ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
幕間です。第11話と同じ23日目の午後、上甲板のお話です。「血の香り」の更衣室の件の、事情聴取があります。
「遅い! 盾を背負ったまま走れない者に、盾を構える資格はない! あと二周!」
昇降機の扉が開いた途端、鋭い号令が頬を打った。
停泊三日目の午後になっても、上甲板の天蓋は開け放されたままだった。傾きかけた日の下、甲板の外周を、訓練用の盾を背負った若い隊員たちの列が二つ、ぐるぐると回っている。
列の外側では軍人のように姿勢の崩れない女が腕を後ろで組み、走る者の足元だけを睨んでいた。
手綱を握ったまま、ジョニィは昇降機の中で立ち止まった。三日後、とエースが言った廊下から、まだ半日も経っていない。
蹄鉄はついさっき、クロージャの作業場で見てもらったばかりだった。計測器入りの特製品はどこも傷んでおらず、打ち直すまでもないらしい。念のため甲板で足慣らしをさせるつもりだったが、出る時刻を間違えたかもしれない。
列の先頭を走っていた槍の少女が、こちらに気づいて目を見開いた。
「あっ……」
その後ろで、垂れた犬の耳がびくりと跳ねる。
「フェ、フェン隊長ォ! あの人です、更衣室の……!」
「わぁ~。昨日の『うまの人』だぁ」
兎の耳の少女は走りながらのんびりと手まで振っている。その後ろには見覚えのある双子の顔もあった。朝の食堂で健康食の盆を突き出していた姉と、裏口を教えてくれた目つきの悪い妹だ。妹の方が気まずそうに目を逸らした。
もう一つの列は見たことのない顔ぶれだった。先頭で黙々と走る猫の耳の少女、その後ろで「ワン!」と吠えるように声を上げる犬の耳の少女、頭の上の光の輪が斜めにずれた若者、兎の耳の小柄な若者、狐の耳の青年。
五人とも、こちらを見てひそひそと何か言い交わしている。二つの列のさらに後ろでは、小さな影が一つ、遅れまいと必死に走っていた。
号令の女がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
尖った犬の耳の女だった。上背はさほどないのに、立ち姿が一回り大きく見える。鋭い目がジョニィの頭から爪先までをひと撫でし、最後にスロー・ダンサーの蹄で止まった。表情と呼べるものはその顔に一つも浮かんでいない。
「お前が、昨日この床を開けた男か」
「閉めてもおいた」
「フェンから報告書が上がっている。跡一つ残っていなかったそうだな。だからといって、許可なく甲板の床を開けていい理由にはならん」
女は踵を鳴らし、真正面から名乗った。
「ドーベルマン。この艦で教官を務めている。行動予備隊のA1とA4は私の預かりだ。報告書には、もう一件書いてあった。……訓練区画の、女子更衣室の件だ」
甲板の外周で、列の足音が一斉に乱れた。
「フェン。事情聴取は、まだだったな」
「は、はい、先生!」
「休憩の間に済ませろ。私の前でだ」
許された気はまるでしなかった。
最後の一周を終えたA1の五人が、甲板の中央に一列に並んだ。訓練用の盾を足元に下ろし、息を整えながらも、背筋だけは揃って伸びている。少し離れた所ではA4の五人が水筒を手に座りこみ、聴取の行方を遠巻きに眺めていた。
その正面に立たされたジョニィの横で、スロー・ダンサーが退屈そうに尾を振った。
鉄の手すりの上には、ACT4が腰かけていた。並んだ五人を眺めて、自分も籠手を後ろで組んでいる。
槍を脇に立てたフェンが帳面を開いて咳払いを一つした。
「では、事情聴取を始めます。昨日の朝、訓練区画の女子更衣室に入られた件です。入られた理由をお聞かせください」
「追われてた。血を三十本抜かれそうになって」
「三十本」
フェンの手元で、ペンが止まった。
「……扉を選んだ理由は」
「石鹸の匂いがした。匂いで追ってくる相手だったから、強い匂いで紛らわせようと思った」
「推理は、正しかったのですか」
「推理は完璧だった」
フェンのペンが、また止まった。
「では、何が間違っていたのでしょう」
「扉だ」
