扉間「聖杯戦争はワシが解体した」 作:ナハ
日が沈み、夜の静寂に包まれた校舎には、既に生徒の姿はほとんどなかった。
普段であれば部活動を終えた生徒たちの声が聞こえてくる時間帯だが、今夜ばかりは事情が違う。つい先ほどまで、この学園のグラウンドでは二騎のサーヴァントによる戦闘が繰り広げられていたのだ。
そして、その戦いを偶然目撃してしまった一人の少年がいた。
衛宮士郎。穂群原学園に通う二年生であり、遠坂凛にとっては顔見知りの男子生徒だった。
「……衛宮君!」
凛は校舎の廊下を駆けていた。
先ほど、ランサーが士郎を発見した瞬間から嫌な予感はしていた。聖杯戦争の存在を一般人に知られてはならない。それは魔術師たちの間で共有されている暗黙の了解であり、目撃者を始末するという判断も決して珍しくはない。
だからこそ、凛は急いでいた。
しかし、彼女が目的の場所へ辿り着いた時には、既に全てが終わっていた。
「……嘘」
廊下の中央。
そこには、一人の少年が倒れていた。
赤銅色の髪に、見慣れた学校の制服。胸元には鋭利な刃物で貫かれたような傷があり、その周囲には大量の血液が広がっている。
衛宮士郎だった。
「衛宮君!?」
凛は駆け寄ると、すぐさま膝をついた。
肩を揺すってみるが、反応はない。首筋に手を当てても脈は感じられず、胸元からは既に生命の鼓動が失われていた。
完全な心停止。致命傷を負ってから、それほど時間は経っていないはずだった。
「……もう、何やってんのよ」
凛は唇を噛みしめた。
聖杯戦争に巻き込まれる一般人が出る可能性は、最初から理解していた。
理解していたはずなのだ。それでも、こうして顔見知りの人間が目の前で死んでいる光景を見れば、冷静でいられるはずもなかった。
「こんなところで……死んでんじゃないわよ……!」
凛は制服のポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、一つの赤い宝石。
遠坂家に伝わる宝石魔術。その中でも、彼女が長い年月をかけて魔力を蓄積してきた、極めて貴重な宝石だった。
本来ならば、聖杯戦争における切り札として使用するつもりだったものである。
それを、まさかこんなことで使うことになるとは思わなかった。
「……まったく、最悪よ」
自嘲気味に呟きながら、凛は宝石を握りしめた。
これほどの魔力を蓄積した宝石は、簡単に用意できるものではない。遠坂家の魔術師として考えれば、ここで使用するのは決して賢い判断とは言えないだろう。
だが、だからといって見捨てるつもりもなかった。
「……助けてあげるから、感謝しなさいよね」
凛は宝石に蓄えられた魔力を解放し、士郎の胸元へと手をかざした。
赤い輝きが周囲を照らす。膨大な魔力が凛の制御によって流れ込み、傷ついた肉体の修復を開始した。
胸を貫かれた傷は深く、心臓にまで達している。普通の治癒魔術であれば、到底間に合わないほどの重傷だった。
しかし、今使用しているのは長年蓄積してきた魔力を一度に解放する宝石魔術である。
魔術回路に負荷がかかり、凛の額には汗が滲んだ。
「……っ、もう少し……!」
凛は慎重に魔力を調整する。
少しでも制御を誤れば、せっかくの魔力が無駄になってしまう。
そんな時だった。ふと、凛はあることに気づいた。
「……あれ?」
いない。
先ほどまで一緒にいたはずのサーヴァントが、どこにもいないのである。
あの男は、士郎が倒れている場所へ向かう途中までは確かに傍にいたはずだった。
それなのに、いつの間にか姿を消している。
「……あーもう! アーチャーは何してんのよ!」
