『謎のおじさん』 作:おじさん好き
▼ 六分街 Random Play 昼
「お兄ちゃーん、看板修理の見積もりはどうだった?」
「……先に言っておくけど、驚かないでね」
「その前置きで驚かない方が無理じゃない?」
見積書を覗き込み、リンは固まった。数日前から『Random Play』の『R』だけが点いたり消えたりしている。電球交換で済むと思っていたのに、配線ごと取り替える費用が並んでいた。
「……お兄ちゃん。これ、ゼロを一つ多く書いてない?」
「僕もそう思って二回確認したよ」
「二回も現実を突きつけられたんだ……」
リンはカウンターに突っ伏した。看板が暗いのも困るが、二人の財布もなかなか明るくなりそうにない。
店内には映画の予告だけが流れていた。
「はぁ……閑古鳥が鳴いてる」
「平日の昼だからね。夕方になれば少しは――」
「その台詞、昨日も聞いた!」
アキラが苦笑した時、入口のベルが鳴った。
カランカラン。
「いらっしゃいませ! ……あっ、おじさん!」
「Hola! やあ、二人とも。やってるかい?」
「見れば分かるでしょ。やってるよ!」
「それはよかった。看板の『R』が休んでいるみたいだったからね」
顔を覗かせたのは、見慣れた中年男性だった。
季節外れのアロハシャツに、白いショートパンツ。サンダルから伸びた脚には立派なすね毛があり、シルバーブロンドの髪は無造作に後ろへ撫で付けられている。整えられた髭に、眼鏡へ取り付けたクリップオン式のサングラス。いかにも気ままな観光客といった格好だが、すれ違えばほのかにウッディな香水が漂う。
妙な格好なのに、妙に似合っている。
「ンナ!」
「ンンナ!」
「おっと。こっちも元気だったか」
カウンター脇にいた18号が駆け寄り、その脚にぴたりとくっついた。おじさんは慣れた様子でしゃがみ、丸い頭を撫でてやる。
「よしよし。今日もお店を守ってくれてありがとうな」
「ンナナ!」
「えー、私たちより先に18号?」
「そりゃあ、こんなに熱烈な歓迎をされたらね」
「私も抱きつけばいい?」
「おや、リンちゃんも甘えん坊に戻ったのかな?」
「撤回! 絶対しない!」
リンが頬を膨らませると、おじさんは声を立てて笑った。
こういう人なのだ。誰とでも気安く話すし、時々しょうもない冗談を言う。それでいて、人が本当に困っている時には妙に気が利く。
兄妹にとっては、物心ついた頃から知っている馴染みの顔だった。
「それで、今日は何を借りに来たの?」
「何か面白そうなのを一本。おすすめはあるかい?」
「あるよ! この前入った新作がね――」
「リン、ちょっと待って。その映画、おじさん先週借りてたよ」
「えっ、そうだっけ?」
「借りた借りた。なかなか面白かったよ。最後の展開が特にね」
「ストップ! 私まだ観てないから、ネタバレ禁止!」
「おや、危ないところだった」
おじさんはわざとらしく口を閉じ、二本の指で唇に鍵を掛ける仕草をした。リンが呆れ、アキラが小さく笑う。
やがて、おじさんは棚の隅から古い映画を一本選んだ。派手なアクションも、話題の俳優も出ない、何年も前の家族向けの作品だ。
「それ、好きだね。もう何回目?」
「さあ、十回は超えたかな」
「そんなに観て飽きないの?」
「好きなものは何度でも楽しめるだろう? それに、観るたびに違うところが気になるんだ」
そう言って、懐かしそうにパッケージを眺める。
アキラはその横顔を見て、少しだけ不思議に思った。以前も同じ映画を選んでいた。その時も、今と同じ顔で笑っていた。
「……ん? アキラ、どうかしたかい?」
「ううん。何でもないよ」
会計の際、おじさんがカウンターに置かれた見積書に目を留めた。
「看板、直すのかい?」
「うん。でも思ったより高くて。もう一社に聞いてみるつもりなんだ」
「なるほど。じゃあ、そっちの見積もりが出てからだな」
「おじさんなら自分で直せたりしない?」
