遊戯駒の章   作:にんら

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終わらない勝負

 目を覚ますと、天井があった。

 

 知らない天井だった。木目の美しい、高い天井。窓から差し込む朝の光が、白い漆喰の壁を照らしている。体の下には、柔らかい寝台。何年ぶりだろう。天幕の床でも、倉庫の石の上でもない場所で目を覚ますのは。

 

 セネトは、ゆっくりと体を起こそうとした。

 

 重いものが、胸の上に乗っていた。

 

 黒猫だった。アシュルが、セネトの胸の上で丸くなって、すうすうと寝息を立てていた。

 

「……おはよう」

 

 小声で言うと、アシュルが片目だけ開けた。それから、どうでもよさそうに欠伸をして、また目を閉じた。どく気はないらしい。

 

 セネトは、苦笑して、枕に頭を戻した。

 

 広場での一件から、五日が経っていた。

 

 誓約の根が剥がれた体は、思っていたよりもずっと弱っていた。広場で倒れなかったのは、気力だけだったのだろう。ネフェルの手を握ったところまでは覚えている。そこから先の記憶が、ない。気がついたら、この部屋の寝台の上だった。

 

 秘聞の館の、二階の一室。

 

 ネフェルが、セネトのためだけに空けておいた部屋だと、ヤフォダが教えてくれた。

 

 扉が、勢いよく開いた。

 

「おーい、起きてるか! 朝飯だぞ!」

 

 ヤフォダだった。盆の上に、湯気の立つ粥と、果物と、甘いナツメヤシの菓子を山盛りに乗せている。

 

「あ、アシュル! またそこで寝てる! 怪我人の上で寝るなって言ってるだろ!」

 

 アシュルは、ヤフォダの声に耳だけぴくりと動かして、知らん顔をした。

 

「……いいよ。重くないから」

 

「よくねえよ! あんたが倒れたら、あたいが姐さんに怒られるんだからな!」

 

 ヤフォダは、盆を寝台の脇の卓に置くと、腰に手を当ててセネトを見下ろした。

 

「いいか、食え。全部食え。鹿ねえが、あんたは栄養が足りなすぎるって言ってた。何年も、ろくなもん食ってなかったんだろ」

 

「……まあ、そうだね」

 

「だったら、食え!」

 

 セネトは、粥の椀を受け取った。温かかった。一口すすると、喉の奥に、じんわりと優しい味が広がった。

 

「……美味しい」

 

「だろ? あたいが作ったんだ」

 

 ヤフォダが、得意げに胸を張った。それから、少しだけ声を落とした。

 

「姐さんはさ、今、すっげえ忙しいんだ。井戸の件で。北の大陸情報網の連中に片っ端から連絡して、スメールの商人に資材の手配して、教令院とやりとりして。この五日、ほとんど寝てねえ」

 

「……そうか」

 

「でもさ、毎晩、あんたが寝てる間に、この部屋に来てたんだよ。何も言わずに、しばらく座って、それで出ていくんだ」

 

 セネトの手が、止まった。

 

「あたいが言ったって、内緒な」

 

 ヤフォダは、にやりと笑って、部屋を出ていった。

 

 

◇

 

 

 昼過ぎには、ラウマが来た。

 

 うなじの古い火傷の痕に、そっと手をかざす。温かな光が、皮膚の下まで沁みていく。

 

「根の痕は、もうほとんど塞がった。あとは、体が元の力を取り戻すのを待つだけだ」

 

「ありがとうございます、ラウマさん」

 

「礼ならば、ネフェルに言うがよい」

 

 ラウマは、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。

 

「あの者が、私に三度も頭を下げたのだからな」

 

 午後遅くには、もう一人、客が来た。

 

 小柄な少女だった。作業着の袖をまくり上げて、腰には工具の入った袋を下げている。両手に、小さな木箱を抱えていた。

 

「こんにちは! アイノだよ。ヤフォダのお友達なの」

 

 少女は、セネトの寝台の脇に木箱を置いて、ぱかっと蓋を開けた。

 

 中には、眼帯が一つ入っていた。

 

 黒い革に、細い銀の縁取り。目を覆う部分に、小さな歯車の飾りが三つ、精巧に組み込まれている。その中心に、オアシスの水のような、青緑の小さな石が一つ嵌め込まれていた。

