TS転生ちびっこ和種ウマ娘は、トレセン学園で平凡に暮らしたかった 作:みやび(雅媛)
一月の寒さで、耳の先がじんじんする。両耳を手で包んでみたら、指のほうがよっぽど冷たかった。
車に戻る父さんに手を振って、足元の段ボールを抱え直す。母さんが最後に干し柿をひと包み押し込んだせいで、蓋が少し盛り上がっていた。階段を上るにはたいへん具合の悪い荷物である。前を向けば足元が見えず、下を向けば蓋の角が顎に刺さる。
二階の奥から二つ手前。箱の横から首を出すと、扉に『サクラローレル』と『クロクモ』の名札が並んでいた。
「すみません。今日からお世話になります、クロクモです」
「はあい。いま開けるね」
思わず耳がそっちを向いた。やわらかくて、語尾にほんの少し笑みがまじる。ボクが来るのを楽しみにしてくれていたような声だった。
扉が開いて、箱の向こうから暖かい空気が流れてきた。困ったことに、お相手の姿はさっぱり見えない。
「ずいぶん大きな箱ね。どこか持ちましょうか?」
「いえ、重さは平気です。ただ、どこに置いたものかと」
「じゃあ、そのまま私の声のほうへ来て。……そう、そこで止まって。目の前があなたのベッドよ」
膝を曲げると、箱の底がぽふっと沈んだ。やれやれと腰を伸ばして、ようやく声の主とご対面である。
赤みを帯びた栗色の髪が、さらりと頬にかかった。ボクの顔をのぞきこむ長いまつげの下に、澄んだ緑の瞳がある。目が合うと、まずその目がうれしそうに細くなって、それから唇がほころんだ。
よその誰かに向けた笑顔なら、遠くからでもしばらく見惚れていたと思う。腕一本ぶんの距離で、まっすぐ自分に向けられるのは、ちょっと心臓に悪い。
「きょ、今日からお世話になります」
さっきも言った。自分でもわかっているけれど、ほかの言葉がひとつも出てこなかったのだ。
「こちらこそ。私、サクラローレル。クロクモちゃんより一つ上なの。これからよろしくね」
「ひ、一つですか?」
「ええ。もっと上かと思った?」
こくんとうなずくと、ローレルさんは口元に手を添えて笑った。
一つ違うだけで、こんなに素敵なお姉さんになれるものだろうか。うちの姉さんも、ボクが荷物を抱えていれば迎えに来てくれる。ただ、あっちは「よく来たなあ、クロ!」と箱ごと抱きしめるので、妹は毎度、段ボールの縁をみぞおちに食らう。お姉さんにも、いろいろいるらしい。
ローレルさんに見惚れているうちに、うっかり三度目の挨拶までしそうになった。そうだ、お土産。箱の蓋を開けると、いちばん上に母さんの包みがあった。
「ローレルさん、これ、うちで作った干し柿です。よかったら召し上がってください」
「まあ、ありがとう。私、白く粉を吹いたのが好きなの。あれ、おいしいわよね」
「はい。母さんが、今年いちばんいいところを詰めてくれました」
「だったら、あとで一緒にお茶にしましょう。クロクモちゃんだって食べたいでしょう?」
食べたい。実は山を下りてくる途中で、ひとつ減ってもばれないだろうかと考えたくらいである。素直にそう言ったら、ローレルさんは笑って、包みを二つの机のちょうど真ん中に置いてくれた。
荷ほどきが一段落する頃には、そろそろ夕飯の時間だった。せっかくだから寮の中も案内するわね、とローレルさんが部屋を出る。ボクもそのあとに続いた。
廊下を歩きながらお風呂と洗濯室の場所を教わり、突き当たりの階段まで来たところで、ローレルさんが足を止めた。壁に貼ってある一週間の献立表を指でたどる。
「金曜は少し早めに来ましょうね」
「何かあるんですか?」
「コロッケ。私、ここのコロッケは揚げたてで食べたいの」
金曜の夕方、コロッケのためにそわそわするローレルさんを想像したら、さっきまで顔を見るだけで緊張していたのが、もうだいぶ平気になった。金曜はボクも急ごう。
