ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第6話です。初めての定期診察の日、待合には先客がいました。
『初回定期診察 ジョニィ・ジョースター 本日十時 医療区画第二診察室』
朝食の盆の脇に置かれていた札には、それだけが角張った字で書かれていた。差出人の名はない。名がなくても、誰が書いたのかは察しがついた。
テラに来て九日目。ジョニィは札を指で弾き、深く溜め息をついた。
ケルシーという医者は、嫌いではない。ただ、あの静かな目に見られていると、腹の底まで数えられているような気分になる。艦に来た日の検査で睨み合って以来、どう接すればいいのか、ジョニィはまだ答えを見つけられずにいた。
ジャイロなら、こういう時は医者をからかって気を紛らわせただろう。聴診器を奪って自分の腹に当てるくらいのことは、平気でやる男だった。ジョニィにはその真似はできない。せめて遅れないようにと、早めに部屋を出た。
医療区画の待合は、白い壁と長椅子が並ぶだけの、静かな場所だった。消毒の匂いが、つんと鼻を刺す。
その長椅子の端に、先客がいた。
狐の耳と大きな尾。膝の上に銀色の魔法瓶を抱え、足を組んで、退屈そうに天井を眺めている。ジョニィに気づくと、フランカはひらひらと手を振った。
「あら、迷子さん。おはよう。あなたも呼び出し?」
「迷子はやめろ。……あんたこそ、なんでここにいる」
「なんでだと思う?」
フランカは魔法瓶の蓋を回しながら、いたずらっぽく目を細めた。答える気がないのは、その顔を見れば分かった。
▽
「実はね、あたし、ここの医者なのよ」
フランカは長椅子の上で背筋を伸ばし、声を少しだけ低くした。
「BSWの仕事は表向き。本当はケルシー先生の一番弟子でね、今日はあなたの診察を任されてるの。だから、ほら、まずは舌を出して」
「……医者が、待合で紅茶を飲んでるのか」
「休憩中なの。医者にだって休憩はあるでしょ?」
あまりに平然と言うので、ジョニィは一瞬、本当かもしれないと思いかけた。この艦には、猫の耳の医者も、温室で花を育てる調香師もいる。剣を下げた医者がいても、おかしくはないのかもしれない。
「舌を出して。はい、あーん」
ジョニィが口を開きかけた、その時。
「……なーんてね」
フランカは堪えきれずに吹き出し、尾を揺らして笑い転げた。
「本気にした? ねえ、今ちょっと本気にしたでしょ。口、開いてたわよ」
「開いてない」
「開いてた開いてた。あー、おかしい。あなたって、ほんとに素直なのね」
ジョニィは顔をしかめ、長椅子の反対の端に腰を下ろした。フランカは笑いの名残を目尻に残したまま、魔法瓶の中身を蓋に注いだ。湯気は、ほとんど立たなかった。
「やだ、すっかり冷めてる。朝に淹れたばっかりなのに」
フランカは腰のレイピアを鞘ごと少し引き抜き、刀身の根元に指を添えた。次の瞬間、細い刀身が、熾火のような赤い色に染まった。
フランカはその刀身を、魔法瓶の胴にぴたりと当てた。じゅっ、と小さな音がして、注ぎ口から白い湯気が立ちのぼる。
「……何してる」
「紅茶を温めてるの。見れば分かるでしょ?」
「剣で、か」
「アーツでよ。あたしのアーツは、刀身を熱くするの。金属の鎧くらいなら、すぱっと焼き切れるわよ。紅茶を温めるのにも、ちょうどいいの」
金属を焼き切る熱。ACT1の爪弾でも抜けるかどうか分からない物だ。それを、この女は紅茶のために使っている。
「リスカムに見つかったら、また怒られちゃうけどね。武器をそういうことに使うなって。あの子、ほんとにお堅いんだから」
フランカは温まった紅茶を蓋に注ぎ直し、ジョニィの方へ差し出した。
「飲む? お近づきのしるし」
ジョニィは一拍置いてから受け取った。花のような香りがして、喉の奥がゆっくりと温まる。カモミールとは違う、少し渋い味だった。
