TS転生ちびっこ和種ウマ娘は、トレセン学園で平凡に暮らしたかった 作:雅媛
先生が黒板に二本目の線を引いた。次はその端に三角形を描いて、たぶん、右側に補助線を一本。
そのとおりになった。
予知能力に目覚めたわけではない。昨夜、教科書のこのページを読んだばかりなのだ。おまけに似たような図形は前世でも習っている。解き方は分かるし、答えも出た。窓際の席は冬の日差しでほどよく暖かい。たいへん眠い。
ボクは頬杖をついたまま、しばらく黒板をぼけーっと眺めていた。先生が定規を持ち替えたところで、このままでは本当に寝るな、と思い、机の中から読みかけの本を出した。
図書室で借りた、ランナー向けの怪我予防の専門書である。朝練でストレッチをしたとき、同じ姿勢を取っているつもりでも、ボクとローレルさんとでは、楽に曲げられる角度がずいぶん違った。そのあたりが気になって借りてきたのだけれど、開いてみると、脚の図ひとつに知らない筋肉の名前が五つも六つも書いてある。こっちはよく眠気が飛ぶ。
教科書の陰で一ページめくり、ときどき黒板を見る。先生が新しい問題を書き始めたので、一度本を閉じて、手元で解いた。顔を上げると、斜め前の子が大きなあくびを噛み殺すところだった。
明るい栗毛のウマ娘だ。片手で頬杖をついて、窓の外を見ている。もう片方の手には消しゴムを持っていて、それが机すれすれをゆっくり飛んで、筆箱の脇に着陸した。なかなか滑らかな着陸だった。
しばらくしてまた見ると、今度は窓を横切る鳥に合わせて、耳が二つ、きれいに左から右へ動いていた。
ああ、退屈してる子がほかにもいる。なんとなく親しみが湧いたところで、先生がその子の名前を呼んだ。
「じゃあ、この三角形の高さは? マヤノトップガンさん」
「六センチでーす」
即答だった。
先生がうなずいて黒板に向き直る。マヤノトップガンさんはまた頬杖をついた。ボクと目が合うと、人差し指を唇に当てて、机の上の消しゴムをちらっと見た。
大丈夫です。よい着陸でしたよ。声には出さず、ボクは小さく親指を立てた。
休み時間になって、ボクのほうからその子の机に行った。向こうもちょうど椅子をこちらへ向けたところだった。
「さっきの、どうして六センチって分かったんですか。ほとんど外を見てたでしょう?」
「えへへ。クロちゃんこそ、ずっと違う本読んでたでしょ」
「あれ。ボクのこと、知ってるんですか?」
「出席取ったときに覚えたよ。クロクモちゃんだから、クロちゃん。そう呼んでもいい?」
「はい。じゃあボクは、マヤノさん?」
「マヤでいいよ!」
そう言って隣の空いた椅子を引いてくれたので、ありがたく座った。
「でね、さっきの。先生がこっちに線を一本引いたら、同じ形のちっちゃいのが見えたでしょ? あ、半分だ、って」
「そこまで見えてたのに、消しゴムで遊んでたんですか」
「だって、答えが分かってからが長いんだもん。クロちゃんだって暇だったでしょ?」
否定できずにうなずいた。ボクは教科書に載っていた補助線を覚えていた。マヤは黒板に一本引かれたのを見て、その場で分かったらしい。退屈になったのは一緒でも、ボクのほうは昨夜、ちょっとずるをしている。
「マヤ、先生が『はい、じゃあ次』って言ってくれるの、ずーっと待ってたんだ。クロちゃんは何読んでたの?」
「これです。脚を痛めずに走るにはどうしたらいいのかなって」
本を渡すと、マヤは表紙に目を落とし、ボクの顔を見た。それから、もう一度表紙を見た。
「授業が退屈で、もっと難しいお勉強してたの?」
「……四角形の将来よりも面白いですよ」
「ふふっ。クロちゃんっておもしろーい」
マヤが笑ってページを開く。挟んでいた貸出票がひらりと落ちて、机の下へ滑り込んだ。マヤが立って椅子をよけてくれたので、もぐり込んで拾う。そうして隣に立ってみて、二人で顔を見合わせた。
