ACE COMBAT: SKIES INHERITED 作:無名のエース
2019年5月15日。
ユージア大陸、フォートグレイス島。
空には、まだ国境があった。
人々はそれを当然のものとして受け入れ、国家はその境界を守るために軍隊を置き、兵士たちは命令に従って銃を取り、戦闘機に乗った。
だが、空そのものに境界線が引かれているわけではない。
そこにあるのは、果てしなく広がる青と、時折流れる雲だけだ。
二十年前、その空を巡って一つの大陸が戦火に包まれた。
そして、一人の戦闘機乗りが現れた。
たった一機で戦局を変え、幾多の敵機を撃墜し、最後には大陸を覆っていた戦争そのものを終わらせた男。
青いリボンを機体に描いた、名もなき英雄。
人々は彼をこう呼んだ。
メビウス1。
だが、これは彼の物語ではない。
これは、かつての英雄が守った空を、次の世代が受け継ぐ物語。
そして、その中心に立つのは――
三本の赤い線を背負うことになる、一人の若きパイロットだった。
1 フォートグレイス島
午前六時四十分。
フォートグレイス島空軍基地の格納庫では、整備員たちが慌ただしく動き回っていた。
工具の金属音。
航空燃料の匂い。
遠くで始動するジェットエンジンの低い唸り。
いつもと変わらない朝だった。
少なくとも、その時までは。
「おい、そっちの点検は終わったか?」
「あと五分だ! 急かすな!」
「今日も訓練飛行だろ? そんなに慌てる必要あるかよ」
「そういう日に限って何か起きるんだよ」
整備員の一人が、冗談めかしてそう言った。
誰も笑わなかった。
ここ数週間、オーシア連邦とエルジア王国の関係は急速に悪化していた。
原因は、国際軌道エレベーター。
かつて小惑星ユリシーズの落下によって甚大な被害を受けたユージア大陸。その復興を象徴する巨大建造物は、オーシアの支援によって完成した。
しかし、エルジアはそれを単なる復興事業とは見ていなかった。
大陸への政治的介入。
軍事的影響力の拡大。
そして、オーシア主導の国際秩序の押し付け。
エルジア政府はそう主張し、両国の対立は深まっていた。
もっとも、現場の兵士にとって、政治家たちの言葉は遠い世界の出来事だった。
彼らにとって重要なのは、今日の機体が飛べるかどうか。
そして、飛び立った仲間が無事に帰ってくるかどうか。
それだけだった。
「……お前、聞いたか?」
格納庫の片隅で、若い整備員が同僚に声を潜めた。
「何を?」
「IUNの増援の話だよ。大陸の向こうじゃ、相当な数の部隊が動いてるらしい」
「またエルジアが何かやらかしたのか?」
「さあな。ただ、古い部隊まで引っ張り出してるって噂だ」
「古い部隊?」
「大陸戦争の生き残りとか」
同僚は鼻で笑った。
「二十年近く前の話だろ。そんな連中、もうとっくに引退してるんじゃないのか?」
「どうだろうな」
そこで会話は終わった。
彼らの背後を、一人のパイロットが通り過ぎたからだ。
若い男だった。
飛行服を着込み、ヘルメットを片手に抱えている。
その足取りに迷いはない。
「おう、トリガー!」
整備員が声をかける。
「今日も頼むぜ。こいつは昨日から機嫌がいいんだ」
男――トリガーは、軽く片手を上げた。
それだけだった。
「相変わらず無口な奴だな」
「腕は確かなんだけどな」
「まあ、空で仕事してくれりゃ文句はねえよ」
トリガーは振り返らない。
自分の機体へと歩み寄り、その機首を見上げた。
灰色の機体。
整備の行き届いた翼。
まだ何の勲章も、特別な塗装もない戦闘機。
彼はその表面に手を触れた。
冷たい金属の感触が、手袋越しに伝わってくる。
間もなく、出撃の時間だった。
2 開戦
午前七時過ぎ。
基地全体に警報が鳴り響いた。
それは訓練用の短い警告音ではなかった。
格納庫の照明が赤く点滅する。
続いて、基地放送が怒鳴るように響いた。
『全飛行要員に告ぐ! 緊急発進! 繰り返す、緊急発進!』
整備員たちの表情が変わる。
「何だ!?」
「レーダーに反応! 多数の航空目標が接近中!」
「所属は!?」
「エルジア軍だ!」
一瞬の沈黙。
そして、誰かが叫んだ。
「戦争が始まったぞ!」
その言葉が、現実になるまでに時間はかからなかった。
エルジア王国はオーシア連邦に宣戦布告。
同時に、無人航空機を中心とする大規模な奇襲攻撃を開始した。
主要な軍事基地、港湾施設、航空戦力。
攻撃対象は広範囲に及んでいた。
