雷が好きです、でも炎のほうがもっと好きです 作:時オカのリメイクに感謝
なるようになれ。
そんな投げやりな覚悟を決めた結果、僕はサトツさんによる一次試験に参加することになった。
『行先の分からないマラソン』。
原作でも印象的だった、あの試験である。
そして。
僕は、それを非常に後悔していた。
いや、もう本当に。
心の底から後悔している。
転生だか転移だか知らないが、せっかく別の世界にやってきたのだ。
何かしら特別な恩恵があってもいいのではないか。
例えば、この世界に準拠した肉体になっているとか。
あるいは、前世の記憶を持ったまま、何らかの身体能力補正が入っているとか。
そういうものを、少しくらい期待しても罰は当たらないと思う。
何しろ、一度死んでいるのだ。
死後の世界では、訳の分からない炎に焼かれ続けた。
自分の人生を振り返り、自己嫌悪と向き合い、ようやく何とか気持ちの整理をつけたと思ったら、今度は漫画の世界に放り込まれていた。
それくらいのご褒美があってもいいじゃないか。
そう思っていた。
思っていたのだが。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……」
現在、僕は走っている。
走っているというか、走らされている。
おそらく、開始から十キロほど。
正確な距離は分からない。
そもそも、この地下道には距離を確認できるようなものが見当たらない。
ただ、体感ではそれくらいだと思う。
そして、すでに息が切れていた。
いや、切れているどころではない。
呼吸が苦しい。
足が重い。
心臓がうるさい。
肺が痛い。
全身が、もう走るのをやめろと訴えている。
……おかしい。
これは何かがおかしい。
僕は異世界転生したはずではなかったのか。
この世界に適応した、何かしらの特別な身体になっているのではなかったのか。
そう期待していたのだが。
どうやら、今生の肉体は前世の体力に準拠しているらしい。
いや、準拠というより、そのままなのかもしれない。
考えてみれば、前世の僕は会社まで徒歩五分の場所に住んでいた。
しかも仕事はオフィスワーク。
通勤でまともに体力を使うこともなく、休日の趣味はパソコンを使ったインドアなものばかり。
運動らしい運動など、ほとんどしていなかった。
そんな人間が、いきなり何十キロも走ることになったのだ。
そりゃあ、こうなる。
なるに決まっている。
……いや、分かっていたはずだろう。
分かっていたはずなのに、どうして僕は参加してしまったのか。
原作での一次試験は、かなりの距離を走ることになる。
それくらい知っていた。
知っていたのに。
まさか開始十キロ程度で、ここまで限界が来るとは思わなかった。
原作では、確か八十キロ地点あたりで脱落した受験者がいたはずだ。
パソコン小僧のニコル。
彼はそのあたりで限界を迎えていた。
……今なら分かる。
あの人は、相当頑張っていたのだ。
いや、頑張っていたどころではない。
僕からすれば、八十キロも走れる時点で十分に化け物である。
そんなニコルですら、先ほど僕を見て失笑しながら通過していった。
……。
ああ。
そうか。
そういうことか。
僕はようやく理解した。
ヒソカやイルミに狙われたらどうしよう。
そんなことを考えていた自分が、今になってひどく恥ずかしい。
あの二人どころか、新人つぶしで有名なトンパや、アモリ三兄弟にすらターゲッティングされないだろう。
そもそも、相手にされない。
わざわざ潰す価値もない。
そんな評価すらされない程度の存在なのだ。
いや、もしかするとトンパあたりなら、僕の姿を見て何かしら思うところがあるかもしれない。
新人つぶしの対象にすらならない新人。
それはそれで、何とも言えない気持ちになる。
……。
グッバイ、輝かしき二次元転生。
ハロー、ハロー。
泥臭き現実よ。
どうやら僕は、二次小説の主人公にはなれなかったらしい。
転生したら何かすごい能力を持っていた。
前世の知識を活用して、周囲を驚かせる。
原作キャラクターたちと出会い、仲良くなり、時には原作知識を使って人を救う。
そういう展開を、少しくらい夢見てもよかったではないか。
……いや。
やっぱり、偶然だったことを素直に自白して、プレートを渡してくれたビーンズさんに助けてもらうべきだった。
あの時点で帰っておけばよかったのだ。
原作の世界に来た。
めしどころ『ごはん』に行けた。
ステーキ定食も食べた。
それで満足しておけばよかった。
何を調子に乗っているのだろう。
ハンター試験に参加する?
