遊戯駒の章   作:にんら

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片目の剣士

 砂鱗団の野営地は、ナシャタウンの北の外れ、崩れかけた古い倉庫の跡にあった。

 

 日が落ちると、ナド・クライの風は肌を刺すように冷たくなる。砂漠の夜とは違う冷たさだった。乾いた冷たさではなく、骨の髄まで沁み込んでくる、湿った冷たさ。

 

 セネトは、焚き火から一番遠い場所に座って、曲刀を研いでいた。

 

 他の団員たちは、焚き火を囲んで酒を回している。笑い声。荒っぽい冗談。誰も、セネトに声をかけない。セネトも、誰にも声をかけない。もう何年も、ずっとそうだった。

 

 砥石の上を、刃が滑る。しゃっ、しゃっ、と。

 

 ――窓辺に、いた。

 

 手が、止まった。

 

 秘聞の館の二階の窓。深緑の髪。翠色の瞳。茶碗を持った手。

 

 知っていた。あそこにいることは。何年も前から、あの館に手紙を送り続けてきたのだから。ナシャタウンに入れば、どこかで姿を見ることになるかもしれないと、覚悟はしていた。

 

 けれど、目が合うとは思わなかった。

 

 あの目に、見つかるとは。

 

「セネト」

 

 背後から、低い声がした。

 

 セネトは、研ぎかけの曲刀を膝に置いて、振り返った。

 

 首領のハッザーンが立っていた。焚き火の明かりを背にして、表情はよく見えない。けれど、その切れ長の目が、冷たく光っているのは分かった。

 

「明日、町に入れ。秘聞の館の周りを探ってこい。出入りする人間、警備の配置、裏口の数。全部だ」

 

「……分かった」

 

「依頼主は、館を潰したがっている。この町の裏を仕切る女が邪魔らしい」

 

 ハッザーンは、セネトの前にしゃがみ込んだ。目の高さが合う。

 

「お前は、俺たちの剣だ。違うか?」

 

「違わない」

 

「なら、俺の言う通りに動け」

 

 ハッザーンの手が伸びてきて、セネトの束ねた髪を、乱暴に掴んで横に払った。うなじが、焚き火の明かりに晒される。

 

 蛇の焼き印。

 

 ハッザーンは、それを指でなぞった。

 

「忘れるなよ。お前が何者か」

 

「……忘れてない」

 

「言ってみろ」

 

 セネトは、少しだけ黙った。

 

「僕は、偽りの特使だ。教令院の使いを騙って、イアブ族とウヌ族を騙し、殺し合わせた男だ」

 

「そうだ」

 

 ハッザーンの声が、さらに低くなった。

 

「俺の親父の首が、祝いの席で飛んだ。その場に、俺はいた。まだ十五だった。親父の血を、頭から浴びた」

 

 セネトは、何も言わなかった。

 

 何度も聞いた話だった。この数年、ハッザーンは何度もこの話をした。セネトに聞かせるように。セネトの罪を、忘れさせないように。

 

「お前は、俺たちの剣として一生を終える。その代わり、俺たちはお前が庇った女の名を、決して口にしない。……誓約だ。覚えているな」

 

「覚えてる」

 

 ハッザーンは、セネトの髪を放した。立ち上がって、焚き火のほうへ戻っていく。数歩行ったところで、振り返らずに言った。

 

「今日、広場で上を見ていたな。何を見ていた」

 

 セネトの背筋が、冷たくなった。

 

「……何も。鳥が飛んでた」

 

 うなじが、焼けるように熱くなった。

 

 焼き印だ。誓約の呪いが、団への嘘に反応して、皮膚の下で蛇のように蠢く。セネトは奥歯を噛みしめて、声を漏らさないようにした。

 

 ハッザーンは、しばらく黙っていた。それから、何も言わずに焚き火の輪の中へ戻っていった。

 

 セネトは、うなじを押さえたまま、しばらく動けなかった。

 

 熱が、ゆっくりと引いていく。

 

 ――ナシャタウンを、離れろ。

 

 あの手紙には、そう書くべきだったのかもしれない。標的は秘聞の館、と伝えるだけでは足りなかった。逃げろ、と書くべきだった。

 

 でも、書けなかった。

 

 ネフィは、逃げない。昔から、そういう奴だった。

 

