ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第4話です。戦いのない、ロドスでの一日です。
低い唸りが、床の下からずっと響いていた。
艦の機関の音だと気づくまでに、ジョニィは寝台の上で三度ほど寝返りを打った。窓の外はまだ薄暗く、荒れ地の稜線がゆっくりと後ろへ流れていく。船を降りてからは、ずっと地面の上で寝てきた。なのにこの部屋は、また揺れている。
寝台の足元には、棺が置いてある。誰も触れない以上、どこに置いても同じことだが、目の届く所にないと眠れなかった。ジョニィは棺の蓋に手を当て、回転が変わらず生きていることを確かめた。テラに来て五日目。
指を折って数える癖だけは、イタリアへ向かう船の上から少しも変わらない。
上着を羽織って貨物区画へ下りると、隅に繋いだスロー・ダンサーの前に、先客がいた。
バニラだった。長身を丸めるようにしゃがみこみ、手には大きなブラシを握っている。夜明け前から来ていたのか、肩に貨物区画の冷気が染みついていた。ただ、そのブラシは馬の体に一度も触れないまま、宙で止まっていた。
「……何してる」
「わあっ!? お、おはようございます、ジョニィさん!」
バニラは跳ね上がるように立ち上がり、それから、恥ずかしそうにブラシを差し出した。
「あの、毛並みを整えてあげたくて、倉庫で借りてきたんです。でも、どっちから掛ければいいのか分からなくて……故郷の駄獣は、もっと毛がもじゃもじゃで、こんなにつやつやじゃなかったので」
ジョニィはブラシを受け取り、スロー・ダンサーの首筋に当てた。
「毛の流れに沿って、首から肩、背中、腰。力は入れすぎるな。汚れを浮かせて、払うつもりでやる」
二、三度掛けてみせてから、ブラシをバニラの手に戻す。バニラは真剣な顔でそれを真似た。手つきはぎこちないが、スロー・ダンサーは耳を後ろに倒すこともなく、気持ちよさそうに首を下げている。
「すごい……この子、じっとしてくれてます」
「おまえの手が、乱暴じゃないからだ」
バニラの尾が、ぱたぱたと床を叩いた。
▽
問題は、毛並みよりも脚だった。
ジョニィはスロー・ダンサーの前脚を持ち上げ、蹄の裏を覗きこんだ。荒れ地の道で削れた縁がささくれ立ち、蹄鉄の釘もいくつか緩んでいる。このまま走らせ続ければ、いずれ脚を痛める。
それに、艦の中では走らせる場所がない。走らなければ脚がなまる。脚がなまれば、無限の回転も撃てなくなる。
「……蹄鉄がいる。それと、走らせる場所も」
「ていてつ?」
「蹄に打つ、鉄の輪だ」
そこへ、梱包材の袋を抱えたジェシカが通りかかった。昨日の騒ぎのあとで、様子を見に来たらしい。ジョニィの手元を見て、猫の耳がぴんと立つ。
「あ、あの、おはようございます……。ジョニィさん、その手……」
ジョニィは自分の指先に目を落とした。何枚かの爪が、根元から欠けたままになっている。部屋を出る前、指の具合を確かめようと空き箱へ撃ちこんだ分だ。まだ生えそろっていない。
「出がけに試し撃ちをした。その分が、まだ生えきってないだけだ」
「や、やっぱり! 昨日も気になってたんです。爪の弾って、撃ったあとの補充はどうするんですか? その、装填に何か、特別な物が要るんでしょうか……?」
ジェシカの目が、武器の話をする時の色になっていた。ジョニィは少し迷ってから、正直に答えた。
「放っておいても生える。ただ、一枚に数分はかかる。その間は爪弾が撃てない。それだけだ」
「す、数分……」
「カモミールの葉を食う。ミントでもいい。そうすると、爪が早く生える。……茶にして飲むと、もっと早い」