思わず声を荒らげた、その直後だった。
「騒ぐな」
「ひゃっ!?」
突然、背後から声が聞こえた。
凛が振り返ると、そこには何事もなかったように扉間が立っていた。
「だから急に現れんな! 何してたのよ!? こっちは治療中よ!?」
「ワシは綱手ではない。医療忍術は使えんからな。凛が出来るならば任せるまでよ」
「……ツナデ?」
聞き慣れない名前だったが、今はそれどころではない。
「だからって単独行動しないで!?」
「ワシも無意味に単独行動はしておらん」
「どうだか! 昨日からずっと勝手に動き回ってるじゃない!」
凛は文句を言いながらも、治療の手を止めなかった。
宝石の魔力は徐々に減少している。心臓の損傷を修復し、停止した生命活動を再開させるには、もう少し時間が必要だった。
その様子を見た扉間は、それ以上話しかけることなく、静かに傍らへ立った。
彼の視線が士郎の胸元へと向けられる。
「……ほう」
「……何よ」
「死者を蘇生させる術か。興味深いな」
「厳密には違うわよ。死亡してから時間が経ってないから、まだ間に合う可能性があるってだけ」
「なるほど。完全に生命活動が失われた者を蘇らせるわけではないのだな」
「当たり前でしょ。そんなこと簡単にできるわけないじゃない」
「……ふむ」
扉間は顎に手を当てた。
忍界においても、医療忍術による治療には限界がある。生命活動が停止してしまった者を救うのは極めて難しく、そもそも医療忍術を扱える者自体が貴重だった。
しかし、この世界の魔術は少々勝手が違うらしい。
少なくとも、心臓を貫かれた人間を救命できるだけの術が存在しているということだ。
(……治療技術に関しては、忍界と異なる発展を遂げておるようだな)
扉間は興味深そうに観察していたが、すぐに視線を別の場所へ移した。
今は術の研究よりも優先すべきことがある。
「……凛」
「今度は何よ!」
「そろそろ治療に集中した方がよいのではないか?」
「誰のせいで集中できないと思ってんのよ!?」
凛の怒声が廊下に響いた。
それから数分後。
士郎の胸元から流れていた血が止まり、傷口がゆっくりと塞がり始めた。
凛は額の汗を拭いながら、慎重に魔力の流れを確認する。
「……よし」
心臓が動き始めている。
呼吸も、まだ弱いながら戻ってきた。
どうやら、何とか間に合ったらしい。
「……はぁ、よかった」
凛は安堵の息を吐いた。
同時に、手にしていた宝石を見下ろす。
長年蓄積してきた魔力の大部分が失われていた。
今後の聖杯戦争を考えれば、決して小さな損失ではない。
しかし、目の前の少年が再び呼吸を始めたことを確認すると、不思議と後悔は湧いてこなかった。
「……まったく、借り一つだからね」
そう呟き、凛は立ち上がった。
そこでようやく、扉間が何やら手にしていることに気づいた。
一本のクナイ。そして、小さな容器。
その容器には赤黒い液体が入っており、もう片方の手には青い布切れが握られていた。
「……なにそれ?」
「ランサーの血液と、衣類の一部だ。これを使い英霊召喚、霊基、聖杯について調べる」
「……はあ!?」
凛は思わず目を見開いた。
「ちょっと待って! ランサーの血液って……いつの間にそんなもの手に入れたのよ!?」
「先ほどの戦闘で採取したものだ」
扉間は至極当然といった様子で答えた。
先ほど、ランサーの背中へ影分身が最後の一撃を加えた際、確かに傷を負わせることに成功していた。
その時に飛び散った血液が、グラウンドに残されていたのである。
扉間はランサーがその場を離れた後、飛雷神によって戦闘地点へ移動し、血液を採取していた。
