TS転生ちびっこ和種ウマ娘は、トレセン学園で平凡に暮らしたかった 作:みやび(雅媛)
枕元の時計は四時二十九分。目覚ましが鳴る前に止めて、布団の中で小さく伸びをした。
カーテンの隙間はまだ真っ暗だ。しばらく耳を澄ませても、父さんの軽トラックの音はしない。代わりに、すぐそばで誰かが静かに寝息を立てている。そうだ。昨日から寮にいるんだった。
ベッドを抜け出し、昨夜のうちに椅子に掛けておいた体操着に着替える。襟と袖口が赤い白のシャツに、赤いブルマ。ものの一分で支度は済んだのに、鏡の前に立ってみると、まだ何か穿き忘れているようでどうにも心もとない。
最初は短パンにするつもりだったのだ。ところが試着してみたら、お尻と太腿がぱつぱつで、片膝を上げるたびに裾まで一緒にずり上がってくる。走りながらいちいち裾を引っぱるのも嫌で、泣く泣く選んだのがこちらである。試しに膝を上げてみた。どこも引っかからない。実に結構。
それはそれとして、いつものレギンスが恋しい。まあ、あれもぴっちりしているから、恥ずかしさは似たり寄ったりかもしれないけど。
気を取り直して隣のベッドへ行った。布団から出ているのは栗色の耳の先だけだ。起こしてほしいとは言われたけれど、なにしろ、まだ四時半を少し回ったところである。ちょっと迷って、小さな声で呼んでみた。
「ローレルさん。朝ですよ」
片方の耳がふわりとこちらを向いた。
「……クロちゃん?」
「はい。ボクです。まだ早かったら、もうちょっと寝てても」
緑の目が開いて、枕元の時計に向いた。それからローレルさんは、布団に頬をつけたまま、くすっと笑った。
「私ね、昨日、起こしてってお願いしながら、ほんとは私が先に起きてるつもりだったの」
「もう少し遅くしたほうがよかったですか?」
「ううん。朝は強いって、本当だったのね。おはよう、クロちゃん」
寝起きなのに、なんともきれいに笑う人である。おはようございます、と返しかけたところで手首をつかまれ、思わず腰を引いた。ローレルさんはボクの手を借りて身体を起こすと、ひとつ伸びをした。
ああ、そうですよね。起こしに来た妹を布団に引っ張り込むのは、うちの姉さんの流儀でした。
二人で顔を洗い、ローレルさんがジャージに着替えるのを待って、今度はフジさんの部屋を訪ねた。そっと扉を叩いて名前を呼ぶ。少し間があって、ぱたぱたと足音がした。
「おはよう、クロクモさん。君に迎えに来てもらえるなんて、早起きはしてみるものだね」
「今、起きましたよね?」
「うん。ちょっとだけ待っててくれるかい?」
枕の跡がついた頬でにっこりして、扉の向こうへ引っ込んだ。昨日は鯖の味噌煮を持っていても男役のスターだった人が、寝癖はきっちり右に跳ねているし、靴を履く段になって片方の靴下を取りに戻ったりもする。ボクは朝からずいぶん得をした気がした。
三人揃って寮を出ると、吐いた息が玄関灯の下で白くなった。植え込みの根元に霜柱が立っている。靴の先でひとつ踏んでみたら、しゃくっと山のと同じ音がした。
両隣から、ほとんど同時に視線が下りてきた。
「クロちゃん、ジャージは?」
「部屋に置いてきました」
「その素脚で? 見ている私のほうが寒くなりそうだよ」
フジさんはジャージの襟を顎の下まで閉めていた。ローレルさんなんて、袖口から指の先しか出ていない。その間に白いシャツとブルマだけのボクである。ご心配いただいたとおり、着ている本人もまあまあ寒い。
「走ればあったまりますから」
「グラウンドまでは歩くのよ?」
「……遠いんですか?」
「ほら、あそこが正門でしょう? コースは校舎の向こうよ」
寮の建物の間を抜けながら、ローレルさんが前を指さした。正門から先に見えるのは、まだ窓の暗い大きな校舎だ。その手前に三女神さまの像が並んでいる。なるほど、山の勝手口とはだいぶ事情が違う。あっちは戸を開けたらすぐに走ってよかったのだ。
広場を横切るとき、ローレルさんがさりげなく風上に回ってくれた。ありがたくその陰に入りながら、昨日の夕方に窓から見た二人のことを思い出した。
「じゃあ、昨日の子たちが走ってたのは、まだ寮の近くだったんですね」
