ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第7話です。補給車を助けに、ジョニィはBSWの四人と白い湖の底へ出ます。
干上がった湖の底は、地平の果てまで白かった。
塩の固まった平らな地面が昼の陽を照り返し、目を開けているのも難しいほどまぶしい。その白い広がりの縁に、崩れかけた石造りの中継所が一つ、ぽつんと建っていた。
テラに来て十二日目。ロドスに救難の通信が入ったのは、夜明け前のことだった。通信によれば、湖の縁で補給車が一台立ち往生し、感染生物が群がって、運転手が二人とも車から出られずにいるという。
近くを航行していたロドスはBSWの四人を向かわせると決めた。
同行を申し出たジョニィに、ケルシーは書類から目も上げずに答えた。
「好きにしろ。ただし死ぬな」
話はそれで終わった。平らな地面なら蹄鉄の記録が取れると聞いたクロージャだけが、その場で飛び跳ねていた。
鞍の上から見渡すと、固く締まった塩の地面が、真っすぐに延びていた。脚を取られる砂もなければ、蹄を割る岩もない。
――ここなら、走れる。
「ジョニィ、ぼうっとしないの。もうすぐ着くわよ」
並んで歩くフランカが尾を揺らして見上げてきた。
「それにしても聞いた? ケルシー先生の『死ぬな』。あの人があんなこと言うの、珍しいのよ。あなた、案外気に入られてるんじゃない?」
「気に入られてるのは、遺体の方だろ」
「ふふ、ひねくれてるわね」
「でも、あの先生が『好きにしろ』まで言うのは、もっと珍しいですよ」
後ろからバニラが口を挟み、自分の言葉にうんうんと頷いた。
四人でいちばん背の高い後輩は、さっきからスロー・ダンサーの横顔ばかり覗きこんでいる。
「……褒められてる気がしないな」
「あ、あの……ジョニィさん、本当に戦うんですか。その子、怪我しないでしょうか……」
ジェシカがおずおずと訊いた。銃を胸に抱えた指先が白くなるほど握りしめられている。
「こいつは、ぼくより修羅場に慣れてる。心配なら、帰ったらブラシを掛けてやれ」
「は、はい。掛けます。いっぱい」
「私もです! ジェシカ先輩と一緒に掛けます!」
勢いよく手を挙げたバニラに、フランカがくすくすと笑った。先頭のリスカムは盾を構え直し、振り向かずに隊列を告げる。
「中継所まで、あと三百。ジェシカは右、バニラは左。フランカはわたしの後ろ。ジョニィさんは、その子と一緒に少し下がっていてください」
「下がってたら、撃てない」
「では、撃てる所まで。ただし、前には出ないでください」
いつもより硬いリスカムの声に、ジョニィは肩をすくめるだけで返した。
「感染生物ってのは、どんな奴らだ」
「源石に侵された生き物です。たいていは知恵が足りず、群れで動きます。一匹ずつなら弱いのですが、数が多いと厄介で……触れた所から源石が――いえ、防護もなしに廃村で三日過ごして何ともなかった方には、要らない心配でしたね」
「ああ。ぼくには、かからないらしい」
「それでも、噛まれれば痛いはずです。気をつけてください」
律儀に言い直すリスカムに、フランカが「優等生サマ」と小声で茶化し、軽く睨み返されていた。
中継所の屋根が見えてきた所で、スロー・ダンサーが両耳をぴたりと前へ向けた。首を高く上げ、歩みを緩める。手綱越しに、馬の背が固くなるのが伝わってきた。
少し遅れて、風に乗って妙な音が届いた。乾いた砂利を何千粒も擦り合わせたような、かさかさという音だ。
「リスカム。何かいる。数が多い」
ジョニィの声に、リスカムが片手を上げて隊列を止めた。四人が同じ方を向いて動かなくなる。
中継所の周りで、地面がうごめいていた。
初めは地面そのものが波打っているように見えたが、目を凝らすうちに、それが無数の背中だと分かってくる。拳ほどの大きさの、硬そうな殻に覆われた体。