 セネトは、外套の内側から、小さな布袋を取り出した。中から、彫りかけの木片と、使い込まれた小刀が出てきた。

 

 焚き火の明かりの届かない暗がりで、セネトは駒を彫り始めた。

 

 円錐形の、何の変哲もない駒。削り終わりに、刃を少しだけ斜めに抜く。いつもの癖で。

 

 彫り上がった駒を、手のひらに乗せて眺める。

 

 もう何十個彫っただろう。送った手紙の数だけ。

 

 盤の上で止まったままの、あの勝負の続きを、指すつもりで。いつか。いつの日か。

 

 そんな日は来ないと、分かっていながら。

 

 

◇

 

 

 翌日の午後、旅人とパイモンは、ナシャタウンの東の外れを歩いていた。

 

 砂鱗団の動きを見張ってほしい――ネフェルにそう頼まれてから、旅人は町のあちこちを回っていた。けれど、団員たちは野営地に籠もったまま、昼間はほとんど姿を見せなかった。

 

「なんだか拍子抜けだな。もっと町で暴れたりするのかと思ってたぞ」

 

 パイモンが、空中で退屈そうに腕を組んだ。

 

 そのとき、丘の向こうから、甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 

 子供の声だった。

 

 旅人は駆け出した。パイモンが慌てて後を追う。

 

 丘を越えると、枯れ木の林の手前に、三人の子供がいた。一番年上の少女が、小さな二人を背中に庇って立ちすくんでいる。その周りを、灰色の毛並みの獣が五頭、低く唸りながら取り囲んでいた。霜の牙を持つ、ナド・クライの狼だ。

 

 旅人が剣を抜いた。

 

 けれど、それより早く、林の中から黒い影が飛び出した。

 

 黒い外套。左目を覆う藍色の布。

 

 影は、子供たちと狼の間に滑り込むと、腰の曲刀を一息に抜き放った。

 

 刃が、水を纏っていた。

 

 抜き放たれた曲刀の軌跡に沿って、澄んだ水の帯が宙に描かれる。それが、まるで生き物のようにうねり、飛びかかってきた一頭目の狼を弾き飛ばした。

 

 二頭目。三頭目。

 

 男の動きは、舞のようだった。曲刀を振るうたびに足を運び、体を回し、外套の裾を翻す。そのたびに水の刃が弧を描き、狼たちを打ち据えていく。斬ってはいなかった。峰で打ち、水で弾き、追い払っているだけだ。

 

「す、すごいぞ……!」

 

 パイモンが、目を丸くしていた。

 

 旅人も、飛び込んだ。残りの二頭を、男と背中合わせで迎え撃つ。男の水の刃と、旅人の剣が交わる。息を合わせたわけでもないのに、互いの間合いが不思議と噛み合った。

 

 最後の一頭が、尻尾を巻いて林の奥へ逃げていった。

 

 静けさが戻った。

 

 男は、曲刀を鞘に収めると、子供たちの前に膝をついた。

 

「怪我はない?」

 

 穏やかな声だった。さっきまでの鋭い剣さばきが、嘘のように。

 

 一番年上の少女が、小さく首を振った。後ろの二人は、まだ泣きじゃくっている。男は、外套の内側から小さな包みを取り出して、二人の手のひらに一つずつ乗せた。乾燥させた棗の実だった。

 

「甘いよ。食べて、落ち着いて」

 

 子供たちが、おずおずと棗を口に入れる。泣き声が、少しずつ小さくなっていった。

 

 旅人とパイモンは、顔を見合わせた。

 

 昨日、広場で見た男だった。砂鱗団の隊列の中にいた、黒い外套の。

 

「なあ、おまえ、ありがとうな! すごい剣だったぞ!」

 

 パイモンが、男の前にふわりと飛んでいった。男は、少し驚いたように顔を上げた。残された右目が、パイモンを見る。オアシスの水のような、青緑の目だった。

 

「……どういたしまして。君たちこそ、助かったよ」

 

「オイラはパイモン! こっちは旅人だ! おまえは?」

 

 男は、少しだけ黙った。

 

「……セ」

 

「セ?」

 

「セ……ト。セトだ」

 

「……セト?」

 

 パイモンが、首をかしげた。

 

「なんか変な名前だな。おまえ、本当にそれで合ってるのか?」

 

 男は、口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。

 