「ええ。練習帰りじゃないかしら。早く食堂に着きたかったのかもね」
「ボク、てっきりあの木の向こうに、もうコースがあるのかと」
「それでジャージを置いてきたのかい?」
まったくもって、そのとおりでございます。
教育本館の脇を通り、屋内プールの角を曲がったところで、ようやく視界が開けた。観客席の向こうに白い柵が何本も弧を描いている。そのいちばん遠いところまで自分の脚で行って、またここに戻ってくるのだ。そう思うと、寒さで縮こまっていた足の指に少し力が戻ってきた。
観客席のそばで足首を回し、歩きながら腿を上げる。肩をほぐして腕を振り、少しずつ歩幅を広げていく。右と左をもう一度ずつ確かめて顔を上げたら、二人がボクを待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ。ずいぶん丁寧にするのね」
「受験のときに読んだ本に、寒い朝は少しずつ身体を動かしましょうって書いてあったので」
「『上がり』は知らなかったのに?」
フジさんに言われ、思わず返事に詰まった。いろいろ読んだのだ。頭に入ったところに多少の偏りがあるだけで。
「今日は私についてきて。最初はおしゃべりしながら行きましょう」
ローレルさんを先頭に、ゴール板の前から走りだした。フジさんはその右肩のすぐ後ろ。ボクは二人の背中がよく見えるところにつけた。
朝の芝を踏むと、靴の下でさくさく音がした。前を行くローレルさんが、ときどき顔だけこちらに向けて声を掛けてくれる。この先は芝がやわらかいのだとか、次の直線は横から風が来るのだとか。教わったところで本当に膝の横を冷たい風が撫でていくので、なんだかおかしかった。もう一周して自分の脚でここに来れば、きっと思い出す。
初めこそ風が膝にしみたけれど、やがて靴の中の爪先まで温もってきた。息を吐くたび、目の前にできる小さな雲が後ろへ流れていく。
「次のカーブを抜けて、あのゴール板の前まで来たら一周よ。クロちゃん、脚の具合はどう?」
「もうすっかりあったかいです」
「それじゃあ、二周目はもう少し上げようかしら」
口調は一周目とちっとも変わらない。けれどゴール板を横切った途端に、ローレルさんの足音がすっと遠くなった。すかさずフジさんがついていく。ボクも少し歩幅を広げると、二人の背中がさっきと同じ距離に落ち着いた。
フジさんが半歩だけ外へ顔を出した。栗色の尻尾と、その斜め後ろに黒い尻尾。並び順は変わらないのに、耳を澄ますと、片方の足音が軽くなるたび、もう片方もすぐそれに合わせている。
面白くなって、ボクも後ろで同じ間合いを取ってみた。フジさんの耳がくるりとこちらを向いた。
「楽しいかい、クロクモさん?」
「はい。なんで分かるんです?」
「私が速くすると、すぐ君の足音も速くなるんだ。もう二度も試しちゃった」
試されていた。道理でついていくだけなのに忙しいわけである。
先頭でローレルさんが笑った。
「いいわね、フジちゃんばっかり。私もクロちゃんに追いかけてもらいたいわ」
「代わりましょうか? 私が前に出ますよ」
「ふふ。そう言われると譲りたくなくなるわね」
二度目のゴール板が近づいてきた。二人ともまだ楽に言葉が続いている。ボクもちょうど身体がほぐれて、もう少し速く走ってみたくなっていた。
「ねえ、クロちゃん。次の一周、ここへ戻ってくるまで三人で競ってみない? 私、先に行くわよ」
「じゃあ、私はそのすぐ後ろだ。一番いいところだね」
「ボクはここでいいです。二人ともよく見えますから」
「決まりね。朝練だから、軽くね?」
最後のひと言に、フジさんもボクも素直にうなずいた。少なくとも、このときは三人ともそのつもりだったと思う。
三周目に入って、ローレルさんの栗色の尻尾がふわりと浮いた。さっきより一歩が大きい。それでもフジさんはぴたりとその後ろにつけている。ボクは少し間を空けた。このくらい離れると、尻尾に隠れていた二人の靴までよく見える。
向こう側の直線で、フジさんが少し外へ持ち出した。横風に流された黒い尻尾が、ちょうどボクの目の前で揺れた。
「どうだい、クロクモさん。昨日の約束、ちゃんと覚えてる?」