階段を半分ほど下りたとき、踊り場の窓の外を二人のウマ娘が駆けていった。前の子がカーブを回る。後ろの子がその内側へすっと入った。おっ、そこを抜けるのか。窓枠の向こうへ消える尻尾を追って首を伸ばしたら、こつんと額がガラスに当たった。
「……今の、見てました?」
「ええ。あの子たちが曲がるのと一緒に、クロクモちゃんまでこっちへ傾くんだもの。走るのが好きなのね」
「はい。山だと、いっつも一人でしたけど」
「それなら明日の朝、私と一緒に走ってみない? ほら、あの木の向こう。ここからは見えないけれど、コースがあって、ぐるっと回って寮まで帰ってこられるのよ」
隣で少し腰をかがめて、ローレルさんがガラス越しに道を指でなぞってくれた。
山の道なら、どこで日が差して、どこの霜柱が最後まで残っているかまで知っている。ここでは、あの木の向こうに何があるのかも知らない。けれど明日の朝には、ひとつわかるわけだ。
「ぜひお願いします、ローレルさん。ボク、朝は強いですよ」
「頼もしいわ。じゃあ私が起きなかったら、起こしてくれる?」
「いいですよ。うちの姉さんを起こすより、ずっと楽そうです」
「お姉さん、朝は弱いの?」
「寝たふりがうまいんです」
お布団を剥ぐと妹まで引っ張り込むのである。そんな話をしながら残りの階段を下りて、一階の食堂に入った。その頃にはもう、明日の朝が楽しみだった。
夕飯は鶏の照り焼きだった。ローレルさんと向かい合わせに座り、香ばしく焼けた皮を箸ではがして、お皿の隅に大事によける。最後に残したご飯をこれでくるんで食べるのが好きなのだ。
さて、ご飯がちょうどひと口ぶん。取っておいた皮をつまんだところで、すぐ隣から声がした。
「やあ。ようやく会えたね、クロクモさん」
賑やかな食堂で、自分の名前だけがすっと耳に届いた。少し低めの、よく響く声だった。
振り向いた拍子に、大事な鶏皮がお皿にぽとりと落ちた。
艶のある黒髪に、額へ落ちるひと筋の白。すっと通った鼻筋から涼しげな目元まで、横から射す夕日さえ、この人のために用意された照明に見えた。目が合うと、形のいい眉が片方だけ上がって、ボクに向かって微笑んだ。
ああ、こういう人を前世のテレビで見た。羽根を背負って大階段を下りてくる男役のスターだ。この人、片手に鯖の味噌煮定食を持っていても絵になる。
「私はフジキセキ。君と同じ新入生だよ。隣、いいかな?」
「あ、はい。どうぞ」
同い年。これが。
向かいにローレルさんがいて、隣にフジキセキさんが座った。中央トレセン学園、美少女が多すぎやしませんか。まだ一日目の夕飯だぞ。
「試験のあと、君はすぐに帰ってしまっただろう? 会えたら話がしたかったんだ。あの走り、すごかったね」
「えっ。フジさん、ボクと一緒に走りました?」
「私は次の組さ。外ラチのそばで見ていたんだ。ゲートが開いてみんな飛び出したのに、君だけまだ中にいるから、あの子は大丈夫かなって」
「そこから見てましたか……」
扉の開く音にびっくりして固まった、あの間抜けなところまでご覧になっていたらしい。向かいでローレルさんが身を乗り出した。
「それで? クロクモちゃん、そこから追いついたの?」
「ええ。向こう正面ではまだ最後方で、集団のいちばん後ろの子まで五バ身は空いてたんです。ところが最後のコーナーでみんなが内に寄ったら、君だけ大外から来て。私の目の前で三人まとめて抜いていくものだから、思わず手すりから身を引きましたよ」
そういえば、カーブの内側は人がいっぱいで、外にしか前の見えるところがなかった。何人抜いたかは覚えていないけれど、あそこでいっぺんに風通しがよくなったのは覚えている。
「コーナーの外を? ずいぶん余計に走ったでしょう」