「ははっ、買いかぶりすぎだよ。素人が下手にいじったら、余計に高くつくかもしれないだろう?」
おじさんはそう答えてから、ふとアキラを見た。
「必要なら修理代くらい出すよ。遠慮はいらないからね」
「ありがとう。でも、まずは僕たちで何とかしてみるよ」
「そうか。なら、そうしよう」
あっさり引き下がったおじさんは、どこか嬉しそうだった。
昔は何かにつけて助けてもらった。食べ物を差し入れてくれた日もあれば、困っている兄妹を迎えに来てくれたこともある。それを当然だとは思っていないし、恩返しだってしたい。
けれど、おじさんはいつも同じように笑うのだった。
「二人とも、ちゃんと大きくなったなあ」
「……そんなにしみじみ言われると、照れるよ」
「お兄ちゃんだけじゃないよ! 私だって立派になったし!」
「そうだな。二人とも立派になった」
そう言われると、リンもそれ以上は言い返せない。
「ところで、二人とも腹は減ってないかい?」
「減ってる!」
「……リン、まだ何も言ってないよ」
「分かってるって。おじさんのお誘いでしょ?」
「ははっ、正解。チョップ大将のところでラーメンでもどうかな? もちろん私が出すよ」
「行く!」
「ご一緒します」
今度はアキラも即答だった。
「……お兄ちゃんも同じじゃん」
「誘ってもらったんだから、断るのも悪いだろう?」
「はいはい。そういうことにしておこうか」
おじさんは愉快そうに目を細めた。
▼ 六分街 滝湯谷・錦鯉
「おっ、今日は三人一緒か!」
「やあ、大将。いつものを三つ……いや、リンちゃんは別のにするかい?」
「私、今日は辛いやつ!」
「じゃあ、それでお願いします」
チョップ大将の威勢のいい声に迎えられ、三人はカウンターに並んで腰を下ろした。18号に店番を頼んできたので、長居はできない。
ほどなくして、湯気を立てる器が並んだ。
「いただきます!」
「いただきます」
「うん。やっぱりここのラーメンはうまいなあ」
おじさんは麺を啜り、満足そうに息をついた。
「そういえば、おじさん。最近どうよ?」
「ん? 最近かい?」
「いつも昼間から歩いてるけど、ちゃんと仕事してるの?」
「失礼だなあ。これでも毎日忙しいんだぞ」
「何で?」
「散歩に映画に食べ歩き。時間がいくらあっても足りないよ」
「それ全部遊びじゃん!」
リンが笑う。おじさんも笑った。
「おじさん、仕事の話になるといつもはぐらかすよね」
「難しいことを聞かないでくれよ。せっかくのラーメンが伸びちゃうだろう?」
「絶対ごまかした!」
「ばれたか」
悪びれもしないので、追及する気も失せる。
アキラは苦笑しながら、おじさんの器を見た。話している間に麺はほとんどなくなっている。随分と器用なものだ。
「でも、元気そうで安心したよ」
「おや。私の心配をしてくれるのかい?」
「当たり前だよ。ずっと世話になってるんだから」
「……そうか」
ほんの一瞬、おじさんの表情が柔らかくなった。
「ありがとう。おじさんは幸せ者だな」
「急にどうしたの?」
「いや、何でもない。ほら、リンちゃん。スープが跳ねるぞ」
「えっ、うそ!?」
慌てて服を確かめるリンを見て、おじさんはまた笑った。
▼ 六分街 夕方
「ごちそうさま! おじさん、ありがと!」
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。二人が元気そうで何よりだよ」
Random Playの前まで戻ると、おじさんはレンタル袋を片手に持ち直した。袋の角が膝の辺りで揺れている。
「それじゃ、そろそろ行こうかな」
「また映画返しに来てね」
「もちろん。今度はおすすめを一本、用意しておいてくれ」
「任せて!」
「Adiós。またな、二人とも」
片手を上げて、おじさんは六分街の人混みへ消えていった。
