遊戯駒の章   作:にんら

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差出人のない手紙

 ナシャタウンの冒険者協会の前で、旅人とパイモンは、いきなり腕を掴まれた。

 

「いた! 探したぜ、旅人!」

 

 振り返ると、ヤフォダが立っていた。息を切らして、額に汗を浮かべている。どうやら町中を走り回っていたらしい。

 

「うわっ、ヤフォダ! どうしたんだ、そんなに慌てて」

 

 パイモンが目を丸くすると、ヤフォダはきょろきょろと辺りを見回した。誰も聞いていないことを確かめてから、声を潜める。

 

「頼みがあるんだ。……姐さんには、内緒で」

 

「内緒?」

 

「しーっ! 声がでかい!」

 

 ヤフォダは旅人の袖を引っ張って、冒険者協会の裏手の路地に連れ込んだ。木箱の陰にしゃがみ込み、懐から小さな布袋を取り出す。中身がじゃらりと鳴った。モラだ。

 

「報酬は、あたいの給料から出す。足りなかったら、来月の分も出す。だから、頼む」

 

「お、おう……そんなに大事な依頼なのか?」

 

 パイモンが身を乗り出した。ヤフォダは、真剣な顔でうなずいた。

 

「秘聞の館にさ、何年も前から、差出人の分からない手紙が届くんだ」

 

 ヤフォダの話は、こうだった。

 

 数年前のある日から、館に一通の手紙が届くようになった。差出人の名前はない。宛名は、いつも「秘聞の館へ」とだけ。中には、短い情報が書かれている。どこの商会が裏で密輸をしているか。どの賞金首がどこに潜んでいるか。どの勢力が、館に手を出そうとしているか。

 

「それがさ、毎回、全部当たってるんだよ。一回も外れたことがない」

 

「すごい情報屋なんだな!」

 

「すごいなんてもんじゃない。姐さんの情報網より、早いときがあるんだ」

 

 ヤフォダは、悔しそうに唇を尖らせた。

 

「で、手紙には毎回、決まって同じものが入ってる」

 

「同じもの?」

 

「駒だよ。盤上遊戯の、木彫りの駒。小指の先くらいの大きさの」

 

 パイモンと旅人は、顔を見合わせた。

 

「インクも変わってるんだ。ナド・クライじゃ見かけない、赤茶けた色でさ。姐さんが言うには、スメールの砂漠のインクらしい」

 

「スメールの砂漠……ネフェルの故郷だよな?」

 

「そうなんだよ」

 

 ヤフォダは、膝を抱えて座り込んだ。

 

「北の大陸情報網のボスがだぜ? 何年も、たった一人の差出人を突き止められないなんて、おかしいだろ。姐さんなら、その気になれば三日で分かるはずなんだ」

 

「その気になれば?」

 

 旅人が聞き返すと、ヤフォダは小さくうなずいた。

 

「姐さん、本気で探そうとしないんだよ。手紙が届くたびに、黙って読んで、駒を木箱にしまって、それで終わり。あたいが調べましょうかって言っても、放っておけって」

 

 ヤフォダの声が、少しだけ低くなった。

 

「……でもさ、最近の姐さん、手紙が来るたびに、夜遅くまで一人で起きてるんだ。奥の部屋で」

 

 パイモンが、腕を組んだ。

 

「それって、ネフェルが本当は気にしてるってことじゃないのか?」

 

「だろ!? あたいもそう思うんだよ!」

 

 ヤフォダが、勢いよく顔を上げた。

 

「だから、旅人に頼みたいんだ。差出人を見つけてほしい。姐さんにばれないように、こっそり」

 

 旅人は少し考えた。それから、首を横に振った。

 

 ヤフォダの顔が、さっと青ざめた。

 

「え……だ、だめか?」

 

 旅人は、ネフェルに隠れて調べるのは無理だと思う、と答えた。北の大陸情報網のボスの目を盗んで動き回るなど、自分には到底できそうにない。

 

「た、確かに……」

 

 パイモンが、ぶるりと震えた。

 

「ネフェルにばれたら、何されるか分からないぞ……」

 

 旅人は続けた。だから、正面から館に行って、ネフェル本人に話を聞こう。依頼は引き受ける、と。

 

 ヤフォダは、しばらくぽかんとしていた。

 