その背から黒い結晶がいくつも突き出し、何十、何百という数が補給車にたかっていた。窓の内側には青ざめた運転手の顔が二つ並んでいる。
「オリジムシの群れです。数が多い……」
ハルバードを握り直すバニラの横で、リスカムが短く命じた。
「行くよ。わたしが前に出る。ジェシカ、煙幕を」
「は、はいっ!」
ジェシカの投げた筒が群れの真ん中で弾け、白い煙が膨らんだ。向きを失った虫たちがてんでばらばらに這い回る隙に、リスカムが盾を押し出して群れへ踏みこむ。一斉に飛びかかった虫を、角から盾へ走った青白い電撃がまとめて地面に叩き落とした。
「カウンター……!」
感嘆の声を上げたバニラが左からハルバードを大きく薙ぐ。フランカは赤く熱した刀身で、群れの端から一匹ずつ踊るように斬り払っていった。
「リスカムさん、右から回りこんできます!」
ジェシカの叫びに、リスカムは振り向きもせずに答えた。
「見えてる。バニラはそのまま押して。フランカ、左の塊をお願い」
「はいはい、お任せあれ」
誰がどこへ動くのか、言葉にしなくても四人には分かっているらしかった。レースで見てきた即席の徒党とは、呼吸の揃い方がまるで違う。
馬上から群れを見渡していたジョニィの目が、一匹の異物に留まった。腹だけが異様に膨れ、その腹ごと結晶に覆われている。
「あの腹の大きいやつは何だ」
「バクダンムシです! し、死ぬ時に爆発することがあって……あの、車の近くで倒すと危ないです!」
撃ちながら叫んだジェシカの言葉どおり、そいつは補給車の車輪へ這い寄っていく。
ジョニィは人差し指を向けた。乾いた音とともに回る爪が飛び、膨れた腹の縁を浅く削る。驚いた虫が車輪を離れ、白い地面へ逃げだした。十分に車から離れたところで二発目が止めを刺し、小さな爆発が塩の粉を巻き上げる。
「左の二匹も、車から離れてから撃つ」
「見かけによらず、律儀な撃ち方するのね」
煙の向こうから飛んできたフランカの声に、ジョニィは次の一匹へ指を向けたまま答えた。
「車ごと吹き飛ばしたら、助けに来た意味がないだろ」
そこからは早かった。リスカムの盾が群れを押し返し、バニラとフランカが両脇から削っていく。逃げ散ろうとする虫はジェシカの弾とジョニィの爪が一匹ずつ拾った。
補給車の中では、運転手の一人が窓を叩き、扉の取っ手に手を掛けていた。
「まだ扉は開けないでください! あと少しです!」
リスカムが窓へ向かって叫び、最後の塊に盾を叩きつける。
群れの残りが動かなくなった時、足元が揺れた。
白い地面に走った細いひびがみるみる太くなる。中継所のすぐ脇で塩の地面が大きく盛り上がり、割れ目の下から何かが這い出してきた。
最初に見えたのは、鈍く光る灰色の壁だった。それが殻の一部だと気づくまでに、少し時間がかかった。家より大きい。小山がそのまま動きだしたような巨大な蟹が、金属めいた甲羅を陽にぎらつかせ、幾本もの脚を足元へ深く突き立てている。
「ハガネガニ……!? でも、こんな大きさ、聞いたことが……」
初めて、リスカムの声が揺れた。
「あれも虫の仲間か」
「感染生物です! 殻が金属みたいに硬くて、ふつうの武器はほとんど通りません。でも、ふつうはもっと小さいんです! 膝くらいまでしか……!」
叫ぶように答えたバニラの前で、大ガニが残りの脚を地中から引き抜いていく。ジェシカの撃った弾は甲羅に火花を散らし、そのまま弾かれた。
「き、効きません……!」
「ジェシカ先輩、下がってください!」
ハルバードを構えたバニラが小柄な先輩を背にかばって前へ出る。ジョニィの爪弾も、同じ音を立てて甲羅に弾かれた。ACT1の爪では、金属は抜けない。
「フランカ!」
「分かってる!」
地を蹴ったフランカが真っ赤な刀身を脚の付け根に叩きこんだ。じゅっと煙が上がったものの、焼けたのは甲羅の表から指の幅ほどの深さだけだった。
「厚すぎるわ、これ……! 鎧なら焼き切れるけど、こんなの山を焼いてるのと同じよ!」