衣類の一部についても同様だった。
最後の奇襲によって切り裂かれた青い装束。その小さな切れ端が地面に落ちていたため、回収しておいたのである。
「血液と衣類を採取するだけならば、時間はかからん」
「……いや、そういう問題じゃなくて」
凛は頭を抱えた。
どうしてこの男は、戦闘が終わった直後に敵の血液を回収するなどという発想に至るのだろうか。
普通のサーヴァントであれば、戦った相手の能力や真名について考えるところだろう。
もちろん扉間も戦闘能力の分析は行っていた。
だが、それだけでは飽き足らず、相手の身体を構成する物質まで調べようとしているらしい。
「……それで、どうするつもりなの?」
「まずは血液が通常の人間のものと同じ性質を持つのか確認する。次に、霊基との関連性を調べるつもりだ」
「……霊基との関連性?」
「英霊は過去の英雄を召喚し、仮初めの肉体を与えた存在なのだろう?」
「ええ、そうよ」
「ならば、その肉体がどのような仕組みで形成されておるのかを調べる価値はある」
扉間は容器を軽く持ち上げた。
「ワシ自身の身体についても調べておるが、比較対象がなければ分からんことも多い。あの槍兵の血液があれば、何らかの手掛かりが得られるかもしれん」
「……比較対象って」
凛は呆然とした。
まさか、自分のサーヴァントが英霊の身体構造を研究しようとしているとは思わなかった。
そもそもサーヴァントは魔力によって現世に実体化した存在である。
その身体から採取した血液が、普通の人間の血液と同じように扱える保証などない。
「……ねえ、アーチャー。サーヴァントって霊体にもなれるのよ? その血液だって普通の物質とは限らないわよ」
「無論、承知しておる」
「だったら……」
「だからこそ調べるのだ」
扉間は凛の言葉を遮った。
「既知の物質と異なるならば、どのように異なるのか。何らかの規則性があるのならば、その原因は何か。調べる前から不可能と決めつける理由はあるまい」
「…………」
「それに、仮に血液から何も分からなかったとしても、損失は大きくない。研究材料を確保しておいて損はなかろう」
凛は何とも言えない表情を浮かべた。
言っていることは理解できる。
むしろ、魔術師として考えれば極めて真っ当な研究姿勢だった。
未知の現象があれば調べる。仮説を立て、実験し、その結果を検証する。
それ自体は魔術師にとっても重要な行為である。
「……あんた、まさかサーヴァントを研究材料にするつもり?」
「必要であればな」
「はあ!?」
「だから騒ぐな。お前は治療に集中しろ」
「いや無理だから!?」
既に士郎の治療はほぼ終わっていたが、それでも凛は叫ばずにはいられなかった。
この男は一体何を考えているのだろう。
聖杯戦争に参加しているはずなのに、敵を倒すことよりも英霊召喚の仕組みを調べることに興味を示している。
しかも、どうやら本気らしい。扉間は呆れたように小さく息を吐くと、凛へ向き直った。
「落ち着け。調べれば英霊と戦わずとも契約を解除する方法が見つかるかもしれん、それだけではない聖杯というシステムもわかるかもしれんのだ」
「……契約を解除?」
「そうだ」
扉間は腕を組んだ。
「そもそも、この聖杯戦争という儀式は不可解な点が多すぎる」
「不可解な点?」
「死者を現世に召喚するだけでも相当な術だというのに、七騎もの英霊を同時に維持しておる。しかも、その英霊はそれぞれ異なる術者と契約を結んでいるという」
「……まあ、そうね」