 

「ネフェルねーちんに頼まれたの。義眼は、ちょっと難しいから……でも、かっこいい眼帯なら作れるよって。石は、ネフェルねーちんが選んだんだよ。キミの目の色と、同じのがいいって」

 

 セネトは、眼帯を手に取った。

 

 軽かった。石が、窓の光を受けて、きらりと光った。

 

「……ありがとう」

 

 声が、少しだけ掠れた。

 

 アイノが帰ったあと、セネトは、くすんだ藍色の布を外した。何年も、左目を覆ってきた布。砂漠の血と砂が染みついた布。

 

 それを、丁寧に畳んで、枕元に置いた。

 

 それから、新しい眼帯をつけた。

 

 窓ガラスに、自分の顔が映っていた。頬はまだこけている。けれど、銀の縁取りの眼帯は、思っていたよりもずっと、自分の顔に馴染んでいた。

 

 アシュルが、いつの間にか窓辺に移動していた。セネトの顔をじっと見て、それから、満足そうに目を細めた。

 

「……似合う?」

 

 アシュルは、答えなかった。

 

 けれど、尻尾が、一度だけ、ぱたりと揺れた。

 

 居場所というものに、セネトは、まだ慣れなかった。

 

 朝起きると、誰かが粥を持ってきてくれる。昼には、誰かが傷を診てくれる。夕方には、誰かが贈り物を届けてくれる。夜には――

 

 夜には、誰かが、そっと部屋に来てくれる。

 

 セネトは、窓の外の夕焼けを見ながら、眼帯の石に指先で触れた。

 

 今夜は、寝たふりをしないでおこう、と思った。

 

 

◇

 

 

 真夜中を少し過ぎた頃、ネフェルは、二階の部屋の扉をそっと開けた。

 

 五日間、毎晩そうしてきた。北の大陸情報網への指示を出し終え、スメールへの手紙を書き終え、帳簿を閉じてから。誰にも言わずに、この部屋に来て、寝台の脇の椅子に座って、眠っている男の顔をしばらく眺める。それから、黙って出ていく。

 

 今夜も、そのつもりだった。

 

「……こんばんは、ネフィ」

 

 声がした。

 

 ネフェルは、扉に手をかけたまま固まった。

 

 寝台の上で、セネトが体を起こしていた。月明かりの中で、銀の縁取りの眼帯が、かすかに光っていた。その中心の小さな石が、オアシスの水の色に揺れていた。

 

「起きてたのかい」

 

「今夜は、寝たふりをしないことにしたんだ」

 

 セネトは、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「……毎晩、来てくれてたんだね」

 

 ネフェルは、小さくため息をついた。

 

「ヤフォダだね」

 

「内緒って言われた」

 

「あの子の内緒は、半日ももたないんだよ」

 

 ネフェルは、部屋の中に入って、後ろ手に扉を閉めた。寝台の脇の椅子に、腰を下ろす。いつもと同じ場所に。けれど、今夜は、セネトの右目が、こちらを見ていた。

 

「眼帯、似合ってるね」

 

「アイノさんが作ってくれた。……石は、ネフィが選んだんだって」

 

「あの子も、口が軽いね」

 

 ネフェルは、そっぽを向いた。

 

 セネトは、くすりと笑った。それから、少しだけ真剣な声になった。

 

「ネフィ。一つ、お願いがあるんだけど」

 

「なんだい」

 

「下の部屋に、連れていってくれないか。……盤のある部屋に」

 

 ネフェルは、セネトの顔を見た。

 

 それから、何も言わずに立ち上がって、セネトに肩を貸した。

 

 

◇

 

 

 奥の部屋の蝋燭に、火を灯した。

 

 盤は、何年も前と同じ場所にあった。低い卓の上。三列、三十の升目。白い駒が五つ、黒い駒が五つ。黒の駒のほうが、ほんの少しだけ、盤の終わりに近い。

 

 セネトは、盤の前に、ゆっくりと腰を下ろした。

 

 指先で、黒い駒の一つに触れる。それから、白い駒に。

 

「……本当に、一つも動いてない」

 