跳び退いた彼女のいた場所を、振り下ろされた太い脚が叩き割った。
黄金の回転が要る。手本の比率を探して視線を巡らせかけ、ジョニィはそれを手元に見つけた。
鞍の前で握った拳のすぐ先、スロー・ダンサーの鬣が風に流れている。毛の束が重なり、ほどけ、また重なる。その渦の巻き方の中に、ジャイロに叩きこまれた黄金の長方形が確かにあった。
比率を目でなぞり、中指の爪へ移す。
『タスク』――ACT2。
撃った瞬間、空気が裂けた。爪弾は太い脚に食いこみ、脚ごと甲羅の一角を吹き飛ばした。灰色の破片が雨のように降り注ぎ、後には黒い回転の穴が残る。穴は傷口から体の奥へ肉を裂いて食い進み、並の生き物ならとうに息絶えている一撃だった。
地鳴りのような声を上げて大ガニがよろめき、それでも倒れなかった。
穴は奥へ奥へと進んでいく。けれど、体が大きすぎる。急所に届く前に穴は縮み始め、八秒を数えたところで、巨体の奥深くで消えた。
「嘘でしょ……あの殻を吹き飛ばしたのに、まだ動くの?」
息を呑むフランカに、ジョニィは歯噛みしながら答えた。
「……芯まで届かない」
二発、三発と同じ所へ重ねれば、いずれは届くかもしれない。だが、穴はすぐに閉じる。その間に次の爪を撃ちこむには、こちらの位置が遠すぎた。
腰の袋からカモミールの葉をつまみ出して噛み潰しながら、ジョニィは大ガニの脚と補給車の距離を目で測った。あの脚が車に届くまで、もう何歩もなかった。
「そ、装填、葉っぱなのに……」
こんな時にまで小さく呟いたジェシカへ、ジョニィは葉を噛んだまま横目を向けた。
「聞こえてるぞ」
「ひゃっ、す、すみません!」
片脚を引きずりながら、大ガニが向きを変えた。その先には補給車がある。
「車が……!」
バニラの悲鳴を聞きながら、ジョニィは湖の底へ目をやった。どこまでも白く、平らな地面が続いている。
止まらない回転が要る。届くまで回り続け、どこまでも離れない回転が。そしてここには、それを撃てるだけの走路がある。
「時間を稼いでくれ。走ってくる」
振り返ったリスカムはジョニィの目を見ただけで、何かを悟ったようだった。
「……どのくらいですか」
「一分。いや、もう少し」
「分かりました。……全員、車の前へ! わたしが正面を受ける!」
「一分って、あなたね……簡単に言ってくれるじゃない」
刀身を構え直したフランカが苦笑まじりにジョニィを見上げた。
「信じていいのね、ジョニィ」
「ぼくじゃなくて、こいつの脚を信じてくれ」
ジョニィはスロー・ダンサーの首を軽く叩いた。フランカは一瞬目を丸くし、それから楽しげに口の端を上げた。
「じゃあ、その子を信じるわ。一分半まではおまけしてあげる」
躍り出たリスカムの盾が大ガニの前で青白く光った。振り下ろされた脚の衝撃が盾の表で掻き消え、次の瞬間、放たれた電撃が巨体の脚を駆け上がっていった。
その光を背に、ジョニィは腹を蹴った。スロー・ダンサーは白い湖の底へ一直線に駆けだした。
蹄が塩の地面を打つ。一歩ごとに間隔が縮まり、風が耳元で唸り始める。クロージャの蹄鉄は、固い地面をしっかりと噛んでいた。
ジョニィは手綱を緩め、馬の首に身を預けた。急かさず、操らず、この馬が自分の脚でいちばん自然な走り方を見つけるのを待つ。
首の上下、背のうねり、地を蹴ってはまた宙を掻く四本の脚。その繰り返しの中に、ある一定の拍子が生まれていく。
大陸を横断する間、何千キロもこの背の上で感じてきた拍子だった。
そして、ジャイロが最後に教えてくれた拍子だった。
馬の脚運びから、黄金の回転が立ちのぼってくる。手綱から右手を離して人差し指を立て、ジョニィは湖の底を大きく回りこんで馬首を中継所へ向けた。遠くで大ガニの脚がリスカムの盾を叩き、彼女の膝が沈むのが見える。
「ジャイロ……これが、きみの遺した回転だッ!」
背後に、桃色の装甲が立ち上がった。
