遊戯駒の章   作:にんら

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アアルからの客人

 ナシャタウンの南門をくぐったとき、キャンディスは思わず外套の襟を掻き合わせた。

 

 寒い。

 

 砂漠の夜の冷え込みとは、まるで違う寒さだった。乾いた冷たさではなく、湿った空気が、肌の上に貼りついてくるような。アアル村を出てから、もう何日も旅をしてきたが、この国の寒さにはまだ慣れなかった。

 

 懐に手を当てる。二通の手紙が、外套の内側に収まっていた。

 

 一通は、旅人からの手紙だった。

 

 アアル村に届いたのは、十日ほど前のことだ。旅人の、少し不器用で、けれど丁寧な字で書かれていた。ナド・クライのナシャタウンで、ネフェルと再会したこと。そのネフェルの前に、セネトという名の、片目の剣士が現れたこと。砂漠の傭兵団に縛られていて、ネフェルがとても苦しんでいるように見えること。

 

 キャンディスに心当たりはないか、と。

 

 手紙を読み終えたとき、キャンディスは、しばらく動けなかった。

 

 セネト。

 

 何年も、その名前を聞いていなかった。

 

 雨林で学び直すことにした――数年前、彼がアアル村を出ていったとき、キャンディスにもそう言った。少しだけ寂しそうに笑って、それから、こう付け加えた。

 

 ――ネフィを、頼むよ。

 

 あのとき、キャンディスは、その言葉の意味が分からなかった。ネフェルはもうずっと前にナド・クライへ渡っていて、遠い北の国で、何やら大きな館を構えていると噂に聞いていた。今さら、頼むも何もないだろう、と思った。

 

 今なら、分かる。

 

 あれは、別れの言葉だったのだ。

 

 もう一通の手紙は、教令院からのものだった。正確には、教令院の大マハマトラ、セノからの手紙だった。

 

 旅人の手紙を受け取ってすぐ、キャンディスはスメールシティへ向かった。十年前の事件の再調査がどこまで進んでいるのか、確かめずにはいられなかった。セノは、多くを語らなかった。ただ、調査の結果をまとめた書簡を一通、キャンディスに託した。

 

 ――ナド・クライに行くなら、これを持っていけ。俺も、後から行く。

 

 セノは、そう言った。いつもの厳しい顔で。けれど、その目の奥に、何かを案じるような色があった。

 

 キャンディスは、書簡の封を切っていない。

 

 中に何が書かれているのか、薄々、見当はついていた。

 

 

◇

 

 

 石畳の道を歩きながら、キャンディスは、遠い日のことを思い出していた。

 

 アアル村の外れに、小さな岩山があった。子供たちが「見張り岩」と呼んでいた場所だ。キャンディスは、守護者見習いとして、毎日そこに登って村の周りを見張っていた。

 

 ある夕暮れ、岩山の下で、二人の子供が言い争っていた。

 

 一人は、部族を失って村に流れ着いたばかりの、深緑の髪の女の子。もう一人は、村の長老に育てられている孤児の、焦げ茶の髪の男の子。

 

「また負けた! 今のは絶対、ずるい手を使っただろう!」

 

「使ってないよ。ネフィが、三つ前の手で駒を進めすぎただけ」

 

「進めすぎてない!」

 

「進めすぎてたよ」

 

 砂の上に描いた升目と、小石の駒。女の子は真っ赤な顔で怒っていて、男の子は困ったように笑っていた。

 

 キャンディスが岩山から降りていくと、女の子がこちらを睨んだ。

 

「……何だい、あんた」

 

「守護者見習いのキャンディスです。村の外れで騒いでいると、獣が寄ってきますよ」

 

「獣なんか怖くない」

 

 女の子がそう言った、まさにその瞬間だった。岩陰から、砂漠のハイエナが三匹、低く唸りながら現れた。

 

 キャンディスは、盾を構えた。けれど、それより早く、男の子が動いていた。

 

 二人の女の子の前に、両手を広げて立ちはだかったのだ。武器も持たずに。ただ、小さな体で。

 

「……下がってて」

 

 震える声で、男の子は言った。膝が、がくがくと震えていた。それでも、一歩も退かなかった。

 

 結局、ハイエナはキャンディスの盾と、女の子が投げつけた石と、男の子の必死の叫び声で、どうにか追い払った。

 

