ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第3話です。ジョニィ、ロドスの艦に乗りこみます。
陸上艦ロドス、第三搬入口。
鋼の床に車輪の跡が幾筋も走り、油と消毒液の匂いが混ざって鼻の奥を刺す。天井の照明は昼間のように白く、壁際には荷箱が背丈の倍ほども積み上がっていた。
艦に足を踏み入れた瞬間から、ジョニィの目は落ち着く場所を失っていた。床が、かすかに揺れている。大地を進む鋼の塊の内側に、廊下があり、階段があり、行き交う人がいる。角のある者、尾を揺らす者、羽のような耳を持つ者。
誰もがそれを当たり前の顔で受け入れ、すれ違いざまに、栗毛の馬と棺を連れた帽子の男を物珍しそうに振り返っていく。
町が脚で歩く、とフランカは言った。ここはまさに、歩く町の腹の中だった。
その搬入口の真ん中で、防護服の検疫係が三人、スロー・ダンサーを前に固まっていた。
「……登録にない駄獣、ですね」
「駄獣じゃない、馬だ」
ジョニィが言い直すと、検疫係は手元の端末とスロー・ダンサーを何度も見比べた。走査の光が栗毛の体をなぞるたび、馬は不機嫌そうに耳を伏せ、蹄で床を一つ鳴らす。
「種別の欄に、何と入力すれば……」
リスカムが一歩進み出て、昨夜の報告書を差し出した。
「こちらに記載があります。参考にしてください」
検疫係は紙を受け取り、そこに書かれた一行を読み、もう一度読み、それから助けを求めるように同僚を見た。
「大型の駄獣、一頭。……本人いわく、うま」
「本人いわく、です」
リスカムは真顔で頷いた。フランカが後ろを向いて肩を震わせ、ジェシカは口元を両手で押さえている。
「あ、あの! お世話は、私がします!」
バニラが長身を折り曲げるように手を挙げた。
「水も草も、ジョニィさんに教わりました。だから、その、この子をどこかに閉じこめたりしないでください……」
押し問答の最中だった。別の検疫係が、荷台から棺を降ろそうと両手を掛けた。
「待てッ、それに触るな!」
ジョニィが叫ぶより早く、棺がその場で独楽のように旋回した。
弾かれた検疫係が尻もちをつき、床を滑って荷箱にぶつかる。棺は涼しい顔で元の向きへ戻り、ぴたりと静止した。搬入口にいた全員の視線が、ジョニィに集まる。
「……その棺には、ぼく以外は触れない。触ろうとしても、今みたいになる。運ぶなら、ぼくがやる」
船に乗る前、ジャイロを誰にも渡さないと決めて、棺自体に無限の回転を掛けておいた。大陸を越えても、世界を越えても、その回転だけは律儀に生きている。
沈黙を破ったのは、搬入口の奥から聞こえた柔らかな声だった。
「みなさん、ご苦労さまです。報告は、リスカムさんから受けています」
現れたのは、ジョニィの胸ほどの背丈しかない少女だった。長い兎のような耳が頭の上に伸び、大きすぎる黒い上着の袖から、細い指がのぞいている。
検疫係たちが背筋を伸ばし、BSWの四人までが姿勢を正した。リスカムが一歩前に出て、短く報告する。
「BSWとの契約に基づく集落調査、完了しました。要救助者一名を保護、同行させています。詳細は報告書に」
「ありがとうございます、リスカムさん。みなさんが無事でよかったです」
少女はそう言って微笑み、それからジョニィに向き直った。
「ロドスの代表を務めています、アーミヤです。ジョニィさん、ですね。遠いところから、大変でしたね」
ジョニィは答えなかった。
代表。この子どもが。
レースでは、人の好さそうな顔をした刺客にも、善人の顔をした裏切り者にも会ってきた。見た目で人を測れば死ぬ。ジョニィは右手の指先に、気づかれない程度の回転を宿したまま、少女の顔を見返した。
アーミヤは、その目をまっすぐ受け止めた。それから、ほんの一瞬だけ、痛みをこらえるように眉を寄せた。
