完璧で、結論だけが最悪だった。
「き……きゃああああああっ!? フェ、フェン隊長ォーッ!」
犬の耳の少女の悲鳴が、湯気ごと部屋を揺らした。垂れていた耳まで跳ね上がっている。
「ビーグル、下がって!」
上着の前を片手で掻き合わせながら、隊長と呼ばれた少女がもう片方の手で戸棚の槍を掴み取る。穂先はまっすぐ、ジョニィの喉元を向いていた。一分の迷いもない構えだった。
「どなたですか! ここが何の部屋か、お分かりですか!」
「違うッ! 誤解だッ! 追われてるんだッ!」
フェンの穂先は微塵も動かなかった。
「追われている方は、皆さんそうおっしゃいます!」
「……皆さんって誰だ」
扉に背中を貼りつけたまま、ジョニィは両手を顔の前に上げ、視線を真上へ逃がした。逃がした先にも湯気しかない。
ただ一人、長椅子に腰かけた兎の耳の少女だけが、もとから細い目をさらに糸のようにして笑っていた。
「わぁ~。噂の『うまの人』だぁ。新顔さんって、入ってくる扉から間違えるんだねぇ~」
「クルース、感心してる場合じゃない!」
「だってぇ、フェンちゃん。この人、すっごく必死な顔してるよぉ? 覗きに来た人の顔じゃないもん。……覗きに来た人なら、もっと嬉しそうな顔するよねぇ」
槍を構えたままのフェンが、返す言葉に詰まった。
「……嬉しそうな顔じゃなくて悪かったな」
返したところで、ジョニィの背中の扉が外から叩かれた。
「そなたー。そこにいるのは分かっておるぞー。石鹸ごときで、妾の鼻は誤魔化せん」
三人の目が、扉からジョニィへ揃って移った。
震える指で扉を指さしたのは、ビーグルと呼ばれた犬の耳の少女だった。
「い、今の声……ワルファリン先生、ですか……?」
「注射器を三十本持ってる」
「さ、三十本……」
槍の穂先がすっと下がった。フェンの顔から警戒の色が抜け、代わりに深い同情が浮かんでいく。
「……事情は、分かりました。ワルファリン先生ですね」
「分かってくれたか」
フェンは生真面目に首を縦に振り、同じ生真面目さで続けた。
「はい。ですが、着替え中の部屋に入ったことは別問題です。後で事情を聴取します」
「後で、があればな」
がちゃり、と扉の取っ手が回った。
更衣室の奥へ跳んだジョニィの目に、戸棚の列の向こうの、訓練場へ抜けるもう一枚の扉が映る。体当たりで押し開けた背後で、三つの声が重なった。
「待ちなさい! 聴取です!」
「わ、わたしも行きます、フェン隊長ォ!」
「面白そうだから、私もぉ~」
追手は四人に増えた。
▽
艦の中にいる限り、あの鼻からは逃げられない。かといって、外の荒野へ飛び出すのは無茶だ。どんな獣が潜んでいるかも分からない土地へ、注射器から逃げるために馬を出すわけにはいかない。
ただ、この艦の中にも、馬が走れる場所が一つだけある。停泊の間、天蓋を開け放したままの上甲板だ。前に走らせた時は、狭くて半分も出せなかった。それでも、四人を引き離すには足りるはずだった。
訓練場を突っ切り、貨物用の昇降機を駆け下りて馬房へ飛びこむと、スロー・ダンサーは梱包材の上で干し草を食んでいた。息を切らした主の顔を見て、馬は耳を一つだけこちらへ向ける。何事だ、と言いたげだった。
「悪い。朝飯の途中だ」
握りしめていた葉物を飼い葉桶へ放りこみ、鞍を載せて腹帯を締める。焦りで指が滑った。後ろの通路からは、車輪の音と四人分の足音が迫ってくる。手綱を引いて馬ごと昇降機へ乗りこみ、ジョニィは上昇の釦を拳で叩いた。
扉が開くと、空があった。
艦首から艦尾まで、鉄板の一本道がまっすぐに伸びている。昨日、二人の娘を乗せてゆっくりと回った甲板だった。今朝は天蓋が艦首の先まで畳まれていて、前に走った時より直線が長い。鞍へ体を引き上げ、踵で腹を押す。
鉄の床を蹴ってスロー・ダンサーが飛び出し、蹄の拍子が一段ずつ跳ね上がっていく。並足から速足へ、速足から駆け足へ。それでも歩幅は、白い湖の底で見せた長さにまだ届かない。
振り返れば、隣の昇降口から、台車ごと甲板へ躍り出てくる白い髪が見えた。
