遊戯駒の章   作:にんら

7 / 10
盤の上の記憶

 目を開けると、旅人は夜の砂漠に立っていた。

 

 いや、砂漠ではなかった。

 

 足元に広がっているのは、巨大な盤だった。三列に並んだ、三十の升目。一つひとつの升目が、家一軒ほどもある。升目と升目の境は、淡く光る砂の線で区切られていた。

 

 盤の外は、どこまでも夜だった。星が、異様なほど近くに瞬いている。砂を渡る風の音が、遠くから聞こえていた。

 

「な、なんだここ……! でっかい盤の上だぞ!」

 

 パイモンが、旅人の肩にしがみついた。

 

 隣で、ネフェルが静かに盤を見渡していた。

 

「匣が、あの男の意識を盤の形に変えたんだ。セネトの盤にね」

 

 ネフェルは、足元の升目を見下ろした。

 

「一つひとつの升目が、あの男の記憶だよ。駒を進めるみたいに、升目を一つずつ渡っていけば、あの男が何を見てきたのかが分かる。……最後の升目まで渡りきれば、全部」

 

「全部で三十個か。けっこう遠いな……」

 

「そうだね。それに――」

 

 ネフェルは、盤の向こう側を指さした。

 

 盤の奥のほう、二十番目あたりの升目の上に、黒い靄のようなものが渦巻いていた。その靄の中で、何かが蠢いている。長い、とぐろを巻く影。

 

「誓約の呪いだ。あの男の意識の奥まで、根を張ってる。……あたしたちが記憶を覗こうとすれば、きっと邪魔をしてくる」

 

 旅人は、剣の柄に手をかけた。

 

 ネフェルは、一つ目の升目に足を踏み入れた。

 

 

◇

 

 

 升目の中に入った瞬間、景色が変わった。

 

 焚き火が、燃えていた。

 

 アアル村の外れだった。乾いた夜風。遠くで、駱駝が低く鳴いている。焚き火の傍らで、二人の子供が、砂の上に描いた升目を挟んで向かい合っていた。

 

 焦げ茶の髪の男の子と、深緑の髪の女の子。

 

「また負けた! もう一局だ!」

 

「いいよ」

 

 男の子が、にこりと笑う。女の子が、悔しそうに小石の駒を並べ直す。

 

 旅人は、ネフェルの横顔を見た。

 

 ネフェルは、焚き火の向こうの小さな自分を、じっと見つめていた。表情は、変わらなかった。けれど、その指先が、外套の裾を強く握りしめていた。

 

「……ネフェル、ちっちゃいな」

 

 パイモンが、小声で言った。

 

「この頃は、もっと口が悪かったよ」

 

 ネフェルが、ふっと笑った。

 

 男の子が、駒を進めながら、小さく呟いた。

 

 ――ネフィが笑うと、焚き火が明るくなる気がする。

 

 それは、声ではなかった。男の子の心の中の言葉が、升目の中に、そっと響いたのだった。

 

 ネフェルの笑みが、凍りついた。

 

 覗かないと約束した心。その中で、幼いセネトは、そんなことを思っていたのだ。

 

 ネフェルは、ゆっくりと目を伏せた。

 

「……次へ行こう」

 

 

◇

 

 

 升目を渡るたびに、景色が変わった。

 

 三人で砂漠のハイエナを追い払った日。キャンディスの盾の陰で、セネトが膝を震わせながら叫んでいた。

 

 ネフェルが教令院に入学が決まった日。セネトは村の長老の家の裏で、一人で小さく拳を握っていた。――よかった。ネフィが、ちゃんと勉強できる場所に行ける。

 

 ネフェルが教令院を辞めて、村に戻ってきた日。セネトは何も聞かずに、彼女の隣に座っていた。心の中では、ずっと叫んでいた。――誰だ。誰がネフィにあんな顔をさせた。

 

 そして、十番目の升目。

 

 砂丘の陰。焚き火。太鼓の音。宴。

 