 それから、観念したように小さく笑った。

 

「……名前は、まあ、いいだろ」

 

「よくないぞ!」

 

「ごめん。でも、言えないんだ」

 

 困ったような、申し訳なさそうな笑い方だった。パイモンは、むうっと頬を膨らませたが、それ以上は追及しなかった。

 

 子供たちの中で一番年上の少女が、男の外套の裾を引っ張った。

 

「お兄さん、ありがとう。あのね、町に帰ったら、秘聞の館のお姉さんにもお礼を言っておくね。お姉さん、いつも『困ったことがあったら館においで』って言ってくれるの」

 

 男の動きが、止まった。

 

 ほんの一瞬だった。けれど旅人は、それを見逃さなかった。

 

「……そうか」

 

 男は、少女の頭をそっと撫でた。

 

「いい人なんだね、そのお姉さん」

 

「うん! すっごく綺麗で、優しくて、飴も買ってくれるんだよ!」

 

「そうか」

 

 男は、もう一度、同じ言葉を繰り返した。声が、少しだけ掠れていた。

 

 それから立ち上がって、子供たちを町の方角へ送り出した。三人が丘の向こうに消えていくのを見届けてから、男は旅人に軽く頭を下げた。

 

「あの子たちを、町まで送ってやってくれないか。僕が一緒だと、目立つから」

 

 男が背を向けた。束ねた髪が揺れて、うなじが見えた。

 

 黒い焼き印。とぐろを巻く蛇。

 

「なあ、旅人」

 

 男の背中が林の奥に消えてから、パイモンが小声で言った。

 

「あいつ、ネフェルの名前を聞いたとき、すごく変な顔してたぞ。……昨日の、ネフェルの顔と、ちょっと似てた」

 

 旅人は、うなずいた。

 

 

◇

 

 

 旅人の報告を聞いたあと、ネフェルは日が沈むのを待った。

 

 館を探れと命じられた男なら、夜に来る。昼間の町では、あの黒い外套は目立ちすぎる。裏口の数を確かめるなら、館の裏手の路地を通るはずだ。

 

 情報屋の読みは、外れなかった。

 

 真夜中を少し過ぎた頃、路地の奥に、音もなく人影が現れた。

 

 月明かりを避けるように、壁際の影を伝って歩いてくる。足音がない。砂漠の夜を歩き慣れた者の歩き方だった。

 

 ネフェルは、路地の角の暗がりに立っていた。

 

 人影が、彼女の三歩手前で、ぴたりと止まった。

 

 気配で気づかれたのだ。昔から、この男にはかくれんぼで勝てたためしがなかった。

 

「……こんばんは」

 

 ネフェルは、暗がりから一歩踏み出した。月明かりが、二人の間に落ちる。

 

「久しぶりだね、セネト」

 

 男は、動かなかった。

 

 左目を覆う藍色の布。日に焼けた頬に走る、古い傷跡。残された右目が、月明かりの下で、青緑に光っていた。

 

 記憶の中のセネトより、ずっと痩せていた。頬がこけて、顎の線が鋭くなっていた。目の下に、濃い影があった。

 

「……人違いだと思う」

 

 男は、静かに言った。

 

「僕は、砂鱗団の雇われだ。秘聞の館の女主人に、名前を呼ばれる覚えはない」

 

「そうかい」

 

 ネフェルは、ゆっくりと男に近づいた。一歩。もう一歩。男は、退かなかった。

 

「じゃあ、通りすがりの雇われのあんたに、一つ聞きたいことがある」

 

「……何だ」

 

「あたしの目のことは、知ってるかい」

 

 男の肩が、わずかに強張った。

 

「この目は、人の心を見透かす。嘘も、隠し事も、この目の前じゃ意味がない。……あんたが本当に通りすがりの雇われかどうかも、覗けばすぐに分かる」

 

 ネフェルは、男のすぐ前で足を止めた。見上げる。男のほうが、頭ひとつ背が高かった。昔は、同じくらいだったのに。

 

「覗いてもいいかい」

 

 路地に、沈黙が落ちた。

 

 遠くで、酔っぱらいの歌声が聞こえた。どこかの家の窓が閉まる音がした。

 

 男の右目が、揺れた。

 

「……約束、しただろ」

 

 掠れた声だった。

 

「僕の心だけは、絶対に覗かないって」

 

