『獣の病』
たった一夜にして、肉体が獣のごとく変容し、発狂して数日のうちに死んでしまう。19世紀後半から、イギリス魔法界を中心にヨーロッパ全土で報告されている奇病である。
発症に法則はなく、前日まで健康だったものがある日突然発症する。100年以上にわたって研究されてきたが、わかっていることはごく少ない。
肉体の変容はマレディグタスの呪いに近く、現状治療の術がないこと。
発狂した患者への開心術から、患者は共通して悪夢から目覚められないでいることが発覚。そして、開心術によってその悪夢を共有することで、術者もまた発狂し、獣と化した。
発症者が数年に一人程度ということもあり、獣の病の研究は遅々として進まず、そしてついに、1989年の報告を最後に姿を消した。
最後の発症例は1989年のものではない。
1991年1月。マグル生まれの魔女の卵、当時十歳の少女アイリス・メアリー・ハリントンは、悪夢を終わらせ、人知れずヤーナムより生還した。
外見上の変化や発狂もなく、誰も気が付くことはなかった。
***
私には良き両親がいる。私を産んだ時、母は子供を産めなくなってしまったから、たった一人の子供となった私は両親の愛情のすべてを受け取った。あまり裕福な家庭ではなかったが、私には平凡な日常とささやかな幸福があった。それがどんなに尊いものか。どんなに美しいものか。私は同年代の子供たちより少しばかり早くそれに気が付いた。あの凄惨な『悪夢』を経験したせいで。
昔から、少し浮いた子供だった。文字通り「浮いた」こともあったらしいが、私は幼すぎて覚えていない。ただ、何ともありそうなことだった。彼女の身の回りでは、少しばかり「不思議」がよく顔を見せるので。ただ、それも今年に入ってからはめっきりなくなった。何かのきっかけで謎の力が消えたわけではなく、完全に制御できるようになったからだ。使い方はまだよくわからないが、勝手に「不思議」を振りまかないよう抑えるくらいはできるようになった。
私はこの不思議パワーに魅力は感じなかった。そういうのにはもううんざりしていた。少なくとも100年くらいは、そういう神秘とは無縁の人生を生きようと思っていた。
そういうわけにもいかないらしい。
ホグワーツ魔法魔術学校副校長『ミネルバ・マクゴナガル』。そう名乗った老婦人には、気品があった。思わず背筋を正したくなるような。
7月、マクゴナガルが我が家を訪れて、いろいろと話をしてくれた。魔法のことや、ホグワーツなる学び舎のことを。
両親はお世辞にも頭がいいほうとは言えないし、話が急すぎて半分も理解できたか怪しかったが、娘たるアイリスの命に関わることは聞き逃さなかった。魔法を意図せず使った結果の、ちょっとショッキングな事例。魔法を抑圧し続けた結果行き着く、オブスキュリアルという名の破滅。
そんなことはもう起こりえないのだが、それを説明するには私の異常性をさらけ出す必要がある。そんなことはできなかった。少なくとも、両親の前でくらいは、まっとうな人間で居たかった。
暴発するのが当たり前。制御できなくて当然。その前提を覆せない以上、私がホグワーツへ行くことは避けられない運命だった。
机から生えるように私の目の前にいる真っ白な肌にちょっとグロテスクな小人たちが。可愛らしい使者たちが『ヴオォォ……』と私を慰めてくれた。
***
マクゴナガル先生に連れられてダイアゴン横丁とやらに来ている。周囲はまるでハロウィンだ。魔法使い、魔女、魔女、魔法使い……父さんは圧倒されっぱなしである。
最初に銀行に案内され、魔法界の通貨に両替する。高い天井、シャンデリア、磨かれた床。初めて見た小鬼は、スーツに眼鏡で、ちょっと気難しそうだった。
お金は私が持つことになった。この通貨になれるために、自分で支払いをしてみましょうとのことだった。初めての授業というわけである。財布の中には、教材費とほんの少しのお小遣い。我が家は裕福とは言えない。余分なお金はないのだ。
「まずは杖です。魔法使いというものは、杖がなくては始まりませんからね」
「杖がなければ、魔法は使えないのですか?」
そうであれば、杖さえ取り上げてしまえば何もできないということになる。いやしかし、以前の私は杖なしで魔法を暴発させていた。
「杖がなくとも魔法を使えるのは、熟練の魔法使いだけです。それも、杖があるときに比べれば、威力も精度も格段に落ちるのが普通です。ホグワーツでは杖なし魔法はほとんど扱いませんね」