ハンターになる?
原作に介入する?
……。
もう無理。
僕は、とうとう足を止めた。
というより、止まってしまった。
そのまま前のめりに倒れ込む。
硬い地下道の床が、容赦なく身体を受け止めた。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……」
荒い息を整える。
それだけで精いっぱいだった。
もう一度走ろう。
そんな気力は、どこにも残っていない。
水が欲しい。
喉が渇いた。
口の中が乾いて、舌が張り付くような感覚がある。
けれど、手元に水はない。
食べ物があったとしても、今の状態では喉を通せる気がしない。
ただ横になっていたい。
できれば、このまま眠ってしまいたい。
……いや。
眠ったら、そのまま置いていかれるのではないか。
そもそも、ここで倒れた場合はどうなるのだろう。
原作では、一次試験はひたすら走り続ける試験だった。
途中で脱落した人間がどう扱われるかなんて、細かいところまでは覚えていない。
……。
これ、マジで生きて出られないのでは?
そんな考えが頭をよぎった。
原作主人公と仲良くなって原作ブレイク?
原作に介入して、誰かを救う?
出来る気がしねー。
このまま死ねってか。
いや、死ぬのはもう勘弁してほしい。
一度死んだだけでも十分だ。
あの炎の中に戻るくらいなら、多少恥をかいてでも生き延びたい。
そもそも、転生や転移をした直後から活躍する二次小説の主人公たちは何なのだろう。
悪人を倒したり、原作キャラクターを助けたり、最初から身体能力が高かったり。
そんな主人公たちが、今はうらやましいを通り越して妬ましい。
せめて僕も、原作主人公たちと一緒に試験に臨んでみたかった。
「僕はリン。よろしく!」
「俺はゴン!よろしくね、リン!」
「私はクラピカという」
「俺はレオリオだ。よろしくな!」
「ふーん、なかなかやるじゃん。俺はキルア」
……みたいな。
そんな、よくある展開を実現したかった。
主人公たちと一緒に試験を受けて、時には意味深な助言をしてみたり。
原作知識を活用して、ちょっとした場面で活躍してみたり。
あるいは、何かの拍子に才能を発揮して、周囲を驚かせたり。
そんな妄想をしていた。
していたのに。
現実はどうだ。
開始十キロ程度で倒れ込んでいる。
主人公たちと交流するどころではない。
これでは、HUNTER×HUNTERの醍醐味ともいえる念能力以前の問題だ。
念能力どころか、一般人の中でも下の上があればいいね、という程度なのではないだろうか。
……。
ああ。
見上げれば、地下道の天井。
幾本ものパイプが、無機質に伸びている。
少し前までは、僕の周囲にも人がいた。
走る者。
歩く者。
余裕そうに会話する者。
それぞれが、自分のペースで先へ進んでいた。
けれど、今はもう、見渡せる範囲に人影はない。
みんな先に行ってしまったのだろう。
僕だけが、ここに取り残された。
……。
本当に、どうしよう。
そんなことを考えていた、その時だった。
「おや。プレートを落とした受験生の方でもいるのかと思って、近場なので回収に来たのですが……」
走ってきた方角から、声が響いた。
「既に脱落を検討されている方がいたのですね」
ホッホッ、という軽い掛け声。
それに合わせて、足音が近づいてくる。
この声は。
僕は、荒い呼吸の合間に顔を上げた。
暗闇の向こうから、一人の人物が姿を現す。
「……ビーンズ、さん?」
「おや。私のことをご存じでしたか」
そこにいたのは、ビーンズさんだった。
ハンター協会の会長秘書。
原作でも何度か登場した、あの人である。
ビーンズさんは僕の姿を確認すると、少しだけ眉を下げた。
「それにしても、406番ですか……」
そう言いながら、僕の胸元にあるプレートへ視線を向ける。
「めしどころ『ごはん』での照会作業では、事前申請もなく、戸籍との照合も通らなかったイレギュラーの方ですね」
……。
え?
