ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第11話です。三度目の診察で、ケルシーがMon3trに一つ頼みごとをします。
七日に一度、医療区画の札を取るのが、ジョニィの習慣になっていた。
受付の端末に名前を打ちこみ、番号の刷られた小さな札を受け取って、待合の長椅子で呼ばれるのを待つ。最初は落ち着かなかった消毒液の匂いにも、今ではすっかり鼻が慣れている。
向かいの長椅子では包帯を巻いたオペレーターが居眠りをし、母親の膝に乗った子どもが、小さな飴を頬の内側で転がしている。この艦の病や怪我は、天気の話と変わらない日常の一部だった。
テラに来て二十三日目、三度目の診察だった。
聴診器を当て、瞼を押し下げ、爪の付け根を指の腹で確かめる。決まった手順を一つずつ終えてから、ケルシーはいつもの言葉を口にした。
「変化はない。源石は相変わらず、君の体を相手にしていない。爪の再生は、前回と同じく記録より早い」
「じゃあ、今日はこれで――」
腰を浮かしかけたジョニィを、ケルシーの短い一言が椅子へ戻した。ケルシーは器具を盆に置き、机の上で指を組んで、正面からこちらを見ている。
「まだだ。前の診察の終わりに、私が言ったことを覚えているか」
「Mon3trが反応したのは、ぼくの像だけじゃない。……ロスモンティスのことだと思ってた」
「あの子も、だ。だが、それだけではない。今日はそれを確かめる。Mon3tr」
医者の足元で影がゆらりと膨らんだ。
黒い体に、暗い緑の筋。影から首だけを持ち上げたMon3trが、次いで肩、前脚と、床から這い上がるように姿を現す。
同じ瞬間、ジョニィの前に桃色の装甲が割りこんでいた。ACT4は両腕を左右へいっぱいに広げ、Mon3trとの間に立ちはだかっている。前の診察の因縁を、まだ根に持っているらしい。広げた腕の先では十本の指まで律儀に開いていた。
「今日は喧嘩をさせに来たわけじゃない」
ジョニィの小声に、ACT4は聞こえないふりをした。
ケルシーに言われるまま、ジョニィは診察室の中央に立ち、両腕を体の横へ下ろした。
「それでいい。Mon3tr、彼の周りを回れ。ゆっくりだ」
緑の筋の走る体が音もなく床へ降り、ジョニィの足元に円を描くように歩きはじめた。
ACT4も動いた。両腕を広げたまま、Mon3trの歩みに合わせてじりじりと横歩きし、主との間に入り続けている。黒い獣が一歩進めば桃色の装甲も一歩ずれ、二体は診察室の真ん中で、ジョニィを軸にした二重の円を描いた。
「……おまえまで回らなくていい」
ACT4は聞こえないふりを続けた。
一周目は何も起きなかった。
二周目、Mon3trはジョニィの左側でぴたりと足を止めた。首を伸ばして左腕へ鼻先を寄せ、肘から手首にかけて、何かを嗅ぎ取るように鼻を動かす。
「……そこか」
ケルシーの手元で、ペンが走った。
Mon3trは再び歩き出してジョニィの背後へ回り、背中の真ん中でもう一度止まった。首の付け根から腰まで、なぞるように見上げていく。
背筋を、冷たいものが走り抜けた。
左腕と、背骨。その二か所の意味を知っているのは、この部屋でジョニィ一人だけだった。
「機械には、何も映らない」
ケルシーは記録板から目を上げずに言った。
「血液も骨の影も、これまでの診察で調べ尽くした。君の左腕にも背骨にも、異常は一つもない。……だが、Mon3trは、そこに何かがあると言っている」
左腕の前へ戻ってきた黒い獣が片脚を上げかけ、主の顔を窺った。ケルシーが短く首を振ると、黒い前脚は宙で止まった。
その時、左腕の奥が、ほんの一瞬だけ温かくなった。
熱と呼ぶほどではない。冬の朝、冷えた手の甲に誰かの手のひらがそっと重なったような温かさだった。気のせいだと言われれば、そうかもしれない。けれど、ジョニィはこの温かさを知っていた。
あの砂漠で、知らない間に腕の中へ入りこんでいたもの。爪が初めて回った夜、腕の奥から聞こえた、誰のものでもない声。脚を動かせ、と。動かないはずの脚に向かって、それは確かにそう言ったのだ。
「戻れ、Mon3tr」
ケルシーが短く命じると、黒い体は床の影へ溶けるように消えた。ACT4もようやく広げていた腕を下ろし、ジョニィの横へ戻った。
ケルシーは記録板を伏せ、ジョニィの顔を見た。
「君は今、何かに思い当たった顔をしている」
ジョニィは丸椅子に腰を下ろし、左手を膝の上に置いた。指を開いては閉じるたび、照明の光が爪の表で鈍く跳ねる。
この話を言葉にするのは、テラに来て初めてだった。
「前に、リスカムたちにスタンドの話をした。……報告に書いてあったか」
「読んだ。悪魔の手のひらという土地か、ある物に触れて目覚める、と」