「逃がさんぞ、小童ーッ!」
その台車の上には、注射器の盆の間に、兎の耳の少女がちょこんと腰かけていた。走る気は最初からなかったらしく、のんびりこちらへ手を振っている。
「台車ごと来るのか」
呟いたジョニィの視界の端で、よたよたと続く犬の耳を置き去りに、先頭の影だけが少しも遅れずに迫ってきた。訓練着のまま槍を背負ったフェンが、まっすぐ伸びた背筋で、甲板を一直線に駆けてくる。
速いだけではない。息がまるで乱れていないのだ。スロー・ダンサーとの距離は、縮まりはしないが、少しも開かない。
「どういう脚だ!」
「毎朝、クルースを起こして朝礼まで走らせていますので!」
「……毎朝」
スロー・ダンサーの脇に、毎朝の寝坊を引きずって鍛えた脚が並んでいる。元騎手の誇りに、目に見えないひびが一本入った。
誇りを傷つけられたのは、騎手一人ではなかった。隣を走る脚に、スロー・ダンサーが耳を伏せた。ジョニィは手綱を緩め、踵を腹から離した。急かしもしなければ、抑えもしない。
甲板には端がある。このまま走れば、艦尾で追い詰められるだけだ。艦の中へ戻れば、また匂いで嗅ぎ当てられる。
残された手は一つきりだった。
大統領を撃った回転を、採血から逃げるために使う日が来ようとは。
馬が自分から首を伸ばした。歩幅が一つ、また一つと伸びて、並んでいたフェンの肩が初めて後ろへ流れる。風を受けた鬣がなびき、全力の脚運びが鞍の下から背骨へ伝わってくる。山を越え、砂漠を越え、六千キロを運んだ拍子。
その拍子から黄金の回転が爪へ満ち、指先で無限が渦を巻いた。
右手の人差し指を、馬の前方の甲板へ向ける。念じたのは、ただ一つだった。あの鼻の届かない所まで。
「――道を開けろッ!」
撃った。
爪弾が鉄板へ吸いこまれると同時に、背後で桃色の装甲が膨れ上がった。爪の後を追って飛んだACT4が、着弾の一点へ両の籠手を突き立てる。
『チュミミミミミーーーーンッ!』
艦首から艦尾まで届きそうな声だった。肩幅の広い桃色の巨人が忽然と現れ、鉄の床に両手を差し入れている。その姿に、追ってきた者たちの足が一斉に止まった。
ACT4は床を砕きはしなかった。甲板の鉄板を両手で掴み、布を引き分けるように左右へ押し広げたのだ。継ぎ目も鋲も割れず、鉄は柔らかく伸びて、馬一頭が通れるだけの口を開ける。
広げられた鉄は布のように垂れ下がって、下の階層へ続く坂になった。
一度も脚を緩めずに、スロー・ダンサーはその坂を駆け下りた。
坂の先は一層下の居住区画の通路だった。床に車座になって札遊びをしていた男たちが、天井から駆け下りてきた馬と、その横の桃色の巨人を、口を開けて見上げている。盾を背負ったエースの部下たち、E3小隊の面々だった。
蹄が通路の床に触れるより早く、ACT4がその床も同じように押し広げる。垂れた鉄の坂を、馬と騎手はもう一層下の、無人の倉庫へ駆け下りた。
「……今の、賭けるか?」
「何にだよ」
頭上で、そんな声が遠ざかっていった。
三枚目の床の口の先に、緑が見えた。
▽
最後の坂の終わりは柔らかかった。
蹄が沈みこんだのは、湿った黒い土だった。頭上で、押し広げられていた天井がゆっくりと元の形へ戻っていく。割れ目一つ残さず閉じきると同時に、回転は止み、桃色の装甲もまた、ジョニィにしか見えないいつもの姿へ引っこんだ。
並んだ灯りの下に、苗床の列が続いている。棚から垂れる蔓、鉢に植わった白い小さな花、乾かすために吊るされた葉の束。鼻の奥まで満ちてくるのは、土と、青い草と、甘い花の香りだった。
香りには覚えがあった。ただ、前に茶を飲んだ温室と違って、見上げても硝子の天井がない。
ちょうど散水の時刻だったらしい。天井の管から一斉に霧雨が降り注ぎ、ジョニィとスロー・ダンサーを頭から濡らしていく。馬は気にした風もなく、足元の苗床に首を下げ、何かの若葉を食みはじめた。
「あらあら。天井から、お客さん?」
苗床の向こうで、如雨露を手にした女が目を丸くしていた。温室の主、パフューマーだった。
「ここは温室の下の育苗室よ。上で植える苗を、灯りで芽吹かせてるの」