ジェシカが、ぽかんと口を開けた。
「は、葉っぱ……?」
「葉っぱだ」
「弾の補給が、お茶……」
こらえきれなかったらしい。ジェシカは梱包材の袋で口元を隠し、肩を小刻みに震わせた。尾まで一緒に揺れている。
「ご、ごめんなさい、わ、笑ってないです……っ、ただ、銃なら弾薬箱なのに、ジョニィさんは、ティーカップなんだなって……」
「……笑ってるじゃあないか」
ジョニィは帽子のつばで目元を隠した。耳の先が、妙に熱い。バニラが横から、無邪気に追い打ちをかけた。
「でも、すてきです! お茶で強くなるなんて、物語の騎士さまみたいです」
「やめろ」
▽
カモミールの在りかを知っていたのは、バニラだった。
「艦の上の方に、温室があるんです。いい匂いのする草が、たくさん育ててあって」
案内された温室は、艦の中とは思えないほど明るかった。天井の硝子越しに朝の光が降り注ぎ、鉢植えの緑が棚という棚に並んでいる。土と、甘い花の香りが混ざり合っていた。
棚の奥で、狐の耳をした女が如雨露を傾けていた。
「あら、バニラちゃん。それに、ジェシカちゃんも。こんな朝早くにお客さんなんて、珍しいわね」
女は如雨露を置き、ジョニィを見て、ふわりと首を傾げた。大きな尾が、ゆったりと揺れる。
「そちらが噂の、うまの人かしら。私はパフューマー。ここの植物と、香りの世話をしているの」
「噂?」
「ええ。棺が回って、検疫の人が転んだって。艦中その話でもちきりよ」
ジョニィは眉間に皺を寄せた。どうやらこの艦では、隠し事が一晩ももたないらしい。
「カモミールはあるか。葉が欲しい」
「カモミール? ええ、あるわよ。お茶にすると、よく眠れるのよね」
パフューマーは奥の棚から小さな鉢を一つ持ってきた。白い小さな花をつけた、懐かしい形の草だった。故郷の野原にも、レースの道ばたにも咲いていた花だ。
この大地にも、同じ物がある。そう思うと、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「でも、どうして急に? 眠れないのかしら」
「爪を生やすのに使う」
パフューマーは、ほんの一瞬だけ目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「ふふ、変わった使い方ね。でも、植物は使ってもらえる方が嬉しいわ。葉を摘んでいくより、ここでお茶にしていったら? その方が、香りもよく出るの」
「……茶の方が、効きが早い」
「なら、なおさらね」
パフューマーは手際よく葉を摘み、小さな硝子の急須に入れて湯を注いだ。蓋をして、砂時計を一つ返す。
「葉は、蒸らす時間で香りが変わるの。急いで飲みたい時ほど、少し待つのがこつよ」
砂が落ちきるのを待って、差し出された湯気の立つ杯を、ジョニィは両手で受け取った。一口含むと、青い林檎のような香りが鼻に抜けた。指先が、じんわりと温かくなる。
欠けていた爪の根元が、むずむずと疼いた。見る間に、白い縁が少しずつ伸びてくる。
「わあ……! 本当に、生えてきてます!」
バニラが身を乗り出し、ジェシカまでが息を呑んで覗きこむ。パフューマーは頬に手を当てて、感心したように眺めていた。
「あらあら。私のカモミールに、そんな力があったなんて。……それとも、あなたの方が不思議なのかしら」
パフューマーは鼻先をわずかに動かし、ジョニィの方へ顔を寄せた。
「あなた、少しだけ遠い所の匂いがするわね。乾いた土と、潮風と、それから……ずいぶん長く旅をしてきた人の匂い」
ジョニィは答えなかった。答えようがなかった。