「言ったろ。あんたが続きは今度って言ったから、何年も、一つも動かさずに待ってたって」

 

 ネフェルは、盤の向かいに座った。それから、棚の奥から木箱を取り出して、盤の脇に置いた。

 

 蓋を開ける。

 

 何十もの駒が、ぎっしりと詰まっていた。セネトが手紙に添えて送り続けた、木彫りの駒。底に、斜めに一筋の刃の跡。

 

「全部、届いてたよ」

 

 ネフェルが、静かに言った。

 

 セネトは、木箱の中の駒を、しばらく見つめていた。

 

「……数えた?」

 

「数えたよ。四十七個。今夜、あんたの外套から、最後の一個を見つけたから、四十八個だ」

 

 ネフェルは、懐から、最後の駒を取り出した。砂鱗団の倉庫で、セネトが鎖に繋がれながら握りしめていた駒。まだ、送っていなかった駒。

 

 それを、木箱の中に、そっと置いた。

 

「さあ、続きを指そうか」

 

 ネフェルが、白い駒に手を伸ばした。

 

「あの夜の続きだ。あたしの番からだったね」

 

 

◇

 

 

 勝負は、長かった。

 

 蝋燭が一本燃え尽きて、ネフェルが二本目に火を灯した。アシュルが、いつの間にか部屋に入ってきて、盤の縁で丸くなっていた。

 

 駒が、少しずつ、盤の終わりへと進んでいく。

 

 セネトは、強かった。昔と、少しも変わらなかった。ネフェルが三手先を読めば、セネトは五手先を読んでいる。ネフェルが罠を仕掛ければ、セネトはそれを、困ったように笑いながらすり抜ける。

 

「……相変わらず、嫌な手を指すね」

 

「ネフィこそ。昔より、ずっと強くなってる」

 

「当たり前さ。何年、北の大陸情報網のボスをやってたと思ってるんだい」

 

 黒い駒が、また一つ、盤の向こう岸へ渡った。

 

 ネフェルは、盤を睨んだ。

 

 残りは、白が二つ、黒が一つ。黒の駒は、もう盤の終わりの一歩手前にいた。次の手で、渡りきる。

 

 ――また、負けるのか。

 

 ネフェルは、自分の白い駒を見下ろした。どちらも、まだ盤の真ん中あたりにいる。どう指しても、間に合わない。

 

 そのときだった。

 

 セネトの指が、黒い駒の上で止まった。

 

 ネフェルは、顔を上げた。

 

 セネトが、盤を見つめていた。黒い駒を進めれば、勝てる。それなのに、指が動かなかった。

 

「……セネト」

 

 ネフェルの声が、低くなった。

 

「まさか、今さら手加減するつもりじゃないだろうね」

 

 セネトが、はっと顔を上げた。

 

 それから、首を横に振った。

 

「違う。……手加減じゃない」

 

 セネトは、黒い駒を、そっと盤の上に戻した。進めずに、その場に。

 

「この駒を進めたら、勝負が終わる。……そう思ったら、指が止まったんだ」

 

 ネフェルは、何も言えなかった。

 

「何年も、この続きを指したかった。砂漠で、天幕で、毎晩、砂の上に盤を描いて。……やっと、ここまで来た。それなのに、終わってほしくないなんて」

 

 セネトは、困ったように笑った。

 

「矛盾してるよね」

 

 ネフェルは、しばらくセネトの顔を見つめていた。

 

 覗かなかった。覗く必要がなかった。この男の顔は、いつだって、心をそのまま映していた。

 

 ネフェルは、自分の白い駒に手を伸ばした。

 

 セネトが止めた、その一手分の隙。ネフェルの白い駒が、盤の上を滑った。一つ、また一つ。

 

 三手後、白い駒が二つとも、盤の向こう岸へ渡った。

 

 盤の上に残ったのは、黒い駒が一つだけだった。

 

 ネフェルの、勝ちだった。

 

 

◇

 

 

 部屋の中が、静まり返った。

 

 ネフェルは、盤を見下ろしていた。生まれて初めて、この男に勝った盤を。

 

「……あんたの負けだよ、セネト」

 

「うん。僕の負けだ」

 