「その契約を維持するための術式はどこにある? 英霊の力はどこから供給されておる? そして、聖杯とやらは何を目的としてこの儀式を成立させておる?」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に、凛は思わず口を閉じた。
答えられるものもある。
だが、全てではない。
「……サーヴァントはマスターから魔力を供給されるけど、それだけで全てを維持してるわけじゃないわ。大聖杯という儀式の基盤が存在していて……」
「その大聖杯とやらの術式は確認したのか?」
「……してないわ」
「ならば、まずはそこだな」
扉間は当然のように言い切った。
「どんな術にも必ず穴はある。調べずしてただ戦うのは愚か者だ」
凛は黙り込んだ。
確かに、言われてみればその通りだった。
聖杯戦争とは、七騎のサーヴァントが戦い、最後に残った者が聖杯を手にする儀式。
それが基本的な仕組みであり、参加者はその規則に従って戦う。
しかし、扉間は違った。彼は最初から、聖杯戦争の規則そのものを疑っている。
戦わずに勝つ方法。あるいは、戦う必要そのものをなくす方法。
それを真剣に探そうとしているのだ。
「……でも、そんな簡単に解除なんてできるものなの?」
「簡単とは言っておらん」
扉間は即座に答えた。
「術式の構造を知らぬ以上、可能かどうかすら判断できん。だが、何も調べずに不可能と断定するのは早計だ」
「……なるほどね」
「それに、ワシは術の開発を得意としておった。既存の術式を解析し、改良することも珍しくはなかったからな」
「そういえば、影分身も貴方が作ったんだったわね」
「うむ。他にも幾つか開発しておる」
凛は何気なく尋ねた。
「……ちなみに、他にはどんな術を作ったの?」
「飛雷神、互乗起爆札、穢土転生……まあ、色々だな」
「……え?」
凛の表情が変わった。
「ちょっと待って。穢土転生って、昨日言ってた死者を蘇らせる術?」
「そうだ」
「それも貴方が作ったの!?」
「うむ」
「…………」
凛は言葉を失った。
昨日から聞いている限り、扉間の世界では忍術というものが発展していたらしい。
しかし、死者を呼び戻す術まで開発していたとなると、話は別だった。
魔術師にとって、死者の蘇生は極めて高度な領域に属する。
それを目の前の男は、あっさりと自分が開発したと言ってのけたのである。
「……あんた、本当に何者なのよ」
「二代目火影だと言ったはずだが」
「そういう意味じゃないわよ……」
凛は深々とため息をついた。
もはや、何を聞いても驚かないつもりだった。
しかし、この男は毎回その予想を裏切ってくる。
「……はあ。わかったわよ、勝手にしなさい。最初からアンタを制御出来る気がしないし」
「勘違いするな。ワシは貴様に制御される気は無い」
「……は?」
「聖杯戦争などというくだらん儀式を怪しんでおるだけだ」
「失礼ね!? 思っていても言わないでよ!?」
凛は思わず声を荒らげた。
しかし扉間は涼しい顔をしている。
「願いを叶えるために死者を呼び戻し、殺し合わせる。しかも、儀式の全容すら把握しておらん者が参加しておるのだろう? 少なくとも、まともな仕組みとは思えんな」
「……それは否定できないけど」
「ならば調べるまでよ」
実に単純な結論だった。
凛は再びため息をついた。
この男を召喚してから、何度ため息をついたことだろう。
だが、不思議なことに、不快感ばかりではなかった。
確かに口は悪い。マスターへの敬意も乏しい。
勝手に行動するし、こちらの指示を素直に聞くつもりもなさそうだ。
それでも、この男の判断には一貫した合理性があった。