 ネフェルが、足を止めた。

 

 あの夜だった。イアブ族の勝ち祝いの宴。族長の首が飛んだ夜。

 

 砂丘の陰に、砂色の布を頭から被った少女がいた。若い日のネフェルだ。宴を見下ろしている。その背後の、もう一つ向こうの砂丘の陰に――

 

 焦げ茶の髪の少年が、うずくまっていた。

 

 セネトだった。ネフェルの後を、ずっとつけてきていたのだ。

 

 族長の首が飛ぶ。悲鳴が上がる。少女のネフェルが、それを見届けて、背を向ける。

 

 少年のセネトは、少女のネフェルが去ったあとも、そこに残っていた。そして、少女が残した足跡を、一つずつ、手のひらで均していった。

 

 砂の上の足跡が、消えていく。

 

 ――ネフィの痕跡は、全部、僕が消す。

 

 少年の心の声が、升目の中に響いた。

 

 ――だから、ネフィは、何も背負わなくていい。

 

 ネフェルの膝が、崩れかけた。

 

 旅人が、とっさにその腕を支えた。

 

 ネフェルは、何も言わなかった。ただ、旅人の腕を掴んだまま、少年が砂を均し続ける姿を、最後まで見ていた。

 

 

◇

 

 

 十五番目の升目は、砂漠の廃墟だった。

 

 崩れた石柱が、月明かりの中に白く立ち並んでいる。キングデシェレトの時代の遺跡だろうか。その真ん中に、いくつもの天幕が張られていた。焚き火が三つ。砂色の外套の男たちが、焚き火を囲んで座っている。

 

 砂鱗団の野営地だった。今より、ずっと人数が多かった。四十人はいるだろうか。

 

 ネフェルは、升目の縁に立って、それを見下ろしていた。

 

 ――数年前。セネトが、雨林で学び直すと手紙を書いた頃だ。

 

 野営地の入口に、一人の男が現れた。

 

 焦げ茶の髪を、首の後ろで一つに束ねている。まだ、両目があった。オアシスの水のような、青緑の両目。今より少しだけ頬がふっくらしていて、表情がやわらかかった。

 

 若い日のセネトだった。

 

 団員たちが、一斉に立ち上がった。曲刀を抜く音が、夜気を裂いた。

 

 セネトは、両手を上げて、ゆっくりと野営地の中に入ってきた。武器は、腰の曲刀だけ。それも、抜いていなかった。

 

 天幕の一つから、若い男が出てきた。切れ長の目。今のハッザーンより、少しだけ若い。けれど、その目に宿る冷たい光は、今と少しも変わらなかった。

 

「……何者だ」

 

 セネトは、ハッザーンの前で足を止めた。

 

 そして、静かに言った。

 

「偽りの特使を、探しているんだろう」

 

 野営地が、静まり返った。

 

「僕だよ。十年前、教令院の特使を名乗って、イアブ族とウヌ族を殺し合わせたのは、僕だ」

 

 ネフェルは、拳を握りしめた。

 

 若いセネトの声は、少しも震えていなかった。嘘が下手な男が、生まれて初めて、完璧な嘘をついていた。

 

 ――覗いてもいいかい、と言ったときの路地裏のセネトは、あんなにも声を震わせていたのに。

 

 ハッザーンの曲刀が、閃いた。

 

 刃が、セネトの喉元でぴたりと止まった。薄い皮膚が裂けて、血が一筋、首筋を伝い落ちる。セネトは、瞬きもしなかった。

 

「……なぜ、今になって名乗り出た」

 

「罪悪感に、耐えられなくなった」

 

「嘘をつけ」

 

 ハッザーンの声が、低くなった。

 

「お前一人で、やれたはずがない。教令院の衣をどうやって手に入れた。特使の言葉遣いを、どうやって覚えた。……共犯者がいるな」

 

 セネトは、少しだけ黙った。

 

 それから、まっすぐにハッザーンを見返した。

 

「いる」

 