あれ。座って話していたときより、だいぶマヤの顔が高い。向こうも同じことに気づいたらしく、さっきまでボクの目があったあたりから、すこし視線を下げた。
「クロちゃん、マヤよりちっちゃいんだ」
「百三十センチです。マヤは?」
「百四十三。……そっかあ。十三センチかあ」
妙にうれしそうである。自分の頭に手を当てて、そのままボクの頭まで下ろしてみている。二人ぶんの耳を律儀によけて測るあたり、この子も背比べには慣れていそうだ。
「いいなあ、十三センチ。分けてほしいです」
「えーっ、マヤだって欲しいよぉ! 学園に来たらね、普通にしてても『何か探してるの?』ってお姉さんたちが聞いてくるんだよ。マヤ、自分の教室に行きたいだけなのに」
「分かります。うちの父さんなんか、ここを受けたいって言ったとき、いちばんに気にしたのが身長でしたもん」
「走る学校なのに?」
「ええ。ほかの子にぶつかったら大丈夫かって。母さんに『この子が走ってきたら、お父さんのほうが避けるでしょう』って言われて、黙っちゃいましたけど」
「あははっ! マヤ、クロちゃんのお母さん好きかも」
窓や黒板に向けていたときより、マヤの耳はずっとよく動いた。笑うとぱっと左右に開くし、ボクが続きを話そうとすると二つともこっちを向く。おかげで、ついついもうひとつ何か話したくなる。
「よし、決めた。マヤたち、低身長同盟ね!」
「よく分からないうちに組織ができました。ちなみに何をする同盟です?」
「んー。クロちゃんが高い棚に届かないときは、マヤが取ってあげる」
「では、マヤにも届かないときは、ボクがマヤを持ち上げます」
「そこは一緒に台を探してよ」
もっともである。うちでは姉さんとそうしていたもので、つい。
ボクが差し出した手を、マヤが笑いながら握った。窓際の机二つの間で、低身長同盟は無事に結成された。
「ね、クロちゃん。走ってても、もっと脚が長かったらなーって思うこと、ある?」
「あります。ついこないだ、ほんとにあと一歩ってところで負けました。ボクの脚がもう十三センチ長ければ」
「それ、まだマヤからもらうつもりでしょ」
ばれていた。
もっとも、あの朝ローレルさんに届かなかったのは、脚の長さより、ボクが後ろでのんびり二人を眺めていたせいだと思うけど。そう話すと、マヤは「ふうん」と椅子に座り直した。
「クロちゃんはさ、前の子と足音をそろえて走ってたら、だんだん置いてかれちゃったこと、ない?」
「あ、あります。ゆっくり走ってるときは、音が合うと気持ちいいんですけど。速くなると、同じ回数だけ地面を蹴ってるはずなのに、なんでかなって」
「うんうん。そこでさ、前の子と同じくらい脚を伸ばそうとするでしょ? 見ててね」
マヤは机の端に人差し指と中指を立てた。指先が交互に机を蹴って、筆箱の横を小気味よく駆け抜ける。次は指をうんと開いて、一歩、もう一歩。前の指を遠くにつくたび、後ろの指が離れるのが遅くなった。
「さっきまでタタタッて走れてたのに、ドスッ、ドスッてなっちゃうの。クロちゃんもなる?」
「なります。それ、姉さんの足跡でやりました」
雪の積もった山道だった。前を行く姉さんの足跡を踏んで走るのが面白くて、初めのうちは笑ってついていけたのだ。ところが姉さんが速くなると、次のくぼみがやけに遠い。どうにか爪先を届かせた頃には腰が後ろに残って、我ながら見事に、ドスッ、である。
しまいに悔しくなって、足跡なんか構わず好きに走った。そのほうがよほど早く姉さんの隣に戻れたのを覚えている。
「マヤも誰かの足跡、追いかけたことがあるんですか?」
「マヤは足跡じゃなくて、ルームメイトのテイオーちゃん。トウカイテイオーっていうんだけど、クロちゃん、知ってる?」