 ネフェルは、目を閉じた。

 

 ――ああ。

 

 その約束を知っているのは、この世に二人しかいない。

 

「その一言で、もう十分だよ」

 

 ネフェルは、目を開けた。笑っていた。自分でも、どんな顔で笑っているのか分からなかった。

 

 男が、はっと息を呑んだ。自分が何を言ってしまったのか、ようやく気づいたらしい。

 

「……ずるいな、ネフィ」

 

「その呼び方をするのも、あんただけだ」

 

 ネフィ。何年ぶりに聞いただろう。

 

「約束は守るよ。覗かない。あんたの心は、昔も今も、あたしは一度も覗いてない」

 

 ネフェルは、男の左目を覆う布に、そっと手を伸ばした。

 

 男が、身を引いた。

 

 ネフェルの手が、宙で止まった。

 

「……その目、どうしたんだい」

 

「転んだ」

 

「嘘が下手だね。昔から」

 

「……」

 

「雨林で学び直してたんじゃなかったのかい」

 

 男は、答えなかった。

 

「首の焼き印は。砂鱗団の雇われが、なんで団の紋を肌に焼かれてるんだい。普通の傭兵は、そんなことしない」

 

 答えは、なかった。

 

 ネフェルは、拳を握りしめた。

 

 覗けば、全部分かる。この男が何を隠しているのか。なぜ嘘の手紙を書いたのか。なぜ片目を失ったのか。なぜ、うなじに蛇を焼かれているのか。

 

 ほんの一瞬、この目を開けば。

 

 ――あんたの心だけは、絶対に覗かない。

 

「……セネト」

 

 名前を呼ぶ。男の右目が、こちらを見た。

 

「あんたが何も言わないなら、あたしは聞かない。覗きもしない。……でも、一つだけ答えてくれ。あの手紙を送ってたのは、あんただね」

 

 長い沈黙のあとで、男は小さくうなずいた。

 

「……ああ」

 

「なんで、名前を書かなかったんだい」

 

「書いたら、君が来るから」

 

 迷いのない声だった。

 

 男は、ネフェルから目を逸らして、館の壁を見上げた。

 

「ネフィ。しばらく、ナシャタウンを離れてくれ。少しの間でいい。砂鱗団の依頼主は、本気で館を潰すつもりだ」

 

「お断りだね」

 

 即答だった。

 

「あたしは逃げない。ここは、あたしが作った場所だ。ヤフォダもいる。アシュルもいる。町の子供たちもいる。依頼主が誰だろうと、館を潰されるつもりはないよ」

 

 男は、困ったように笑った。

 

「……変わってないな」

 

「あんたもね」

 

 男は、一歩退いた。それから、もう一歩。路地の影の中へ、溶けるように戻っていく。

 

「待ちな、セネト」

 

「ごめん。行かなきゃ」

 

「盤は、まだ置いてある」

 

 男の足が、止まった。

 

「あの夜の勝負の続き。駒は、あの夜のままだ。……あんたが続きは今度って言ったから、あたしは何年も、一つも動かさずに待ってる」

 

 影の中で、男がどんな顔をしているのか、ネフェルには見えなかった。

 

 やがて、小さな声が返ってきた。

 

「……勝負は、もう僕の負けでいいよ」

 

 それだけ言って、気配が消えた。

 

 ネフェルは、誰もいなくなった路地に、しばらく立ち尽くしていた。

 

 月が、雲に隠れた。

 

 

◇

 

 

 野営地に戻ったのは、夜明け前だった。

 

 セネトは、崩れた倉庫の壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。

 

 息が、うまく吸えなかった。胸の奥が、締めつけられるように痛かった。

 

 ――覗いてもいいかい。

 

 あの声が、耳から離れなかった。

 

 昔と同じ声だった。少しだけ低くなって、少しだけ大人びて、けれど、焚き火の向こうで「もう一局」と言った小さな女の子の声と、確かに同じだった。

 

 覗かれていたら、どうなっていただろう。

 

 全部、知られていた。なぜ嘘の手紙を書いたのか。なぜ片目を失ったのか。なぜ、うなじに蛇を焼かれているのか。

 

 ――あの夜、イアブ族とウヌ族を殺し合わせた偽りの特使は、自分だと名乗り出たこと。

 

 本当は、ネフィだったのに。

 