 ネフェルの心臓が、どくりと鳴った。

 

「でも、その人の名は言わない。殺されても、言わない」

 

「なら、死ね」

 

 ハッザーンの腕に、力がこもった――そのとき。

 

「待ちなさい」

 

 しわがれた声がした。

 

 天幕の一つから、腰の曲がった老女が出てきた。白い髪を幾重にも布で包み、手には骨と羽根で飾られた杖を持っている。

 

「ナフィサ婆……」

 

 ハッザーンが、曲刀を引かずに振り返った。

 

「この男は、自分から来た。殺すのは簡単だ。だが、殺せば、共犯者の名は永遠に砂の中だ。……そして、この団は、恨みを晴らす相手を失う」

 

 老女は、セネトの前まで歩いてきた。濁った目で、セネトの顔をじっと見上げる。

 

「ウヌ族の巫女として、提案がある。血の誓約を結ばせなさい。古い王の時代から伝わる、命に根を張る誓いを」

 

 ナフィサは、杖の先でセネトの胸を軽く突いた。

 

「お前は、生涯、この団の剣となる。団のために戦い、首領の命に従う。……その代わり、何を望む」

 

 セネトは、少しも迷わなかった。

 

「僕が庇った人の名を、団は決して口にしないこと。その人を、二度と探さないこと」

 

 野営地が、ざわめいた。

 

 ハッザーンが、何か言いかけた。ナフィサは、杖を上げてそれを制した。

 

「……よかろう」

 

 老女の声が、夜の廃墟に響いた。

 

 

◇

 

 

 誓約の儀式は、その夜のうちに行われた。

 

 焚き火の中で、蛇の形をした鉄の印が、赤く焼かれていた。セネトは、焚き火の前に膝をつき、束ねた髪を自分で持ち上げて、うなじを晒した。

 

 ナフィサが、古い言葉で唱えた。砂漠の王の時代の言葉。ネフェルにも、半分ほどしか分からなかった。

 

 ――誓う者の言葉の上に、根は張る。

 

 ――言葉が真ならば、根はまっすぐに。言葉が偽りならば、根はねじれる。

 

 ――そして、偽りが真によって暴かれたとき、根は枯れる。

 

 ネフェルは、息を呑んだ。

 

 老女は、知っていたのだろうか。この男の言葉が、偽りだと。

 

 焼けた鉄が、セネトのうなじに押し当てられた。

 

 肉の焼ける音がした。

 

 セネトは、叫ばなかった。歯を食いしばって、目を閉じて、ただ、耐えていた。額から、脂汗が流れ落ちる。それでも、一声も漏らさなかった。

 

 ――これで、いい。

 

 セネトの心の声が、升目の中に響いた。

 

 ――これで、ネフィは、何も背負わなくていい。ネフィが作ったものは、全部、守られる。

 

 ネフェルは、升目の縁に、膝をついた。

 

 立っていられなかった。

 

 旅人が、隣にしゃがみ込んだ。パイモンが、ネフェルの肩に、小さな手をそっと置いた。

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 焚き火の向こうで、若いセネトが、焼き印を押されたうなじを押さえたまま、夜空を見上げていた。

 

 星が、近かった。

 

 ――ネフィは、今頃、何をしてるかな。寒い国で、ちゃんと眠れてるかな。

 

 その心の声は、ひどく穏やかだった。

 

 

◇

 

 

 それからの升目は、戦場ばかりだった。

 

 砂漠の部族同士の小競り合い。隊商を襲う盗賊団との戦い。遺跡を巡る、他の傭兵団との争い。砂鱗団は、金さえ積まれれば、どんな戦にも出た。そして、その一番前に、いつもセネトがいた。

 

 誰も、殺さなかった。

 

 峰で打ち、敵の刃を叩き落として、それで終わり。倒れた敵に、とどめを刺せと命じられても、セネトは動かなかった。そのたびに、うなじの蛇が焼けた。それでも、動かなかった。