今、何と言った?
「会長が面白半分でお通しになられたのですが……」
会長。
面白半分。
お通しになられた。
……。
なるほど。
そういうことだったのか。
いや、何がどういうことなのか、まだ分からないことだらけではあるのだが。
少なくとも、僕が正式な手続きを踏んで受験者になったわけではないらしい。
そりゃそうだ。
そもそも僕は、試験に申し込んだ覚えがない。
本人確認も何もしていない。
店でステーキ定食を注文したら、いつの間にか地下に通されて、プレートを渡されていたのだ。
冷静に考えれば、どう考えてもおかしい。
「大丈夫ですか? やはり、お止めするべきでしたね」
ビーンズさんはそう言うと、僕の隣までやってきた。
そして、手に持っていた水筒を差し出してくれる。
「よろしければ、どうぞ」
「……!」
水。
水だ。
僕はほとんど飛びつくようにして、それを受け取った。
蓋を開け、口をつける。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干す。
冷たい水が喉を通っていく。
ああ。
生き返る。
本当に生き返る。
いや、もう一度生き返っているのだから、二度目の生き返りということになるのだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、僕はようやく息をついた。
「ありがとう……ございます」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
「いえいえ。こちらこそ申し訳ありません」
ビーンズさんは、僕の隣で丁寧に頭を下げた。
「受験者ではないと分かっていたのに、お通ししてしまいました。大変な目に遭わせてしまいましたね」
本当に申し訳なさそうな表情だった。
その様子を見て、僕は何とも言えない気持ちになった。
自分の置かれた状況が、急に恥ずかしくなってきたのだ。
そもそも、悪いのは僕である。
受付をしていないことも、正式な受験者ではないことも、僕自身が一番よく分かっていた。
それなのに。
もしかしたら、うまくいけばハンターになれるのではないか。
そんな都合のいいことを考えて、参加してしまった。
「……こちらこそ、すみません」
僕は息を整えながら、うつむくように頭を下げた。
「降りてきた時点で、何かおかしいとは思っていました。そもそも、試験に申し込んだ覚えもありませんし……。それなのに、もしうまくいけばハンターになれるんじゃないかって、勝手に期待して参加してしまいました」
情けない。
本当に情けない。
「すみません」
もう一度、そう言った。
「いえ。そのお気持ちは分かります」
ビーンズさんは、穏やかな声で答えた。
「ハンターのライセンスがあれば、人生を何度か遊んで暮らせるほどの恩恵がありますからね」
……人生を何度か遊んで暮らせる。
改めて聞くと、とんでもない話である。
そんなものを手に入れられる可能性があるなら、誰だって欲しくなるだろう。
僕だって欲しい。
欲しいけれど。
「ですが」
ビーンズさんの声が、少しだけ真剣なものに変わった。
「ハンター試験では、死ぬこともあります」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「幸い、今回の一次試験の担当者であるサトツさんのご意向で、この通路で脱落した方は救助の対象とすることが決まっておりました。おかげで、今回はお助けできましたが」
そうだったのか。
確かに、原作でも一次試験は過酷なものだった。
ただ、脱落者を救助する仕組みがあるとは知らなかった。
「しかし、中には違う考えを持つ試験官もいらっしゃいます。弱者では務まらないと考え、参加者が死ぬことや、受験者同士が殺し合うことすら含めた試験を行う方もいるのです」
……。
それは、知っている。
知っているつもりだった。
ハンター試験が危険な試験であることくらい、原作を読んでいれば分かる。
それでも、どこか他人事だったのだと思う。
漫画の中の出来事。
登場人物たちが乗り越えていく試練。
そういう認識だった。
けれど、今は違う。
ここにいるのは、僕だ。
この世界で生きている人間として、僕自身が試験を受けている。
そして、僕にはそれを乗り越えられるだけの力がない。
その事実を、たった十キロほど走っただけで思い知らされた。
「……はい。気を付けます」
そう答えるしかなかった。
「ええ。どうか今後はお気を付けください」
