エロゲのモブに転生した俺、うっかり【幼い】最凶悪役令嬢(ラスボス)の専属指南役になる。……待って、ヤンデレルートなんて原作にあったか? 作:エイイダ・カエン
「カイル、口の周りにクッキーの欠片がついてるわよ」
「あ、ほんとだ。ありがとう、姉さん」
姉のリリアが、白いハンカチで俺の頬を優しく拭う。
中庭のテーブルには、温かい紅茶と焼き立てのクッキー。
向かいの席では、母であるエステダール子爵夫人が、俺たち姉弟のやり取りを見て目を細めていた。
「ふふ、二人とも本当に仲が良いわね。カイルも今年で六歳。そろそろ家庭教師をつける準備をしないと」
「えー、勉強は嫌だなあ」
俺が子供らしく頬を膨らませると、母と姉は楽しそうに笑い声を上げた。
穏やかな午後。貴族の次男坊……ではなく、辺境子爵家の長男としての何不自由ないスローライフ。
前世の記憶なんてものはなく、俺はこの六年間、エステダール家のカイルとして純粋にこの世界をエンジョイしていた。
そう、つい数分前までは。
(……待てよ。エステダール?)
頭の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
紅茶のカップに手を伸ばしかけた俺の動きが止まる。
エステダール子爵家。
長女、リリア・エステダール。
当主の妻、エレナ・エステダール。
その名前の羅列が、脳内の奥底に封印されていたある記憶を強制的に引きずり出した。
視界がグラリと揺れる。
深夜のアパート。光るモニター。台パンして砕けたキーボード。
理不尽な難易度を誇る覇権エロゲ。開発者とのレスバ。そして、交差点での強烈なヘッドライトの光――。
(思い、出した……。俺、あのクソゲーの最中に事故って死んだんだ!)
息が詰まる。嫌な汗が背中を伝い落ちた。
カップを持つ指先が微かに震える。
(いや、前世の記憶が戻ったのはいい。問題はそこじゃない。エステダール子爵家だぞ!?)
俺は手元の紅茶の液面を見つめたまま、脳内Wikiをフル回転させた。
間違いない。俺がやり込んでいたあのダークファンタジーRPGにおいて、エステダール家は『チュートリアルの噛ませ犬』だ。
ゲーム開始直後、魔女の配下である凶悪な魔族がこの領地を急襲する。
父親である子爵は真っ二つに引き裂かれ、護衛の騎士団は全滅。
そして、美しい母と姉は……魔族たちの苗床として生け捕りにされ、凄惨な肉奴隷へと堕ちる。
それが、主人公が旅立つきっかけとなる始まりの悲劇のムービーシーンだったはずだ。
(じゃあ、長男のカイルはどうなる?……ダメだ、名前すら出てこない。ムービーの開始三分で、屋敷の瓦礫の下敷きになって死ぬモブAが俺かよ!)
最悪だ。
胃袋が冷たくなる感覚。
ゲームの知識があるなら無双できる、なんてのは主人公やチート持ちの特権だ。
今の俺はただの六歳の子供。魔法の才もなければ、特別な血筋でもない。ただの辺境貴族のしがない長男坊だ。
(逃げよう。今夜にでも荷物をまとめて、屋敷を抜け出すしかない。このままここにいれば確実に死ぬ。母さんたちには悪いが、俺一人ならワンチャン生き延びられるかもしれない……!)
生存本能がそう告げていた。
椅子から立ち上がり、部屋に戻って準備を始めようと腰を浮かせた、その時だった。
「カイル?どうしたの、顔色が悪いわよ。どこか痛いの?」
母さんが立ち上がり、心配そうな顔で俺の額に手を当てた。
ひんやりとした、柔らかい手のひら。
見上げると、姉のリリアも不安げに俺の顔を覗き込んでいる。
「カイル、無理しないで。クッキー、美味しくなかった?」
二人の顔を、俺は交互に見つめた。
ただのポリゴンじゃない。NPCのデータでもない。
俺が熱を出した時、三日間徹夜で看病してくれた母さん。
俺が転んで膝を擦りむいた時、泣きそうな顔で絆創膏を貼ってくれた姉さん。
この六年間、俺に惜しみない愛情を注いでくれた、俺の本当の家族だ。
(……逃げる?俺一人で?)