「その、ある物の話だ。大昔に死んだ、一人の聖人がいた。その遺体がいくつにも分かれて、ぼくの国の大陸じゅうに散らばってた。左腕、背骨、両脚、心臓、目、耳。……遺体には不思議な力があって、持ち主に力を与える。それから、傷も穴もないのに、人の体の中へ入りこむ」
ケルシーは記録も取らずに耳を傾けていた。ジョニィは左腕を軽く持ち上げた。
「砂漠で、遺体の左腕がぼくの腕に入りこんだ。気づいた時には爪が回ってて、タスクはそこから生まれた。背骨は、ある戦いの後で背中へ入ってきた。レースは、ただの競走じゃなかったんだ。その遺体を、国で一番偉い男と奪い合う戦いでもあった」
「今も、君の中にあるのか」
「ない。奪われたのもあるし、渡したのもある。最後には、全部ぼくの手を離れた。それでも、回転は残った。だから、もう遺体とは関係ないと思ってた」
「棺の中の友も、その遺体を追っていたのか」
答えは思ったより早く口をついて出た。
「ジャイロは違う。あいつは、自分の国で死刑になる子どもを救うためにレースに出たんだ。勝てば、その子に恩赦が出るはずだった。遺体を追ったのは途中からで、それも、ぼくが追いかけるのに付き合ってくれただけだ。最後まで。……それに、棺の中にいるのはジャイロだけだ。聖人の遺体じゃない」
眠るように閉じた棺の中の顔を、ジョニィは瞼の裏に見た。あいつの旅の理由は、最初から最後まで誰か別の人間のためだった。
「分かっている。棺を調べたいと言った時、君は、誰にも触らせないと答えた。私はそれを疑っていない」
しばらく黙っていたケルシーは、やがて伏せていた記録板を表へ返し、一枚目に指を置いた。
「器は、中身が去っても、形を覚えていることがある。長く水を入れておいた壺は、空にしても内側に水の跡が残る。君の左腕と背骨には、その遺体が去った跡が残っている。Mon3trが嗅ぎ当てたのは、たぶんそれだ。……名残、と呼んでおこう」
「名残」
繰り返したジョニィの前で、医者は記録板をめくった。初めて会った日からの源石の数値が、日付順に並んでいる。どの欄も、同じ零だった。
「そう考えると、筋の通ることが一つある。源石は生き物の体に入りこみ、その体を宿にして育つ。だが、君の体には根を下ろさない。拒まれているのではなく、初めから宿として選ばれていないのだ。……すでに別の何かが住んでいた家には、源石は入れないのかもしれない」
ジョニィは膝の上の手のひらへ目を落とした。
「……あんたは、信じるのか。遺体なんて、ぼくの国のおとぎ話みたいなものを」
「私は、長く生きてきた」
答えは短かった。
「説明のつかないものを、いくつも見てきた。説明がつかないことと、存在しないことは違う。君の像も、君の棺も、Mon3trも、私の机の上では説明がつかない。それでも、ここにある」
それ以上、ケルシーは自分のことを語らなかった。ただ、その言葉の底に、ジョニィの知らない長い歳月が沈んでいることだけは伝わってきた。
「なら、一つ訊かせてくれ」
自分でも分かるほど、声が掠れている。
「遺体を集めた男は――国で一番偉い男は、遺体の力で、自分に来るはずの災いを他人へ逸らしてた。撃っても、斬っても、その痛みはどこか別の誰かが受けた」
言いながら、喉の奥が冷えていく。
「ぼくが、鉱石病にかからないのは」
言葉は途中で途切れた。
頭に浮かんだのは、この医療区画の待合で見た白い手首だった。皮膚を割って顔を出していた、黒く光る小さな粒。冗談めかして差し出された手を握った時、ジョニィの体には何の異変も起きなかった。
起きなかった分の災いは、どこへ行ったのか。
「ぼくの分を……誰かが、背負ってるんじゃないのか」
診察室の空気が重く沈んだ。
傍らのACT4がジョニィの背後へそっと寄った。いつもの鳴き声はない。
ケルシーの返答は言葉ではなかった。記録板から抜き出した何枚もの紙を、一枚ずつジョニィの前へ並べていく。
「この二十三日、君のそばにいた者の記録だ」
BSWの四人、搬入口の検疫係、エンジニア部、温室、E3小隊、行動予備隊A1、馬房に出入りした者たち。名前は伏せてあったが、数字の列だけはきちんと揃っていた。
「全員の数値を、君の診察のたびに見直した。誰の数値も悪化していない。君が来てから急に病が進んだ者は、この艦に一人もいない」
「……フランカは」
「患者の数値は、本人以外には話さない」
ケルシーは一枚の紙の上に指を置いた。
「だが、私がこうして全員分を並べてみせている意味は、君にも分かるはずだ」
ジョニィはその紙の数値を見つめた。医者の読み方は分からない。それでも、並んだ数値が先週とほとんど同じ形をしていることだけは見て取れた。
肩から、力が抜けていった。
背後のACT4が、籠手をそっとジョニィの肩に載せた。鳴き声はなかった。重さもないはずなのに、その肩がもう一段、下へ落ちた。