フランカが、ジョニィの耳元で小さく囁いた。
「疑うのは勝手だけど、あの子に爪を向けたら、この艦の全員を敵に回すわよ。あたしも含めてね」
冗談めかした声だったが、目は笑っていなかった。
「……ケルシー先生のところへ、ご案内します。棺も、一緒にどうぞ」
▽
医療区画は、搬入口よりもさらに白かった。
壁も床も寝台も白く、器具の金属だけが冷たく光っている。ジョニィは棺を部屋の隅に下ろし、その前から一歩も離れなかった。スロー・ダンサーは、バニラが別の区画へ連れていった。
最後まで名残惜しそうに何度も後ろを見ていたのが、少しだけおかしかった。
机の向こうに、女が一人座っていた。
淡い色の短い髪から、猫の耳が立っている。手元の紙束を一枚ずつめくる指は細く、こちらを見もしない。机の上には、ジョニィが部屋に入る前に採られた血の小瓶が並んでいた。
「ケルシーだ。ここの医療部門を預かっている」
女は紙から目を上げないまま言った。
「座ってくれ、ジョニィ・ジョースター。君の検査結果について話がある」
「立ったままでいい」
「そうか。なら手短に済ませよう。……採血は済んでいるが、いくつか追加で調べたい。腕を出してくれ」
細い針が銀色に光った。ジョニィの指先で、反射的に爪が回りかける。ケルシーはそれを見ても眉一つ動かさず、ジョニィが腕を引くより早く、針を刺して抜いていた。痛みを感じる暇もなかった。
「刺客を警戒する癖があるようだな。その爪で人を撃った経験も、一度や二度ではないだろう。初対面の相手に爪を向けた、とリスカムの報告にあった」
「……だったら何だ」
「何でもない。患者の癖を把握しておくのは、医者の仕事だ。……その爪の技は、アーツではないそうだな」
「スタンドだ。それ以上は話さない」
「構わない。隠したい物の輪郭は、隠し方に表れる。いずれ分かることだ」
ジョニィは舌打ちを堪えた。話さないと言った端から、何かを読まれている気がする。
ケルシーは最後の一枚をめくり、ようやく顔を上げた。感情の読めない、静かな目だった。
「源石融合率、零。血液中の源石密度は、こちらの機器では測れないほど低い。防護なしで、源石の粉塵が舞う廃村に三日いた人間の数字ではない」
「ぼくは病気じゃないってことだろ。何が問題なんだ」
「問題は、そこではない」
ケルシーは小瓶の一つを指先で持ち上げ、照明に透かした。
「この大地に生きる者は、多かれ少なかれ源石と関わって生きている。体質で抵抗が強い者はいても、何の反応も示さない者はいない。君は感染しにくいのではない。源石が、君の体を相手にしていないんだ」
ジョニィは黙った。言葉の意味は分かる。分からないのは、それがこの女にとって何を意味するかだ。
「君はどこから来た」
「船の上から。気づいたら、あの村にいた」
「その前は」
「アメリカ大陸を横断するレースに出ていた」
「アメリカ。その名の土地は、どの地図にもない」
「だろうな」
ケルシーの問いは短く、正確で、一つも無駄がなかった。答えるたびに、自分の体が少しずつ切り分けられて、机の上の紙に並べられていくような気がした。
ケルシーは、鉱石病がどういう病なのかも説明した。源石が傷口から体に入り、内側から結晶が育ち、やがて死に至る。死んだ体は粉塵になり、周りの者にまで病を広げる。だからこの大地では、感染者は恐れられ、追われ、閉じこめられる。
淀みなく、講義のように語られるその話を、ジョニィは黙って聞いた。廃村に貼られていた通達の意味が、ようやく腹の底に落ちた。
医者の目ではない、とジョニィは感じた。刺客の目でもない。もっと長い時間をかけて、たくさんの物を見てきた者が、また一つ新しい標本を見つけた時の目だ。
▽
「それから、もう一つ」
ケルシーは紙束を置き、部屋の隅の棺に視線を移した。