 セネトは、少しも悔しそうではなかった。むしろ、どこか嬉しそうだった。

 

「初めて、ネフィに負けた」

 

「勝負に勝ったら、報酬をもらう。それが、秘聞の館のやり方だ」

 

 ネフェルは、盤の向こうのセネトを、まっすぐに見た。

 

 黒い手袋の指先は、膝の上で組まれたままだった。

 

「報酬は――あんたの、残りの人生だ」

 

 セネトの右目が、大きく見開かれた。

 

「……え」

 

「砂漠に井戸を掘るのに、何年かかると思う? 十年か、二十年か。あたし一人じゃ、手が足りない。水の神の目を持ってて、砂漠の地理に詳しくて、腕が立って、嘘がつけない男が、一人いると助かる」

 

 ネフェルは、一息に言った。

 

「だから、あんたの残りの人生を、あたしによこしな。……その代わり、あたしの残りの人生も、あんたにくれてやる。取引だよ。悪い条件じゃないだろう?」

 

 セネトは、口を開けたまま、しばらく固まっていた。

 

 それから、ゆっくりと、言った。

 

「……それ、プロポーズ?」

 

「取引だって言ってるだろう」

 

 ネフェルは、そっぽを向いた。耳の先が、蝋燭の灯りの中で、赤くなっていた。

 

 セネトは、盤の上に手を伸ばした。ネフェルの手に、自分の手を重ねる。

 

「負けたほうに、断る権利なんてないけど……」

 

 セネトは、少しだけ笑って、続けた。

 

「喜んで」

 

 ネフェルが、セネトのほうを向いた。

 

 盤を挟んで、二人の顔が近づいた。

 

 蝋燭の炎が、揺れた。盤の縁で、アシュルが、大きな欠伸をした。

 

 盤の上に、唇の重なる影が落ちた。

 

 

◇

 

 

 祝言は、ひと月後、秘聞の館で挙げられた。

 

「祝言って言っても、そんな大げさなもんじゃないよ」

 

 ネフェルはそう言っていた。けれど、当日の秘聞の館は、旅人が見たこともないほど賑やかだった。

 

 応接間の長椅子は全部片付けられて、代わりに長い卓が並べられていた。卓の上には、ナド・クライの料理と、スメールの料理が、ところ狭しと並んでいる。ヤフォダが三日がかりで準備したのだという。天井からは、砂漠の色の布と、ナド・クライの冬の花が交互に吊るされていた。

 

「すごいぞ! ごちそうがいっぱいだ!」

 

 パイモンが、目を輝かせて卓の上を飛び回っていた。

 

 客は、多くなかった。

 

 旅人とパイモン。キャンディス。ラウマ。フリンズ。アイノ。それから、スメールから来たセノ。それだけだった。

 

 けれど、届いた贈り物の数は、館の倉庫に収まりきらないほどだった。

 

 ナシャタウンの子供たちが描いた絵。依頼を解決してもらった商人たちからの品。北の大陸情報網のあちこちから届いた、差出人の名前だけが書かれた包み。モンドの「梟」からは、上等な葡萄酒が一樽。璃月の上客からは、こちらが恐縮するほど高価な翡翠の置物が、何の手紙も添えずに届いた。

 

 そして、スメールの砂漠から、一通の手紙。

 

 砂の匂いが染みついた、粗末な紙だった。キャンディスが、それを読み上げた。

 

『最初の井戸を掘り当てた。アアル村の東、昔イアブ族とウヌ族の境だった場所だ。水は、思っていたよりずっと冷たかった。

 

 井戸守りの一団の名前は、まだ決めていない。ラシードは「峰打ち団」がいいと言っている。却下した。

 

 祝いの言葉は書かない。俺が書くべきことではない気がする。

 

 ただ、井戸の水は、誰が汲んでもいいことにした。それだけ伝えておく。

 

 ――ハッザーン』

 

 館の中が、しんと静まり返った。

 

 それから、セネトが、小さく吹き出した。

 

「……峰打ち団」

 

「却下されて当然だね」

 

 ネフェルも、肩を震わせて笑っていた。

 

 

◇

 

 

 祝言の主役の二人は、奥の部屋の前に立っていた。

 