 その夜、三人は初めて、同じ焚き火を囲んだ。

 

 それから何年も、三人はずっと一緒だった。獣を追い払い、盗賊と戦い、砂嵐に閉じ込められた隊商を助けた。いつも、セネトが一番前に立った。誰かと危険の間に、自分を置いた。キャンディスの盾よりも先に。ネフェルの知恵よりも先に。

 

 ――あの子は、昔から、そういう子だった。

 

 キャンディスは、足を止めた。

 

 目の前に、大きな屋敷が建っていた。扉の上に、控えめな看板がかかっている。

 

 秘聞の館。

 

 扉の前の石段に、まだ新しい傷跡が残っていた。刃の跡。焦げ跡。昨夜、ここで何かがあったのだ。

 

 キャンディスは、深く息を吸った。

 

 それから、扉を叩いた。

 

 

◇

 

 

 あの夜から、ネフェルは一睡もしていなかった。

 

 旅人とパイモンは、館に泊まり込んでいた。ヤフォダに頼まれたのだ。姐さんを一人にしておけない、と。

 

 ネフェルは、奥の部屋から出てこなかった。

 

 朝になっても。昼になっても。ヤフォダが運んだ食事は、手つかずのまま扉の前に置かれていた。

 

 昼過ぎ、旅人は意を決して、奥の部屋の扉を叩いた。

 

 返事はなかった。けれど、鍵はかかっていなかった。

 

 扉を開けると、ネフェルは盤の前に座っていた。

 

 膝の上に、曲刀を抱いていた。セネトが投げ捨てた、峰だけを研いだ曲刀。両腕で、まるで赤子を抱くように、胸に引き寄せていた。

 

 盤の上の駒は、昨夜と同じ場所にあった。

 

 ネフェルは、顔を上げなかった。

 

「……旅人かい」

 

 声が、掠れていた。一晩中、一言も発していなかった喉の声だった。

 

「悪いね。館の仕事、ヤフォダに全部押しつけちまってる」

 

 パイモンが、ふよふよとネフェルの前に浮かんだ。

 

「ネフェル……ご飯、食べないとだめだぞ。ヤフォダ、すっごく心配してる」

 

「ああ。分かってるよ」

 

 ネフェルは、曲刀の柄を、指でなぞった。

 

「分かってるんだけどね。……どうにも、腹が減らないんだ」

 

 旅人は、ネフェルの指先に目を留めた。

 

 赤く爛れていた。セネトの首に巻きついた蛇を、素手で引き剥がそうとしたときの火傷だ。手当ても、していなかった。

 

 旅人が何か言おうとしたとき、館の入口の鈴が鳴った。

 

 ヤフォダの声が、廊下に響いた。

 

「はいはい、今日はお休みだよ! 依頼なら明日に――え? ちょ、ちょっと、勝手に入るなって!」

 

 足音が、廊下を近づいてきた。迷いのない、まっすぐな足音だった。

 

 奥の部屋の扉の前で、足音が止まった。

 

 旅人が振り返ると、そこに、一人の女性が立っていた。

 

 褐色の肌。長い黒髪。片方は金色、片方は青い、色の違う二つの瞳。背中には、円い盾。砂漠の旅の装束の上から、慣れない厚手の外套を羽織っていた。

 

「キャンディス!」

 

 パイモンが、声を上げた。

 

「来てくれたのか! オイラたちの手紙、届いたんだな!」

 

「ええ。お久しぶりです、パイモンさん。旅人さんも」

 

 キャンディスは、二人に軽く会釈をした。それから、部屋の奥に目を向けた。

 

 盤の前に座り込んでいる、深緑の髪の女に。

 

 ネフェルが、ゆっくりと顔を上げた。

 

 翠色の目が、キャンディスを見た。

 

 長い沈黙があった。

 

「……キャンディス」

 

 ネフェルの唇が、その名前をなぞった。

 

「あんた、なんで、ここに……」

 

 キャンディスは、答えなかった。

 

 代わりに、部屋の中へ入ってきた。盤の前まで歩いてきて、ネフェルの傍らに膝をついた。それから、ネフェルの腕の中の曲刀に目を落とした。

 

 キャンディスの表情が、わずかに揺れた。

 

