雷が好きです、でも炎のほうがもっと好きです 作:時オカのリメイクに感謝
『精算の時間だ。』
そんな声が聞こえた。
それが誰の声だったのか、男だったのか女だったのか、そもそも声と呼べるものだったのかすら分からない。
ただ、その言葉を最後に僕は死んだ。
死んだ、はずだった。
そして、次に僕が初めて視認したものは『炎』だった。
赤い炎。
橙色の炎。
黄色い炎。
白い炎。
青い炎。
見渡す限り、どこまでも続く炎の世界だった。
空があるのかも分からない。地面があるのかも分からない。遠くに何かがあるようにも見えるが、それが何なのかを認識することはできなかった。
ただ、炎があった。
世界のすべてが炎でできているかのような場所だった。
その中で僕は、ただただ佇んでいた。
いや、違う。
落ちていた。
僕は落ちていたのだ。
上下左右の感覚などとうに失われていた。重力が働いているのかどうかも分からない。それでも、自分がどこかへ向かって落ち続けているという感覚だけはあった。
炎の中を、ひたすらに。
熱い。
そう表現するのが正しいのだろう。
だが、熱さという感覚はとっくに通り越していた。
皮膚が焼ける感覚も、肉が炭化する感覚も、骨が砕けるような痛みもない。
そもそも呼吸をしているのかすら分からなかった。
息苦しさというものを忘れてしまうほどに、僕は炎の中にいた。
それでも落ちる。
ただ落ちる。
どこまでも落ちていく。
やがて、周囲の炎の色が変わり始めた。
赤からオレンジへ。
オレンジから黄色へ。
黄色から白へ。
白から青へ。
色が変わるたびに、世界そのものが変化しているようだった。
炎の形も、揺らめき方も、何もかもが違う。
赤い炎の中にいたときには、確かに赤い世界だった。
それがオレンジになり、黄色になり、白になり、青になる。
まるで、何かの階層を一つずつ通過しているようだった。
そして、僕自身も変化していた。
体が焼けていく。
いや、焼けて消えていく。
手足の感覚がなくなり、胴体の感覚がなくなり、頭の感覚すら失われていく。
自分という存在が、少しずつ炎に溶けていくようだった。
それでも意識だけは残っていた。
魂、とでも呼べばいいのだろうか。
そんな曖昧なものだけが、炎の中を落ち続けていた。
不思議なことに、僕はそれを恐ろしいとは思わなかった。
最初こそ何が起きているのか分からず戸惑っていたが、次第にその感覚にも慣れてきた。
熱さにも馴染んできた。
まるで、熱めの風呂に長時間浸かっているような、そんな妙な感覚すら芽生えていた。
もちろん、普通の風呂とは比べものにならない。
そもそも僕にはもう体がないのだから。
それでも、なんとなくそんな感覚だった。
そして、次の層が見えてきた。
今度の炎は、これまでとは明らかに違っていた。
赤がある。
緑がある。
オレンジがある。
白がある。
黄色も、紫も、青もある。
それらが何の規則性もなく混ざり合い、互いを侵食し、まるで色彩という概念そのものを無理やり押し込んだような炎だった。
綺麗とは思わなかった。
むしろ、汚い。
きったねー。
率直にそう思った。
何というか、色の組み合わせが悪い。
どこかの子供が絵の具を全部混ぜてしまったような、そんな色だった。
いや、子供に失礼か。
そんなことを考えながら、僕はその層へと落ちていく。
そして、気付いた。
熱を感じている。
先ほどまで、あれほど炎に包まれていたというのに、僕はもう熱さを感じていなかったはずだ。
慣れたのか、感覚がなくなったのか、それともそういうものなのか。
理由は分からないが、とにかく熱さは消えていた。
それなのに。
また、熱を感じる。
なぜだ?