何より、聖杯戦争を生き残るために必要なことを、誰よりも真剣に考えている。
(……まあ、頼りにはなるのよね)
凛は小さく肩をすくめた。
しばらくして、士郎の容態が安定した。
胸元に残っていた傷は完全に塞がり、呼吸も正常に戻っている。
凛は最後の確認を終えると、ようやく立ち上がった。
「……これで大丈夫ね」
「蘇生したか」
「ええ。しばらくすれば目を覚ますと思うわ」
「ふむ。大した術だな」
「……褒めても何も出ないわよ」
「事実を述べただけだ」
凛は少しだけ笑みを浮かべた。
どうやら、扉間なりに評価してくれているらしい。
もっとも、相変わらず表情はほとんど変わらないのだが。
「……それじゃ、行きましょうか」
「この小僧は放置するのか?」
「ええ。目が覚める前に退散するわ。私が助けたって知られると、色々面倒だし」
「……なるほど」
扉間は士郎を見下ろした。
彼にとって、この少年は聖杯戦争に巻き込まれた一般人でしかない。
しかし、ランサーに襲われたという事実は無視できなかった。
一度口封じの対象となった人間が、再び生きていると知られればどうなるか考えるまでもない。
「凛、ランサーはあの衛宮士郎という小僧が生きていることに気づくだろう」
「ええ……多分また襲われるわね」
凛も表情を曇らせた。
ランサーが士郎を殺したのは、聖杯戦争を目撃されたためだ。
であれば、士郎が再び動き出せば、ランサーは当然その存在を警戒するだろう。
最悪の場合、もう一度殺しに来る可能性もある。
「……まったく、面倒なことになったわ」
「ならば、備えておくべきだな」
「備えるって……どうするの?」
「あの小僧の屋敷を監視する」
「……屋敷?」
「ああ。幸いにもあの小僧の屋敷からは妙な気配を感じておる。マーキング済みだ」
「…………」
凛はゆっくりと扉間を見上げた。
「……ちょっと待って」
「なんだ」
「衛宮君の家まで調べてたの?」
「屋敷の主があの小僧だとは知らんかったがな」
扉間は淡々と説明した。
冬木市内へ散らしていた影分身の一体が、深山町にある古い屋敷から奇妙な気配を感知していたらしい。
通常の人間の住居とは異なり、微弱ながら魔力に似た反応が存在していたため、念のため周囲を調査しておいたのだという。
その際、飛雷神のマーキングも施していた。
「先ほど凛が小僧の名を呼んだのでな。影分身に確認させたところ、どうやらあの屋敷の住人らしい」
「……つまり、偶然調べてた場所が衛宮君の家だったってこと?」
「そういうことだ」
「…………」
凛はしばらく黙り込んだ。
やがて、深々と息を吐く。
「準備良すぎて怖いわ」
「備えを怠る方が愚かだ」
「いや、そうなんだけど……」
凛は額に手を当てた。
召喚されてから、まだ一日程度しか経っていない。
それなのに、この男は冬木市内の重要施設を調査し、複数の場所へ飛雷神のマーキングを施し、さらには敵サーヴァントの血液まで確保している。
一体どこまで準備を進めているのだろう。
「……ちなみに、他にはどこにマーキングしてるの?」
「必要と思われる場所には概ね施しておる。主要な道路、橋、見晴らしのよい建物、それから……」
「……それから?」
「教会の周辺と間桐の屋敷付近だな」
「……やっぱり」
凛は顔を引きつらせた。
この男、既に冬木市を自分の庭のように扱い始めている。
飛雷神の術があれば、マーキングした場所へ一瞬で移動できる。
つまり、扉間は市内各地へ自由に移動するための経路を整えつつあるということだ。
(……これ、他のサーヴァントからしたら相当厄介なんじゃない?)