「……セネトの、ですね」

 

 ネフェルの肩が、ぴくりと震えた。

 

「この柄の巻き方。昔から、あの子は自分で巻いていました。左から右へ、少しだけ斜めに。……駒の彫り方と、同じ癖です」

 

 キャンディスは、ネフェルの赤く爛れた指先に、そっと手を伸ばした。

 

 ネフェルが、身を引こうとした。キャンディスは、その手首を、静かに、けれどしっかりと掴んだ。

 

「手当てを、していませんね」

 

「……大したことはないよ」

 

「大したことです」

 

 キャンディスの声は、穏やかだった。けれど、有無を言わせない響きがあった。

 

「ヤフォダさん、でしたか。薬箱と、きれいな布をお願いします」

 

 廊下で様子を窺っていたヤフォダが、弾かれたように駆けていった。

 

 キャンディスは、ネフェルの手を膝の上に乗せたまま、何も言わずに待っていた。

 

 ネフェルは、手を引かなかった。

 

 ただ、キャンディスの横顔を、じっと見つめていた。

 

 旅人は、そっとパイモンに目配せをした。二人は、静かに部屋を出た。

 

 扉を閉める直前、旅人は振り返った。

 

 ネフェルが、キャンディスの肩に、額を押し当てていた。

 

 声は、聞こえなかった。

 

 けれど、ネフェルの背中が、小さく震えているのが見えた。

 

 

◇

 

 

 ネフェルの指に薬を塗り、きれいな布を巻き終えたのは、日が傾き始めた頃だった。

 

 キャンディスは、薬箱の蓋を閉めた。

 

 ネフェルは、手当てされた自分の指先を、ぼんやりと見下ろしていた。キャンディスの肩に額を押し当てていた間、ネフェルは一言も喋らなかった。キャンディスも、何も聞かなかった。ただ、昔、砂嵐の夜に震えていた小さな女の子の背中をさすったように、その背中に手を置いていた。

 

「……みっともないところを見せたね」

 

 ネフェルが、ようやく口を開いた。

 

「いいえ」

 

 キャンディスは、首を横に振った。

 

「あなたが誰かに寄りかかるところを、私は初めて見ました。……少しだけ、安心しました」

 

 ネフェルは、小さく笑った。昨夜ヤフォダにも、同じようなことを言われた気がする。

 

 キャンディスは、懐から一通の書簡を取り出した。教令院の封蝋が押されている。封は、切られていなかった。

 

「大マハマトラから、預かってきました。十年前の事件の、再調査の結果だそうです」

 

 ネフェルの目が、書簡に向けられた。

 

「私は、開けていません。でも、中に何が書いてあるのか、だいたいの見当はついています」

 

 キャンディスは、書簡をネフェルの膝の上に置いた。

 

「教令院は、この数年、昔の記録を一つずつ洗い直してきました。十年前、書庫から消えた儀礼用の衣。偽りの特使を見たという、生き残りたちの証言。……証言の中に、こういうものがあったそうです。特使の声は、男にしては高かった。物腰は、教令院の学者にしては、砂漠の民の訛りが残っていた、と」

 

 ネフェルは、黙っていた。

 

「大マハマトラは、セネトの名乗り出を、偽りの証言と見ています。……いずれ、教令院は真実にたどり着きます。彼も、ナド・クライへ来ると言っていました」

 

 キャンディスは、ネフェルの横顔を見つめた。

 

「ネフェル。あなたは、知っていたのですね。セネトが、あなたの代わりに名乗り出たことを」

 

「……知ったのは、ついこの前だよ」

 

 ネフェルの声は、静かだった。

 

「あの男は、雨林で学び直すって手紙を寄越した。あたしは、それを信じた。……信じることに、したんだ。あの男の心だけは覗かないって、子供の頃に約束したから」

 

「覗かない約束?」

 

「この目のことは、知ってるだろう? トキの王からもらった、人の心を見透かす目。……あの男にだけは、使わないって決めてた」

 

 キャンディスは、しばらく黙っていた。

 

 それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「数年前、セネトがアアル村を出ていくとき、私にも同じことを言いました。雨林で学び直す、と。……それから、こう付け加えました。ネフィを、頼むよ、と」

 

 ネフェルの肩が、震えた。

 