 

 戦が終わるたびに、ハッザーンがセネトを殴った。セネトは、殴られるままだった。

 

「……ひどいぞ」

 

 パイモンが、震える声で呟いた。

 

「なんでだよ。なんで、ここまでされて、まだ……」

 

 旅人は、答えられなかった。

 

 二十番目の升目に足を踏み入れたとき、景色が、夜の砂漠の戦場に変わった。

 

 矢が、雨のように降っていた。敵の傭兵団の弓兵が、岩陰から一斉に矢を放っている。砂鱗団の男たちが、盾を構えて身を寄せ合っていた。

 

 その中に、一人の少年がいた。

 

 まだ十五、六だろうか。ひょろりとした体に、大きすぎる砂色の外套を着ている。盾を構える手が、がたがたと震えていた。

 

 旅人は、その顔に見覚えがあった。

 

 酒場で、ヤフォダに奢られて喋り続けていた、あの若い団員だった。今より、ずっと幼い。

 

 ――ラシード。

 

 セネトの心の声が、少年の名を呼んだ。

 

 矢が一本、少年の盾の縁をかすめて、逸れた。少年が、悲鳴を上げて盾を取り落とした。その顔に向かって、次の矢が飛んでくる――

 

 セネトが、少年の前に飛び込んだ。

 

 曲刀で、矢を払う。一本。二本。三本。けれど、四本目が、払いきれなかった。

 

 矢が、セネトの左目に突き立った。

 

 旅人は、思わず目を背けた。パイモンが、両手で顔を覆った。

 

 ネフェルだけが、目を逸らさなかった。

 

 翠色の目を見開いたまま、震える唇を噛みしめて、最後まで、それを見ていた。

 

 セネトは、倒れなかった。

 

 片膝をついて、左目を手で押さえたまま、背後の少年を振り返った。

 

「……大丈夫か、ラシード」

 

 少年が、泣きじゃくりながらうなずいた。

 

「なんで……なんで、俺なんか……あんたは、俺たちの仇の片割れなのに……」

 

 セネトは、血に濡れた顔で、少しだけ笑った。

 

「仇かどうかなんて、関係ないよ。……君が死んだら、君のお母さんが泣くだろ」

 

 

◇

 

 

 二十五番目の升目は、砂嵐の夜だった。

 

 天幕の中で、セネトが一人、うずくまっていた。左目には、汚れた布が巻かれている。うなじの焼き印が、赤く脈打っていた。また、命令に背いたのだろう。

 

 セネトは、膝を抱えて、震えていた。

 

 ――もう、いいかな。

 

 心の声が、升目に響いた。

 

 ――このまま、蛇に締め上げられて、終わってもいいかな。ネフィは、もう大丈夫だ。館もある。仲間もいる。僕がいなくても――

 

 ネフェルが、一歩前に出た。届かないと分かっていて、手を伸ばした。

 

 そのとき、天幕の外で、何かが鳴った。

 

 水の音だった。

 

 砂嵐の只中で、どこからか、水の滴る音がした。ぽたり、ぽたりと。セネトが、顔を上げた。

 

 天幕の隅の、乾ききった砂の上に、小さな水溜まりができていた。どこから湧いたのかも分からない、澄んだ水。その水面に、セネトの顔が映っていた。片目の、やつれた顔。

 

 ――砂漠の誰もが、井戸の水のことで死なずに済めばいいのに。

 

 セネトの心が、呟いた。

 

 ――ネフィのお父さんみたいな人が、もう二度と出ないように。水を汲んだだけで殺されるような砂漠が、なくなればいいのに。

 

 水溜まりが、光った。

 

 水面から、青い光の珠が、ゆっくりと浮かび上がった。神の目だった。水の元素の、オアシスの色の神の目。

 

 セネトは、呆然とそれを見つめていた。それから、震える手で、そっと受け止めた。

 

 ――まだ、終われないってことか。

 

 心の声が、少しだけ笑った。

 

 

◇

 