そう疑問に思った次の瞬間には、僕はその層へと入っていた。
そして。
魂が悲鳴を上げた。
熱い。
熱い熱い熱い熱い熱い。
何だこれは。
先ほどまでの炎とはまるで違う。
皮膚が焼けるとか、肉が焦げるとか、そんな生易しいものではない。
痛みとも違う。
苦しみとも違う。
ただ、熱い。
熱いという感情だけが、僕という存在のすべてを塗り潰していく。
逃げたい。
逃げられない。
終わりたい。
終わらない。
何かを考えようとしても、その思考すら熱に焼かれて消えていく。
僕はただ、熱いという感覚の中にいた。
永遠とも思える時間を、ただ燃やされ続けた。
それでも、意識は消えなかった。
いや、消えることができなかった。
いつまで続くのだろう。
どれだけ続くのだろう。
そんなことすら考えられなくなった頃、ようやく僕はその熱さに順応し始めた。
もちろん、熱くなくなったわけではない。
相変わらず熱い。
ただ、熱いという感覚の中でも、少しずつ思考を組み立てられるようになったのだ。
そして、考えた。
ここは何なのだろう。
もしかして、地獄というやつなのだろうか。
死後の世界。
罪を犯した者が、その罪に応じた罰を受ける場所。
そういう話なら、聞いたことがある。
しかし、だとしたら。
僕は一体、何の罪を犯したというのだろう。
これほどの苦しみを受けるほどの罪が、僕にあったのだろうか。
自分の人生を振り返ってみる。
大した人生ではなかった。
本当に、どこにでもあるような人生だったと思う。
他人から傷つけられたことはある。
そのことで被害者意識を持ち、調子に乗って他人を傷つけたこともある。
自分がされたことを棚に上げて、自分も同じようなことをしてしまったことだってある。
そして、後悔した。
反省した。
もう同じことはするまいと心に誓った。
これ以上、誰かに迷惑をかけるのはやめよう。
人を傷つけるのはやめよう。
そう思って生きてきた。
けれど、人間というのはどうにも不器用なもので、同じ失敗をしないように気を付けていても、今度は別の失敗をする。
気を付けていたつもりでも、誰かを傷つける。
誰かに傷つけられる。
そうして、また反省する。
その繰り返しだった。
完璧な人間だったとは思わない。
むしろ、欠点だらけだったと思う。
ただ、それなりに考えて生きてきたつもりだった。
食事だってそうだ。
動物も、植物も、魚介類も、等しく命だと思っていた。
もちろん、食べなければ生きていけない。
だから食べる。
けれど、そこに感謝と罪悪感くらいは持っていたかった。
いただきます。
ごちそうさま。
ただの習慣としてではなく、命をいただいているということを忘れないために。
そんなことを考えていた。
別に、菜食主義者だったわけでもない。
動物を食べることを否定していたわけでもない。
ただ、命を消費して生きているという事実を、できる限り軽く扱いたくなかっただけだ。
仕事もしていた。
親や兄弟に寄生することなく、自分の生活は自分で成り立たせていたはずだ。
誰かを殺したわけでもない。
誰かの身体を意図的に傷つけたわけでもない。
犯罪に手を染めたわけでもない。
女性関係に至っては、そもそも経験すらない。
……いや、そこは別に罪ではないだろう。
自分で考えていて少し悲しくなった。
とにかく、特別立派な人間ではなかった。
しかし、特別な悪人でもなかったはずだ。
普通に生きていた。
本当に、それだけだった。
それなのに。
これほどの罰を受けるほどの罪があったというのだろうか。
熱さの中で、僕は考え続けた。
考えて、考えて、考えて。
そして、ふと思った。
しいていうのなら。
『つまらなかった』
のだろうか。
自分の人生が、あまりにもつまらなかった。
大きな夢を持つわけでもなく、何かを成し遂げるわけでもなく、誰かの記憶に残るようなことをするわけでもなく。
ただ働き、食べ、眠り、時々楽しみ、時々苦しみ、誰かに迷惑をかけたり、かけられたりしながら生きていた。
そんな人生。
もしかすると、それが罪だったのかもしれない。
上位存在にとって、僕のような人間は価値のない存在だったのだろうか。
もっと派手に生きろ。
もっと欲望に忠実になれ。
もっと自分勝手に、もっと大胆に、もっと他人を踏みつけてでも何かを成し遂げろ。