マクゴナガル先生の口調は、11歳児に向けるには固すぎるな。しかし、いま「威力」という言葉を使ったな?攻撃に使うことを当たり前のこととしている訳だ。魔法界というのはずいぶんと物騒な世界らしい。
「さて、ここがオリバンダーの店です。ホグワーツの生徒は、皆ここで自分の杖と出会うのですよ」
一見すると、小さく古びた店だ。扉には『オリバンダーの店——紀元前382年創業 高級杖メーカー』とある。老舗、なんて表現では追い付かないな。
***
店内に客はいなかった。「杖選びが難航するとなん十分もかかりますからね。今日は運がよかった」とはマクゴナガル先生の言葉だ。
棚という棚に、おびただしい数の木箱。あの全てに杖が入っているのだろう。置き場がなく床に積まれているものまである。その奥で、小柄な老人が待っていた。
「いらっしゃい。オリバンダーの店へようこそ。……新入生ですな」
「ええ。お願いします、オリバンダー。この子に良い出会いを」
「アイリス・ハリントンです。よろしくお願いします」
「お任せくだされ。さて、きみ。こちらへ」
オリバンダー老人に近づく。木の香りがする。いろんな木の香りが混ざっている。この老人の手から、骨の髄から香ってくる。職人というのはこういう人のことを言うのだろう。
「杖腕はどちらですかな?」
「ええと、どっちの手で杖を持つかってことですか?」
深く考えず右手を差し出す。オリバンダー老人は私の指先から腕の付け根まで、ありとあらゆる角度から寸法を測った後、棚の中から箱を取り出し、私に杖を差し出す。
「では、まずはこれをお試しください。ポプラに不死鳥の羽。29センチでしなやか」
言われるままに手に取った、と思った瞬間に取り上げられてしまった。
「ふむ。ではこちらを。楓にユニコーンのたてがみ。19センチ、固くねじれている」
今度は指に触れたかも怪しい。
「ニワトコにドラゴンの心臓の琴線。33センチ。良質でよくしなる」
今度は取り上げられなかった。
「ふむ。一度、軽く振ってみてくれますかな」
言われるがまま適当に振ってみると、爆音が鳴り響いた。音というより、咆哮……?
「むぅ……失礼。」
求めていた結果とは違うらしい。それはともかく、気が付いたことがある。
「オリバンダーさん。すみません。やっぱり左腕のほうがよさそうです。なんというか、左のほうがうまく振れる気がします」
「む……。利き手は右なのでしょう?しかし……珍しいですが、そういう方もいらっしゃる」
もう一度採寸。
右で振ってみて気が付いた。これじゃないと。左に持ち替えたのは、左のほうがしっくりくるという以上に、右手に持ちたいものがあるからだ。
獣狩りの斧、ノコギリ鉈、仕込み杖……。獣を狩るだけを考えて生み出された、異形の武器たち。あのずっしりとした重さが。金属と獣の血の匂いが。魔法の杖では軽すぎる。頼りなく感じてしまう。
無論、この魔法界において仕掛け武器たちを振り回すような事態にはなってほしくないが、想定しないわけにもいくまい。マクゴナガル先生やダイアゴン横丁の住民が魔法を使うのを見ていたが、魔法というものは実に多様で汎用性に富むものらしい。右手に仕掛け武器、左手に魔法の杖。新時代の狩人のスタンダードになるかもしれない。無意識にかつての強敵たちとの戦闘をシミュレートしている。まだ魔法のことはろくに知らないが、図体のでかい上位者たちを相手にするにあたっては、水銀弾を撃ち込むより効果的だろう。
思考が、というか妄想が無軌道かつ物騒な方向に止まらないのは、端的に言えば現実逃避みたいなものだ。オリバンダー老人は次から次へと杖を試すが、そのほとんどは降って試す前に取り上げられている。かれこれ数十分、私たちのそばには「これじゃない」杖が山のように積みあがっている。
背後では父さんとマクゴナガル先生が雑談している。ダイアゴン横丁に来た直後は魔法の世界に圧倒され放心状態だった父さんも、今では童心に帰ったかのように目を輝かせて質問攻めである。マクゴナガル先生も律義に相手をしている。魔法が使えない人間への見下しやら優越感を感じさせず話を盛り上げているあたり、本当に良い先生なんだろう。
「ふむふむ。やはり一般的に使われている芯材とは相性が悪いようですな……。少々お待ちを。店頭に出していない杖たちを持ってきます。」
