TS転生ちびっこ和種ウマ娘は、トレセン学園で平凡に暮らしたかった 作:みやび(雅媛)
ボクの名前はクロクモ。東京の山奥の農家で暮らす、身長百三十センチの和種ウマ娘だ。
うちの台所には、母さん専用の踏み台がある。父さんが上の棚にしまった大鍋を取るには、母さんもボクも、あれに乗らないと手が届かない。ちなみに、その鍋いっぱいに煮物を作ったとき、かまどから下ろすのは母さんの役目である。父さんは腰に来るそうだ。
父さんはヒトで、母さんはウマ娘。うちの近所には母方の親戚がたくさんいて、畑の向こうに伯母さんの家が、坂を上がった先におばあちゃんの家がある。みんな母さんとよく似ていて、小柄で肉付きがよく、腰も脚もしっかりしている。日本に古くから続く、和種ウマ娘の家系だそうだ。
母さんの背丈は百四十センチに少し届かない。ボクがまだ小さかった頃は、畑の帰りに眠くなると、片腕でひょいと抱いてくれた。もう片方の腕には採れたての野菜が籠いっぱい。うとうとしながらも、歩くたびに大根の葉っぱが鼻をくすぐってきたのを覚えている。
そんな母さんの子だから、ボクも小学校に上がる頃には野菜の籠を運べるようになった。畑の手伝いが済めば、あとは好きに走っていい。初めは家の周りをぐるぐる回っていたのが、そのうち伯母さんの家まで、おばあちゃんの家までと遠くなった。おばあちゃんちの最後の坂をひと息で上がれるようになった日は、うれしくて、わざわざ下まで戻ってもう一度走った。
よく運動して、よく食べて、牛乳だって毎日飲んだ。ところが十二歳になった今、柱に背中をつけて測ってみても、頭のてっぺんは去年の鉛筆の線とほとんど同じところにある。
母さんより低い。
これはちょっと泣いた。
背丈のほうはさっぱりなのに、肉付きだけは順調によくなった。背丈に合わせた服は胸やお尻がきつく、身体に合わせれば袖も裾も余る。とりわけ困るのがズボンだ。丈はぴったり、お値段も手頃、これはいいぞと思った一本が、試着室で太腿を通らなかったときの悲しさといったらない。
母さんは「いい身体に育ったねえ」と喜んでくれる。もうひと声、娘が入るズボンを売ってるお店も教えてほしい。
ゆったりしたスカートなら楽だと言われるけれど、山道を走るたび、脚の周りで布がひらひらするのはどうも落ち着かない。そんなわけで、ボクはもっぱらスポーツ用のレギンスを愛用している。よく伸びるし、藪をくぐっても裾が引っかからない。山で何かを追いかけるときなど、たいへん具合がいい。
もっとも姉さんに言わせると、ボクの場合、着るものより追いかける相手を選んだほうがいいらしい。
あれは十歳の秋だった。
姉さんと二人で山道を歩いていたら、少し先で黒いものが動いた。熊だった。道を横切りかけたところで、向こうもこちらに気づいて足を止めた。丸い耳が二つ、こっちを向いている。
姉さんがボクの肩に手を置いた。ほとんど同時に、熊がくるりと背を向けた。
逃げる。
そう分かった途端、背筋がぞくりとした。あの藪に入られる前なら、追いつける。
気がつくと、姉さんの手をすり抜けて地面を蹴っていた。枝を払い、斜面を駆け上がる。木々の間に黒い背中が見え隠れして、木を一本まわり込むたびに、それが少しずつ大きくなった。
あと少し。次にあの前脚が地面をついたら、横から飛びつける。
そんなことまで、ありありと頭に浮かんでいた。
「クロ! 帰ってきなさい!」
鋭い声にはっとして、足を止めた。伸ばしかけていた手の先で、枝が大きくひと揺れした。黒い背中はもう見えなかった。
姉さんのところへ戻ると、道の真ん中に腕を組んで立っていた。
「クロ。捕まえてどうするつもりだったの」
「……分かんない」
本当に、そこから先は何も考えていなかった。ただ追いついて、飛びついて、あのでかいのを自分の下に押さえ込んでみたかった。逃げてくれてよかった、と思えるようになったのは、ずっとあとのことだ。そのときはまだ、手が届きそうだったのに、と惜しくて仕方がなかった。