ビーンズさんは、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「それでは、あと数分もすれば回収用の車両が通ります。それに乗って、一度、前半終了地点となる地下道の出口まで進んでください」
回収用の車両。
そんなものがあるのか。
「その後は入口のエレベーターまで戻りますので、そのままお帰りください。私は先に戻って会長に報告する必要がありますので、これで失礼します」
そう言って、ビーンズさんは軽く頭を下げた。
そして、来た道を戻っていく。
ホッホッ。
軽い掛け声。
軽い足取り。
その姿は、僕がここまで走ってきた十キロほどなど、近所のコンビニにでも行く程度の距離だと言わんばかりだった。
……。
いや、実際そうなのだろう。
ビーンズさんは、少なくとも僕よりずっと体力がある。
そもそも、ハンター協会の会長秘書を務めるような人物なのだ。
僕のような一般人とは、身体能力の基準が違うのかもしれない。
それにしても。
この世界は、恐ろしい。
ハンターや念能力者が化け物なのは、まあ分かる。
原作を読んでいたのだから、それくらいは理解していた。
けれど、今になって気づいた。
この世界では、非戦闘員でさえ十キロ程度を軽く走破できる体力の持ち主が、そこら中にいるのではないか。
もちろん、全員がそうというわけではないだろう。
けれど、少なくとも今回の受験者たちは、僕よりずっと体力がある。
ニコルですら、僕を笑いながら追い抜いていった。
そのニコルが、原作では途中で脱落する側なのだ。
……。
これは、まずい。
非常にまずい。
僕はこの世界で生き残れるのだろうか。
念能力を覚える以前に、体力をつけるところから始めなければならないのではないか。
いや、体力だけでどうにかなる世界でもない。
ヒソカがいる。
イルミがいる。
ゴンやキルアたちだって、今の僕からすれば十分に化け物だ。
そもそも、僕はまだ自分の身体がどうなっているのかすら分かっていない。
転生したのか。
転移したのか。
蘇生したのか。
何か特別な力があるのか。
何も分からない。
分からないまま、ここまで来てしまった。
……。
せめて、今は生きて帰ろう。
ハンター試験に参加するどころか、まともに走ることもできなかった。
それはもう仕方がない。
恥ずかしいけれど、仕方がない。
まずは体力をつける。
生活基盤を整える。
自分の身体について調べる。
念能力についても、いずれ学ぶ必要があるだろう。
やることは山ほどある。
原作介入だとか、主人公たちとの交流だとか。
そういうことを考えるのは、その後でいい。
……いや。
そもそも、原作介入なんて本当に必要なのだろうか。
僕は一度、死んでいる。
そして、もう一度生きる機会を得た。
一話目で考えたことを、もう忘れてしまったのか。
自分が大切だと思うものを大切にして、自分が感謝したいと思うものに感謝する。
失敗したら反省して、また何とかやっていく。
それでいいのではなかったか。
原作の登場人物たちと仲良くなれたら、それは嬉しい。
誰かを助けられるなら、それも嬉しい。
でも、それができなければ意味がないというわけでもない。
……。
まあ、今はそんな立派なことを考えている余裕もないのだけれど。
僕は水筒を握りしめたまま、再び地下道の天井を見上げた。
遠くから、何かが走ってくるような音が聞こえる。
回収用の車両だろうか。
どうやら、本当に助けてもらえるらしい。
ありがたい。
本当にありがたい。
死後の世界で焼かれたときもそうだったが、こうして誰かに助けてもらえるというのは、やはりありがたいものだ。
ビーンズさんには、後で改めてお礼を言おう。
そして、会長にも。
……会長か。
面白半分で通した、という話だった。
いったい何を考えているのだろう。
僕のことを面白いと思ったのか。
それとも、何か別の理由があるのか。
考えても分からない。
今は考えないことにしよう。
まずは、この地下道から出る。
それからだ。
僕はゆっくりと上半身を起こした。
足はまだ痛い。
呼吸も完全には整っていない。
それでも、さっきよりは少しだけましになった。
……。
ハンター世界に、ハッピーバースデー・トゥ・ミー。
誕生日プレゼントがこれだというのなら、なかなか厳しいものがある。
せめて、明日は筋肉痛で動けなくなる程度で済んでほしい。
そんなことを考えながら、僕は回収用の車両がやってくるのを待つことにした。
この世界で生きていくためには、どうやら思っていた以上に泥臭い努力が必要らしい。