帳面へ律儀にペンを走らせるフェンの横で、クルースが細い目をさらに細くした。
「入ってきた時の顔、すっごく必死だったもんねぇ。覗きに来た人の顔じゃなかったよぉ~」
「クルース、聴取中です」
「だってぇ、フェンちゃん。証言だよぉ?」
遠巻きの輪の中で、犬の耳の少女が身を乗り出した。
「ねぇねぇ、メランサちゃん! 更衣室だって! 私たちの方じゃなくてよかったね!」
「……っ、カーディ、声が……」
猫の耳の少女はそれきり膝を抱えて顔を伏せてしまった。隣の狐の耳の青年が溜息まじりにカーディの襟首を引く。
「カーディ、今は静かに頼んだよ」
列の端ではビーグルが自分の垂れた耳を両手で押さえたまま、顔を真っ赤にしている。
「わ、わたしは、その、驚いただけで……悲鳴を上げてしまって、すみませんでした……!」
「謝るのはこっちだ。悪かった」
短く頭を下げると、ビーグルは耳を押さえたまま、ますます赤くなって固まった。
フェンが帳面を閉じ、教官の方へ向き直った。
「事情は以上です、先生。故意ではありません。追われていたのも、ワルファリン先生の件で裏が取れています」
「分かった。処分は、私が決める」
それだけ言って、ドーベルマンは踵を返しかけた。二歩目で足が止まる。肩越しの目はジョニィではなく馬の脚に向いていた。
「その駄獣、左の前脚の着き方が、右より浅いな」
ジョニィは思わず教官の顔を見直した。
「……レースに出る前からの、こいつの癖だ。一目で言い当てた奴は、初めてだ」
「痛めてはいない。ただの癖だろう。だが、癖は放っておくな」
教官というより、腕のいい調教師の目だった。
休憩の間に、白衣ではなく訓練着の姉の方が、水筒を両手に駆け寄ってきた。
「お疲れさまです! 走った後は、これです! 苦い根っこのお茶を、さらに濃く煮出しました!」
「走ってない。ぼくは見てただけだ」
「見ているだけでも、喉は渇きます!」
差し出された水筒の口から、土と薬草を煮詰めたような匂いが立ちのぼる。受け取るべきか迷ったところで、横から伸びた手が水筒をひょいと取り上げた。
ラヴァだった。妹は水筒を姉の胸へ押し返し、ジョニィの方を見もせずに言った。
「やめとけ。昨日の礼だ」
「ラヴァちゃん! せっかくの健康のお茶が……!」
姉の抗議を背中で聞き流して、ラヴァはこちらへ顎をしゃくった。
「お前、昨日の葉っぱは食ったのか」
「馬が食った」
「なら、いい」
それだけで、ラヴァはさっさと列の端へ戻っていった。
入れ違いに、二つの列のさらに後ろを走っていた小柄な影が、膝に手をついてジョニィの隣で息を継いだ。長い兎の耳と、少女たちの誰よりも小さな背丈。艦に来た日、ケルシーとジョニィの間に割って入った少女だった。
ロドスの代表だと、あの時自分で名乗っていた。あれから二十日近く、顔を合わせる折もなかった。
「ジョニィさん……! み、見てたんですか」
「来たら走ってた」
「週に一度、教官の訓練に混ぜてもらってるんです。指揮をする者が鍛錬を怠っていいと思っているなら、その考えを叩き直してやる、って。最初にそう言われた日から、ずっと」
照れくさそうに頬をかいてから、アーミヤは小さく息を吐いた。
「私はまだまだ未熟ですから。みなさんの足を引っ張らないくらいには、ならないと」
ジョニィの目はアーミヤの膝の擦り傷に向いた。昨日今日の傷ではない。
「足は引っ張ってない。最後まで走ってた」
「……ありがとうございます」
アーミヤの視線がジョニィの隣のスロー・ダンサーへ移った。鼻面へそっと手を伸ばし、触れる前に一度だけジョニィの顔を見上げる。ジョニィが頷くと、少女の指先が白い毛並みに触れた。馬は嫌がりもせず、大きな鼻息を一つだけ吹いた。
「温かいんですね」
「生き物だからな。きみの顔も赤い」
「あ……ほんとですね」
両手で頬を押さえて、アーミヤは笑った。
「休憩終わり!」
号令一下、少女たちが一斉に盾を拾い上げる。甲板の中央に立ったドーベルマンは列を見渡してから、ジョニィの方を見た。
正確にはジョニィの隣の馬を見ていた。