「私は、あのとき、意味が分かりませんでした。あなたはもうずっと前にナド・クライへ渡っていて、私が頼まれるようなことは何もないと思っていた。……でも、今なら分かります。あれは、別れの言葉でした。あの子は、二度と戻らないつもりで出ていったのです」

 

 キャンディスの、色の違う二つの瞳が、ネフェルをまっすぐに見据えた。

 

「ネフェル。あの夜、あなたが何をしたのか、私は誰からも聞いていません。でも、気づいていました。あなたが教令院を辞めて村に戻ってきた頃、ちょうど、イアブ族とウヌ族の戦があったこと。あなたの目が、ずっと何かを見据えていたこと。……そして、セネトがその頃、毎晩のように村の外へ出かけていたこと」

 

 ネフェルは、何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

「私は、黙っていました。守護者として、本当は問いただすべきだったのかもしれない。でも、できませんでした。あなたの村がどうなったのか、知っていたから」

 

 キャンディスの声が、少しだけ揺れた。

 

「だから、私にも罪があります。黙っていた罪が」

 

「キャンディス……」

 

「でも、ネフェル」

 

 キャンディスは、ネフェルの手を取った。布を巻いたばかりの、傷ついた手を。両手で、そっと包み込むように。

 

「あなたは、十年前、嘘で全部を取り返そうとしました。部族を殺した者たちに、嘘で報いを受けさせた。……そして、その嘘の代価を、セネトが払っています。あの子は、あなたの嘘を守るために、自分も嘘をついた。一生に一度だけ」

 

 キャンディスの手に、力がこもった。

 

「あなたは、また嘘で彼を失うつもりですか」

 

 部屋の中が、静まり返った。

 

 夕日が、窓から差し込んでいた。盤の上の駒が、長い影を落としていた。

 

 ネフェルは、キャンディスの手の中で、自分の指が震えているのを感じていた。

 

 嘘で、生きてきた。

 

 嘘で部族の仇を討ち、嘘でナド・クライの裏を平らげ、嘘で秘聞の館を守ってきた。嘘は、ネフェルの剣だった。盾だった。それ以外の生き方を、ネフェルは知らなかった。

 

 そして今、その嘘が、たった一人の男を、地獄の底に縛りつけている。

 

「……あたしが本当のことを言えば」

 

 ネフェルの声が、掠れた。

 

「ハッザーンは、あたしを殺す。セネトは、それを一番恐れてる。……あの男が何年もかけて守ってきたものを、あたしが自分で壊すことになる」

 

「ええ」

 

 キャンディスは、否定しなかった。

 

「でも、黙っていれば、あの子は一生、嘘の中で死んでいきます。あなたの代わりに、呪われた名前を背負ったまま」

 

 キャンディスは、ネフェルの手を離した。立ち上がる。

 

「どちらを選ぶのかは、あなたが決めることです。私は、守護者として、あなたがどちらを選んでも、隣に立ちます。……あの子が、昔、いつも私たちの前に立ってくれたように」

 

 それだけ言って、キャンディスは部屋を出ていった。

 

 扉が、静かに閉まった。

 

 ネフェルは、膝の上の書簡を見下ろした。

 

 教令院の封蝋が、夕日の中で、赤く光っていた。

 

 

◇

 

 

 夜が来た。

 

 ネフェルは、教令院の書簡を開けなかった。

 

 開けなくても、中身は分かっていた。キャンディスの言う通りだ。教令院は、いずれ真実にたどり着く。セノがナド・クライに来れば、偽りの特使が誰だったのかは、白日の下に晒される。

 

 そのとき、セネトの嘘は、ただの偽証になる。

 

 そして、ハッザーンは、本当の特使を討ちに来る。

 

 ――次は、お前が来い。

 

 どちらにしても、もう、隠れていられる時間は残っていない。

 

 ならば、せめて。

 

 ネフェルは、立ち上がった。

 

 棚の奥から、古い木の匣を取り出す。盤の横に置く。それから、木箱の中から、駒を一つ取り出した。

 

 あの夜、手紙もなしに、駒だけが届いた。今夜だよ、と伝えるために。それが、セネトが最後に寄越した駒だった。

 

 ネフェルは、駒を匣の上にかざした。

 