「……悪くない」
「でしょ? あたし、紅茶だけはうるさいのよ。ところで、ずっと『迷子さん』じゃかわいそうだし、呼び方を考えてあげる。ジョーくん、とか?」
「やめろ」
「じゃあ、ジョジョ」
ジョニィは、蓋を持つ手を止めた。理由は分からない。けれど、その呼び方は、妙に背中がむずがゆくなった。
「……なんでか知らないが、落ち着かない。ジョニィでいい」
「つまんないの」
フランカは唇を尖らせたが、それ以上は押してこなかった。代わりに魔法瓶を軽く叩き、得意げに胸を張る。
「ちなみにこの茶葉はね、ヴィクトリアの女王様から直々にいただいた、世界に一缶しかない特別な――」
「それも嘘だろ」
「あら、学習したわね。半分は本当よ。特別なのは本当。ロドスの売店で、いちばん高いやつだから」
「女王はどこへ行った」
「女王様は、ほら、気分の問題」
ジョニィは呆れて紅茶をすすった。いちばん高いと聞いたせいか、さっきより少しだけ、味が上等に思えてくるのが癪だった。
▽
「フランカさん、どうぞ」
診察室の扉が開き、白い服の医療オペレーターが顔を出した。フランカは「はーい」と軽く返事をして立ち上がり、魔法瓶をジョニィの膝に置いた。
「預かってて。冷めたら、また温めてあげるから」
扉が閉まり、待合には、ジョニィと魔法瓶だけが残った。
少しして、ジョニィも隣の部屋に呼ばれた。診察は、拍子抜けするほど短かった。ケルシーは胸の音を聞き、目の奥を覗き、指先の爪を一本ずつ確かめてから、手元の書類に何かを書きつけた。
「変化はない。源石は相変わらず、君の体を相手にしていない。次は七日後だ」
それだけだった。ジョニィが何か言う前に、ケルシーはもう次の書類に目を落としていた。
「……それだけか」
「不満か。長く診てほしいなら、そう書いておくが」
「いや、いい」
ジョニィは逃げるように診察室を出た。礼の一つも言いそびれたことに気づいたのは、扉が閉まった後だった。
待合に戻ると、ちょうどフランカも出てくるところだった。顔はいつもの笑顔で、足取りも軽い。けれど、その後ろで扉を押さえている医療オペレーターの顔は、どこか沈んでいた。
「フランカさん、次の検査の日取りは、また後でお知らせしますね」
「はーい、よろしくね」
医療オペレーターは小さく頭を下げ、扉の向こうへ消えた。その背中を、フランカは笑顔のまま見送った。
「お待たせ。紅茶、無事?」
「ああ」
ジョニィが魔法瓶を差し出すと、フランカは片手でそれを受け取った。その拍子に、袖口が少しずれた。
手首の内側に、黒く光る物があった。
集落の家々の壁から生えていた、あの結晶と同じ色だった。皮膚を割って、小さな粒がいくつか、肌の上に顔を出している。
ジョニィの目がそこで止まったのを、フランカは見逃さなかった。袖を戻そうとはしない。代わりに、いつもの調子で、その手をすっとジョニィの前へ差し出した。
「見ちゃった? そう、あたし、感染者なの。……触ったら、うつしちゃうわよ~」
冗談の声だった。けれど、差し出された手は、ほんのわずかに強張っていた。
ジョニィは、迷わずその手を取った。
フランカの指が、ぴくりと跳ねた。
「ぼくは、かからないらしい。さっき、医者にもそう言われた」
握った手は、意外なほど冷たかった。フランカは、しばらく何も言わなかった。いつもの笑みが消えて、目を丸くした素の顔が、ほんの一瞬だけそこにあった。
「……ああ、そっか。だから、あの集落で三日も平気だったのね」
フランカは握られた手を見下ろし、それから、ふっと笑った。さっきまでの笑い方とは、少し違っていた。
▽
艦の横腹には、外の景色を一望できる細長い窓があった。
二人はその前の手すりにもたれ、ゆっくりと流れていく荒れ地を眺めていた。フランカの魔法瓶から、もう一杯ずつ紅茶を分け合う。紅茶は、また少しぬるくなっていた。