『チュミミーン!!』
甲高く鳴いた像がジョニィの肩越しに大ガニを睨み据える。爪がかつてない唸りを上げ、撃った弾の後を、像が追った。
像と弾が、一つになる。
大ガニの甲羅に、小さな穴が一つ空いた。
それだけだった。
次の瞬間、巨体が回り始めた。
甲羅も、脚も、地面に食いこんだ脚先ごと、ゆっくりと、そして止めようもなく渦を巻いていく。大ガニは脚を突っ張ってもがいたが、逃れようとするほど回転は深く食いこみ、削られた塩の地面ごと巨体を沈めていった。
渦を巻く砂ぼこりの奥へ、その姿は少しずつ呑まれていく。
穴が閉じた後も、地の底からは低い唸りが続いていた。足元のすぐ下で、まだ何かが回っている。
誰も、口を開かなかった。
脚を緩めて中継所の前まで戻り、ジョニィは四人の顔を見た。ハルバードを握ったまま固まるバニラ。口を両手で押さえたジェシカ。盾を支えに辛うじて立ったまま、目だけをこちらへ向けるリスカム。
フランカでさえ軽口を忘れ、大ガニの消えた地面を見つめていた。
「……今の、何?」
かすれた声で、フランカが言った。
「ピンク色の、大きな……人みたいなのが、弾と一緒に飛んでいった。ジョニィ、あなた、あれ……」
すぐには答えられなかった。これまで誰の目にも映らなかった像が、四人の目にははっきりと見えていたのだ。無限の回転に乗った像だけは、隠れきれないらしい。
「……ぼくのスタンドだ。いつもは、見えない」
それだけ言うのがやっとだった。
大統領を倒した回転だ。知らない力ではない。あの頃は前へ進むことしか頭になく、撃つたびに、これで届く、これで勝てる、とだけ思っていた。
いま初めて、言葉を失った仲間の顔越しに、その回転を外から見ていた。ジョニィが止めない限り、どこまでも相手を追い、回し続ける力。それを撃った指が、まだ熱を持っていた。
弾と共に飛んでいった像は、まだ戻ってきていなかった。
地面の下から、回転の唸りに混じって、聞き慣れた鳴き声が届いてくる。地の底で回り続ける獲物から、離れる気がまるでないらしい。
「ひっ……い、今の声、地面の下から……」
ジェシカが一歩、後ずさった。回転に乗っている間は、あの声も四人の耳に届いてしまうのだ。
――まだ近い。今なら呼び戻せる。
「もういい。戻れ」
小声で呼ぶと、塩の地面から桃色の頭がひょいと覗いた。名残惜しそうに足元を一瞥してから、像は回転を離れ、ふわりと宙を渡ってジョニィの肩の上に収まる。その瞬間に、四人の目からは消えたらしい。皆の視線はそこを素通りしていた。
『チュミミーン!』
勝ち誇った鳴き声だった。像は得意げに胸を張り、ジョニィの顔を覗きこんで、もう一度拳を振り上げてみせる。
「……おい。やり過ぎだ」
拳が、宙でぴたりと止まった。
ゆっくりと腕が下り、大きな肩が落ち、顔の蹄鉄の紋までがしょんぼりと下を向く。
『……チミィィ』
今にも消え入りそうな声に、ジョニィは思わず額を押さえた。
「いや、その……助かった。よくやった。だから、そんな顔するな」
しばらくうつむいていた像はちらりとジョニィを見上げると、満足したように薄れて消えた。
横を向くと、フランカが首をかしげてこちらを見ていた。
「ねえ、ジョニィ。今、誰と話してたの? ……さっきの、ピンクの?」
「独り言だ」
「ふうん。見えないお友達に、ずいぶん優しい独り言ね」
「……好きに言ってろ」
ようやくいつもの調子を取り戻したフランカが、くすくすと肩を揺らした。
その向こうではリスカムが盾にもたれて座りこんでいた。放電の後で体がうまく動かないらしく、慌てて駆け寄ったバニラが肩を貸している。
「リスカムさん、大丈夫ですか!?」
「平気……少し休めば、動ける」
「あらあら、優等生サマ。最後まで格好よかったわよ?」
覗きこむフランカに、リスカムは顔をしかめた。
「からかうなら後にして。……今は、言い返す力もないから」