 それから、ぱっと顔を輝かせて、旅人の手を両手で握った。

 

「恩に着るぜ、旅人!」

 

「報酬は、ちゃんともらうからな!」

 

 パイモンが、すかさず布袋を指さした。ヤフォダは苦笑いしながら、それを旅人の手に押しつけた。

 

 

◇

 

 

 秘聞の館の扉を開けると、カウンターの上で黒猫が一匹、けだるそうに欠伸をした。アシュルだ。

 

 その奥の長椅子に、ネフェルが座っていた。深緑の髪を揺らして、膝の上の帳面から顔を上げる。翠色の瞳が、旅人とパイモン、それから二人の後ろで小さくなっているヤフォダを順に見た。

 

「いらっしゃい。……おや、ヤフォダ。お使いの帰りにしては、ずいぶん遅かったね」

 

「ひっ! い、いや、その、姐さん、これはだな……」

 

「差出人探しの依頼だろう?」

 

 ヤフォダの顔から、血の気が引いた。

 

「な、なんで知って……」

 

「冒険者協会の裏で、あんなに大きな声で話してたら、猫だって聞きつけるさ」

 

 ネフェルは帳面を閉じて、くすりと笑った。怒っている様子はなかった。むしろ、少しだけ楽しそうだった。

 

「座りな、旅人。それと、パイモン。お茶くらいは出そう」

 

 パイモンが、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「よかった……怒られるかと思ったぞ」

 

「怒る理由がないよ。ヤフォダが自分の給料で人を雇うなんて、なかなか見られない光景だからね」

 

 ヤフォダが、耳まで真っ赤になった。

 

 お茶を淹れながら、ネフェルは奥の棚から木箱を一つ取り出してきた。蓋を開ける。

 

 中には、手紙の束と、小さな木彫りの駒が、ぎっしりと詰まっていた。

 

「これが全部か!?」

 

 パイモンが、思わず身を乗り出した。駒は、何十個もあった。どれも小指の先ほどの大きさで、形は少しずつ違う。円錐形のもの、糸巻きのような形のもの、小さな鳥の頭を象ったもの。

 

「セネト、という遊戯の駒だよ」

 

 ネフェルが、駒の一つを指でつまみ上げた。

 

「スメールの砂漠の、古い盤上遊戯さ。駒を進めて、盤の終わりまで渡りきったほうが勝ち。……死者の国を渡る旅になぞらえた遊戯だと言われてる」

 

「死者の国……ちょっと怖いぞ」

 

「怖くはないさ。ただの遊びだよ」

 

 ネフェルは、駒を箱に戻した。その指先が、ほんの一瞬だけ、駒の上に留まったのを旅人は見た。

 

「差出人を探したいなら、好きに調べるといい。手紙も駒も、全部貸してやるよ。ただ――」

 

 ネフェルは、ゆっくりとお茶を啜った。

 

「見つからなくても、あたしは困らない。それだけは言っておくよ」

 

 旅人は、その言葉の意味を考えながら、手紙の束を手に取った。

 

 そのとき、ふと、部屋の奥に目が向いた。

 

 半分開いた扉の向こうに、小さな部屋があった。窓際に、低い卓が一つ置かれている。その上に、細長い盤が乗っていた。三列に並んだ、三十の升目。いくつかの升目の上に、駒が置かれたままになっている。

 

 勝負の途中のように見えた。

 

 アシュルが、いつの間にかその卓の端に移動していた。盤の縁に丸くなって、目を細めている。けれど、尻尾の一本すら、駒には触れていなかった。

 

「あれも、セネトの盤か?」

 

 パイモンが、奥の部屋を指さした。

 

 ネフェルの手が、茶碗を持ったまま止まった。

 

「……そっちは、触らないでくれ」

 

 静かな声だった。いつもの涼しい調子と、ほんの少しだけ違っていた。

 

「古い友人と指してた勝負さ。まだ、決着がついてないんだ」

 

「何年くらい?」

 

「さあ。数えてないね」

 

 ネフェルは、扉に手を伸ばして、そっと閉めた。

 

 そのとき、館の入口の鈴が鳴った。

 

 入ってきたのは、ナシャタウンの子供だった。十歳くらいの男の子が、封筒を一通、両手で大事そうに抱えている。

 

「ネフェルさん、お手紙です!」

 

 ヤフォダが、弾かれたように立ち上がった。

 

