3月下旬。
桜の蕾がようやく膨らみ始めた頃、板橋区立の中学校で卒業式が執り行われた。
校門の前でクラスメイトたちが名残惜しそうに写真を撮り合い、高校へ行っても遊ぼうだのと浮き足立つ声を上げている中、陸は卒業証書の入った筒をカバンに収め一足早く正門をくぐり抜けていた。
明日から帝東高校サッカー部の『新入生強化合宿』が始まる。まだ高校の入学式すら迎えていない中学生の籍のまま、推薦組の1年生は遠征合宿へと帯同し、高校サッカーの洗礼を叩き込まれることになっていた。
夕暮れ時。陸が実家の神原食堂の裏手にある、大山駅近くの古びた児童公園のベンチでスパイクの泥を落としていると、カサリ、と乾いた靴音があがった。
「陸」
見上げると、エナメルバッグを肩にかけた時田康平が立っていた。数ヶ月ぶりに見る相棒の身体は、三葉ユースの過酷な練習に揉まれているだけあって、中3の夏頃よりも明らかに胸板が厚くなり、高校生アスリートとしての骨格へと変わり始めていた。
「卒業、おめでとう」
「お前もな、康平」
二人は短く言葉を交わすと、どちらからともなく公園の硬い土の上へと歩み出した。陸がバッグから使い古したサッカーボールを取り出し康平の足元へサッと転がす。
夕暮れの静かな公園に、小気味良いトラップの音が響いた。
「ほら、行くぞ」
康平が右足を振り抜く。サッと戻ってきたそのパスをインサイドで受け止めた瞬間、陸に驚きが走った。地を走る正確な弾道。しかし、その球質は一緒にブレーしていた頃とは完全に異なっていた。ユースの屈強な上級生たちに囲まれ、激しいプレスの中でパスを通し続けてきた康平のボールは、驚くほど重く、鋭く、陸のスパイクを激しく叩いた。
(重え……。康平はもう、完全に上の強度でサッカーをしてる)
陸は無意識のうちに重心を落とし、母指球で地面を捉えてその重いパスを受け止め、狂いなく康平の足元へと送り返した。冬の間、三葉の外部進学メニューで毎日泥にまみれ、体幹の軸を徹底的にいじめてきたからこそ、今の陸は康平の進化に遅れることなく、その重いパスを完璧にコントロールして返せていた。
遊具しかない小さな公園で、かつて三葉の心臓と呼ばれた2枚のインサイドハーフが、無言のままパスを交わし続ける。
「明日から、帝東の合宿だろ」
ボールを足元で止め、康平がネットの向こうの空を見上げるように呟いた。
「ああ。御殿場だってさ。全国の強豪と死ぬほど試合やるらしい」
「そういえばお前、帝東では球際で一回でも逃げたら、あそこのスキンヘッドの監督にその場ですぐ干されるらしいから、マジで死ぬなよ」
康平は少しだけ意地悪く笑ったが、その目には別のルートから高校サッカーの頂点へと挑む相棒への確固たる信頼が宿っていた。
「分かってるよ。お上品にパスを捌くだけのヤツの席なんて、帝東にはねえからな」
陸は自分の弱気な癖を自嘲気味に口にしながらも、不敵に笑い返した。
「秋、絶対に出ろよ。高円宮杯の全国トーナメントだ」
康平がボールを踏み、真っ直ぐに陸を見つめた。
「お前らがクラブユースを勝ち上がって、俺たちが帝東で高体連の枠をもぎ取れば、秋に一発勝負で戦える。――あのピッチの真ん中で、今度は敵としてお前をぶっ潰す」
その言葉に、陸の胸の奥で燻っていた炎が一気に爆発した。高校とクラブ。住む世界が完全に分かれるこの年代で、互いの意地をかけて激突できる唯一の聖地。
「当たり前だ。そのために、俺はあの黒土に行くんだ。……国立か西が丘で待ってろ」
それ以上、余計な言葉は必要なかった。二人はボールをバッグに収めると、大山の駅前へと向かう分岐の道で、短く拳を突き合わせ、互いに背中を向けて歩き出した。
振り返ることはしなかった。温室を追い出され、泥を這うようにして掴み取った帝東への切符。明日から始まる、高校サッカーという果てしない戦場での生き残りへ向けて、神原陸の戦いがここから始まる。