「じゃあ、後でたっぷりからかうわね」
「……ほんと、ひどい」
小さくぼやいてから、リスカムはジョニィへ顔を向けた。口調は外の者に向けるいつもの丁寧なものに戻っている。
「一分と言いましたね。実際は、二分近くかかりました」
「一分半まではおまけしてくれるって、フランカが言ってたぞ」
「フランカの約束は、わたしの約束ではありません」
真顔で返され、ジョニィは素直に頭を下げた。
「……悪い」
「いいえ。間に合いましたから。それに、あなたが戻ってくると、わたしは信じていました」
それだけ言って目を閉じかけたリスカムが、ふと思い出したように瞼を上げた。
「報告書には、どう書けばいいですか。あの蟹を、何が排除したのか」
少し考えてから、ジョニィは汗に濡れた馬の首筋を撫でた。
「馬のおかげ、って書いといてくれ」
「……それは、報告書の書き方ではありません」
ジョニィは何も言い足さなかった。しばらく黙って一人と一頭を見比べていたリスカムは、やがて諦めたように息をついた。
補給車の扉が開き、運転手の二人が転がるように降りてきた。
「た、助かった……! ありがとう、本当にありがとう!」
「あの蟹、どこへ行ったんだ? 地面に吸いこまれたように見えたが……それに、あのでかい桃色のは……」
「もう、上がってこない」
短い答えに、運転手たちは顔を見合わせ、それ以上は何も聞かなかった。
入れ替わりに、ジェシカがそっとそばへ寄ってきた。
「あ、あの……あの蟹、もう、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。あの回転は、ぼくが止めない限り止まらない」
口にしてから、その言葉の重さにジョニィ自身が黙りこんだ。何か言いかけたジェシカも、結局は小さく頷くだけだった。
掌の下で、馬の体はまだ熱かった。
「よく走った。……あいつも、きっと褒める」
鼻を鳴らしたスロー・ダンサーが、ジョニィの胸に頭を押しつけてきた。
▽
ロドスへ戻ったのは、日が傾いてからだった。
貨物区画の隅、荷箱で仕切った馬房で、ジョニィは桶の水を何度も替え、スロー・ダンサーの脚を洗っていた。塩の湖を走った蹄には白い粉がこびりついている。放っておけば乾いて割れる。脚の付け根から蹄の縁まで、布で一本ずつ丁寧に拭っていった。
蹄鉄の記録を取りに来たクロージャは数字を山ほど抱えてとっくに引き上げている。貨物区画には、水の滴る音と、馬が梱包材を鼻先でかき回す音だけが残っていた。
その音に、遠慮がちな足音が二つ混じった。
「あ、あの……ジョニィさん」
荷箱の陰から、ジェシカが半分だけ顔を覗かせていた。その後ろには、頭一つ飛び出したバニラが立っている。バニラの手には、倉庫で借りたいつもの大きなブラシ。ジェシカの手には、真新しい小さなブラシが握りしめられていた。
「帰ったら掛けるって、約束したので……」
「ジェシカ先輩、今日が初めてなんです! 私が教えます!」
得意げに胸を張るバニラに、ジョニィは布を桶に放りこんで場所を空けた。
「後ろには立つな。驚くと蹴る」
「け、蹴るんですか」
「蹴られる所に立たなきゃ、蹴らない」
「大丈夫ですよ、先輩。首から背中へ、毛の流れに沿ってです。力は入れすぎないで、汚れを浮かせて払うつもりで」
五日目の朝にジョニィが教えたことを、バニラは一言も違えずに繰り返した。言われたとおりに、ジェシカが小さなブラシをおそるおそる首筋へ当てる。一度、二度。
スロー・ダンサーは耳を一つ動かしただけで、梱包材をかき回すのをやめなかった。三度目には、自分から首を低くして、ブラシの方へ寄せてくる。
「……ジョニィさん、この子、気持ちよさそうです」
ジェシカの声に、ほんのりと明るさが戻っていた。
反対側では、バニラが背中から腰へと大きくブラシを動かしている。一週間、毎朝欠かさず通ってきた手つきだった。スロー・ダンサーはとうとう目を半分閉じ、ジョニィの方へは振り向きもしない。