「次はA1とA4の合同で、盾の列を組む。突進してくる相手を止める訓練だ。……ちょうどいい相手がいるな」
十一の視線が揃ってスロー・ダンサーに集まった。
「駄獣じゃない。馬だ」
「呼び名はどうでもいい。重くて速くて、こちらの言葉が通じない。戦場で出会う相手としては上等だ」
ジョニィは甲板の長さを目で測った。
「全力は出せないぞ。この甲板は狭い」
「全力など要らん。速足で寄せろ。止めるのは盾の列の仕事だ。⋯⋯本当なら、報告書にあった桃色の巨人を相手にさせたいところだがな。あれを出せるか」
手すりの上で、ACT4がぱっと立ち上がった。両の籠手を胸の前で打ち合わせ、出番を待つように身を乗り出している。
「出せない。あれは撃ったら、止まるまで止まらない。あんたの甲板に穴が増える」
「……なら、駄獣でいい」
ドーベルマンはそれ以上こだわらなかった。手すりの上では、誰にも見えない桃色の装甲がゆっくりと籠手を下ろし、元の場所へ座り直していた。
少し考えた。馬を盾の壁へ向かわせるのは気の進む話ではない。それでも、蹄の癖を一目で見抜いた教官が、馬や隊員に怪我をさせる訓練を組むとは思えなかった。
「条件がある。刃物は全部置いてくれ。こいつは、日を弾く刃が嫌いなんだ」
「いいだろう。総員、武器を置け。盾だけで止める」
フェンの槍、クルースと光の輪の若者の弩、メランサの剣、ラヴァのナイフが、甲板の隅に並べられていく。兎の耳の若者と双子の姉は列から外れ、救急箱を抱えて甲板の端に控えた。ドーベルマンは列の外にいた小さな影へ目を移した。
「指揮はアーミヤ、お前が執れ。号令の拍子で列を閉じさせろ」
「わ、私がですか」
「指揮官がいない時に、誰が号令をかける。お前だ」
アーミヤの喉が小さく鳴った。それでも少女は自分の盾を下ろし、八人の背中の後ろへ回った。
盾の列の真ん中で、ビーグルが自分の盾をぎゅっと握り直している。盾を本業にしているのは、この列で彼女と、その隣のカーディの二人だけだった。
「が、頑張ります……! フェン隊長ォ、わたし、馬って近くで見るの初めてで……」
「私は昨日、並んで走りました。大丈夫です。……たぶん」
隣で盾を担いでいたカーディが、ぶんぶんと尻尾を振った。
「止めるより、こっちからぶつかりに行った方が早くない? これからは機動戦の時代だよっ!」
「カーディ、今日は止める日だよ」
狐の耳の青年の声に、カーディは「はーい」と盾を構え直した。
甲板の端で鞍に跨ると、二十歩ほど先に盾の壁が見えた。八枚の盾が肩を寄せ合い、その後ろで、アーミヤの長い耳が緊張に立っている。
踵で軽く押せば、スロー・ダンサーは並足から一段上げて速足に入り、規則正しく蹄を刻みはじめた。
一本目はすぐに崩れた。
盾の縁から覗く八人の目が揃って馬の頭を追っている。近づく蹄に合わせて一人ずつ体がねじれ、盾の向きが馬の鼻先へ寄っていった。真ん中の二枚の間に、拳一つ分の隙間が開く。
盾が鼻先へ寄るたびに、その隙間は馬の肩幅まで割れていった。
「と、止めて――」
アーミヤの号令は半拍遅れた。少女の目もまた、迫ってくる馬の大きな頭に吸い寄せられている。
隙間を見つけたのは馬の方が先だった。盾にぶつかりもせずにすっと体を斜めにしたスロー・ダンサーは、開いた隙間から壁の向こうへ抜けていく。盾を構えたまま、八人が呆然と振り返った。
「……抜けられちゃったねぇ」
盾を下ろしたクルースの隣で、フェンが真顔で同意した。
「抜けられましたね」
「抜けられて相槌を打つ盾があるか」
甲板の中央から、教官の声が飛んだ。
馬首を返して戻ってくると、アーミヤが唇を噛んでいた。
「すみません。馬が近づいてきたら、目が離せなくなって……」
鞍の上から、ジョニィは少女を見下ろした。
騎手だった頃に、何度も見た光景だった。前の馬が転んだ時、倒れた馬を見ていた騎手は、吸いこまれるように同じ所へ突っこんでいった。避けられたのは、倒れた馬ではなく、その先の空いた走路を見ていた者だけだった。
「目は、行きたい所に置け。怖いものを見てると、体はそっちへ持っていかれる」
アーミヤがはっと顔を上げた。