 文様が、淡く光り始める。

 

 ――あんたの心だけは、絶対に覗かない。

 

 指が、震えた。

 

 何年も、守ってきた約束だった。トキの王から目を授かった夜に、焚き火の傍らで、真剣な顔をして誓った約束。この男の心だけは、この目で暴かない、と。

 

 セネトは、その約束に救われていた。ネフェルに覗かれない人間であることが、あの男にとっての、最後の拠り所だった。

 

 あの男の声が、聞こえるような気がした。

 

 ――ちゃんと、守ってくれたんだな。

 

 あの男が、そう呟いたのを、ネフェルは知らない。けれど、分かっていた。きっと、そう思ってくれていると。

 

 その信頼を、今から、自分の手で壊す。

 

 ネフェルは、目を閉じた。

 

 ――あなたは、また嘘で彼を失うつもりですか。

 

 キャンディスの声。

 

 ――約束より、その人のほうが大事だろ!

 

 ヤフォダの声。

 

 約束も、あの男も、両方大事だった。どちらかを捨てたら、もう片方も壊れてしまう気がしていた。

 

 でも、違ったのかもしれない。

 

 約束を守り続けたせいで、あの男は、雨林へ行くという嘘のまま、砂漠の地獄へ消えていった。約束を守り続けたせいで、ネフェルは、あの男の一番大事な嘘を、見抜けなかった。

 

 約束が、あの男を守っていたのではない。

 

 約束が、あの男を、ネフェルから隠していたのだ。

 

 ネフェルは、目を開けた。

 

 部屋の入口に、人影が並んでいた。

 

 旅人。パイモン。ヤフォダ。キャンディス。誰も、何も言わずに、ネフェルを見守っていた。

 

「……悪いね。呼んでもいないのに」

 

「呼ばれなくても、来るぞ」

 

 パイモンが、胸を張った。

 

「オイラたち、仲間だからな!」

 

 ネフェルは、小さく笑った。

 

 それから、旅人のほうを見た。

 

「旅人。一つ、頼んでもいいかい」

 

 旅人は、うなずいた。

 

「この匣を使えば、あたしはあの男の意識の中に入る。あの男が、この数年、何を見て、何を背負ってきたのか。誓約の言葉も、きっと全部見える」

 

 ネフェルは、駒を握りしめた。

 

「……一緒に、来てくれないか」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「一人で見るのは、怖いんだ」

 

 部屋の中が、静まり返った。

 

 ヤフォダが、目を見開いた。キャンディスが、静かに目を伏せた。

 

 北の大陸情報網のボスが。秘聞の館の女主人が。怖い、と言った。

 

 旅人は、何も言わずに部屋の中へ入った。ネフェルの隣に、腰を下ろす。パイモンも、ふわりと旅人の肩に乗った。

 

「オイラも行くぞ! 旅人が行くなら、オイラも一緒だ!」

 

 ネフェルは、二人を見た。

 

 それから、ゆっくりとうなずいた。

 

「……ありがとう」

 

 ヤフォダが、ぐしぐしと目元を拭った。

 

「姐さん。あたいたちは、ここで待ってる。戻ってくるまで、ずっと」

 

「ええ。ここにいます」

 

 キャンディスが、ヤフォダの肩にそっと手を置いた。

 

 ネフェルは、盤を見下ろした。

 

 何年も前から動かない、白と黒の駒。黒の駒のほうが、ほんの少しだけ、盤の終わりに近い。

 

「セネト」

 

 ネフェルは、盤に向かって呟いた。

 

「約束を破るよ。……ごめんね」

 

 それから、駒を、匣の上に置いた。

 

 匣の文様が、眩く光った。

 

 翠色の光が、升目の線を走り、匣から溢れ出し、部屋中を満たしていく。盤が、駒が、蝋燭の炎が、光の中に溶けていく。

 

 足元が、消えた。

 

 旅人は、自分の体が、どこか遠くへ引き込まれていくのを感じた。ネフェルの手が、旅人の袖を掴んでいた。強く。決して離すまいとするように。

 

 光の向こうで、何かが聞こえた。

 

 砂を渡る風の音。焚き火の爆ぜる音。

 

 それから、遠い、遠いところで、誰かが小さく呟く声。

 

 ――続きは、また今度。

 

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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