フォートグレイス島も例外ではない。
『メイジ隊、ゴーレム隊、スクランブル! 敵航空部隊を迎撃せよ!』
管制官の声が飛ぶ。
トリガーはすでに機体へ乗り込んでいた。
キャノピーが閉じる。
外の騒音が遠ざかり、代わりに計器の電子音と自分の呼吸が耳に残った。
HUDに表示が灯る。
エンジン始動。
計器確認。
操縦桿を握る右手に、余計な力は入っていない。
『メイジ2、聞こえるか?』
無線が入る。
メイジ1、クラウン。
トリガーの編隊長だ。
『こちらメイジ1。初陣になるが、落ち着いてついてこい。いいな?』
トリガーは短く機体を動かし、了解の意思を示した。
『よし。行くぞ』
滑走路へ向かう二機。
その前方で、先行するゴーレム隊の戦闘機が次々と離陸していく。
遠くの空には、黒い煙が上がっていた。
すでにどこかの施設が攻撃を受けている。
『メイジ1、離陸許可!』
クラウンの機体が加速する。
続いてトリガー。
アフターバーナーが点火され、機体が滑走路を駆け抜ける。
速度が上がる。
地面が後方へ流れていく。
そして――
浮いた。
機体が地上を離れ、空へと舞い上がる。
その瞬間、トリガーの視界から基地の喧騒が消えた。
眼下には海。
前方には雲。
そのさらに向こうに、敵がいる。
『こちらAWACSスカイキーパー。メイジ隊、ゴーレム隊、聞こえるか?』
落ち着いた男の声が、通信回線に入った。
『敵航空部隊が接近中。各機、指示に従い迎撃を開始せよ』
『ゴーレム1、了解』
『メイジ1、了解。メイジ2、遅れるなよ』
トリガーは操縦桿をわずかに倒した。
機体が滑らかに旋回し、クラウンの後方へ収まる。
その動きは驚くほど自然だった。
クラウンがちらりと後方を確認する。
『……いい位置だ。そのまま維持しろ』
まだ誰も知らない。
この若いパイロットが、やがて戦争の行方を左右する存在になることを。
3 最初の一機
『敵機確認! 方位二七〇、距離三十!』
スカイキーパーの声が響いた。
『敵は無人機を伴っている。各機、警戒せよ!』
水平線の向こうに、小さな黒点が見えた。
一つ。
二つ。
いや、もっと多い。
ゴーレム隊が先行する。
『ゴーレム2、敵機を視認!』
『ゴーレム1より各機、交戦開始!』
直後、空に白い軌跡が走った。
ミサイル。
遠方で小さな閃光が生まれ、一機の敵機が炎を噴いて落下していく。
戦闘が始まった。
『メイジ隊も交戦を許可する。敵機を排除せよ!』
『メイジ1、了解。メイジ2、行くぞ!』
クラウンが加速する。
トリガーも続いた。
前方の敵機が左右に散開する。
一機が急上昇。
別の一機は高度を下げ、海面近くへ逃げる。
トリガーのレーダーに複数の反応が表示された。
彼はその中から一機を選んだ。
目標は無人戦闘機。
敵機は右へ旋回しながら加速している。
トリガーは追った。
だが、単純に後ろへついたわけではない。
敵機が旋回を開始した瞬間、トリガーは内側へ機首を向け、速度を調整した。
旋回半径を小さくする。
敵機が描く弧の内側を通る。
結果、両機の距離が急速に縮まった。
『メイジ2、深追いするな!』
クラウンの警告。
しかし、その時にはすでにトリガーのHUDが敵機を捉えていた。
ロックオン。
電子音が変化する。
トリガーの指が動いた。
ミサイル発射。
白煙を引いて飛び出した誘導弾が、敵機へ向かう。
敵は急旋回。
だが遅い。
ミサイルが機体後部へ命中した。
爆発。
翼の一部が吹き飛び、無人機は炎をまといながら海へ落ちていく。
『敵機撃墜を確認!』
スカイキーパーが告げる。
『メイジ2、初撃墜だ。よくやった』
クラウンの声にも、わずかな驚きが混じっていた。
初陣の新人にしては、あまりにも落ち着いている。
いや。
落ち着いているというより――
迷いがない。
クラウンはそう感じた。
しかし、感心している暇はなかった。
『メイジ1、後方に敵機!』
「何っ!?」
クラウンが振り返る。
一機の無人機が背後へ回り込んでいた。
『くそっ、いつの間に!』
敵機の機首がクラウンを捉える。
その瞬間。
トリガーが動いた。
操縦桿を引き、機体を上昇させる。
敵機の射線を避けながら高度を稼ぎ、頂点付近で機首を反転。
速度を落としすぎないよう旋回し、クラウンを追う敵機の側面へ回り込んだ。
『メイジ2!?』
クラウンが叫ぶ。
トリガーの機体が視界を横切った。