そういうことだったのだろうか。
そう考えると、妙に納得がいってしまった。
そして、笑えてきた。
はは。
何だそれ。
そんな理由で、こんな目に遭わされているというのか。
いや、もしかすると本当にそうなのかもしれない。
ならば、ここから抜け出す方法は一つなのだろうか。
次こそは、ド派手に生きてやる。
自由気ままに、自分の好き勝手に。
他人のことなど知ったことか。
自分の欲望を最優先にして、誰に何を言われようと気にせず、好きなことだけをして生きてやる。
そう誓えば、ここから出してもらえるのだろうか。
……。
バカバカしい。
何もかもが、バカバカしい。
そんな人生はお断りだ。
僕はとっくに自分勝手に生きている。
少なくとも、自分ではそう思っている。
僕は自分が感謝したいと思ったものに、感謝したいタイミングで感謝したい。
それだけだ。
食べ物に。
着るものに。
住む場所に。
娯楽に。
便利な道具に。
仕事に。
自分が生きるために利用しているもの。
そして、それらを作り出してくれた誰か。
直接顔を合わせることのない人間であっても、その人が何かを作り、誰かがそれを使い、巡り巡って僕の生活を支えてくれている。
そういうものすべてに、感謝を抱いていたい。
自分が消費するものだけではない。
他人が消費するものだってそうだ。
誰かが誰かのために作り出したもの。
その積み重ねが、今の世界を形作っている。
別に、すべての人間に感謝しろと言われたからではない。
誰かに褒められたいからでもない。
僕自身が、そうしたいのだ。
それをやめるつもりはない。
では、今はどうなのだろう。
僕は、この状況に感謝できるのだろうか。
僕をこんな目に遭わせている上位存在に。
僕を焼き続けている、この炎に。
自分を振り返る機会を与えてくれたことに。
そのために、これほど徹底して僕を追い込んでくれていることに。
……ああ。
できるとも。
不思議なものだ。
こんな目に遭わされているというのに、感謝すること自体はできる。
感謝したいと思う。
そこに嘘はない。
ただ、一つだけ。
一つだけ、生前から変わらず、どうしても嫌いなものがあった。
自己嫌悪。
それだけは、今も捨てられずにいた。
僕は周囲に、自分が一番好きだと豪語して生きてきた。
自分を愛している。
自分が大好きだ。
そう公言していた。
けれど、本当は違った。
世界で一番嫌いな人間は、自分だった。
自分の言動が嫌いだった。
自分の考え方が嫌いだった。
自分の弱さが嫌いだった。
誰かを傷つけた自分が嫌いだった。
誰かに傷つけられて、それをいつまでも引きずっている自分も嫌いだった。
反省しているつもりで、結局また同じようなことを繰り返す自分が嫌いだった。
何かを頑張ろうとしても、思うようにできない自分が嫌いだった。
何より、そんな自分を嫌いになっている自分が嫌いだった。
だからこそ、僕は自分が好きだと言い続けた。
そうでもしなければ、おかしくなりそうだったから。
自分を好きだと言い聞かせなければ、きっと自分という存在を保てなかった。
周囲に言っていた言葉は、他人に向けたものではなかったのだ。
自分自身に向けた、必死の言い聞かせだった。
……ああ。
きっと、これなのだろう。
これが僕の本質で、僕の最大の罪なのかもしれない。
自分を嫌い続けていたこと。
自分を認められなかったこと。
自分のすべてを否定しながら、それでも自分を好きだと言い張っていたこと。
もし、これが罪なのだというのなら。
もし、それが僕に与えられた罰なのだというのなら。
それならば。
それならば、仕方がないのかもしれない。
いや、違う。
仕方がないと諦めるのではない。
僕は自分を好きになれない。
今すぐ好きになれと言われても無理だ。
嫌いなものは嫌いだ。
それを無理やり好きだと思い込むことは、もうやめよう。
自分の嫌いなところを、無理に肯定する必要もない。
嫌いな部分があることを、嫌いな自分がいることを。
それも含めて、自分なのだと。
認めてみよう。
好きになれなくてもいい。
嫌いなままでもいい。
それでも、僕は僕なのだ。
自分を嫌いな自分も。
自分を好きだと言い続けてきた自分も。
他人を傷つけて後悔した自分も。
感謝を忘れたくないと思う自分も。
全部、僕だ。