「はい。まだよく見えてますよ、フジさんの尻尾」
「あら、私のは?」
「フジさんの向こうに、ちょっとだけ」
「じゃあ、もう少しよく見えるようにしなくちゃ」
言い終わるころには、栗色の尻尾がひとつ前に出ていた。ずっと風を受けて先頭を走ってきたのに、そんなことを言う余裕まである。
フジさんも離れない。最後のカーブに入ると、内を回るローレルさんの右肩に、外からじわりと迫った。二人の足音が揃う。あと半歩で横に並ぶ。そこまでは、ボクも後ろからのんきに眺めていた。
先に聞こえたのは、フジさんの短い息だった。
黒い尻尾が一歩遠くなった。並ばれる寸前、ローレルさんの腕が大きく振れた。二人がカーブを抜けたときには、その背中がさっきよりずっと小さく見えた。
どちらも、もうボクを振り向かない。前を向いた二人の足音だけが遠ざかっていく。
ああ。
逃げる。
背筋がぞくりとした。見やすくてちょうどいいと思っていた数歩が、急にもどかしくなった。一歩だっていらない。
地面を蹴った。二人の尻尾はまだ遠ざかる。思いきり腕を振って、もう一度、強く踏み込んだ。それでようやく、フジさんの靴裏がひと回り大きく見えた。
外は空いている。あそこへ。
風を正面から受けた。フジさんの横顔が見える。追いついた、と思ったところで、隣で芝を蹴る音がいっそう強くなった。腕を振っても、振っても、視界の端にまだフジさんの白い前髪がある。試験のときなら、とっくに次の子を追いかけていたのに。
楽しい。もっと速く。
ぐっともう一歩踏み込むと、すぐ耳の横で聞こえていた息が後ろにずれた。前にはあと一人。栗色の尻尾に迫る。ローレルさんの頬が見えて、ボクが来たと分かったのか、口元がほころんだ。昨日ボクを迎えてくれたときとはまるで違う、歯を見せた笑顔だった。
きれいだと思った。次の瞬間には、もうその人より前に出たかった。
もう一歩。
その一歩が芝を踏むより先に、ゴール板が視界の端を飛んでいった。
しばらく誰も口をきかなかった。ローレルさんはボクの隣を走っていて、すぐ後ろにはフジさんの足音がした。三人とも少しずつ歩幅を狭めて、やがて顔を見合わせられるくらいの速さに戻った。
「……届きました?」
息の合間に尋ねたら、隣のローレルさんもボクと同じくらい胸を弾ませていた。
「私、前しか見てなかったわ。フジちゃん、どうだった?」
「ローレルさんだね。肩ひとつぶんくらい、クロクモさんより先だったよ」
ああ、やっぱり。あと一歩あれば、とゴール板を振り返った。もっとも、あそこまでと決めて走ったのだから、その一歩はボクがどこかで稼いでおかなきゃいけなかったのだ。
悔しかった。さっき自分から空けた数歩が、今になってじわじわと惜しい。もう一度あのカーブに戻れたら、今度はどこで踏み込もう。
「クロクモさん。『軽く』って言ったの、聞こえていたかい?」
「聞こえてましたよ。でもフジさん、あそこでローレルさんを抜くつもりだったでしょう」
「うん、まあ、あんなにすぐそこにいるとね」
「でしょう? ボクも同じです」
「私、先頭を譲るつもりはなかったけどね?」
涼しい顔で言い切るには、ローレルさんもいくらか息が足りなかった。最後の「ね」がかすれて、三人いっぺんに吹き出した。
並んでゆっくり歩くうちに、東の空がだいぶ明るくなった。フジさんが観客席のほうへ顔を向けた。
「……こんな話をしていいかな。私、もう朝ごはんのことを考えてる」
「私も。お腹すいたわねえ」
気が合う二人である。ローレルさんが出口へ向かい、フジさんがその横に並んだ。ボクはコース脇の柵のところで足を止めた。
「お二人とも、どこへ?」
「え? 寮よ。クロちゃんも帰りましょう?」
「クールダウン、まだですよ」
二人の足が揃って止まった。フジさんが今しがた歩いてきた距離を振り返った。
「……ちゃんと歩いたよ?」
「はい。息も整ってきましたし、そろそろストレッチにしましょう。ボク、一人だと自分の背中が丸くなってても見えないんです。お互いに見てもらえると助かります」
「ああ、それはいいわね。フジちゃん、ちょっと付き合いましょう」
「そうですね。ちょっとなら」
