11月上旬のある夜。
営業を終えた「神原食堂」の暖簾を潜り、一人の大人が入ってきた。三葉スポーツクラブのジュニアユース監督だった。
看板の灯を落とし、常連客たちが去って静まり返った店内のカウンターの端で、正と三葉の監督が静かに言葉を交わした。厨房の奥ではまだ、温まったガス台の熱気と、出汁の匂いがかすかに残っている。
三葉の監督は「神原さん、三葉の推薦状を持たせて送り出しながら、陸を次のステージへ導いてやれなかった。私の指導力不足です。本当に申し訳ない」と、深く頭を下げた。教え子の未来を繋げられなかったプロの指導者としての、痛恨の悔しさがその声には滲んでいた。
その言葉に、正は調理服のまま静かに首を振った。
「……いや、先生。頭を上げてくれ。あいつが自分で選んでやっていることだ。結果はあいつが自分自身で受け止めるしかねえよ」
ぶっきらぼうに、しかし息子への確固たる信頼を滲ませながら言い切った。
三葉の監督はゆっくりと頭を上げると、父親を真っ直ぐに見つめた。それから、神原家の不器用な信頼に応えるように居住まいを正し、懐から一通の白い封筒を取り出した。そこには、筆文字で大きく『帝東高等学校』と宛名が記されている。監督はその封筒を、正の前の木目のカウンターへそっと差し出した。
「うちのクラブが出せる最後の推薦状です。推薦先は帝東高校。高校サッカーの名門校です。ただ、うちのクラブと帝東は歩むアプローチが180度違う。徹底された規律と上下関係、剥き出しの球際の強さ。何よりも一発勝負のトーナメントで勝つということに対して、誰よりも直向きな執念を持った伝統校です。推薦のメイン枠は秋口にほぼ埋まっていますが、帝東の地元枠に急な辞退者が出て、この11月中旬、奇跡的に1枚だけ残った。そこへ私が、神原陸という男をテストしてほしいと、帝東の老監督へ直接頭を下げてねじ込んってきた最後のチャンスです。――あそこなら、もう一度あいつが自分自身の力で這い上がれるチャンスがあります。神原さん、この推薦状を、お父さんの手から陸に渡してやってもらえませんか」
正は何も言わず、ただ黙ってその白い封筒を受け取った。
数日後の夜のこと、陸がいつも通りカウンターの端で生姜焼きを食べているときだった。夜の店内はいつものように酔客の活気で満ちており、親父の振るフライパンの音が規則正しく響いていた。
正が厨房の奥から、何も語らずにその白い封筒を陸の前に置いた。
「これ、三葉の先生からだ」
陸はその文字を見て息を呑んだ。
『帝東高等学校』
手紙を読むと、それは帝東高校が設けている、地元の有望な選手たちをすくい上げるための『第四学区枠トライアウト』への参加推薦だった。お墨付きのエリートとしてではなく、地元枠から自らの力のみで評価を勝ち取りにいく、剥き出しの挑戦権。
自分が知らないところで、親父や三葉の監督といった大人たちが、次の道を探してくれていた。
何百人もの受験生が数少ない枠を争う厳しい現実の裏で大人たちが必死に自分のサッカー人生を繋ぎ止めようとしてくれた、その真実を陸は知った。
手紙を見つめる陸の目に静かな炎が灯った。
二階の自室に戻り陸は再び使い込まれた戦術ノートを机の上に広げた。
まだ終われない。
どこでだって、俺のサッカーを認めさせてやる。
大山の夜の静けさの中、陸は一人、決意を新たにした。