「……ちゃんと、守ってくれたんだな」

 

 呟いて、セネトは膝に顔を埋めた。

 

 覗かない、という約束。子供の頃の、他愛ない約束。トキの王から目を授かった夜、ネフィは真剣な顔でそう言った。あんたの心だけは、絶対に覗かない、と。

 

 セネトは、あのとき少しだけ嬉しかった。この世でたった一人、ネフィに心を覗かれない人間になれたことが。

 

 そして今、その約束に、自分は守られている。

 

 彼女が約束を守り続けてくれているから、自分の嘘は、まだ嘘のままでいられる。

 

「――どこへ行っていた」

 

 声がした。

 

 セネトは、顔を上げた。

 

 ハッザーンが、立っていた。焚き火はとうに消えていて、東の空が白み始めている。その薄明かりの中で、ハッザーンの切れ長の目が、じっとセネトを見下ろしていた。

 

 セネトは、ゆっくりと立ち上がった。

 

「館の周りを、探ってきた。言われた通りに」

 

「何が分かった」

 

「裏口は一つ。警備は、ほとんどいない。館の人間は、女主人と従業員の娘が一人、それと猫が一匹」

 

「女主人の顔は、見たか」

 

 うなじが、ちりりと疼いた。

 

 セネトは、奥歯を噛んだ。

 

「……見てない」

 

 焼けた。

 

 うなじの焼き印が、まるで真っ赤な鉄を押し当てられたように、焼けた。皮膚の下で、蛇がのたうつ。首筋から背骨へ、熱が駆け下りていく。

 

 誓約の呪いだ。団に嘘をつけば、蛇が罰を与える。

 

 セネトは、声を漏らさなかった。拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのも構わずに、ただ立っていた。顔色一つ変えないように。

 

 ハッザーンの目が、セネトのうなじに向けられた。

 

 焼き印は、髪に隠れて見えないはずだった。けれど、ハッザーンは何かを感じ取ったように、目を細めた。

 

「……そうか」

 

 それだけ言って、ハッザーンは背を向けた。

 

 数歩行ったところで、立ち止まる。

 

「セネト。お前に一つ、聞きたいことがある」

 

「……何だ」

 

「あの日、お前は自分から名乗り出た。偽りの特使は自分だ、と」

 

 ハッザーンは、振り返らなかった。

 

「なぜだ? 黙っていれば、誰もお前にはたどり着かなかった。証拠は何一つ残っていなかったんだ。まるで、誰かが丁寧に消して回ったみたいにな」

 

 セネトの背中を、冷たい汗が伝った。

 

「……罪悪感だよ。耐えられなくなった。それだけだ」

 

 うなじが、また焼けた。

 

 さっきより、強く。

 

 セネトは、壁に手をついた。膝が、崩れそうになった。

 

 ハッザーンは、最後まで振り返らなかった。ただ、短く言った。

 

「そうか」

 

 そして、薄明かりの中へ歩き去っていった。

 

 セネトは、壁に額を押し当てたまま、長い息を吐いた。

 

 熱が、ゆっくりと引いていく。けれど、うなじの奥に、鈍い痛みが残っていた。何年も、少しずつ積み重なってきた痛みだった。

 

 嘘をつくたびに、蛇は焼ける。

 

 嘘の下手な男が、この数年で、いったいいくつ嘘をついただろう。

 

 セネトは、外套の内側から布袋を取り出した。昨夜彫り上げた駒が、一つ入っている。

 

 円錐形の、何の変哲もない駒。底に、斜めに一筋の刃の跡。

 

 ――盤は、まだ置いてある。

 

 ――あんたが続きは今度って言ったから、あたしは何年も、一つも動かさずに待ってる。

 

 セネトは、駒を握りしめた。

 

「……ごめん、ネフィ」

 

 続きは、もう指せない。

 

 指してはいけない。

 

 盤の上の自分の駒は、あの夜からずっと、彼女の駒より少しだけ先にある。このまま勝負がつかなければ、彼女は負けずに済む。

 

 それでいい。

 

 そう思うのに、セネトは、駒を布袋に戻せなかった。

 

 朝日が、崩れた倉庫の隙間から差し込んできた。

 

 嘘の下手な男は、今夜もまた、嘘を二つついた。うなじの蛇は、そのどちらも許さなかった。

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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