「任務の最中にね、ちょっと運が悪かったの。詳しいことは、言っちゃいけない決まりなんだけど」
フランカは窓の外を見たまま、軽い口調で言った。
「病気そのものは、今のところおとなしいのよ。悪くなってもいないし。だから平気。……ただ、ひとつだけ苦手なことがあってね」
「苦手?」
「診察の後の、お医者さんたちの顔。みんな優しいから、隠そうとしてくれるの。でも、隠そうとしてるのが分かっちゃう。ああ、今日もこんな顔させちゃったなって。それが、いちばん怖いの」
ふふ、とフランカは笑った。笑い声だけが、少しだけ遅れて聞こえた。
ジョニィは、手の中の蓋に目を落とした。紅茶の表に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
「……ぼくも、脚が動かなかった」
フランカが、横を向いた。
「二年くらい。撃たれて、腰から下が、ぴくりとも動かなくなった。その前は騎手で、少しは名が売れてたんだ。だから、みんな知ってた。あいつはもう終わった、って」
ジョニィは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「怒鳴られるのは、平気だった。笑われるのも、まあ平気だった。いちばん効いたのは、かわいそうに、って目だ。何も言わずに、そういう目で見てくる。……あれを向けられると、自分がもう、この先どこにも行けない奴なんだって、思い知らされる気がした」
「……今は、歩けてるじゃない」
「ああ。レースの途中で、少しずつな。ジャイロのおかげだ。けど、あの目のことは、今でも覚えてる」
フランカは何も言わず、ジョニィの横顔を見ていた。それから、手の中の蓋をくるりと回した。
「だから、さっき手を取ってくれたの?」
「……そんなんじゃない。かからないって、分かってたからだ。それだけだ」
ジョニィはそっぽを向いた。フランカは「ふうん」とだけ言って、それ以上は追及しなかった。その口元が、少しだけ緩んでいた。
窓の外で、遠くの岩山が陽を受けて白く光った。
しばらくして、フランカが口を開いた。
「ねえ、あたし、行ってみたい所がたくさんあるのよ」
声は、いつもの軽さに戻っていた。
「ウルサスの雪原でしょ。ロンディニウムの古い街並みでしょ。リターニアの演奏会に、カジミエーシュの騎士の競技。サルゴンの砂漠で、星を見ながら野宿もしてみたいし。それから、それから……」
指を折りながら並べていく国の名前は、ジョニィには一つも分からなかった。ほら話の続きのようでいて、フランカの目だけは、窓の外のずっと遠くをまっすぐに見ていた。
「……それを全部、一緒に回りたい奴がいるの」
名前は言わなかった。ジョニィも、訊かなかった。訊かなくても、誰のことかは何となく分かる気がした。
「あなたは? あの棺の友だちの故郷って、どんな所?」
「ネアポリス。海沿いの、港町だって聞いてる。ぼくも、まだ見たことはない」
「見たことないのに、行くの?」
「あいつが帰りたがってた所だからな」
フランカは、窓の外へ視線を戻した。
「……いいわね、そういうの」
ジョニィは、フランカの腰のレイピアに目をやった。
「あんたの剣は、誰に習ったんだ。さっきの熱の通し方、素人じゃなかった」
「あら、聞きたい? 実はね、伝説の鍛冶屋が打った十二本の幻の剣があって、それを集める旅の途中で――」
「話したくないなら、いい」
フランカは、言いかけた口を閉じた。それから、窓に映る自分の顔を見て、小さく肩をすくめた。
「……昔、泣き虫の新人に、剣を教えたことがあるの。それだけ。続きは、また今度ね」
それが本当なのか、また別のほら話なのか、ジョニィには分からなかった。ただ、その時のフランカの声は、待合で聞いたどの冗談よりも静かだった。