 セネトは、砂漠の正装だった。白い長衣に、オアシスの水の色の帯。左目には、アイノが作った銀の縁取りの眼帯。頬は、ひと月前よりずいぶんふっくらとしていた。ヤフォダの粥のおかげだと、本人は言っていた。

 

 ネフェルは、緑と金の衣装の上に、薄い白の紗を一枚だけ羽織っていた。シムティ族の花嫁が、昔、婚礼の日に纏った紗なのだという。砂漠の、もう残っていない村の、もう誰も覚えていない風習。それを、ネフェルは覚えていた。

 

 二人の足元に、アシュルが座っていた。セネトとネフェルの、ちょうど真ん中に。どちらの足にも、尻尾を半分ずつ巻きつけて。

 

「誓いの言葉、ってやつは、どうするんだ?」

 

 パイモンが、首をかしげた。

 

「スメール式? ナド・クライ式?」

 

「秘聞の館式だよ」

 

 ネフェルが、涼しい顔で言った。

 

「嘘をつかない。それだけだ」

 

 ネフェルは、セネトに向き直った。

 

「セネト。あたしは、嘘で生きてきた女だ。嘘で仇を討って、嘘でこの館を建てて、嘘であんたを何年も遠ざけてた。……これからも、仕事では嘘をつく。情報屋だからね」

 

 客たちが、くすりと笑った。

 

「でも、あんたの前では、もう嘘はつかない。あんたの心を、勝手に覗くこともしない。……あんたが覗いていいって言ったときだけ、覗く」

 

 セネトは、少しだけ目を見開いた。それから、穏やかに笑った。

 

「いつでも、覗いていいよ。……覗かれて困ることは、もう何もないから」

 

 ネフェルの耳の先が、赤くなった。

 

 セネトは、ネフェルの手を取った。

 

「僕は、嘘が下手だから。誓いの言葉なんて、上手く言えないけど」

 

 残された右目が、まっすぐにネフェルを見ていた。

 

「ネフィが笑うと、焚き火が明るくなる気がする。……子供の頃から、ずっと、そう思ってた。これからも、その焚き火の隣にいたい。それだけ」

 

 ネフェルは、何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 記憶の盤の、一番目の升目で聞いた、あの心の声。小さなセネトが、焚き火の傍らで思っていたこと。それを、今、この男は、自分の口で言ったのだ。

 

 ネフェルは、セネトの手を、強く握り返した。

 

「……あたしの勝ちだね」

 

「何が?」

 

「なんでもないよ」

 

 客たちの拍手が、館いっぱいに響いた。

 

 ヤフォダが、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。キャンディスが、その肩にそっと手を置いていた。ラウマが、穏やかに微笑んでいた。フリンズが、優雅に一礼した。アイノが、両手を大きく振っていた。

 

 セノが、一歩前に出た。いつもの厳しい顔だった。

 

「……祝いの言葉を、考えてきた」

 

 客たちが、しんと静まった。大マハマトラの祝辞。誰もが、背筋を伸ばした。

 

 セノは、重々しく口を開いた。

 

「盤上の勝負は、決着がついた。……そして、二人は、結着した」

 

 館の中が、静まり返った。

 

 誰も、笑わなかった。

 

 パイモンが、旅人の耳元で囁いた。

 

「……今の、笑うところか?」

 

 セノは、満足そうにうなずいていた。

 

 キャンディスが、額に手を当てた。ネフェルが、肩を震わせて笑い出した。セネトも、つられて笑った。それから、館の全員が、堪えきれずに笑い出した。

 

 アシュルが、二人の足の間で、大きな欠伸をした。

 

 

◇

 

 

 客たちが帰ったのは夜もずいぶん更けてからだった。

 

 パイモンは食べすぎて、旅人の腕の中で眠ってしまった。フリンズはアイノを工房まで送っていった。ラウマは小鳥を一羽だけ残して霜月の子らの里へ帰っていった。キャンディスとセノは、スメールへ戻る前に一晩だけ館の客間に泊まることになった。ヤフォダは泣き疲れて台所の椅子で寝息を立てていた。

 

 館が静かになった。

 

 ネフェルは奥の部屋の灯りをつけた。

 