帰り道でも、藪で枝の鳴る音がするたびに、つい両耳がそっちを向いた。隣からそのたびに「クロ」と呼ばれた。はい。もう行きませんって。
あのとき初めて、ひょっとして、これが黒雲のほうのボクなのかな、と思った。
少しややこしい話になる。ボクが名前を継いだ黒雲というのは、武田信玄公が乗っていた馬だ。けれど、ボクに残っている前世の記憶といえば、馬上の信玄公のお顔でも、戦場を駆けた思い出でもない。日本人の男として、ごく普通に生きていた頃の記憶である。
どうしてそんな取り合わせになったのかは覚えている。死んだあと、なんだかふわふわした場所で、三女神さまに頼まれたのだ。
これから生まれる子を、助けてほしい、と。
その子になるはずだったのが黒雲だった。なにしろ五百年近くも昔の馬である。名前とわずかな記憶は残っているけれど、ひとりで新しく生まれるには、魂のあちこちが足りなくなっているらしい。そこをボクの魂で補って、一緒にひとりのウマ娘として生まれ直せないか、というお願いだった。
三女神さまは、ずいぶん申し訳なさそうだった。生まれてくる子の中心になるのは、あくまで黒雲だ。ボクの記憶や経験が残ったとしても、その子が自分をボクだと思うことは、おそらくない。そう、きちんと話してくれた。
それでも、断ろうとは思わなかった。こっちはすでに死んだ身である。惜しんだところで元の暮らしに帰れるわけでもないし、これから生きる子の役に立てるなら、それも悪くないだろう。
そんなふうに少し格好をつけて引き受けたのだが、ひとつだけ、三女神さまにも見込み違いがあった。
黒雲のほうが、ものすごく適当だったのだ。
自分はこうしたいとか、これだけは譲れないとか、そういうものがまるでなかった。ボクの記憶も考え方もすんなり受け入れて、そのまま考える役までこっちに任せてしまった。お手伝いに来たつもりが、ほとんど男だった頃の意識のまま、おぎゃあと生まれてきたのがボクである。
だからといって、黒雲がどこかへ行ってしまった感じもしない。熊が背を向けた瞬間の、あのぞくぞくするような喜び。あれがどこから来たのか、理屈は分からなくても、なんとなく心当たりはある。
まあ、馬がどうして熊を狩りたがるのかは、別の謎として残るんですけれども。
さて、そんなボクが十二歳になって興味を持ったのは、ウマ娘ばかりが通う学校だった。
前世でいう女子校みたいなものだろうか。最初はそれくらいの気持ちで聞いていたのに、学校の名前が出たところで耳がそっちを向いた。
中央トレセン学園。
前世でも、どこかで聞いた覚えがあった。何を知っていたのかまでは思い出せない。けれど妙に懐かしくて、気になって、学校案内をもらってきた。
主にレースで活躍するウマ娘を育てる学校らしい。写真には、観客でいっぱいのスタンドと、芝の上を駆ける生徒たちが写っていた。そこから何枚かめくったところで、ボクはページを折った。普通の勉強にも力を入れていて、大学への進学実績がかなりいい。
将来何をするかは、まだ決めていない。家は姉さんが継ぐつもりだし、父さんも母さんも、ボクまで農家になる必要はないと言っている。だったら、いい学校に入っておけば、その先で選べる仕事も増えるだろう。
夕飯のあとで話してみると、父さんはボクが折ったページから何枚か戻り、制服姿の生徒たちの写真をしばらく眺めていた。
「……クロ、小さすぎないか」
「入学に身長制限はないよ」
「いや、そうじゃなくて。この子たちと一緒に走るんだろう」
写真からボクへ視線が移った。父さんは食卓の向こうに座っているボクを見て、自分の胸のあたりに手をかざした。どうやら、あの子たちの隣にボクを立たせているらしい。
「ぶつかったりしたら、大丈夫なのか」
「この子が走ってきたら、お父さんのほうが避けるでしょう」