「お、おい、坊主! それ、誰から預かった!?」

 

「えっと、町の外れで、知らないお兄さんから。秘聞の館に届けてくれたら、飴をくれるって」

 

「顔は!? どんな奴だった!?」

 

「布を巻いてたから、よく見えなかったよ。でも、優しい声だった」

 

 ネフェルは、黙って封筒を受け取った。子供の手に、自分の財布から飴代を握らせてやる。子供は嬉しそうに駆けていった。

 

 封を切る。中から、赤茶けたインクで書かれた紙片と、小さな駒が一つ転がり出た。

 

 ネフェルは、紙片に目を落とした。

 

 短い一文だった。

 

『砂鱗団がナシャタウンに入る。標的は秘聞の館』

 

 館の中が、しんと静まり返った。

 

「さ、砂鱗団? なんだそれ?」

 

 パイモンが、ヤフォダとネフェルを交互に見た。ヤフォダは、首を横に振った。聞いたことがないらしい。

 

 ネフェルは、何も言わなかった。

 

 紙片を、もう一度だけ読み返した。それから、丁寧に折り畳んで、懐にしまった。駒は、木箱の中に。他の何十もの駒と一緒に。

 

「旅人」

 

 ネフェルが、顔を上げた。いつもの、余裕のある笑みが戻っていた。

 

「差出人探しは、少し後回しにしよう。代わりに、ナシャタウンにどんな連中が入ってくるのか、目を光らせておいてくれるかい。報酬は、ヤフォダの分と別に、あたしからも出す」

 

 旅人は、うなずいた。

 

 けれど、館を出るとき、旅人は振り返った。

 

 ネフェルは、閉ざされた奥の部屋の扉を、じっと見つめていた。

 

 

◇

 

 

 その夜、ネフェルは奥の部屋の、低い卓の前に座っていた。

 

 灯りは、蝋燭が一本だけ。アシュルが、盤の縁で丸くなって寝息を立てている。

 

 盤の上の駒は、何年も前から同じ場所にあった。白い駒が五つ、黒い駒が五つ。白はネフェルの、黒はあの男の。黒の駒のほうが、ほんの少しだけ、盤の終わりに近かった。

 

 いつだって、そうだった。

 

 

◇

 

 

 アアル村の夜は、冷えた。

 

 昼間は焼けるような砂が、日が沈んだ途端に氷のように冷たくなる。部族を失って流れ着いた小さなネフェルは、最初の頃、毎晩のように震えて眠れなかった。

 

 そんなある夜、焚き火の傍らで、一人の男の子が声をかけてきた。

 

「眠れないなら、一局どう?」

 

 日に焼けた肌の、焦げ茶の髪の子だった。ネフェルと同じくらいの年頃。両親を砂嵐で亡くして、村の長老に育てられている孤児だと、あとで知った。

 

 男の子は、砂の上に指で三列の升目を描いた。小石を拾って、駒の代わりにする。

 

「セネトっていうんだ。死んだ人が、あの世まで旅をする遊びなんだって。全部の駒を、向こう岸まで渡しきったら勝ち」

 

「……死んだ人の遊びなんて、縁起が悪い」

 

「そうかな。僕は、死んでも誰かがちゃんと送ってくれるって話だと思うけど」

 

 男の子は、にこりと笑った。

 

 その夜、ネフェルは一局で負けた。次の夜も、その次の夜も。

 

 悔しかった。部族の誰よりも頭が回ると言われてきた。なのに、この男の子にだけは、どうしても勝てなかった。

 

「もう一局」

 

「いいよ」

 

 男の子は、いつも笑ってうなずいた。

 

 名前を、セネトといった。遊戯と同じ名前だ。親がこの遊びが好きだったから、そう名付けたのだと言っていた。

 

 ――ネフィ。

 

 いつからか、セネトはネフェルをそう呼ぶようになった。他の誰にも呼ばせなかった呼び方を、彼にだけは許していた。

 

 キャンディスと三人で、村の外れの獣を追い払った。盗賊に襲われた隊商を助けた。教令院に入学が決まった日、セネトは自分のことのように喜んでくれた。教令院を辞めて村に戻った日、セネトは何も聞かずに隣に座ってくれた。

 

 そして、ネフェルが砂漠で何をしたのかを、セネトだけが知っていた。

 