額に当てられた母の手の温もりが、俺の冷え切った思考を殴り飛ばした。
(この人たちを見捨てて、自分だけ助かって、それで前世と同じように部屋に引きこもってゲームでもするのか?ふざけるな)
浮かせかけていた腰を、再び椅子に下ろす。
膝の上で、両手を強く握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みで、意識を現実へと繋ぎ止める。
「ううん、なんでもないよ、母さん。ちょっと立ちくらみがしただけ」
俺は努めて子供らしい、無邪気な笑顔を作った。
「それより母さん、俺、勉強よりも先に剣術や魔法を習いたいな。早く強くなって、立派な貴族になりたいんだ」
母と姉は顔を見合わせ、それからホッとしたように微笑んだ。
「カイルったら、急に男の子らしくなって」
「ふふ、お父様に相談してみましょうね」
談笑に戻る二人を見つめながら、俺は心の中で中指を立てた。
(聞いてるか、あのクソ運営。お前らが書いた胸糞悪いシナリオ通りになんて、絶対にさせてたまるか)
六歳の体。特別な力はない。
だが、俺にはあのゲームの全ルートをコンプリートした知識がある。
隠しアイテムの場所、効率的な魔力圧縮法、そして未来の強者たちの弱点。
(母さん、姉さん。絶対に守ってみせる。そのためなら、どんな泥水だって啜ってやる)
前世のゲーム知識を活かし、屋敷の隅々まで裏技や隠しアイテムを探し回った。
結果は全敗。
壁抜けバグも、アイテム無限増殖も存在しない。現実はクソほどリアルに作られていた。
結局、生き残るためには地道なフィジカルトレーニングと、ゲーム内で見た剣術のモーションを自己流で再現するしかない。
◆
そうして一年が過ぎ、七歳になったある日。
最近、妙な視線を感じる。
庭の生垣の向こう、シルクハットを被った背の高い細身の男が、時折俺の素振りをジッと見つめているのだ。
(……誘拐犯か? 貴族の子供を狙った身代金目的の?)
警戒レベルをMAXにしつつ、俺はあえて気付かないフリを貫いた。
そして今日。
俺は辺境警備隊の隊長である初老の騎士と、木剣での立ち合いを行っていた。
「――そこだっ!」
隊長の剣が上段から振り下ろされる。
ゲームのボスの理不尽なモーションに比べれば、軌道が丸見えだ。
俺は半歩ずれて攻撃を躱し、隊長の籠手に木剣の先をピタリと寸止めした。
「……参りました。七歳で私の剣を見切るとは」
「隊長の踏み込みが甘かっただけですよ」
息を整えながら木剣を下ろす。
その時だった。
「素晴らしい。無駄のない実戦的な動きだ」
生垣の向こうにいたはずの帽子男が、いつの間にか敷地内に入り込み、拍手をしながら近づいてきた。
(やばい、来た! 誘拐犯が堂々と近づいてきやがった!)
俺は木剣を構え直し、じりじりと後ずさる。
「面白い。私の娘にちょうどいいかもしれん」
男が足を止め、鍔広の帽子を少しだけ持ち上げた。
「初めまして、カイル君。私はアルフレッド・ハンステインだ」
(……娘にちょうどいい? 人身売買か!? てかハンステイン?)
どこかで聞いた響きだが、今はそれどころじゃない。
この異常にひょろ長いシルエット。前世のホラーゲームで見た不気味なバケモノにそっくりだ。
「……ハンステイン? おじさん、スレンダーマンじゃないよね?」
「……は? すれんだー?」
男が怪訝な顔で首を傾げる。
その横で、さっきまで俺と打ち合っていた隊長が、悲鳴のような声を上げた。
「か、カイル坊ちゃん! 失礼ですよ! こちらはハンステイン公爵閣下です!」
「……公爵?」
木剣を持ったまま、俺はポカンと口を開けた。
(ハンステイン公爵? 誰だっけ? まあいい、誘拐犯じゃないなら一安心だ)