「搬入口の走査記録を見た。棺の中の遺体は、腐敗が完全に止まっている。冷却も薬品も使わずにだ」
ジョニィの肩が強張った。
ケルシーは立ち上がり、静かに棺へ歩み寄った。ジョニィが止める間もなく、細い指が蓋の縁に触れる。
棺が回った。
低い唸りとともに、ケルシーの手が弾かれる。だがケルシーは一歩よろめいただけで、弾かれた手に目もくれず、棺だけを見ていた。
「なるほど。触れた者を拒む力か。遺体の状態も、同じ力によるものだな」
「分かったなら、離れろ」
「その力を、一時的に解いてもらうことはできるか。組織をわずかに採らせてほしい。この大地の理から外れた体を調べることは、鉱石病の研究にとって」
「断る」
ジョニィは棺とケルシーの間に体を割りこませた。右手の爪が、もうはっきりと甲高い音を立てている。距離は二歩。右手に五発、左手に五発。この距離なら外さない。
「ジャイロに、誰も触らせない。研究だろうと、治療だろうとだ。一歩でも近づいたら、撃つ」
「君の友人は、もう治療を必要としていない。だが、この艦には今も、鉱石病で死にかけている者が大勢いる」
ケルシーの声は少しも揺れなかった。脅しにも、懇願にも聞こえない。ただ事実を並べているだけの声だ。それが、かえって神経を逆なでした。
「知ったことか」
その瞬間、空気が変わった。
ケルシーの背後に、何かがいた。見えたわけではない。だが、ジョニィの背筋を冷たい物が這い上がり、首の後ろの毛が逆立つ。暗い緑の光が、女の影の中でかすかに揺らめいた気がした。
――スタンド、か?
いや、違う。似ているが、違う。もっと古くて、もっと得体の知れない物が、この女の内側でこちらを見ている。
ならば、こちらも見せるまでだ。
ジョニィの背後に、ACT4の像が浮かび上がった。桃色の装甲に覆われた、肩幅の広い大きな体。肩から腕にかけて小さな星が散り、顔には蹄鉄の形の紋が刻まれている。
腰から下には、楕円の板が鎖のように幾重にも連なって垂れ下がり、星を戴いた青い籠手の手が、だらりと前に下がっていた。
かつては馬の疾走と黄金の回転が揃った一瞬にしか現れなかったその姿は、あの決戦を越えてから、馬の背を離れてもジョニィに付き従うようになった。
ジャイロが最後に遺した回転の技が、爪の中だけでなく、心の形そのものを一段押し上げたのだ。無限の回転を撃つには、今も馬の走りが要る。だが像だけなら、いつでも呼べる。
ACT4の影は、ケルシーの背後の緑の揺らめきと、正面から睨み合った。ケルシーの目が、ほんのわずかに動いた。見えているのか、感じているだけなのか。それは分からなかった。
張りつめた沈黙の中で、ACT4が口を開いた。
『ニョホ』
ジョニィの肩が、びくりと跳ねた。
ジャイロの口癖だった。どうしてこいつは、よりによってこんな時に、そんな声を出すのか。睨み合いの最中に、場違いにも程がある。
ケルシーの猫の耳が、ぴくりと一度だけ動いた。影の中の緑の揺らめきも、同時に一度だけ揺れた。眉ひとつ動かさないその顔が、かえってジョニィの頬を熱くさせた。
――今のは、聞こえてない。聞こえてないはずだ。
ジョニィは咳払いを一つして、何事か言いたげな像を睨みつけ、爪の狙いを付け直した。
ジョニィの指先で回転が速まる。ケルシーは身じろぎもしない。撃てば、この艦の全員が敵になる。撃たなければ、ジャイロに手が伸びる。秤の両端に載った物の重さを、ジョニィの頭は冷えきったまま量り続けていた。
互いに、一歩も引かない。一触即発の静寂。
「待ってください!」
アーミヤが、二人の間に飛びこんできた。小さな体を精一杯広げて、ジョニィの爪とケルシーの間に立つ。
「ケルシー先生、ジョニィさんは、その方を故郷に帰すためにここまで来たんです。誰かに奪われたくないって、その気持ちだけで、ずっと……」