敵に追われても瞬間移動で逃げられる。
逆に、敵が油断していれば瞬時に背後へ回り込むこともできる。
さらには影分身によって各地を監視できるのだから、情報戦においては圧倒的に有利だろう。
だが、そこで凛はふと気づいた。
「……待って」
「なんだ」
「貴方……ランサーにも何かしてる?」
扉間は当然のように頷いた。
「勿論だ。ランサーの背にはマーキングがしてある」
「…………」
凛は絶句した。
「……いつ?」
「影分身が最後に奇襲した時だ」
扉間は手にしていたクナイを軽く持ち上げた。
「背中を斬りつけた際、術式を刻んでおいた」
「……あの一瞬で?」
「そうだ」
凛は先ほどの戦闘を思い返した。
水龍弾を突破したランサーが、扉間の影分身を槍で貫いた。
その後、倒れた影分身が最後の力を振り絞り、背後からクナイで奇襲を仕掛けた。
ランサーはその攻撃を受けたものの、すぐに反撃して影分身を消滅させたはずだった。
しかし、あの一撃には別の目的があったらしい。
「……つまり、ランサーにいつでも瞬間移動できるってこと?」
「そうなるな」
「……それ、反則じゃない?」
「戦争に反則も何もあるまい」
「いや、そうだけど!」
扉間は腕を組み、静かに続けた。
「飛雷神の術式は、一度刻めば基本的に消えることはない。あの男が術式を解除する方法を知らぬ限り、こちらは好きな時に飛ぶことができる」
「……本当に?」
「ああ。ただし、相手がどこにおるか分からぬ状態で飛ぶのは危険だ。移動先に敵が待ち構えておる可能性もあるからな」
「……まあ、そうよね」
「故に、今すぐ使う必要はない。あれはあくまで保険だ」
扉間は赤い瞳を細めた。
「いざとなれば、あの槍兵の背後を取れる。奇襲にも、追跡にも使えるだろう」
凛は思わず身震いした。
恐ろしいのは、飛雷神という術そのものではない。
それを扱う扉間の発想だった。
扉間は最初から本体を出さず、影分身だけでランサーと戦った。
そして、その影分身は敗北した。
表面上は、ランサーの勝利である。しかし、実際にはどうだろう。
扉間はランサーの戦闘能力を把握した。血液と衣類を確保した。さらに、飛雷神のマーキングまで施している。
その一方で、ランサーは扉間の真名もクラスも知らず、使った術の仕組みすら理解していない。
おまけに、倒した相手が影分身だったことにも気づいていない可能性が高い。
つまり、あの戦闘によって得られた情報量は、双方で大きく異なっているのだ。
(……何よ、それ)
凛は思わず苦笑した。
(戦闘では負けたのに、情報戦では完全に勝ってるじゃない……)
しかも、扉間はそのことを誇る様子すらない。
彼にとっては、これが当たり前なのだろう。
「……アーチャー」
「なんだ」
「一つ聞いていい?」
「構わん」
「貴方って、生前もずっとこんな戦い方してたの?」
扉間は少し考え込んだ。
「……そうだな。ワシは元々、正面から力で押し切る戦い方を好まん」
「へえ……」
「敵の情報を集め、弱点を探り、確実に仕留める。戦場ではそれが基本だ」
「……なるほどね」
「無論、正面から戦わねばならぬ状況もある。だが、あえて敵の得意な土俵で戦う理由はなかろう」
扉間は窓の外へ目を向けた。
「ましてや今回のように、相手の能力が未知数であるならば尚更だ」
凛は静かに頷いた。
先ほどのランサーとの戦闘が、まさにそうだった。
ランサーは接近戦を得意とする英霊。
それに対して扉間は、最初から正面戦闘を避け、飛び道具や起爆札によって相手の行動を探っていた。
そして最後には、わざと敗北したように見せかけている。
「……あんた、敵に回したくないタイプね」
「それはこちらの台詞だな」
「……え?」
「貴様も魔術師だろう。術者である以上、何を隠しておるか分からん」
扉間は真顔で答えた。
「戦場では、味方と思っておる者がいつ敵になるかも分からんからな」
「……それ、マスターに言う台詞?」
「事実だ」
「……ほんっと、失礼な奴ね」
凛は肩をすくめた。
しかし、今度は怒る気にならなかった。むしろ、少しだけ安心していた。
この男は、決して油断しない。それが自分のマスターであろうと、敵のサーヴァントであろうと、相手の立場だけで判断することはない。
徹底した合理主義者。それが千手扉間という男なのだ。
「……さて、そろそろ行くぞ」
扉間がそう告げた。