「逸らされた災いは、記録のどこにも見当たらない」
書類を集めて角を揃えながら、ケルシーは続けた。
「ただし、だから安全だとは言わない。名残が何をしているのか、私にはまだ分からない。分からないことは、分からないと書く。それが医者の仕事だ」
「……ああ」
ジョニィは自分の左腕を見た。
遺体を追いかけていた頃は、脚を動かすため、ジャイロと一緒に前へ進むため、手に入れることしか考えていなかった。あの頃のジョニィは自分をマイナスの人間だと思っていた。プラスになりたいとは思わなかった。
ただ、ゼロに戻りたかった。そのためなら、何でも手に入れようとした。その遺体の残り香が今、誰にも見えない形で、腕の奥からジョニィを守っている。
理由も分からずに受け取って、いつか返さなければならない物。その名前を、ジョニィは一つしか知らなかった。
「これは、祝福じゃない」
左手を、ゆっくりと握りこむ。
「……借り物だ。いつか、必ず返す時が来る」
ケルシーは無言で記録板を引き寄せた。細いペンが紙の上を走り、一行だけ何かが書き足される。
何と書いたのかは訊かなかった。
「この名残のことは、艦の記録には残さない。私の手元の帳面にだけ書いておく」
ペンを置いて、ケルシーは言った。
「BSWの四人にも、ほかの誰にも、話すかどうかは君が決めろ。話す相手を選ぶのは、患者の権利だ」
「……まだ、いい。あいつらには、そのうち自分で話す」
「なら、そうしろ。次の診察は、また七日後だ」
いつもの言葉で、診察は終わった。
診察室を出ると、廊下の壁に大きな盾が立てかけてあった。
その横で腕を組み、壁にもたれていた男が片手を上げる。
「よう。長かったな」
エースだった。立てかけた盾の縁には新しい金属が継いであり、抉れていた跡は真新しい銀色に埋まっている。
「盾、直ったのか」
「やっとな。クロージャの奴、見積もりを四回も書き直しやがった。最後の一枚には、上甲板の床の点検代まで載ってたぞ。継ぎ目一つないのに、念のためだとさ。請求先はお前さんらしいがな」
「……ぼくのせいじゃない」
「ハハッ、毎回それだな。うちの連中も昨日から騒いでる。天井から馬と桃色のでかいのが降ってきて、札が全部ばらまかれたってな」
「降ってきたんじゃない。駆け下りたんだ」
「そこは大事なのか」
「大事だ」
エースはひとしきり肩を揺らしてから、盾を背負い直した。その口元から、笑みが少しだけ引っこむ。
「お前さんには、先に言っておこうと思ってな。……出発が決まった。三日後だ」
「この前、ロスモンティスに言ってた遠出か」
「ああ。北の、厄介な街へな。スカウトも一緒だ。眠ってる奴を、迎えに行ってくる」
「その街は、どんな所なんだ」
「ウルサスの移動都市さ。でかくて、寒くて、いろんな連中がうろついてる。……それ以上は言えん。仕事の話だからな」
エースは肩の盾の位置を直した。軽い口調のわりに、目の奥は静かなままだった。
「ロスモンティスとの約束もある。ドクターを連れて帰って、一番に会わせてやるってな。破ったら、あの子の端末に何て書かれるか分からん」
冗談のつもりらしかった。ジョニィは笑えなかった。
甲板で盾と打ち合った日から、ずっと胸の底に沈んでいた引っかかり。迎えに行く、連れて帰ると聞くたびに疼いていた、あの嫌な予感。それが今、はっきりとした形になっていた。
レースの間、刺客が近づく前には、いつもこの感じがあった。その感覚が外れたことは一度もない。
また微かに、左腕の奥が温かくなった気がした。
「……三日後、か」
「ああ。三日後だ」
何でもないことのように言って、エースは片手を軽く上げ、廊下の先へ歩いていった。背中の盾に継がれた銀色が、窓の明かりを白く弾いている。
廊下に一人残ったジョニィは握ったままの左手に目を落とし、三日、と胸の内で繰り返した。
レースの間なら、嫌な予感がした時にすることは一つだった。予感の先へ、自分から踏みこむ。待っていて良くなったためしはない。
いつの間にか、桃色の装甲が黙って横に並んでいた。ジョニィは握っていた左手を開き、その籠手を軽く叩いた。
「スロー・ダンサーの蹄鉄を、クロージャに見てもらう。三日あれば間に合う」
第11話をお読みいただき、ありがとうございました。
・聖人の遺体は、ジョジョ7部『スティール・ボール・ラン』でジョニィたちが大陸じゅうを追いかけたものです。ジョニィの体には左腕と背骨が入っていました。レースの終わりには、全部ジョニィの手を離れています。
・「マイナスからゼロに戻りたい」は、7部のジョニィが自分について語った言葉からです。
・ジャイロがレースに出た理由は、原作どおり、死刑を言い渡された子どもの恩赦のためです。
エースが見積もりの話をする時、請求先はだいたいジョニィです。