 

 二十六番目の升目に足を踏み入れた瞬間、盤全体が揺れた。

 

 黒い靄が、盤の奥から溢れ出してきた。靄が渦を巻き、とぐろを巻き、一匹の巨大な蛇の形になっていく。鱗の一枚一枚が、焼き印と同じ形をしていた。

 

 誓約の蛇影だ。

 

「来たぞ、旅人!」

 

 パイモンが叫んだ。

 

 蛇影が、鎌首をもたげて襲いかかってきた。旅人は剣で受け止めた。重い。冷たい。触れた刃から、凍えるような呪いの気配が這い上がってくる。

 

「これ以上、あの男の記憶を荒らさせない」

 

 ネフェルの声がした。

 

 振り返ると、ネフェルが立っていた。両手を広げると、その周りに、翠色の光の駒が次々と浮かび上がる。盤術だ。駒が、蛇影を取り囲むように盤の上を滑っていく。

 

「旅人、合わせな!」

 

 駒が、一斉に弾けた。草の元素の光が、蛇影の鱗を灼く。蛇影がのたうった隙に、旅人が懐に飛び込んで、剣を振り抜いた。

 

 蛇影が、苦悶の声を上げた。黒い靄が、ちぎれて散っていく。

 

 けれど、消えはしなかった。散った靄は、盤の奥へと逃げていき、最後の升目の周りで、再びとぐろを巻いた。

 

「……呪いの本体は、外にある。ここで消すことはできないんだ」

 

 ネフェルが、肩で息をしながら言った。

 

「でも、道は開いた。行こう。最後の升目へ」

 

 

◇

 

 

 三十番目の升目は、小さな天幕の中だった。

 

 ランプが一つだけ灯っている。外では、風が鳴いていた。砂漠の風ではない。湿った、冷たい風。ナド・クライに入る少し前の、北の荒野の夜だろうか。

 

 セネトが、天幕の床に胡坐をかいていた。

 

 今の姿だった。左目を藍色の布で覆い、頬はこけて、うなじには焼き印がある。膝の上に、彫りかけの木片と小刀を乗せていた。

 

 床の砂の上に、指で描いた升目があった。三列。三十の升目。駒の代わりに、小石がいくつか置かれている。

 

 アアル村で、二人が最初に指した盤と、同じ描き方だった。

 

 セネトは、小刀で木片を削りながら、砂の上の盤に向かって、ぽつりぽつりと話しかけていた。

 

「今日もね、ネフィの館に手紙を送ったよ。黒サメ会の残党が、町の東の倉庫に武器を隠してるって。……ちゃんと届いたかな」

 

 声は、穏やかだった。

 

「この前送ったのは、商会の密輸の話だったっけ。その前は、賞金首の隠れ家。……役に立ってるといいな。ネフィなら、きっと上手く使ってくれる」

 

 小刀が、木片の上を滑る。円錐形の駒が、少しずつ形になっていく。

 

「ナシャタウンの子供たちは、ネフィのことが好きなんだって。飴を買ってくれるお姉さんだって。……昔から、子供には優しかったもんな。自分は、子供の頃、誰にも優しくしてもらえなかったくせに」

 

 ネフェルは、升目の縁に立ち尽くしていた。

 

 動けなかった。

 

 セネトは、彫り上がった駒を、ランプの灯りにかざした。底に、刃を斜めに抜いた跡。いつもの癖で。

 

「……なあ、ネフィ」

 

 砂の上の盤に向かって、セネトは言った。

 

「僕、なんで駒を送ってるんだと思う?」

 

 誰も、答えなかった。天幕の中には、セネトしかいなかった。

 

「情報だけなら、手紙だけで十分なのにね。……でも、駒を添えたら、ネフィはきっと気づくと思ったんだ。これが僕だって。気づいて、でも、探しに来ないでいてくれるって」

 

 セネトは、少しだけ笑った。

 