「……ぼくの時より、おとなしいな」
「それって、私たちの方が上手ってことですか!」
「調子に乗るな」
真顔で返すと、バニラは首をすくめた。それでも、口元の笑みは消えていない。
「あの、ジョニィさん。今日みたいに走るのって、レースの時もあんな感じなんですか」
ブラシを動かしながら、バニラが訊いた。
「あんなに白くて固い地面は、レースにはなかった。山も、砂漠も、大きな川もあった。……こいつは、それを全部走った」
「全部、ですか」
「全部だ。六千キロ近く、ぼくを乗せて」
言い終えてから、喋りすぎたかと思った。だがバニラは目を輝かせて馬の脚を見下ろし、ジェシカは手を止めて、その背を見上げている。二人の目に映っているのは、自分ではなく馬だった。それなら、悪い気はしない。
「あの……」
ブラシを握ったまま、ジェシカが小さく口を開いた。
「あのピンクの子、最初はびっくりしましたけど……怖くは、なかったです。叱られて、しょんぼりしてたし……ちょっとだけ、かわいかったです」
とたんに、背中のあたりがむずむずした。
振り返るまでもない。ジョニィの肩の上に、ACT4が半分だけ姿を現していた。頬に両手を当て、身をくねらせ、ジェシカの方へ向かってしきりに胸を張ってみせる。
『チュミィ……チュミミ……』
ジョニィは顔を前へ向けたまま、肩の上を指で弾いた。
『チュミッ!』
「……肩、どうかしたんですか」
「虫だ」
ジェシカはきょとんと首をかしげ、バニラと顔を見合わせた。ACT4は不満げに口を尖らせ、それでも嬉しそうに、ふわりと消えていった。
ジョニィは咳払いを一つして、二人のブラシに目を戻した。
「……前にも言ったな。毎日でいい。こいつは、それがいちばん喜ぶ」
「はいっ! これからは先輩と二人で、毎日です!」
「わ、わたしも……毎日」
二人の声が重なった。スロー・ダンサーが梱包材から顔を上げ、満足げにもう一度鼻を鳴らした。
▽
その夜、ロドスの艦内で、一枚の報告書が書き上げられた。
『補給車一台、運転手二名を救出。オリジムシの群れを排除。大型のハガネガニを、未確認の力で排除。詳細不明。射撃の瞬間、大きな桃色の人影が弾に伴って飛ぶのを、当隊四名と運転手二名が目撃。本人はスタンドと呼称。平時は見えないという』
その下に、几帳面な字で一行、書き足してあった。
『本人いわく、うま、のおかげ』
第7話をお読みいただき、ありがとうございました。
以下、小ネタです。
・無限の回転は、原作の終盤で、ジャイロが最後に見せた騎乗の回転からジョニィがたどり着いた力です。馬がいちばん自然に走る時の脚運びに、黄金の長方形を見出して撃ちます。だからこの回のジョニィは、急かさず、操らず、スロー・ダンサーが自分の脚で走るのを待ちました。
・ACT2の黄金の比率は、スロー・ダンサーの鬣の流れから読み取りました。手本になる比率は、テラにもちゃんと転がっています。
・ふだん、スタンドはスタンド使いにしか見えません。この作品では、無限の回転を抱えて飛ぶ間だけ、ACT4の像は誰の目にも映り、声も届くことにしています。それほど大きな力だ、ということです。回転を離れれば、また見えなくなります。夕方、肩の上でくねっていた姿は、ジョニィにしか見えていません。
・像が鳴いた『チュミミーン!』は、原作のタスクの鳴き声「チュミミ~ン」から来ています。叱られてしょげた『……チミィィ』も、この作品の像の持ち味です。
・最初に群れていた虫は、アークナイツでおなじみのオリジムシです。大きな蟹はハガネガニ。ふつうは膝くらいの大きさです。
・第4話でバニラが始めたブラシ掛けに、この回からジェシカも加わりました。「帰ったらブラシを掛けてやれ」は、怯えていたジェシカに、ジョニィなりに役目を渡した一言です。
次回もお楽しみに