母さんに言われて、父さんが黙った。姉さんが横で吹き出した。
「クロは丈夫だよ。心配するなら、また変なもの追いかけないかのほう」
「それはもういいでしょ」
ボクが手元に学校案内を引き寄せると、父さんは少し困った顔で笑った。
「まあ、受けたいなら受けてみなさい」
入学の相談をして、真っ先に背丈の話になるのは少々不満である。ひとまず受かってしまえば、父さんも安心するだろう。
幸い、学力のほうはどうにかなりそうだった。前世で習ったことも案外覚えている。過去問を解いて、忘れているところと、こちらの世界で答えが違うところを覚え直す。何度かやれば、時間内に見直しまでできるようになった。面接だって、聞かれたことに落ち着いて答えればいい。
問題は走力テストだった。
生まれてこのかた、走らなかった日のほうが少ない。けれど、レースをしたことは一度もなかった。本を開けば、走る位置だの、ほかの子との距離だの、仕掛けるタイミングだの、気にしなくてはならないことが次から次へと出てくる。
普段のボクは、走りたくなったら走って、気持ちよければ速くして、疲れたら帰っている。どこで仕掛けるかと言われても、おばあちゃんちの坂なら郵便受けのあたりから、くらいしかお答えのしようがない。
とりあえず、係の人の指示をよく聞こう。それから、ほかの子の邪魔をしないこと。
当日まで頭に残っていたのは、その二つだった。
筆記は過去問のときと同じように解けた。面接を終えて部屋を出たときも、自分が何を答えたかちゃんと覚えていた。その調子で走るほうも済めばよかったのだが、初めて入ったゲートは、思いのほか窮屈だった。
左右には仕切り、目の前には扉。隣の子はじっと前を向いている。真似をしてみたけれど、今度は足の位置が気になった。もう少し前に出したほうが走りやすいだろうか。
爪先を動かした途端、目の前で扉が音を立てて開いた。
びくっと肩が跳ねた。両脇でいっせいに靴音がして、気がつけば、みんなの背中が日に照らされた芝の上にあった。ボクだけが、まだゲートの中にいた。
遅れた。
慌てて地面を蹴った。まずい、追いつかなければ。前では何人もの尻尾が揺れている。そのうちの一本が、陽の光をはね返して、ひょいと弾んだ。
その瞬間、出遅れたことが頭から消えた。
あれを追う。
熊が背を向けたときと同じところを、あのときよりもずっと強い熱が駆け上がった。身体が低く沈む。踏み込むと、靴底に芝が食いついた。押したぶんだけ前へ出る。もう一歩。次は、もっと強く。
前の子の背中がぐんぐん大きくなった。コースが曲がりはじめると、みんな内側へ寄っていく。その外には気持ちよく脚を伸ばせるところが、まだこんなに空いている。
「えっ」
横から声がした。顔を見る暇はなかった。もう次の背中が目に入っていた。
追いつく。並ぶ。抜ける。
髪が頬を叩く。耳の脇で風が鳴る。腕を振るたびに脚が応えて、前にいた子が横へ、後ろへ流れていく。胸の奥から笑いがこみ上げてきた。
楽しい。
山なら、とっくに藪に飛び込まれている。ここには枝も藪もない。カーブの先までずっと芝が続いていて、どんなに速く逃げられても、その背中が見えている。
最後の子は、尻尾の先が白かった。あと少しで横に並ぶところで、その子がちらりとこちらを見た。腕の振りが大きくなる。白い尻尾が、また少し遠ざかった。
それが、たまらなくうれしかった。
まだ速くなるのか。
ボクも地面を蹴った。さっきまで届きそうだった肩が、なかなか近づいてこない。息が短く漏れた。それでも、一歩ごとに少しずつ、横顔が見えてきた。
肩が並んだ。もう一歩。
ふっと視界が開けて、目の前がぜんぶ芝生になった。
気持ちいい。前に誰もいなくなったのに、脚はまだいくらでも動きそうだった。足元を白い線が過ぎたのも、そのずっと先で名前を呼ばれるまで、ほとんど気に留めていなかった。
「クロクモさん! もういいよ、速度を落として!」
終わり?