トウカイテイオー。おや、と思った。前世で競馬をろくに見なかったボクにも、その名前には聞き覚えがあった。どんなレースを走ったかと聞かれたら困るけれど、教室の椅子に座って、まさか「マヤのルームメイト」として聞くことになるとは。
「お名前だけは。……その人と、毎朝おんなじ部屋で起きるんですか?」
「そうだよ? 朝なんてね、ベッドからぽんって下りるだけでも軽いの。走るともっとすごいよ」
マヤの指がもう一度、机の端からぽんと跳ねた。なるほど。ボクがかろうじて名前を知っている人のことを、マヤは朝、ベッドから下りるときの足音まで知っているのだ。
「テイオーちゃんの一歩って大きいんだけど、すぐ次の足が出るんだ。いいなあって思ってマヤもやってみたら、最初はさっきのドスッ。だから今度は、足をどこまで伸ばすかは忘れて、音だけ真似してみたの。そしたら、ちょっと弾んだよ」
「マヤ、走ってる人を見て、そんなところまで真似してみるんですか?」
「うん。だって、やってみたくならない?」
「ボク、追いかけてる最中に考えるのなんて、どっち側が空いてるかな、くらいです」
「じゃあ、追いついて横に並んだら?」
「抜きます」
「もうちょっと見てあげて?」
すみません。横に並べたら、前に出たい気持ちのほうが忙しいのである。
マヤは机の上の指を止めて、ひどく楽しそうな顔をした。
「クロちゃんと一緒に走ったら、マヤ、その顔が横に来たところ見れるんだ」
「なんです、その顔って」
「今ね、『抜きます』のとこだけ、すっごくいい顔してたよ」
そういう顔は、鏡の前でやってみろと言われても、たぶんできない。まじまじ見られるうちに頬が熱くなってきたところで、マヤが続きを引き取ってくれた。
「ね、クロちゃんのルームメイトはどんな人?」
「サクラローレルさんっていう、一つ上の先輩です。同室になったその日に、朝のコースを案内してくれるって」
「へえ、やさしいお姉さんだあ」
「はい。翌朝、ボクが追い越そうとしたら、すっごく楽しそうに笑って、そのまま先にゴールしました」
「あ、さっきのあと一歩の人! ……あれ? コースを案内してもらってたんだよね?」
「ええ。最初の一周は、ゆっくり」
「それで、なんで最後は勝負になったの?」
「ボクも不思議なんですよねえ」
フジさんが前に出ようとして、ローレルさんが譲らなくて、二人の尻尾が遠くなって、気がついたときには全力だった。順を追って説明したところ、マヤは最後まで聞いてから、うんうんとうなずいた。
「そっか。三人とも、すっごく走りたかったんだね」
「…………そうですね」
あんなに首をひねっていたのに、マヤにかかると一言で済んだ。黒板の図形もこうやって解いたのかもしれない。
そこで予鈴が鳴った。あれ、もう? さっきの授業の終わりはあんなに遠かったのに。周りで椅子を引く音がして、ボクも借りていた席を立った。マヤが貸出票を元のページに挟み、本を返してくれた。
「ねえ、クロちゃん。お昼、一緒に食べよ。テイオーちゃんがいたら紹介するね」
「ぜひ。ボク、マヤの言う『弾む』っていうの、一度見てみたいです」
「じゃあ、今度はクロちゃんの走りも見せてね。マヤ、どんな顔して抜きに来るのか知りたい」
「いいですよ。お昼は食べますけど」
「もちろん! そこ、どうして念を押すの?」
こちらには、コースを案内してもらうだけの朝練が、いつの間にか勝負になった事情がある。低身長同盟の最初の活動が、昼食抜きの併走になってはたまらない。
席に戻って専門書をしまった。次の教科書を開く。ここも入学前に読んだところである。斜め前では、マヤがまた消しゴムを飛ばしていた。今度の着陸先は筆箱の上。見事に決まって、マヤが肩越しにちらっとボクを見た。ボクはもう一度、小さく親指を立てた。
ついさっきまで、授業が早く終わらないかなと時計ばかり見ていた。
今は、お昼まであと何時間あるのかが気になって、やっぱり時計ばかり見ている。