アーミヤは言葉を切り、ジョニィの方を振り向いた。大きな目が、まっすぐにこちらを見ている。
「……ずっと、怖かったんですよね。ひとりで、誰も知らない場所で」
ジョニィは息を呑んだ。そんなことは、一言も口にしていない。
ケルシーが、短く息を吐いた。背後の気配が、潮が引くように消えていく。
「アーミヤ。君は甘い」
「はい。知っています」
少女は少しも怯まずに答えた。ケルシーはしばらくアーミヤを見つめていたが、やがて視線をジョニィへ戻した。
「いいだろう。君が許さない限り、遺体には誰も手を出さない。ただし条件がある。君自身の体を、定期的に私に診せてもらう。君の体は、遺体以上に興味深い」
ジョニィは爪の回転を落とし、しばらくケルシーの顔を見ていた。この女は、取引の言葉で話している。取引なら、分かる。
「……ジャイロに触らないなら、ぼくの血くらい、好きなだけ採ればいい」
▽
ケルシーは机に戻り、紙束を揃えながら、ふと手を止めた。
「最後に一つ訊く」
猫の耳がわずかに動き、静かな目がジョニィを捉えた。
「その死者のために、君はどこまで行くつもりだ」
ジョニィは棺の蓋に手を置いた。自分にだけは、回転は牙を剥かない。
「あいつの故郷までだ。そこが、どこにあろうとな」
ケルシーは何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに目を細め、それから紙束に視線を落とした。それが答えなのだと、なぜか分かった。
アーミヤと連れ立って医療区画の扉を出ると、廊下の壁にもたれていたフランカが片手を上げた。リスカムはその隣で、腕を組んで立っている。
「あら、五体満足で出てきたわね。ケルシー先生とやり合って無傷なんて、なかなかやるじゃない」
「やり合ってない」
「中から、すごい音がしたけど?」
「……棺が回っただけだ」
フランカは喉の奥でくつくつと笑い、リスカムは小さく咳払いをして、アーミヤに一礼した。二人はそれだけで、廊下の向こうへ去っていった。見張りでも、野次馬でもなく、たぶん、待っていたのだ。
廊下の窓の外を、荒れ地がゆっくりと流れていた。艦が進んでいるのだ。アーミヤが隣に並び、同じ景色を見ている。
「さっきは、ありがとう」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。アーミヤは小さく首を振った。
「私は、何もしていません。ケルシー先生も、本当は分かってくれる人なんです。少し、言葉が足りないだけで」
「少し、か」
「……少しです」
アーミヤが困ったように笑い、ジョニィは小さく鼻から息を抜いた。
「その方のお名前を、聞いてもいいですか」
「ジャイロ。ジャイロ・ツェペリだ」
「ジャイロさん。……ロドスは、ジャイロさんを故郷に帰すお手伝いをします。地図を集めて、旅をしている人たちにも話を聞いてみます。すぐには見つからないかもしれませんけど」
「どうして、そこまでする。ぼくは、あんたたちに何も返せない」
「ロドスは、困っている人を見捨てないために、ここにいるんです」
あまりにまっすぐな答えに、ジョニィは返す言葉を失った。この小さな体のどこに、そんな物が入っているのか。
「ジョニィさん。報告書に、海の方角を訊いていたとありました。その方の故郷は、海の向こうなんですよね」
「ネアポリスは港町だ。海さえあれば、船でどこへだって行ける。……ここに、海はあるのか」
アーミヤは少しだけ迷うように耳を揺らし、それから小さく顎を引いた。
「あります。テラにも、海は。……ただ、とても恐ろしい場所だと言われています。近づく人は、ほとんどいません」
ジョニィは窓の外へ目を戻した。荒れ地はどこまでも続き、水の気配はどこにもない。
それでも、海はある。
棺の中の友に、そう伝えてやりたかった。