「ネフィは、約束を守るから。僕の心を覗かないって約束を、きっと今も守ってるから。……だから、探しに来ない。僕が隠れたがってることを、ちゃんと分かってくれるから」

 

 ネフェルの喉から、小さな音が漏れた。

 

「でも、ね」

 

 セネトの声が、少しだけ揺れた。

 

「本当は、ちょっとだけ、思ってるんだ。……いつか、ネフィが、続きをしに来てくれたらいいなって」

 

 小刀を、膝の上に置く。駒を、両手で包み込む。

 

「駒を送るたびにね、思うんだ。この駒が、あの盤のところまで届いたらいいなって。それで、いつかネフィが、届いた駒を全部並べて、続きを指しに来てくれたらいいなって」

 

 セネトは、目を閉じた。

 

「来てほしい。……来てほしくない。どっちも、本当なんだ」

 

 残された右目の端から、一筋、何かが伝い落ちた。

 

「矛盾してるよね。ネフィに言ったら、きっと笑われる」

 

 ネフェルは、もう立っていられなかった。

 

 升目の縁に膝をついて、両手で顔を覆った。

 

 肩が、震えていた。指の隙間から、ぽたぽたと、雫が落ちていた。

 

 声が、漏れた。

 

 押し殺そうとして、押し殺せなかった声だった。

 

 シムティ族の村が燃えた日も、泣けなかった。父の亡骸を見た日も、泣けなかった。教令院で嘲られた日も、イアブ族の族長の首が飛んだ夜も、泣けなかった。泣き方を、知らなかった。

 

 その女が、今、旅人とパイモンの目の前で、子供のように泣いていた。

 

 旅人は、何も言わずに、ネフェルの隣に膝をついた。その背中に、そっと手を置いた。

 

 パイモンが、ネフェルの肩に顔を埋めて、一緒に泣いていた。

 

 天幕の中で、セネトが、彫り上がった駒を布袋にしまった。それから、砂の上の盤の、自分の小石の駒を、そっと一つ、盤の外へ出した。

 

「……今夜の分」

 

 小さく呟いて、ランプの灯りを吹き消した。

 

 

◇

 

 

 盤が、崩れ始めた。

 

 升目の縁が光の砂になって、夜空へと舞い上がっていく。誓約の蛇影の唸り声が、遠くで響いた。匣の力が、尽きかけているのだ。

 

「ネフェル、戻るぞ!」

 

 パイモンが、涙声で叫んだ。

 

 旅人は、ネフェルの腕を掴んで引き起こした。ネフェルは、もう泣いていなかった。泣き腫らした目で、消えていく天幕を、最後まで見つめていた。

 

 光が、全てを包んだ。

 

 

◇

 

 

 目を開けると、そこは秘聞の館の奥の部屋だった。

 

 蝋燭の灯り。盤。匣。駒。それから、心配そうに覗き込んでいるヤフォダとキャンディスの顔。

 

「姐さん! 戻ってきた! よかった……!」

 

 ヤフォダが、ネフェルに飛びついた。

 

 ネフェルは、ヤフォダを抱きとめたまま、しばらく動かなかった。

 

 ヤフォダが、はっと息を呑んだ。ネフェルの頬に、涙の跡が残っているのに気づいたのだ。

 

「姐さん……泣いて……」

 

「ああ」

 

 ネフェルは、否定しなかった。

 

「泣いたよ。生まれて初めて」

 

 キャンディスが、静かに目を伏せた。

 

 そのとき、部屋の隅で、何かが光った。

 

 二階から降りてきていたアシュルが、盤の縁に座っていた。いつものけだるそうな黒猫。けれど、その目が――金色に、輝いていた。

 

 猫の目ではなかった。もっと古く、もっと深い、砂漠の神殿の奥に眠るような光。

 

 アシュルの口が、動いた。

 

 人の言葉が、そこから流れ出た。

 

「――ずいぶんと、面白い顔をするようになったではないか。シムティの娘よ」

 

 ネフェルが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……トート」

 

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。