 止めようとしてくれた。それでも止まらなかったネフェルの隣で、彼は黙って、彼女が残した痕跡を一つずつ消して回った。何も言わずに。何も責めずに。

 

 

◇

 

 

 ネフェルは、自分の目に指先で触れた。

 

 トキの王が、あの日くれた目。人の心を見透かす目。嘘も、隠し事も、この目の前では意味をなさない。

 

 この目を授かった夜、ネフェルはセネトにだけ、一つの約束をした。

 

 ――あんたの心だけは、絶対に覗かない。

 

 なぜそんな約束をしたのか、今でもうまく説明できない。ただ、この男の心だけは、覗いてはいけない気がしたのだ。覗いてしまったら、何かが壊れてしまう気がした。

 

 ナド・クライに渡る前の夜、二人は最後の一局を指した。

 

 勝負の途中で、セネトが席を立った。

 

「ごめん。今夜はここまで」

 

「逃げるのかい?」

 

「まさか。続きは、また今度」

 

 セネトは、いつものように笑った。

 

 その「今度」は、来なかった。

 

 ネフェルがナド・クライで秘聞の館を構えてしばらく経った頃、一通の手紙が届いた。セネトの、少し癖のある字で。

 

『雨林で学び直すことにした。しばらく会えない。元気で』

 

 ネフェルは、その手紙を信じた。

 

 信じることに、した。

 

 覗かないと約束したのだから。彼が雨林へ行くと言うなら、それが彼の選んだ道なのだと。

 

 そして、それから間もなく、差出人のない手紙が届き始めた。

 

 

◇

 

 

 ネフェルは、今日届いた駒を、指でつまみ上げた。

 

 蝋燭の灯りにかざす。

 

 木彫りの駒。円錐形の、何の変哲もない形。けれど、その底に、小さな刃の跡が残っていた。斜めに一筋、浅く走る彫り跡。

 

 利き手の癖だ。削り終わりに、刃を少しだけ斜めに抜く。

 

 アアル村で、小石の代わりに初めて木の駒を彫ってくれた男の子が、同じ癖を持っていた。

 

 ネフェルは、木箱の中の駒を一つずつ取り出して、底を確かめた。どれも、同じ彫り跡があった。何十個も。何年分も。

 

 知っていた。

 

 最初の手紙が届いた日から、ずっと。

 

 北の大陸情報網のボスが、本気で探せば三日で見つかる差出人。それを、何年も探さずにいた理由は、一つしかなかった。

 

 彼が、隠れることを選んだからだ。

 

 あのセネトが、名前も書かずに、顔も見せずに、それでも情報だけを送り続けてくる。その理由を、ネフェルは知りたくなかった。知ってしまえば、雨林で学び直しているという嘘を、嘘だと認めなければならなくなるから。

 

 覗かないと約束したのは、彼の心だけではなかったのかもしれない。

 

 ネフェルは、自分自身の心からも、目を逸らしてきたのだ。

 

「……あんたなんだろう?」

 

 盤に向かって、ネフェルは呟いた。

 

 返事は、なかった。アシュルが、寝ぼけたように小さく鳴いただけだった。

 

 ネフェルは、駒を木箱に戻した。

 

『砂鱗団がナシャタウンに入る。標的は秘聞の館』

 

 あの男が、わざわざ知らせてきた。

 

 それはつまり、あの男がそれを知っている場所にいる、ということだ。

 

 

◇

 

 

 三日後の昼過ぎ、ナシャタウンの広場がざわついた。

 

 ネフェルは、秘聞の館の二階の窓辺から、それを見下ろしていた。手には茶碗。湯気は、とうに消えている。

 

 町の南門から、隊列が入ってくるところだった。

 

 砂色の外套を纏った男たちが、二十人ほど。駱駝が数頭、荷を積んで後に続いている。誰もが腰に曲刀を下げ、顔の下半分を布で覆っていた。外套の背には、揃いの紋が染め抜かれている。とぐろを巻く蛇の鱗。

 

 砂漠の傭兵団だ。エルマイト旅団に似ているが、それよりもずっと荒んだ匂いがした。

 

 広場の人々が、遠巻きに道を開けていく。商人が店先の品を引っ込め、母親が子供の手を引いて路地へ消えた。

 

「姐さん」

 

 背後から、ヤフォダの声がした。珍しく、低い声だった。

 