その背中を見送りながら、リンがぽつりと呟く。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「今さらなんだけど、私たち、おじさんの名前知らなくない?」
アキラは一度口を開き、閉じた。
「……確かに」
「でしょ? 私たち、あんなにお世話になってるのに」
「そういえば、ちゃんと聞いたことがないね」
「昔、一回聞いたんだけどさ。『おじさんはおじさんだよ』って笑われたんだよね」
「言いそうだなあ」
どこに住んでいるのか。普段は何をしているのか。そもそも何歳なのか。
知らないことばかりだった。
「……私たち、意外と何も知らないんだね」
「まあ、昔からそういう人だから」
「それで済ませちゃっていいのかな?」
それでも、二人が不安にならないのは不思議だった。知らないことは多いのに、信じられる理由ならいくらでも思いつく。
リンは首を傾げ、アキラは少し考えてから店へ戻った。
▼ Random Play スタッフルーム
「Fairy、少しいいかな」
『はい、マスター。ご用件をどうぞ』
「さっき店に来た人の名前を調べられる? 常連さんなんだけど、僕たちも知らなくて」
『承知しました。対象の指定をお願いします』
アキラが今日の店内映像を開く。画面には、18号を撫でているアロハシャツのおじさんが映っていた。
「この人!」
『対象を確認。人物照合を開始します』
数秒ほど経ってから、返答があった。
『該当者なし』
「えっ?」
『公開されている人物情報との照合では、身元を特定できませんでした』
「Fairyでも分からないんだ」
『マスター。私は万能ではありません。情報が存在しなければ、検索によって発見することは不可能です』
「それはそうだけど……」
アキラが映像を見直す。顔も隠さずビデオを借り、ご飯まで奢ってくれた人だ。
『ただし、不可解な点があります』
「何?」
『映像内の人物の顔は十分な精度で取得できています。それにもかかわらず、氏名、住所、所属など、身元に繋がる情報が一切確認できません』
「……そういう人も、いるんじゃない?」
『肯定。ですが、この人物は少なくともマスターたちと長い交流があるようです』
そこでFairyは、淡々と付け加えた。
『身元不明の人物から継続的に食事や金銭的な援助を受けている状況は、慎重に判断すべきです』
「うっ……」
「それを言われると、ちょっと耳が痛いかも」
リンが気まずそうに笑い、アキラも頷く。相手を疑いたくはない。それでも、何も知らないままでいるのは違う気がした。
「じゃあ、今度会ったら聞いてみようか」
「うん。それが一番早いかも」
『合理的な判断です。なお、対象の名前が不明な場合でも、仮の登録名を設定できます』
「へえ、何にする?」
「……おじさん、かな」
『登録しました。識別名――「おじさん」』
二人は顔を見合わせた。
「……結局、それなんだ」
「だって、他に呼び方がないし」
思わず笑い合う。
「あ、そうだ。昔の写真もあるよ」
「写真?」
「ほら、これ。私たちがまだ小さかった頃の」
リンが表示したのは、古い記念写真だった。幼い兄妹の背後で、二人の肩に手を置いているのはアロハシャツの男だ。
「懐かしいね」
「でしょ? この頃からおじさんって呼んでたんだよね」
Fairyが写真を読み取る。
『……マスター。一点、確認してもよろしいでしょうか』
「何?」
『この写真は、加工されていますか?』
「ううん。どうして?」
『撮影日時と現在の映像を比較しましたが、対象人物に目立った加齢変化が見られません』
アキラは二つの画面を見比べた。
幼い兄妹の背後で笑うおじさん。今日、18号の頭を撫でていたおじさん。
髪型も、髭も、笑った時の目尻も。
「……そういえば、あの人って昔からあんな顔だったね」
知っているはずの人のことが、少しだけ分からなくなった。
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