しばらく黙っていた少女はやがて甲板の上の一点に目を落とした。盾の列から三歩手前、鉄板と鉄板の継ぎ目だった。
「……もう一度、お願いします」
盾の列から、ラヴァがぼそりと言った。
「継ぎ目な。アタシも見とく」
「はい。継ぎ目です」
真剣な声で返されて、ラヴァはそっぽを向いた。耳の先が少しだけ赤い。
列の端で、光の輪の若者が甲板の継ぎ目と馬の位置を見比べていた。
「継ぎ目まで、あの馬の脚で四歩ですね。号令は、三歩目で」
「……どこで数えたんだ、アドナキエル」
「さっきの一本目で、です」
狐の耳の青年が呆れたように首を振った。
二本目。
同じ速足、同じ二十歩。蹄の音が近づいても、今度の号令は馬を待たなかった。
「三、二……閉じて!」
アーミヤの目は最後まで甲板の継ぎ目から動かなかった。号令の拍子で八枚の盾ががしりと噛み合い、隙間の消えた壁が、蹄の着く場所の前に立ち塞がる。真ん中のビーグルの盾だけは目をつぶったまま構えられていた。
脚を緩めたスロー・ダンサーは、盾の縁に鼻面が触れる所で止まった。ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らす。
間を置いて、盾の後ろで歓声が上がった。
「止まりました! 止まりましたよ、フェン隊長ォ!」
「ビーグル、目を開けてください」
「ワン! やったぁ! メランサちゃん、止まったよ!」
抱きつかれた猫の耳の少女が盾を抱えたまま小さく顎を引いた。伏せがちな目の端が、かすかに和らいでいた。
盾の列の後ろで、アーミヤはまだ継ぎ目に目を落としていた。自分の号令で壁が閉じたことが、うまく呑みこめていない顔だった。
「止まりました……よね?」
「止まった。止めたのはきみの号令だ」
鞍の下で、スロー・ダンサーが尾を一つ振った。
ジョニィが馬の首を叩くと、アーミヤはようやく、ほっとしたように笑った。
甲板の中央の教官へ目をやると、ドーベルマンは腕を後ろで組んだまま、アーミヤの横顔を見つめていた。その口の端がほんのわずかに持ち上がる。
「……フフ」
吐息のような、短い音だった。それきり、顔はもとの鉄に戻っている。
クルースの細い目がゆっくりと見開かれた。
「あ~。先生、今、笑ったぁ~?」
「笑っていない。クルース、甲板十周」
「えぇ~、証言しただけなのにぃ~」
盾の列の後ろで、誰かが噴き出しかけて口を押さえた。手すりの上のACT4まで、一緒に肩を震わせている。
『チュミ……』
「おまえは走らなくていい」
小声で言うと、ACT4は不満げに籠手をほどいた。
足慣らしはもう十分だった。鞍の上で、ジョニィは馬首を昇降機の方へ向けた。
「待て」
背中に、教官の声が刺さった。
「更衣室の件の処分が、まだだったな」
「……聴取は済んだはずだ」
「聴取は済んだ。処分はこれからだ。駄獣ごと五十周。並足でいい。左前の癖を見ながら回れ」
鞍の下で、スロー・ダンサーが耳を前へ立てていた。盾の列の向こうへ続く甲板の外周を、じっと見つめている。
「こいつは、喜ぶぞ」
幕間をお読みいただき、ありがとうございました。
・ドーベルマンは、アークナイツでロドスの教官を務めるオペレーターで、行動予備隊A1とA4を鍛えています。「規則を守れない者は、デッキを50周」は、原作のボイスにある台詞です。滅多に笑わない人なので、今回の「フフ」は一度きりです。
・A1(フェン、ビーグル、クルース、ハイビスカス、ラヴァ)とA4(メランサ、カーディ、アドナキエル、アンセル、スチュワード)は、原作でも仲の良い新人の隊です。指揮をする者も鍛錬を怠るな、というドーベルマンの持論から、アーミヤも訓練に混ざっています。
・無限の回転は、一度撃つと意思を遂げるまで止まりません。新人の訓練で撃つわけにはいかないので、ACT4は今回、手すりの上で出番を待つだけです。
・ジョニィの「目は、行きたい所に置け」は、騎手だった頃の経験から出た言葉、という形にしました。ジャイロの教えではなく、ジョニィ自身のものです。
更衣室の件は、これで精算です。スロー・ダンサーは五十周を楽しんだようです。