「あれが、砂鱗団か?」

 

「おそらくね」

 

「……物騒な連中だな。あたい、ちょっと様子を――」

 

「行かなくていい。旅人が、もう広場にいる」

 

 ネフェルは、顎で広場の隅を示した。噴水の陰に、金色の髪の旅人と、ふわふわと浮かぶ白い小さな影が見えた。パイモンが、旅人の肩越しに傭兵たちを覗き込んでいる。

 

 隊列の先頭に、一人の男がいた。

 

 他の者たちより、背が高い。顔の布を外していて、精悍な顔立ちが見えた。歳は、ネフェルとそう変わらないだろうか。目つきが鋭く、口元に笑みはない。腰の曲刀の柄に、金の装飾が施されていた。首領だろう。

 

 ネフェルの目が、その男の上で一瞬だけ止まった。

 

 ――どこかで、見たことのある顔だ。

 

 いや、顔ではない。目元だ。あの切れ長の、冷たい目元を、ネフェルは昔、どこかで見た気がした。

 

 記憶を探る前に、隊列の中ほどにいた別の人影が、ネフェルの視線を奪った。

 

 一人だけ、外套の色が違った。

 

 他の団員たちは砂色の外套なのに、その男だけは、擦り切れた黒い外套を纏っていた。背が高い。肩幅が広い。焦げ茶の髪を、首の後ろで一つに束ねている。

 

 左目を、布で覆っていた。

 

 顔の左半分を斜めに横切るように巻かれた、くすんだ藍色の布。その下から、古い傷跡が覗いていた。

 

 男は、隊列の中で、まるで影のように静かに歩いていた。他の団員たちが周囲を威圧するように睨みつけている中で、ただ一人、俯き加減に、足元だけを見ていた。

 

 うなじが、見えた。

 

 束ねた髪の下の、日に焼けた肌に、黒い焼き印があった。とぐろを巻く蛇。外套の背の紋と、同じ形の。

 

 ネフェルの指から、茶碗が滑り落ちそうになった。

 

 かろうじて、掴み直した。冷めた茶が、少しだけ手の甲にこぼれた。

 

「姐さん?」

 

 ヤフォダの声が、遠くに聞こえた。

 

 男が、顔を上げた。

 

 まるで、誰かに呼ばれたかのように。俯いていた顔をゆっくりと上げて、広場を見回し、それから――秘聞の館の二階の窓を見た。

 

 目が、合った。

 

 残された右目だった。

 

 オアシスの水のような、澄んだ青緑。

 

 アアル村の焚き火の傍らで、砂の上に升目を描きながら、ネフィ、と呼んで笑った男の子の目だった。

 

 一瞬だった。

 

 男の目が、大きく見開かれた。それから、すぐに伏せられた。何事もなかったかのように顔を前に戻し、隊列と一緒に、広場を横切っていく。

 

 一度も、振り返らなかった。

 

 ネフェルは、窓辺から動けなかった。

 

 茶碗を持つ手が、震えていた。止めようとしても、止まらなかった。北の大陸情報網のボスが、たかが一人の男を見ただけで。

 

 ――雨林で学び直すことにした。

 

 あの手紙の字が、頭の中で崩れていった。

 

 雨林ではなかった。学び直してなど、いなかった。

 

 あの男は、うなじに蛇の焼き印を押されて、片目を失って、砂漠の傭兵団の隊列の中を、影のように歩いていた。

 

 足元で、アシュルが小さく鳴いた。ネフェルの足首に、頭をこすりつけてくる。

 

 ネフェルは、ゆっくりと膝をついた。アシュルを抱き上げる。柔らかな黒い毛並みに、顔を埋めた。

 

「……姐さん、どうしたんだよ。顔、真っ青だぞ」

 

 ヤフォダが、おろおろと駆け寄ってきた。

 

 ネフェルは、答えなかった。答えられなかった。

 

 広場の噴水の陰で、旅人が、館の二階の窓を見上げていた。

 

 旅人には、窓辺の人影の表情までは見えなかった。けれど、パイモンが、旅人の袖をそっと引いた。

 

「なあ、旅人……今のネフェル、なんか、迷子みたいな顔してなかったか?」

 

 旅人は、何も答えなかった。

 

 ただ、広場を横切っていく黒い外套の背中を、じっと見送っていた。

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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