TS転生ちびっこ和種ウマ娘は、トレセン学園で平凡に暮らしたかった   作:みやび(雅媛)

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3 朝練

 枕元の時計は四時二十九分。目覚ましが鳴る前に止めて、布団の中で小さく伸びをした。

 カーテンの隙間はまだ真っ暗だ。しばらく耳を澄ませても、父さんの軽トラックの音はしない。代わりに、すぐそばで誰かが静かに寝息を立てている。そうだ。昨日から寮にいるんだった。

 ベッドを抜け出し、昨夜のうちに椅子に掛けておいた体操着に着替える。襟と袖口が赤い白のシャツに、赤いブルマ。ものの一分で支度は済んだのに、鏡の前に立ってみると、まだ何か穿き忘れているようでどうにも心もとない。

 最初は短パンにするつもりだったのだ。ところが試着してみたら、お尻と太腿がぱつぱつで、片膝を上げるたびに裾まで一緒にずり上がってくる。走りながらいちいち裾を引っぱるのも嫌で、泣く泣く選んだのがこちらである。試しに膝を上げてみた。どこも引っかからない。実に結構。

 それはそれとして、いつものレギンスが恋しい。まあ、あれもぴっちりしているから、恥ずかしさは似たり寄ったりかもしれないけど。

 気を取り直して隣のベッドへ行った。布団から出ているのは栗色の耳の先だけだ。起こしてほしいとは言われたけれど、なにしろ、まだ四時半を少し回ったところである。ちょっと迷って、小さな声で呼んでみた。

 

「ローレルさん。朝ですよ」

 

 片方の耳がふわりとこちらを向いた。

 

「……クロちゃん?」

「はい。ボクです。まだ早かったら、もうちょっと寝てても」

 

 緑の目が開いて、枕元の時計に向いた。それからローレルさんは、布団に頬をつけたまま、くすっと笑った。

 

「私ね、昨日、起こしてってお願いしながら、ほんとは私が先に起きてるつもりだったの」

「もう少し遅くしたほうがよかったですか?」

「ううん。朝は強いって、本当だったのね。おはよう、クロちゃん」

 

 寝起きなのに、なんともきれいに笑う人である。おはようございます、と返しかけたところで手首をつかまれ、思わず腰を引いた。ローレルさんはボクの手を借りて身体を起こすと、ひとつ伸びをした。

 ああ、そうですよね。起こしに来た妹を布団に引っ張り込むのは、うちの姉さんの流儀でした。

 二人で顔を洗い、ローレルさんがジャージに着替えるのを待って、今度はフジさんの部屋を訪ねた。そっと扉を叩いて名前を呼ぶ。少し間があって、ぱたぱたと足音がした。

 

「おはよう、クロクモさん。君に迎えに来てもらえるなんて、早起きはしてみるものだね」

「今、起きましたよね?」

「うん。ちょっとだけ待っててくれるかい?」

 

 枕の跡がついた頬でにっこりして、扉の向こうへ引っ込んだ。昨日は鯖の味噌煮を持っていても男役のスターだった人が、寝癖はきっちり右に跳ねているし、靴を履く段になって片方の靴下を取りに戻ったりもする。ボクは朝からずいぶん得をした気がした。

 

 三人揃って寮を出ると、吐いた息が玄関灯の下で白くなった。植え込みの根元に霜柱が立っている。靴の先でひとつ踏んでみたら、しゃくっと山のと同じ音がした。

 両隣から、ほとんど同時に視線が下りてきた。

 

「クロちゃん、ジャージは?」

「部屋に置いてきました」

「その素脚で? 見ている私のほうが寒くなりそうだよ」

 

 フジさんはジャージの襟を顎の下まで閉めていた。ローレルさんなんて、袖口から指の先しか出ていない。その間に白いシャツとブルマだけのボクである。ご心配いただいたとおり、着ている本人もまあまあ寒い。

 

「走ればあったまりますから」

「グラウンドまでは歩くのよ?」

「……遠いんですか?」

「ほら、あそこが正門でしょう? コースは校舎の向こうよ」

 

 寮の建物の間を抜けながら、ローレルさんが前を指さした。正門から先に見えるのは、まだ窓の暗い大きな校舎だ。その手前に三女神さまの像が並んでいる。なるほど、山の勝手口とはだいぶ事情が違う。あっちは戸を開けたらすぐに走ってよかったのだ。

 広場を横切るとき、ローレルさんがさりげなく風上に回ってくれた。ありがたくその陰に入りながら、昨日の夕方に窓から見た二人のことを思い出した。

 