その横で、ジェシカが遠慮がちに片手を上げた。
「あ、あの……わたしも、一杯だけ、いただいてもいいですか……?」
パフューマーが微笑んで杯を渡すと、ジェシカは両手で包むように一口飲み、それから、じっと自分の指先を見つめた。
「……生えて、こないです」
「おまえは爪を撃ってないだろ」
「そ、そうでした……」
耳まで赤くしてうつむくジェシカに、今度はジョニィの方が、口の端をわずかに緩めた。
帰り際、パフューマーは乾かした葉を小さな布袋に詰めて、ジョニィの手に載せた。
「足りなくなったら、またいらっしゃい。お茶の淹れ方も、教えてあげる」
ジェシカがまた口元を押さえかけて、ジョニィの視線に気づき、慌てて背筋を伸ばした。
▽
蹄鉄は、エンジニア部の工房で頼むことになった。
工具と鉄屑と油の匂いに満ちた部屋の真ん中で、作業着の女が、スロー・ダンサーの蹄を前に目を輝かせていた。
「へえ、これが噂のうまかあ。駄獣とは脚の作りが全然違うね。蹄が一枚で、こんなに硬いんだ」
クロージャ、と名乗った女は、巻き尺を片手に蹄の周りをぐるりと測り、帳面に数字を書きつけていく。スロー・ダンサーは、その間ずっと、女の腰の工具袋に鼻を突っこんでいた。
「で、ていてつ、だっけ。どんなのがいい? 衝撃を吸う素材を挟んで、軽い合金で作って、ついでに走った距離と速さを記録する計測器も埋めこんでさ。ロドスの装備は、ロドスの基準で作らないとね。……それだけじゃもったいないよ、せっかくの珍しい駄獣なんだし」
「飾りは要らない。鉄の輪でいい。蹄の形に合わせて曲げた鉄に、釘穴を開ける。蹄の外側の硬い所にだけ釘を打って、先を折り返す。内側の柔らかい所に打ったら、馬が脚を痛める」
ジョニィが手振りを交えて説明すると、クロージャは帳面に猛烈な速さで図を描き始めた。
「へえ、生きてる爪に直接釘を打つんだ。痛くないの?」
「硬い所なら痛くない。人間の爪の先を切っても、痛くないだろ」
「なるほどねえ。原始的だけど、理屈は通ってる。……でもさ、やっぱりそれだけじゃもったいないよ」
「馬だ。それと、鉄の輪でいい」
クロージャは唇を尖らせ、帳面を指で叩いた。その背後で、スロー・ダンサーが工具袋から鈍く光る部品を一つ、器用に前歯で引き抜いた。
「あっ、それ試作品の制御部品! 返して、返してってば!」
工房の中を一周する追いかけっこの末、部品はよだれまみれで戻ってきた。クロージャは布で部品を拭きながら、恨めしそうに馬を睨んだ。
「……この子、絶対わざとやってるよね」
「たぶんな」
「じゃあ、代金の話。君、お金持ってる?」
ジョニィは黙った。テラの金など、一枚も持っていない。
「だよね。じゃあ、ケルシーに請求しとくね」
「やめろ。あの医者に、これ以上借りを作りたくない」
「ふうん」
クロージャは顎に手を当てて、しばらくジョニィとスロー・ダンサーを見比べていた。それから、にやりと笑った。
「なら、こうしよう。この子が走るところを、あたしに記録させてよ。脚の動かし方、速さ、地面を蹴る力。こんな生き物、テラじゅう探してもいないからね。それが代金ってことで」
「記録って、どこで走らせるんだ。この艦の中に、そんな場所はないだろう」
「艦が停まる時に、上の甲板が開くんだ。戦闘訓練にも使う広い所でね。エースたちがよく使ってるから、あたしから話を通しとくよ」
「エース?」
「うちの腕っこきのオペレーター。面倒見がよくて、強いよ。君みたいな新顔、たぶん放っとかないと思うな」
クロージャは意味ありげに笑ったが、その先は口にしなかった。