どれか一つを切り離して、なかったことにする必要はない。
そう思った瞬間だった。
周囲の炎が、動いた。
いや、違う。
炎が僕へと向かってきた。
赤が。
青が。
緑が。
白が。
オレンジが。
黄色が。
紫が。
あらゆる色の炎が、まるで意思を持っているかのように僕の周囲を漂い始める。
そして、ゆっくりと僕の中へ入り込んでくる。
熱い。
当然、熱い。
けれど、先ほどまでの熱さとは違った。
魂を焼き尽くすような、ただ苦痛だけを与える熱ではない。
何かが満たされていくような感覚。
何かが形作られていくような感覚。
消えたはずの手足が戻ってくる。
胴体が生まれる。
指先の感覚が蘇る。
頭が、顔が、目が。
僕という存在が、少しずつ形を取り戻していく。
炎が体になる。
色が肉体になる。
赤も、青も、緑も、白も、すべてが混ざり合い、僕という一人の人間を形作っていく。
やがて、炎のすべてが僕の中に収まった。
そして、僕は目を開けた。
……目を開けた、という表現が正しいのかは分からない。
そもそも、今まで目があったのかすら怪しいのだから。
それでも、僕は確かに周囲を認識していた。
そこには、街があった。
石造りの建物が並び、道には見たこともない装飾が施されている。
人々が行き交い、どこかから話し声が聞こえてくる。
空気の匂いがある。
風が吹いている。
足の裏に地面の感触がある。
僕は、自分の手を見た。
指がある。
腕がある。
体がある。
服も着ている。
どうやら、元の体を取り戻したらしい。
……いや、元の体なのだろうか。
何となく違和感がある。
しかし、それを確かめる方法もない。
それよりも気になることがあった。
街にあふれている文字。
看板に書かれた文字。
建物に掲げられた文字。
人々が手にしている紙に書かれた文字。
そのどれもが、見覚えのある文字だった。
読める。
なぜか読めてしまう。
通称ハンター文字。
HUNTER×HUNTER
そんな言葉が頭に浮かぶ。
いやいや。
まさか。
死んで、炎の中に落ちて、魂を焼かれて、自己嫌悪と向き合って。
その結果が、漫画の世界に転生だとでもいうのだろうか。
あまりにも、よくある二次小説の展開ではないか。
いや、別に二次小説を馬鹿にするつもりはない。
好きで読んでいた時期もある。
ただ、自分がその立場になるとは思っていなかっただけだ。
僕はもう一度、周囲を見渡した。
知らない街。
知らない人々。
見覚えのある文字。
そして、確かに存在している自分の体。
何が起きたのかは分からない。
なぜここにいるのかも分からない。
これが罰の続きなのか、それとも何かの褒美なのか。
そもそも、あの炎の世界は何だったのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも出てくる。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
僕は、まだ生きている。
いや。
一度死んだのだから、生き返ったというべきなのだろうか。
まあ、どちらでもいい。
とりあえず、だ。
僕は自分の手を握り、開いた。
動く。
感覚がある。
痛みもある。
体温もある。
……腹は減っているのだろうか。
そんなことを考えて、思わず苦笑した。
ついさっきまで、永遠とも思える炎の中で自分の罪について考えていた人間の第一声が、腹が減ったかどうかとは。
我ながら、どうしようもない。
けれど、これも僕なのだろう。
自分を嫌いな自分も。
自分を好きでいたい自分も。
何かに感謝したい自分も。
くだらないことを考えてしまう自分も。
全部、僕だ。
ならば、まあ。
今度はこの世界で、自分がどう生きるのかを考えていけばいい。
好き勝手に生きるつもりはない。
誰かのためだけに生きるつもりもない。
ただ、自分が大切だと思うものを大切にして、自分が感謝したいと思うものに感謝して。
失敗したら反省して、また失敗するかもしれないけれど、それでも何とかやっていく。
そんな生き方でいい。
……もっとも。
ここが本当に異世界なら、そう簡単にはいかないのだろうけれど。
僕は、見知らぬ街の中で一人、立ち尽くしていた。
そして、もう一度だけ空を見上げた。
炎はない。
ただ、見慣れた空が広がっていた。