オリバンダー老人が目を輝かせている。自分が作った杖にことごとくNOを突き付ける面倒くさい客相手に、まるで聖杯ダンジョンで血晶石を探し求める狩人のごとき、ギラギラした輝き。
「ほう!箒を使ったスポーツですか!」
「ええ。ホグワーツでも4つの寮に分かれて寮対抗クディッチリーグを開催していましてね。私が学生時代の頃から変わらず……」
くでぃっちとやらの話になってから先生の声に少し熱が入ったな。スポーツに興味を持ったことがない私にも楽しめるのだろうか。
「お待たせしました。まずはこちらを。ニワトコにヴィーラの髪。35センチで堅硬」
む、ニワトコか。いままで試した中で「悪くない」杖のほとんどがニワトコだった。そして芯材は初めてのもの。
握ってみると、今までで一番しっくりくる。しかし、なんだろうか?わずかにピリピリとした感触があり、狙いが定まらない。私の持ち方の問題ではない、本来はこの重さならこの姿勢で安定するはず。つまり、そう。「反抗的」なのだ。この杖は。
「やはりヴィーラの髪は気難しいようですな……」
オリバンダー老人が杖を取り上げようとしてくるが……。
「いえ。もう少し待ってください」
何本も杖を試すうちに、杖に魔力を込める感覚は覚えた。今までは杖を振る際に自然と吸い上げられていた魔力を、意識的に流していく。
思った通り、素直ではない。だが、私に反抗できるということは、それだけの力があるということだ。ならば屈服させてしまおう。
魔力を込めながら、意思をぶつける。
『私に、従え』
途端に、杖の先端から青白い力の奔流が噴出し、積み上げてあった杖の箱たちを吹き飛ばしてしまった。まずい。気合を入れすぎたか。だが、杖はもう反抗的でなくなった。隅々まで私の力で満たされ、持ち手から杖先まで、一本の線で魔力が滑らかに通る。
「なんと……なんということじゃ……。今まで数多くの杖を売ってきたが、このような現象は非常に珍しい。杖の忠誠を強引に手に入れるなど。歴戦の魔法使いならば見たことがあるが、初めて杖を持つ子供が……」
オリバンダー老人は、吹き飛んだ商品に目もくれず、呆然と私の手にある「私の杖」を見ている。私に話しかけているわけではなく、独り言のようだ。そして、それを聞くに力ずくで杖を従えるのは難易度の高いことらしい。
「あー……すみません。その、商品を」
「いえいえ、良いんですよ。珍しいものを見せていただきました。それに、杖の箱には保護呪文がかけられておりますゆえ、お気になさらず。……その杖は、五百年以上も持ち手が見つからなかったものでしてな。ニワトコは強力ゆえに制御が難しく、ヴィーラの髪もまた強力ですが非常に気まぐれ。私の流儀ではありませんが、非常に強力な杖です。ただ、この杖は気難しさゆえに持ち手が見つからなかったのです。しかし、ハリントン嬢はその忠誠を勝ち取りました。」
「忠誠、ですか。まるで、杖に意思があるような表現ですね」
「まさに。杖には一つひとつに個性があり、意思がある。杖はふさわしい主にしか、力を貸さないのです。今やあなたは、その杖の主というわけです。大切になさってください。さて、マクゴナガル先生。杖が決まりましたよ」
「おや、決まりましたか。ずいぶん時間がかかりましたね……。ミス・ハリントン、杖ホルダーは私からプレゼントしましょう。ささやかですが、入学祝ですよ」
「あ、ありがとうございます、先生。」
「イズ、杖が決まったのか?おお、これで魔法が使えるんだな。ちょっと振ってみてくれ、写真にとるから」
「振ってはいけませんよ。ミスター、きちんとした教育を受けていないと、魔法が暴発することもあるのです。先日説明しましたよね?あそこを見なさい。散らかっているのは娘さんの魔法によるものです」
父さんが先生に叱られているのをよそに、代金を払う。そうしてようやく、この杖は私のものになった。思えば、自分だけの武器というのは初めて手にするかもしれない。使者から渡されたのは誰かの使い古しの武器だったし、他のも打ち捨てられていたのを拾ったり、敵が使っている武器を奪ったり。
私だけの武器。むふふ。
アイリス(Iris)……「瞳」の意味を持つ。
イズ(Iz)……アイリスの愛称の一つ。主人公の名前を決めた後に知った。
ニワトコとヴィーラの髪の杖
当時のオリバンダーが、かのニワトコの杖を再現しようとして作成した。オリバンダー一族の伝統から外れた異端の作品。