次の瞬間、機関砲の曳光弾が走る。
短い連射。
敵機の翼に火花が散った。
無人機が姿勢を崩す。
そこへ、トリガーの二発目のミサイルが突き刺さった。
爆発。
クラウンの背後から、敵機が消える。
『……助かった、メイジ2』
トリガーは返事をしない。
ただ、再び編隊位置へ戻った。
その動きに、クラウンは小さく息を吐いた。
『まったく……とんでもない新人だな』
4 空を埋める敵
戦況は、決して楽観できるものではなかった。
『新たな敵編隊を確認!』
『こちらゴーレム3! 敵機が多すぎる!』
『無人機だ! あいつら、いくら落としても次が来る!』
通信回線が騒がしくなる。
トリガーは高度を上げ、周囲を見渡した。
青空のあちこちに白い飛行機雲が交差している。
爆発。
炎。
黒煙。
戦闘機が落ちていく。
無人機は恐怖を知らない。
疲労もしない。
パイロットの命を守るために攻撃を中断することもない。
命令された目標へ向かい、設定された条件に従って攻撃する。
それだけだ。
だが、それは決して無敵という意味ではなかった。
『メイジ2、十一時方向!』
クラウンの声。
トリガーは即座に機体を傾けた。
敵機が正面を横切る。
すれ違いざまに敵機が旋回を開始する。
トリガーは追わなかった。
代わりに、敵が次に向かう空間へ機首を向けた。
相手の現在位置ではない。
数秒後に到達する位置。
敵機が旋回を終えた時、すでにトリガーの機体は有利な角度にいた。
『……何だ、あの動きは?』
ゴーレム隊の一人が呟いた。
『あいつ、敵の動きを読んでるのか?』
トリガーは発射ボタンを押した。
三機目。
敵機が爆散する。
しかし、その直後。
警告音。
《MISSILE ALERT》
背後から別の無人機が迫っていた。
トリガーは即座に旋回。
ミサイルが機体の後方を通過する。
さらに二発目。
彼はチャフ・フレアを散布しながら高度を下げた。
眼下の海面が急速に近づく。
敵機も追ってくる。
低高度。
高速。
わずかな操縦ミスが、そのまま死につながる領域。
トリガーは水平飛行へ移った。
海面すれすれを駆け抜ける。
追跡する無人機も高度を下げた。
その瞬間、トリガーは機首を引き上げた。
急上昇。
敵機が追随する。
だが、トリガーは上昇を続けなかった。
機体をひねり、上昇角を変える。
敵機は一瞬、追尾のために大きな修正を強いられた。
そのわずかな隙。
トリガーは旋回し、敵機の後方へ回った。
ロックオン。
発射。
四機目。
『敵機撃墜!』
スカイキーパーが報告する。
『メイジ2、見事だ。しかし周囲への警戒を怠るな』
トリガーは機体を水平に戻した。
彼の呼吸は、ほとんど乱れていなかった。
ただし、恐怖がなかったわけではない。
敵のミサイルが背後へ迫った時。
海面が視界いっぱいに広がった時。
ほんの一瞬、死の可能性が頭をよぎった。
それでも、手は止まらなかった。
生き残るために必要な操作を、必要な順番で行った。
その結果として、今も飛んでいる。
彼にとって空とは、そういう場所だった。
5 帰還
『敵航空部隊の後退を確認』
スカイキーパーの声が響いた。
『残存敵機は作戦空域から離脱中。各機、追撃は不要。帰投せよ』
ようやく、無線に安堵の気配が戻った。
『ゴーレム1、了解』
『メイジ1、了解。メイジ2、戻るぞ』
トリガーはクラウンの後方へついた。
眼下には、穏やかな海が広がっていた。
先ほどまで激しい戦闘が行われていたとは思えないほど、静かな景色だった。
しかし、遠くにはまだ黒煙が上がっている。
基地が攻撃された。
仲間が死んだ。
そして、戦争が始まった。
今日の勝利は、その事実を何一つ変えない。
『……メイジ2』
帰投途中、クラウンが声をかけた。
『初陣にしては上出来だったな』
返事はない。
『いや、上出来どころじゃないか』
クラウンは小さく笑った。
『俺の後ろを守ってくれたことも含めて、礼を言う』
トリガーは翼をわずかに傾けた。
『……ははっ。そうか』
クラウンも機体を揺らして応じる。
『これからも頼むぞ、相棒』
その言葉が、どれほど長く続く関係を意味するのか。
この時の二人は、まだ知らなかった。
やがてフォートグレイス島が見えてくる。
滑走路。
管制塔。
格納庫。
朝に飛び立った場所へ、彼らは戻ってきた。
しかし、そこはもう、朝と同じ世界ではなかった。
6 古い記録
同日、夜。
フォートグレイス島空軍基地。