走る場所ができるなら、悪い話ではない。
「……分かった。ただし、鉄の輪だ」
「はいはい、鉄の輪ね」
クロージャの返事は、妙に軽かった。
▽
昼過ぎ、貨物区画の一角に、馬の寝床ができあがった。
荷箱を並べて仕切りを作り、床にはジェシカが運んできた梱包材を敷き詰めた。干し草の代わりにはならないが、冷たい鋼の床よりはずっといい。
「ジョニィさんは、いつからこの子と一緒なんですか」
仕切りの縁に腰かけて、バニラが訊いた。
「レースの前だ。誰も見向きしない年寄りを買った。十一歳だ。だが経験があって、無理をしない。ぼくはあの頃、まだ自分の足で鞍に上がることもできなかった。脚の動かないぼくを乗せて走るには、それが要った」
ジェシカが梱包材を広げる手を止め、そっとジョニィの横顔を見た。
「お、お年寄り……?」
バニラは、仕切りの中でおとなしく梱包材を嗅いでいるスロー・ダンサーを見た。
「脚は今も確かだ。若い奴らより、よっぽど賢く走る」
「私の故郷にも、そういう年寄りの駄獣がいました。群れで一番の年長で、足は遅いのに、道だけは誰よりも知っていて。一度だけ、砂嵐の夜に私を背中に乗せて、村まで連れて帰ってくれたんです」
バニラは懐かしそうに遠くを見て、それきり黙った。ジョニィも、それ以上は訊かなかった。
「……わ、わたしも、いつか乗ってみたいです。その、怖くない時に」
ジェシカが小さな声で言い、バニラが勢いよく頷きかけて、ジョニィの顔色を窺った。
「乗りたいなら、まず毎日ブラシを掛けろ。こいつが、乗せてもいいと思うまでな」
ジャイロも、馬の世話には口うるさかった。蹄を見ろ、水を飲ませる前に息を整えさせろ、と。あの男の小言を、今は自分がバニラに言っている。
スロー・ダンサーが、ゆっくりと膝を折り、梱包材の上に体を横たえた。
「……悪くない寝床だってさ。ぼくの部屋の寝台より、よっぽど上等らしい」
バニラが、くすくすと笑った。
▽
夕方、ジョニィが部屋に戻ると、扉の下に一枚の紙が差しこまれていた。
エンジニア部からの見積もりだった。
『特製蹄鉄 四点 (衝撃吸収材入り・軽量合金製・走行記録用計測器内蔵)』
その下に、小さな字で添え書きがあった。
『鉄の輪の形にはしておいたよ クロージャ』
ジョニィは紙を握りしめ、天井を仰いだ。
どう見ても、注文したのは鉄の輪ではない。しかも代金は走りの記録で払う約束だったはずなのに、見積もりの末尾には、見たこともない桁の数字が並んでいる。その横に、もう一行。
『差額はケルシーに請求しとくね』
「……あいつ」
懐の布袋から、カモミールの匂いがかすかに立ちのぼった。窓の外では、夕日が荒れ地を赤く染めていた。
第4話をお読みいただき、ありがとうございました。
爪の弾の補給がお茶、という絵面がどうしても書きたかった回です。
以下、小ネタです。
・スロー・ダンサーは、原作ではレースの前に買った十一歳のアパルーサ種の老馬です。名前はボズ・スキャッグスのアルバム『Slow Dancer』から来ています。若い馬より、経験と慎重さで走る相棒です。
・ジョニィが説明した蹄鉄の打ち方は、実際の装蹄と同じです。蹄の外側の硬い壁にだけ釘を打ち、先を折り返して留めます。内側の柔らかい所に打つと、馬が脚を痛めます。
・パフューマーの淹れたカモミールの「青い林檎のような香り」は本当です。カモミールの名は、ギリシャ語で「大地のリンゴ」という意味の言葉から来ているそうです。
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