凛は床に横たわる士郎を見下ろした。
呼吸は安定している。治療も成功した。
後は目を覚ますのを待つだけだろう。
「……そうね。いつまでもここにいるわけにはいかないし」
「小僧のことは影分身に監視させておく」
「……え?」
「ランサーが再び現れた場合に備えてな。せっかく貴様が助けた命だ。すぐに失われては無駄になろう」
凛は意外そうに目を見開いた。
「……気にしてくれるの?」
「何をだ」
「衛宮君のことよ」
「当然だ。あの小僧は既に聖杯戦争に巻き込まれておる」
扉間は士郎を一瞥した。
「それに、敵が一般人を口封じのために始末するというならば、こちらも対策を講じねばならん」
「……そうね」
「何より、無関係な者を殺すことを当然とするような戦争ならば、尚更その仕組みを調べる必要がある」
凛は小さく微笑んだ。
口は悪いし、態度も尊大。
おまけに、何を考えているのか分からないことも多い。
だが、この男には確かな信念がある。
戦争を知り尽くしているからこそ、無意味な犠牲を嫌う。
その点においては、自分と大きく変わらないのかもしれない。
「……じゃあ、お願いするわ」
「うむ」
扉間は印を結んだ。
「影分身の術」
白い煙と共に、もう一人の扉間が現れた。
影分身は本体から簡単な指示を受けると、すぐさま霊体化して姿を消した。
「……便利すぎるわよ、その術」
「何度も言わせるな。万能ではない」
「十分万能に見えるんだけど……」
凛は苦笑しながら歩き始めた。
廊下を進み、階段へ向かう。
その途中で、ふと足を止めた。
「……ねえ、アーチャー」
「なんだ」
「本当に聖杯戦争を解体するつもりなの?」
唐突な質問だった。
扉間は少しだけ眉を動かした。
「……何故そう思う?」
「だって、貴方の話を聞いてると、聖杯を手に入れることよりも、聖杯戦争の仕組みを調べることに興味があるみたいなんだもの」
「ふむ」
「普通のサーヴァントなら、聖杯を手に入れるために戦うものでしょ?」
「……そうだな」
扉間はしばらく考え込んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「凛。ワシは生前、多くの術を開発した」
「……ええ、聞いたわ」
「その中には、後世へ残すべきではなかった術もある」
凛は黙って耳を傾けた。
「術そのものに善悪があるとは思わん。問題は、それを誰が、何のために使うかだ」
扉間は静かに続ける。
「だが、世には存在するだけで争いを招く術もある。強大な力を持つが故に、多くの者がそれを求め、奪い合う」
「…………」
「聖杯とやらが本当に万能の願望機であるならば、その力を求める者は後を絶たんだろう」
凛はその言葉の意味を考えた。
確かに、聖杯戦争は今回で五度目となる。
これまで何度も争いが繰り返され、その度に多くの犠牲が出てきた。
仮に今回の戦争が終わったとしても、聖杯が存在する限り、再び戦いが起こる可能性はある。
「……だから、解体するってこと?」
「まだ決めたわけではない」
扉間は首を振った。
「まずは調査だ。儀式の全容を把握し、何が問題なのかを見極める」
「……なるほど」
「その結果、聖杯戦争そのものが危険な術だと判断したならば……」
扉間はそこで一度言葉を切った。
そして、何でもないことのように告げた。
「解体すればよかろう」
「…………」
凛は思わず立ち止まった。
あまりにも簡単に言ってのける。
まるで、故障した機械を分解するかのような口ぶりだった。
「……あんたねえ」
「なんだ」
「聖杯戦争って、そんな簡単に解体できるようなものじゃないのよ?」
「だから調べると言っておろう」
「……はあ」
凛は深々とため息をついた。
どうやら、この男は本気らしい。
聖杯戦争を勝ち抜くために召喚したはずのサーヴァントが、聖杯戦争そのものを解体しようとしている。
「……ま、いいわ」
凛は肩をすくめた。
「とりあえず、今はランサーへの対策が先ね」
「うむ。それについては既に考えておる」
「……でしょうね」
凛はもはや驚かなかった。
恐らく、この男の頭の中では既に複数の作戦が組み立てられているのだろう。
何しろ、ランサーの背中には飛雷神のマーキングまで施してあるのだから。
(……本当に、とんでもないサーヴァントを召喚しちゃったわね)
凛はそんなことを考えながら、夜の校舎を後にした。