「……すまない。苗床を一つ潰した」
「いいのよ。カモミールは強いから、踏まれても起き上がるの。……それより、どうしたの? そんなに息を切らして」
「医療区画の、白い髪の医者に追われてる。血の匂いで追ってくるんだ」
それだけで、パフューマーは事情を呑みこんだらしい。くすりと笑って、部屋の香りを胸いっぱいに吸いこんでみせた。
「なら、ちょうどいい所に落ちてきたわね。ここの香りの中なら、どんな鼻だって迷子になるわ」
育苗室の外の通路を、台車の軋みが近づいてきた。扉の前で止まり、しばらく迷うように行きつ戻りつしてから、諦めたように遠ざかっていく。
「……ふむ。花の匂いしかせん」
扉越しに、不服そうな呟きが聞こえた。
それから夕方まで、ジョニィはカモミールの茶をすすりながら、部屋の隅に身を潜めていた。スロー・ダンサーは苗床の若葉を三つ平らげ、パフューマーに鼻面を撫でられて満足げに目を閉じている。
足元では、見えない桃色の装甲が苗床の土に指で何やら描いていた。どうやら馬の絵らしい。気づいたスロー・ダンサーが首を伸ばし、描かれた自分の顔をしばらく覗きこんでから、鼻息で半分吹き消した。
育苗室の扉が開いたのは、散水の灯りが夕方の色に落とされた頃だった。
入ってきたのは、猫の耳の医者と、その医者に襟首をつままれ、爪先立ちで不満げに揺れている白い髪だった。後ろに引かれてきた台車は注射器を没収されて空になっている。
「ここにいたか」
表情一つ変えずに言って、ケルシーは手元の記録板へ目を落とした。
「上甲板で、桃色の巨人が床を開き、騎手と駄獣を呑みこんだ。目撃者は行動予備隊A1の三名と、ここにいる医者。駄獣はそのまま床を三枚抜け、E3小隊の札遊びの真ん中を通過して、育苗室の苗床を一つ潰した。床にも天井にも、継ぎ目一つ残さずに、だ。……報告書を読む私の身にもなってほしい」
「追われてたんだ」
「知っている」
つまんでいた襟首を、ケルシーは無造作に離した。
「ワルファリン。君への禁止に、一つ書き足す。彼の血には、一滴たりとも手を出すな」
「横暴だぞ、ケルシー! 妾はまだ一滴も――」
「一滴もだ。……いずれ、禁止の相手がもう一人増えるかもしれないがな」
低い一言で、古株の医者は口を閉じた。不満げに唇を尖らせていたが、やがて顔を上げ、台車の下の段から一枚のタオルを引き出して放ってよこす。
「……せめて拭け。泥まみれではないか。医者として、それくらいは見過ごせん」
意外な気遣いだった。受け取ったタオルで、ジョニィは散水に濡れた髪と、土の跳ねた顔を拭った。
「……悪いな」
顔からタオルを離した、その瞬間だった。
目にも止まらぬ速さでタオルをひったくったワルファリンが、両手で胸に抱えこみ、勝ち誇った顔で一歩下がる。
「汗だ! 血ではないから、禁止の範囲外であろう?」
「ほとんど育苗室の水と泥だぞ、それ」
「残りの一滴に賭ける」
ジョニィは黙ってケルシーを見た。
しばらくタオルを見ていたケルシーは、それからゆっくりと、ジョニィへ視線を戻した。
「……汗は、範囲外だ」
幕間をお読みいただき、ありがとうございました。
・ワルファリンは、アークナイツのロドス血液センターを作った古株の医師で、サルカズのブラッドブルード(吸血鬼の一族)です。血の匂いの変化で体の中の源石の場所を嗅ぎ分ける、というのは原作の秘録にある話です。クロージャも同じ一族です。
・フェン、ビーグル、クルース、ハイビスカス、ラヴァは、原作で同じ行動予備隊A1にいる五人です。ハイビスカスの健康食がみんなに嫌がられているのも、クルースがいつもフェンから逃げ回っているのも原作どおりです。
・床を割らずに布のように押し広げて下へ抜けるのは、7部の終盤でジョニィが地面に使った手です。ロドスの艦は何層にも重なっているので、今回は上甲板から三枚の床を抜けて、パフューマーの育苗室まで降りてもらいました。大統領を撃った回転を、採血から逃げるのに使っています。
フェンの事情聴取は、まだ済んでいません。