「じゃあ、昨日の子たちが走ってたのは、まだ寮の近くだったんですね」

「ええ。練習帰りじゃないかしら。早く食堂に着きたかったのかもね」

「ボク、てっきりあの木の向こうに、もうコースがあるのかと」

「それでジャージを置いてきたのかい?」

 

 まったくもって、そのとおりでございます。

 教育本館の脇を通り、屋内プールの角を曲がったところで、ようやく視界が開けた。観客席の向こうに白い柵が何本も弧を描いている。そのいちばん遠いところまで自分の脚で行って、またここに戻ってくるのだ。そう思うと、寒さで縮こまっていた足の指に少し力が戻ってきた。

 観客席のそばで足首を回し、歩きながら腿を上げる。肩をほぐして腕を振り、少しずつ歩幅を広げていく。右と左をもう一度ずつ確かめて顔を上げたら、二人がボクを待っていた。

 

「お待たせしました」

「いいえ。ずいぶん丁寧にするのね」

「受験のときに読んだ本に、寒い朝は少しずつ身体を動かしましょうって書いてあったので」

「『上がり』は知らなかったのに?」

 

 フジさんに言われ、思わず返事に詰まった。いろいろ読んだのだ。頭に入ったところに多少の偏りがあるだけで。

 

「今日は私についてきて。最初はおしゃべりしながら行きましょう」

 

 ローレルさんを先頭に、ゴール板の前から走りだした。フジさんはその右肩のすぐ後ろ。ボクは二人の背中がよく見えるところにつけた。

 朝の芝を踏むと、靴の下でさくさく音がした。前を行くローレルさんが、ときどき顔だけこちらに向けて声を掛けてくれる。この先は芝がやわらかいのだとか、次の直線は横から風が来るのだとか。教わったところで本当に膝の横を冷たい風が撫でていくので、なんだかおかしかった。もう一周して自分の脚でここに来れば、きっと思い出す。

 初めこそ風が膝にしみたけれど、やがて靴の中の爪先まで温もってきた。息を吐くたび、目の前にできる小さな雲が後ろへ流れていく。

 

「次のカーブを抜けて、あのゴール板の前まで来たら一周よ。クロちゃん、脚の具合はどう?」

「もうすっかりあったかいです」

「それじゃあ、二周目はもう少し上げようかしら」

 

 口調は一周目とちっとも変わらない。けれどゴール板を横切った途端に、ローレルさんの足音がすっと遠くなった。すかさずフジさんがついていく。ボクも少し歩幅を広げると、二人の背中がさっきと同じ距離に落ち着いた。

 フジさんが半歩だけ外へ顔を出した。栗色の尻尾と、その斜め後ろに黒い尻尾。並び順は変わらないのに、耳を澄ますと、片方の足音が軽くなるたび、もう片方もすぐそれに合わせている。

 面白くなって、ボクも後ろで同じ間合いを取ってみた。フジさんの耳がくるりとこちらを向いた。

 

「楽しいかい、クロクモさん?」

「はい。なんで分かるんです?」

「私が速くすると、すぐ君の足音も速くなるんだ。もう二度も試しちゃった」

 

 試されていた。道理でついていくだけなのに忙しいわけである。

 先頭でローレルさんが笑った。

 

「いいわね、フジちゃんばっかり。私もクロちゃんに追いかけてもらいたいわ」

「代わりましょうか? 私が前に出ますよ」

「ふふ。そう言われると譲りたくなくなるわね」

 

 二度目のゴール板が近づいてきた。二人ともまだ楽に言葉が続いている。ボクもちょうど身体がほぐれて、もう少し速く走ってみたくなっていた。

 

「ねえ、クロちゃん。次の一周、ここへ戻ってくるまで三人で競ってみない? 私、先に行くわよ」

「じゃあ、私はそのすぐ後ろだ。一番いいところだね」

「ボクはここでいいです。二人ともよく見えますから」

「決まりね。朝練だから、軽くね?」

 

 最後のひと言に、フジさんもボクも素直にうなずいた。少なくとも、このときは三人ともそのつもりだったと思う。

 

 三周目に入って、ローレルさんの栗色の尻尾がふわりと浮いた。さっきより一歩が大きい。それでもフジさんはぴたりとその後ろにつけている。ボクは少し間を空けた。このくらい離れると、尻尾に隠れていた二人の靴までよく見える。

 向こう側の直線で、フジさんが少し外へ持ち出した。横風に流された黒い尻尾が、ちょうどボクの目の前で揺れた。

 