「はい。それでも直線に向いたときには、もう四番手でした。先頭の子だって、後ろを振り返ってからもうひと伸びしたんですよ。それをこの子が外から追い越して、ゴールでは逆に二バ身差です」
ローレルさんがボクを見た。
「クロクモちゃん、上り三ハロン、どのくらいで走ったの?」
「三ハロン? ですか?」
「三十四秒六です」
答えてくれたのはフジさんだった。
「自分の結果を見に行ったとき、思わず二度見しちゃって。走破タイムはあの日の受験生全体で三番。上がり三ハロンだけなら、この子が一番でした」
「待って。ゲートで一人残って、大外を回って、それでも全体の三番だったの?」
ローレルさんの箸が止まっている。フジさんはうなずくと、今度はボクに向き直った。
「だから聞きたかったんだ。クロクモさん、どのあたりで先頭に届くと思ったんだい?」
「あの、すみません。その前にひとついいですか。『上がり』って何ですか?」
二人そろってボクを見た。どうやら、そこから聞くとは思われていなかったらしい。
先に笑ったのはフジさんだった。湯呑みを少し横へずらして、空いたところに指で一本の線を引く。
「ここがゴール。そこまでの最後の六百メートルを、君は誰よりも速く走ったんだよ。前の子を抜けそうだなって思ったのは覚えてる?」
「ええと、走ってるうちに、前の子の尻尾がだんだんおっきくなってくるんです。横に並んだら、その向こうにもう一本見えて。最後の子は尻尾の先が白くて、その子を追い越したら、急に目の前がぜんぶ芝生になったんです。あれは気持ちよかったです」
「……君からは、そんなふうに見えるんだね」
フジさんが頬杖をついて、ボクの顔をのぞきこんだ。さっきまでの男役のスターみたいな微笑みがほどけて、話の続きを待つように、片耳がこちらを向いていた。
「ねえ、クロクモさん。私とも一緒に走ってくれないかな。今度は君のすぐそばで走ってみたいんだ」
「それなら明日の朝、ローレルさんと走るんです。フジさんもどうですか?」
「いいのかい?」
「はい。いいですよね、ローレルさん?」
「ええ、もちろん。三人で行きましょう」
ボクは満足して、ようやく鶏皮で最後のご飯をくるんだ。これで母さんにも、お友達ができたと言える。初日の晩としては上々である。
「じゃあ、私が前を走ろうかな。クロクモさん、明日は私の尻尾を追いかけておいで。追いつけたら、だけどね」
「あら、フジちゃん。私もそのつもりで誘ったのよ?」
うん? ボクはお茶碗を置いた。
向かいのローレルさんは、片手を頬に添えて微笑んでいる。部屋の扉を開けてくれたときと同じ、きれいでおしとやかなお姉さんだ。けれど、ボクがそっと横にずれると、その緑の瞳だけがぴたりとついてきた。
山でこういう目をした生き物に会ったら、背中を向けてはいけない。そろそろと座り直したボクの隣で、フジさんがにっこりした。あっ、フジさんも同じ目をしている。
「あのう、ローレルさん。明日は、ボクにコースのことを教えてくださるんですよね?」
「ええ。最初の一周は、ゆっくりね」
最初の一周は。
聞き返す前に、隣からフジさんがのぞきこんできた。
「二周目、君はどっちの尻尾を追いかけるんだろうね?」
つい、二人の尻尾を順番に見てしまった。ボクが口を開くより早く、向かいと隣で耳がぴんと立った。
「まあ。二人とも抜くつもりなのね、クロちゃん」
「いいねえ。明日が楽しみだ」
そんなことは言ってないです。何も思ってないです。
向かいにも隣にも、肉食獣みたいにきれいな笑顔がある。山ではずっと追いかける側だったのに、まさか学園の食堂で、追われる側の気持ちを知ることになるとは。
母さん。寮のご飯はおいしいです。お友達もできました。
でも、クロちゃんは明日の朝、たいへんなことになりそうです。