 盤はいつもの卓の上にあった。ひと月前に生まれて初めてセネトに勝った盤だ。駒は箱に片付けてある。

 

 ネフェルはその隣にもう一つ木箱を置いた。

 

 蓋を開ける。何年分もの手紙の束と木彫りの駒がぎっしり詰まっていた。名前のない手紙に一つずつ添えられて届いた駒だった。

 

 セネトが箱を覗きこんで少し目を丸くした。

 

「……全部、取っておいたんだ」

 

「一つも捨ててないよ」

 

 ネフェルは駒を一つつまみ上げて灯りにかざした。

 

「あんたが彫った駒だ。捨てられるわけがないだろう」

 

 セネトは何も言わなかった。言わないかわりに箱の中の駒を一つ手に取って、ネフェルの持つ駒の隣に並べた。白と黒が灯りの中で寄り添った。

 

 ネフェルは手紙の箱の蓋を閉めた。

 

 それから盤の上に白い駒を五つと黒い駒を五つ並べ直した。勝負のはじめの形だった。

 

「一局やるかい」

 

「今から?」

 

「祝言の夜に盤を指しちゃいけないなんて決まり、どこにもないだろう」

 

 セネトは笑って盤の向こうに腰を下ろした。

 

 

◇

 

 

 勝負は長引いた。

 

 白が進めば黒が追う。黒が先へ出れば白がすぐ並ぶ。子供の頃から何百局と指してきた相手だった。次の手はだいたい読める。読めるから、なかなか決まらない。

 

 蝋燭が一本燃え尽きた。ネフェルは二本目に火を移した。

 

 盤の縁でアシュルが丸くなって、そのうち寝息を立て始めた。

 

 窓の外が白み始めても、盤の上はまだ五分と五分だった。どちらの駒もあと少しで盤の終わりへ渡りきれるところまで来ている。けれど、どちらもまだ渡りきれていない。

 

「……終わらないね」

 

 セネトが言った。

 

「終わらないね」

 

 ネフェルも言った。

 

 二人でしばらく盤を見下ろしていた。

 

「続きは明日にしようか」

 

「明日の夜?」

 

「ああ。明日終わらなかったら明後日。それでも終わらなかったら、その次の夜」

 

 セネトは少し考えてからうなずいた。

 

「じゃあ、駒はこのままにしておこう」

 

「そうだね。触るんじゃないよ、アシュル」

 

 アシュルは片目だけ開けてまた閉じた。

 

 ネフェルは蝋燭を吹き消した。

 

 夜明け前の薄青い光が、窓から盤の上に差しこんでいた。白い駒が五つ。黒い駒が五つ。盤の途中に並んだまま静かに朝を待っている。

 

 何年も前にも、この盤の上には駒が置き去りにされていた。続きを指す相手がいなくなってしまったからだ。

 

 今度は違った。

 

 続きを指す相手は、明日の夜も盤の向こうに座っている。

 

 でも、勝負はまだ終わらなそうだ。




以上、アンケート結果に則り、ネフェルのお話を書きました。
ご期待に添えたでしょうか?

感想いただけたら嬉しいです。極力返します。
いままで全然返してませんでしたが、しっかり全部見てます。

やっぱ離れ離れになった幼馴染って、曇らせのフォーマットとして優秀ですね。
曇りどころか雨降りそうです(?)

姐さん、めっちゃビジュいいですよね。個人的に三本指入るくらい好きです。あとは決闘代理人さんと、璃月の諜報員さんですかね。

なるべく頑張ってエミュって見ましたが、難しいですね姐さん…
解釈違いや、設定間違ってるとこなどありましたらどんどんご指摘ください。

後日談の皮を被ったイチャイチャ編もただいま執筆中です。
次に書くキャラが決まったら告知も兼ねて投稿いたします。

なるべくあんま二次を見ないキャラ書きたいですね。あと単純に好きなキャラ。
需要としては、狭くなるのかもしれませんが。

もう少ししたら、鳴潮のキャラの短めのやつ上げます。興味ある方は見ていただけたら幸いです。
もう先言っちゃうとリンネーです。

書いてほしいキャラのお題箱的なの作りました。書くかはわかりません()

https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=347080&uid=498370

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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