戦闘報告書の提出を終えたトリガーは、人気の少ない通路を歩いていた。
昼間の喧騒は収まり、基地には重苦しい静けさが漂っている。
壁には、過去の作戦記録や航空部隊の写真が飾られていた。
その中に、一枚の古い写真があった。
ユージア大陸戦争。
2005年。
破壊された巨大兵器の残骸を背景に、数機の戦闘機が写っている。
写真の下には、短い説明文。
大陸戦争終結。ISAF航空部隊の活躍。
そして、その横。
一機のF-22Aが写っていた。
青いリボンのエンブレム。
機体番号ではなく、たった一つのコールサインが記されている。
MOBIUS 1
トリガーは足を止めた。
その名前を知らないパイロットは、少なくともユージアでは珍しい。
ストーンヘンジ。
黄色中隊。
メガリス。
大陸戦争の歴史を語る際、必ず登場する名前だった。
一人のパイロットが、戦争の流れを変えた。
そんな話を、トリガーも聞いたことがある。
もっとも、戦史の記述は常に簡潔だった。
何機撃墜した。
どの作戦に参加した。
どの戦闘で勝利した。
そこに、彼が何を考え、何を感じていたのかは記されていない。
写真の中の機体も同じだった。
パイロットの顔は見えない。
名前もない。
ただ、青いリボンだけが残されている。
「……ああ、それか」
背後から声がした。
振り返ると、年配の整備員が立っていた。
昼間、トリガーの機体を送り出した男だった。
「懐かしいな。メビウス1か」
整備員は写真を見上げる。
「昔はよく聞いた名前だ。エルジアの連中にとっちゃ、悪夢みたいな存在だったらしい」
少し間を置き、続けた。
「俺は実際に飛んでるところを見たことはないけどな」
トリガーは写真へ視線を戻した。
「本当に一人で戦局を変えたのかって?」
整備員は、彼の沈黙を勝手にそう解釈したらしい。
「さあな。戦争ってのは、たった一人で勝てるもんじゃない。地上で戦う連中も、機体を整備する連中も、みんな必死だ」
そこで男は笑った。
「ただな」
その声が、少しだけ低くなる。
「それでも、あいつが飛んでくるだけで味方が勝てると思ったって話は、何度も聞いたよ」
トリガーは何も言わなかった。
整備員は肩をすくめる。
「まあ、昔話だ。今は俺たちが生き残ることを考えなきゃな」
そう言って、男は通路の奥へ歩いていった。
再び静寂が戻る。
トリガーは、もう一度写真を見た。
青いリボン。
その意味を、今の彼はまだ知らない。
ただ、長い時間をかけて多くの人間が語り継いできた、一人のパイロットの証。
それだけだった。
やがて彼は歩き出した。
振り返ることなく、通路の奥へ消えていく。
写真の中の戦闘機は、変わらず空を向いていた。
7 遠い空の向こうで
同じ夜。
ユージア大陸の別の場所。
IUN-PKFの航空作戦施設では、灯台戦争開戦の報告を受けた士官たちが、慌ただしく情報を整理していた。
壁面の大型スクリーンには、大陸全域の戦況が表示されている。
赤い光点が増え続けていた。
「エルジア軍の攻勢は予想以上です」
「無人航空機の投入数が多すぎる。これでは迎撃部隊が消耗する一方だ」
「各基地の航空戦力を再配置する必要があります」
士官の一人が、端末を操作した。
「それと、待機中の航空要員についてですが」
「何だ?」
「出撃可能な機体とパイロットの再確認を進めています」
画面に、複数の部隊情報が表示される。
その中の一つ。
所属、IUN-PKF。
機種、F-22A Raptor。
そして、コールサイン。
士官の手が止まった。
「……このパイロットは?」
隣の上官が画面を覗き込む。
一瞬、その表情が変わった。
「まだ現役なのか?」
「はい。少なくとも、登録上は」
「そうか……」
上官は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに告げる。
「現時点では待機命令を維持しろ。状況が変われば、こちらから連絡する」
「了解しました」
端末の画面が切り替わる。
そこには、一つの青いエンブレムが表示されていた。
輪を描くリボン。
途切れることなく続く、無限の象徴。
かつてユージアの空を取り戻した男は、まだ飛んでいた。
だが、その事実を知る者は多くない。
ましてや、フォートグレイス島から帰還したばかりの若きパイロットが知るはずもなかった。
二人の空は、まだ交わらない。
今は、まだ。