その『ちょっと』がどのくらいか、ここで確かめておいたほうが二人のためだったかもしれない。
柵に両手をついて片脚を引き、まずはふくらはぎから。肩の力を抜いてゆっくり伸ばす。右が終わったら左。ここまでは二人とも余裕だった。ボクのかかとが浮くとローレルさんがそっと教えてくれたし、フジさんは朝ごはんに焼き鮭が出るといいな、なんて話をしていた。
腿の前を伸ばし、次は裏側へ。ボクが息を吐きながら上体を起こすと、フジさんはすでに柵から手を離していた。
「フジさん、左もお願いします」
「……クロクモさん。君、自分の膝を見ていたよね?」
「右の靴は芝に下りたけど、左の靴はまだそこから動いてませんよ」
「ローレルさん、すごい子を起こしちゃいましたね」
「起こしに来てくれたのはあちらよ、フジちゃん」
お二人とも、もう少し小さな声で相談していただきたい。聞こえております。
左右が揃ったのを見届けてから、今度は少し脚を開いて腰を落とす。右、真ん中、左。上体を起こしたところで、ローレルさんがごく自然にボクの手を取った。
「ありがとう、クロちゃん。おかげで脚が軽くなったわ。一緒に帰りましょう?」
「はい。お尻も伸ばしたら帰りましょう」
「……まだあったのね」
二歩ほど出口へ歩いてから柵に戻った。ずいぶん上手に連れていかれるところだった。さすがお姉さんである。
柵につかまって片方の足首を反対の膝に載せ、ゆっくり腰を落としてみせた。真似をしたローレルさんが、ほんの少し下がったところで「ひゃっ」と声を上げた。
「ローレルさん、そこで十分です。ボクと同じところまで下がらなくていいですよ」
「ええ。今、自分でびっくりしたわ……」
「案外かわいい声が出るんですね、ローレルさ……いたたっ」
「フジさんも、人のこと見て笑ってる場合ですか」
二人にはいったん腰を上げてもらって、今度は楽にできるところまで。ようやく右が済むと、フジさんがそちらの脚を大事そうに下ろしながら、ボクの顔をうかがった。
「ねえ、クロクモさん。左は帰ってからというのはどうかな」
「帰ったらご飯でしょう?」
「うん」
「ご飯が済んだら?」
「……たぶん忘れるね、私は」
「ほら。あれだけ本気で走って、あとは食堂へまっしぐらなんて。そんなんじゃ、そのうち怪我しちゃいますよ。はい、左も」
はい、と今朝いちばんお行儀のいい返事が二つ揃った。
左が終わってボクが「これでおしまいです」と言うと、二人の顔がぱっと明るくなった。付き合ってもらったお礼を言って、三人で出口へ歩きだす。
歩きながらひとつ、気になった。今朝は軽く走るつもりで身体をほぐして、そのつもりで二周目まで走ったのだ。それが最後はあの有様である。明日も二人の尻尾が目の前で遠ざかったら、ボクは行儀よく見送れるだろうか。
うん。そこはもう、自分に期待しないほうがいい。
「ローレルさん、フジさん。明日も一緒に走りませんか?」
「ええ、もちろん。楽しかったもの」
「いいね。今度は私が先頭をもらおうかな」
「よかった。じゃあ次は、ウォームアップもちゃんとやりましょうね」
「……も?」
フジさんが立ち止まった。ローレルさんまで、つないでいたボクの手をそっと握り直した。
「クロちゃん。今朝もずいぶん丁寧にしていたでしょう?」
「ボクも途中までは足りたつもりだったんです。でも最後、あんなに速くなるんですもの。明日は競う前に短い距離を何本か、少しずつ速く走っておきたいです」
「それで、走ったあとは?」
「今日覚えたぶん、明日はスムーズにできますよ」
安心してもらうつもりで言ったのに、二人はなぜか顔を見合わせた。フジさんがローレルさんの肩にそっと手を置く。
「……私たち、昨日、どっちが先にこの子を誘ったんでしたっけ」
「フジちゃん。明日こそ、ほんとに軽く走りましょうか」
「賛成です。クロクモさん、明日は軽い朝練だ。それならどうかな?」
「大丈夫です。軽い日には軽い日用のメニューが、本にちゃんと載ってましたから。帰ったら見ておきますね」
さっきの直線では、半歩だって相手に譲る気のなかった二人である。その二人が、まったく同じ声で悲鳴を上げた。
「「そこまでしなくていいから!」」