「どうだい、クロクモさん。昨日の約束、ちゃんと覚えてる?」

「はい。まだよく見えてますよ、フジさんの尻尾」

「あら、私のは?」

「フジさんの向こうに、ちょっとだけ」

「じゃあ、もう少しよく見えるようにしなくちゃ」

 

 言い終わるころには、栗色の尻尾がひとつ前に出ていた。ずっと風を受けて先頭を走ってきたのに、そんなことを言う余裕まである。

 フジさんも離れない。最後のカーブに入ると、内を回るローレルさんの右肩に、外からじわりと迫った。二人の足音が揃う。あと半歩で横に並ぶ。そこまでは、ボクも後ろからのんきに眺めていた。

 先に聞こえたのは、フジさんの短い息だった。

 黒い尻尾が一歩遠くなった。並ばれる寸前、ローレルさんの腕が大きく振れた。二人がカーブを抜けたときには、その背中がさっきよりずっと小さく見えた。

 どちらも、もうボクを振り向かない。前を向いた二人の足音だけが遠ざかっていく。

 ああ。

 逃げる。

 背筋がぞくりとした。見やすくてちょうどいいと思っていた数歩が、急にもどかしくなった。一歩だっていらない。

 地面を蹴った。二人の尻尾はまだ遠ざかる。思いきり腕を振って、もう一度、強く踏み込んだ。それでようやく、フジさんの靴裏がひと回り大きく見えた。

 外は空いている。あそこへ。

 風を正面から受けた。フジさんの横顔が見える。追いついた、と思ったところで、隣で芝を蹴る音がいっそう強くなった。腕を振っても、振っても、視界の端にまだフジさんの白い前髪がある。試験のときなら、とっくに次の子を追いかけていたのに。

 楽しい。もっと速く。

 ぐっともう一歩踏み込むと、すぐ耳の横で聞こえていた息が後ろにずれた。前にはあと一人。栗色の尻尾に迫る。ローレルさんの頬が見えて、ボクが来たと分かったのか、口元がほころんだ。昨日ボクを迎えてくれたときとはまるで違う、歯を見せた笑顔だった。

 きれいだと思った。次の瞬間には、もうその人より前に出たかった。

 もう一歩。

 その一歩が芝を踏むより先に、ゴール板が視界の端を飛んでいった。

 しばらく誰も口をきかなかった。ローレルさんはボクの隣を走っていて、すぐ後ろにはフジさんの足音がした。三人とも少しずつ歩幅を狭めて、やがて顔を見合わせられるくらいの速さに戻った。

 

「……届きました?」

 

 息の合間に尋ねたら、隣のローレルさんもボクと同じくらい胸を弾ませていた。

 

「私、前しか見てなかったわ。フジちゃん、どうだった?」

「ローレルさんだね。肩ひとつぶんくらい、クロクモさんより先だったよ」

 

 ああ、やっぱり。あと一歩あれば、とゴール板を振り返った。もっとも、あそこまでと決めて走ったのだから、その一歩はボクがどこかで稼いでおかなきゃいけなかったのだ。

 悔しかった。さっき自分から空けた数歩が、今になってじわじわと惜しい。もう一度あのカーブに戻れたら、今度はどこで踏み込もう。

 

「クロクモさん。『軽く』って言ったの、聞こえていたかい?」

「聞こえてましたよ。でもフジさん、あそこでローレルさんを抜くつもりだったでしょう」

「うん、まあ、あんなにすぐそこにいるとね」

「でしょう? ボクも同じです」

「私、先頭を譲るつもりはなかったけどね?」

 

 涼しい顔で言い切るには、ローレルさんもいくらか息が足りなかった。最後の「ね」がかすれて、三人いっぺんに吹き出した。

 

 並んでゆっくり歩くうちに、東の空がだいぶ明るくなった。フジさんが観客席のほうへ顔を向けた。

 

「……こんな話をしていいかな。私、もう朝ごはんのことを考えてる」

「私も。お腹すいたわねえ」

 

 気が合う二人である。ローレルさんが出口へ向かい、フジさんがその横に並んだ。ボクはコース脇の柵のところで足を止めた。

 

「お二人とも、どこへ?」

「え? 寮よ。クロちゃんも帰りましょう?」

「クールダウン、まだですよ」

 

 二人の足が揃って止まった。フジさんが今しがた歩いてきた距離を振り返った。

 

「……ちゃんと歩いたよ?」

「はい。息も整ってきましたし、そろそろストレッチにしましょう。ボク、一人だと自分の背中が丸くなってても見えないんです。お互いに見てもらえると助かります」

「ああ、それはいいわね。フジちゃん、ちょっと付き合いましょう」

「そうですね。ちょっとなら」

 