顔を上げて足を緩めると、急に周りの音が戻ってきた。後ろからいくつもの足音が近づき、荒い息と一緒にボクの横を通り過ぎていく。
振り返ると、係の人が手を振っていた。戻っていくボクの耳に、時計をのぞきこんでいる人たちの声が届いた。
「……今の子?」
「そう。ゲートで遅れてた」
「記録、もう一度見せて」
まずかっただろうか。
聞いてみたかったけれど、まだ胸が大きく上下して、うまく声が出ない。どうにか息をひとつ吸ったところで、隣の子に話しかけられた。
「ねえ、どこから来たの?」
「山のほう……」
「そうじゃなくて。どこのクラブ?」
「入ってない、けど」
その子は何か言いかけたまま、ボクを見た。返事がおかしかったのだろうか。そこへ係の人がやってきて、急に止まらず、しばらく歩いて呼吸を整えるようにと教えてくれた。
言われたとおり足を動かす。ふくらはぎにまだ走っているときの弾みが残っていて、じっと立っているより楽だった。
結局、走力テストがまともにできたのかは分からずじまいだった。出遅れたのは覚えている。途中からは本で読んだことをきれいに忘れて、ゴールにさえ気づかなかった。
帰り道、頭の中でそっと筆記の答え合わせをした。どうか、あっちで点が取れていますように。
後日、中央トレセン学園から封筒が届いた。中の紙に合格の二文字を見つけたとき、うれしいより先に、受かったんだ、と思った。
名前を確かめて、もう一度読む。間違いなく、ボクの合格通知だった。
おそらく筆記がよかったのだろう。走るほうも、少なくとも失格になるようなことはしていなかったらしい。そこまで飲み込めたら、だんだん口元が緩んできた。
「母さん、受かった」
台所へ持っていくと、母さんは濡れた手を前掛けでよく拭いてから、紙を受け取った。最初の一行を読んだだけで、ボクとおんなじ顔になった。
「よかったねえ」
頭を撫でられて、耳が勝手に横へ倒れた。
その日の夕飯には、ボクの好きなおかずが増えた。父さんは合格通知を何度も読み返して、そのたびにうんうんとうなずいた。姉さんは、制服が来たら真っ先に着て見せろと言った。
食後、母さんがさっそく制服の案内を広げた。隣からのぞきこむと、寸法表には身長ごとにずらりと数字が並んでいる。母さんの指が縦に動いて、横に動いて、ぴたりと止まった。うん。そこはお店の人に聞いておこうね、母さん。
その隣のページには、見覚えのある制服姿の生徒たちが並んでいた。今度は、自分がこれを着るのだ。
「スカートなんだよね」
「そりゃあね」
「……そっか」
受験の心配がなくなった途端に、別の心配を思い出してしまった。
それでも案内を閉じる気にはならなくて、制服のページをめくった。校舎の写真、その隣に寮の写真。もう一枚めくると、あの日走った芝のコースが、大きく見開きで載っていた。
指先で最後のカーブをたどった。あの子が振り向いて、もうひと伸びしたのは、このへんだっただろうか。思い出しただけで、脚の奥がむずむずした。
今度は、最初からちゃんと走れたらいい。
今まで何度も開いた学校案内を、その晩は初めて、コースのページを上にして机に置いた。