▽
廊下の向こうから、早足の靴音が近づいてきた。
「フランカ。やっぱりここにいた」
リスカムだった。肩で息をしながら、二人の前で足を止める。
「診察の後で、勝手にいなくならないでって、いつも言ってるでしょ。医療班の人に聞いても、もう出たって言われるし」
「あらあら、優等生サマったら。そんなにあたしのことが心配だったの~?」
「心配してる」
リスカムは、はっきりと言った。フランカの尾が、ほんの少しだけ動きを止めた。
「……結果は、どうだったの」
「いつも通りよ。変わりなし。ほら、そんな顔しないの」
「……本当に?」
「本当よ。疑うなら、ケルシー先生に訊いてくれてもいいわよ。あの人、嘘はつかないもの。愛想もないけど」
リスカムはしばらくフランカの顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。それからジョニィの方へ向き直り、背筋を伸ばして頭を下げた。
「ジョニィさん、フランカがご迷惑をおかけしませんでしたか」
「紅茶をもらった」
「……武器で温めたものですね」
リスカムの目が、じろりとフランカの腰のレイピアに向いた。フランカは素知らぬ顔で、口笛を吹くまねをした。
三人で廊下を歩きだしてすぐ、フランカがジョニィの隣に並び、小さな声で言った。
「さっき、手を取ってくれたでしょ」
「ああ」
「あったかかったわよ、あなたの手。……ありがとね、ジョニィ」
ジョニィが顔を向けると、フランカはもう、いつもの笑顔に戻っていた。
「なーんてね」
冗談の形をしていた。けれど、それが冗談ではないことくらい、ジョニィにも分かった。
前を歩くリスカムが肩越しに二人の顔を見比べ、怪訝そうに眉を寄せた。フランカはひらひらと手を振ってごまかし、それから、ふと思いついたように言った。
「ねえ、ジョニィ。その海の向こうの街に着いたら、手紙ちょうだい」
「手紙?」
「そう。住所を書いてね。そしたら、いつか行くから。……あたしたちで」
フランカの視線が、ほんの一瞬だけ、前を歩く相棒の背中に向いた。
ジョニィは、少し考えてから頷いた。
「分かった。着いたら、書く」
「約束よ。破ったら、うつしちゃうから」
「ぼくはかからないって、言っただろ」
フランカが声を上げて笑い、リスカムが今度こそ振り返った。
「何の話?」
「ないしょ。ね、ジョニィ」
「……ないしょだ」
リスカムはますます眉を寄せ、フランカはますます楽しそうに尾を揺らした。窓の外では、陽に白く光る岩山が、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
第6話をお読みいただき、ありがとうございました。
話タイトルは、ビートルズの「I Want to Hold Your Hand」(邦題「抱きしめたい」)から取りました。フランカの「触ったら、うつしちゃうわよ~」は、冗談の形をした、この回でいちばん勇気の要った一言です。ジョニィは、迷わずその手を取りました。
以下、小ネタです。
・フランカがジョニィを「ジョジョ」と呼んだ時、ジョニィは「なんでか知らないが、落ち着かない」と断りました。原作のジョニィは、七代目の「ジョジョ」にあたります。本人に自覚はありませんが、呼ばれると背中がむずがゆくなるのは、たぶんそのせいです。
・「ヴィクトリアの女王様から直々にいただいた茶葉」は、二重のほら話です。アークナイツのヴィクトリアでは王家が途絶えていて、今は女王がいません。ロドスの売店でいちばん高い、という方だけが本当でした。
・フランカが行ってみたいと並べたウルサス、ロンディニウム、リターニア、カジミエーシュ、サルゴンは、どれもテラの国や街の名です。ジョニィには一つも分かりませんでしたが、この先、そのうちのいくつかには足を踏み入れることになります。