 その『ちょっと』がどのくらいか、ここで確かめておいたほうが二人のためだったかもしれない。

 柵に両手をついて片脚を引き、まずはふくらはぎから。肩の力を抜いてゆっくり伸ばす。右が終わったら左。ここまでは二人とも余裕だった。ボクのかかとが浮くとローレルさんがそっと教えてくれたし、フジさんは朝ごはんに焼き鮭が出るといいな、なんて話をしていた。

 腿の前を伸ばし、次は裏側へ。ボクが息を吐きながら上体を起こすと、フジさんはすでに柵から手を離していた。

 

「フジさん、左もお願いします」

「……クロクモさん。君、自分の膝を見ていたよね?」

「右の靴は芝に下りたけど、左の靴はまだそこから動いてませんよ」

「ローレルさん、すごい子を起こしちゃいましたね」

「起こしに来てくれたのはあちらよ、フジちゃん」

 

 お二人とも、もう少し小さな声で相談していただきたい。聞こえております。

 左右が揃ったのを見届けてから、今度は少し脚を開いて腰を落とす。右、真ん中、左。上体を起こしたところで、ローレルさんがごく自然にボクの手を取った。

 

「ありがとう、クロちゃん。おかげで脚が軽くなったわ。一緒に帰りましょう?」

「はい。お尻も伸ばしたら帰りましょう」

「……まだあったのね」

 

 二歩ほど出口へ歩いてから柵に戻った。ずいぶん上手に連れていかれるところだった。さすがお姉さんである。

 柵につかまって片方の足首を反対の膝に載せ、ゆっくり腰を落としてみせた。真似をしたローレルさんが、ほんの少し下がったところで「ひゃっ」と声を上げた。

 

「ローレルさん、そこで十分です。ボクと同じところまで下がらなくていいですよ」

「ええ。今、自分でびっくりしたわ……」

「案外かわいい声が出るんですね、ローレルさ……いたたっ」

「フジさんも、人のこと見て笑ってる場合ですか」

 

 二人にはいったん腰を上げてもらって、今度は楽にできるところまで。ようやく右が済むと、フジさんがそちらの脚を大事そうに下ろしながら、ボクの顔をうかがった。

 

「ねえ、クロクモさん。左は帰ってからというのはどうかな」

「帰ったらご飯でしょう?」

「うん」

「ご飯が済んだら?」

「……たぶん忘れるね、私は」

「ほら。あれだけ本気で走って、あとは食堂へまっしぐらなんて。そんなんじゃ、そのうち怪我しちゃいますよ。はい、左も」

 

 はい、と今朝いちばんお行儀のいい返事が二つ揃った。

 左が終わってボクが「これでおしまいです」と言うと、二人の顔がぱっと明るくなった。付き合ってもらったお礼を言って、三人で出口へ歩きだす。

 歩きながらひとつ、気になった。今朝は軽く走るつもりで身体をほぐして、そのつもりで二周目まで走ったのだ。それが最後はあの有様である。明日も二人の尻尾が目の前で遠ざかったら、ボクは行儀よく見送れるだろうか。

 うん。そこはもう、自分に期待しないほうがいい。

 

「ローレルさん、フジさん。明日も一緒に走りませんか?」

「ええ、もちろん。楽しかったもの」

「いいね。今度は私が先頭をもらおうかな」

「よかった。じゃあ次は、ウォームアップもちゃんとやりましょうね」

「……も?」

 

 フジさんが立ち止まった。ローレルさんまで、つないでいたボクの手をそっと握り直した。

 

「クロちゃん。今朝もずいぶん丁寧にしていたでしょう?」

「ボクも途中までは足りたつもりだったんです。でも最後、あんなに速くなるんですもの。明日は競う前に短い距離を何本か、少しずつ速く走っておきたいです」

「それで、走ったあとは?」

「今日覚えたぶん、明日はスムーズにできますよ」

 

 安心してもらうつもりで言ったのに、二人はなぜか顔を見合わせた。フジさんがローレルさんの肩にそっと手を置く。

 

「……私たち、昨日、どっちが先にこの子を誘ったんでしたっけ」

「フジちゃん。明日こそ、ほんとに軽く走りましょうか」

「賛成です。クロクモさん、明日は軽い朝練だ。それならどうかな?」

「大丈夫です。軽い日には軽い日用のメニューが、本にちゃんと載ってましたから。帰ったら見ておきますね」

 

 さっきの直線では、半歩だって相手に譲る気のなかった二人である。その二人が、まったく同じ声で悲鳴を上げた。

 

「「そこまでしなくていいから!」」




体操着クロちゃん

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