遊戯駒の章   作:にんら

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トキの王の問い

 黒猫の金色の目が、部屋の中の一人ひとりを、ゆっくりと見渡していった。

 

 旅人。パイモン。ヤフォダ。キャンディス。そして最後に、ネフェル。

 

「ひいっ! ア、アシュルが喋ったぁ!」

 

 ヤフォダが、ネフェルの背中にしがみついた。

 

「お、落ち着けヤフォダ! オイラも喋る生き物だけど、怖くないだろ!」

 

「パイモンは最初から喋る生き物だろ! アシュルは喋らない生き物なんだよ!」

 

 パイモンとヤフォダが言い合う間も、黒猫は少しも動じなかった。盤の縁に座ったまま、尻尾をゆっくりと揺らしている。

 

「騒がしいのう」

 

 猫の口から漏れる声は、低く、乾いていた。砂漠の遺跡の奥で、千年眠っていた石碑が口を開いたら、こんな声になるだろうか。

 

 ネフェルが、静かに口を開いた。

 

「……トキの王。何年ぶりだい」

 

「さて。我にとっては、瞬きほどの間だがな」

 

 黒猫――トートは、盤の上の駒を、金色の目で見下ろした。

 

「匣を、使ったな。お前が決して覗かぬと誓った、あの男の心に向けて」

 

 ネフェルは、答えなかった。

 

「責めてはおらぬ。むしろ、面白い」

 

 トートの尻尾が、ぱたりと盤の縁を叩いた。

 

「お前は、あの男の心を覗いた。そして、見たのだろう。誓約の儀式で、ウヌの巫女が唱えた言葉を」

 

 旅人は、記憶の盤の十五番目の升目を思い出した。焚き火。焼けた鉄。老女の、しわがれた声。

 

 ――誓う者の言葉の上に、根は張る。

 

 ――言葉が真ならば、根はまっすぐに。言葉が偽りならば、根はねじれる。

 

 ――そして、偽りが真によって暴かれたとき、根は枯れる。

 

「あれは、砂漠の王の時代から伝わる、正しい理だ」

 

 トートが、言った。

 

「あの男は、偽りの特使として誓った。己が罪人だという、偽りの言葉の上にな。ゆえに、誓約の根はねじれている。……そして、ねじれた根は、真によって枯らすことができる」

 

 キャンディスが、一歩前に出た。

 

「それは、つまり……」

 

「偽りに守られた者が、自ら真を語ればよい」

 

 トートの金色の目が、ネフェルをまっすぐに捉えた。

 

「誓約に縛られた者たちの前でな。誓った者の嘘が、誰を守るための嘘だったのか。本当の特使は誰なのか。……お前自身の口で、それを語れば、根は枯れる。誓約は解ける。あの男の首の蛇は、ただの古い傷痕に戻る」

 

 部屋の中が、静まり返った。

 

 ヤフォダが、ネフェルの背中にしがみついたまま、震える声で言った。

 

「そ、それって……姐さんが、砂鱗団の連中の前で、自分が犯人だって言うってことか……?」

 

「そうだ」

 

「そんなことしたら、姐さん、殺されちまうじゃねえか!」

 

 トートは、何も答えなかった。答える必要がない、というように。

 

 ネフェルは、黙っていた。

 

 盤の上の駒を、見下ろしていた。白い駒と、黒い駒。何年も前から、少しも動いていない駒。

 

 やがて、トートが、ゆっくりと口を開いた。

 

「シムティの娘よ。砂漠の神殿の前で、我はお前に問うた。覚えているか」

 

 ネフェルが、顔を上げた。

 

「――真偽を定めるものは、何か」

 

 金色の目が、細められた。

 

「お前は、あのとき、こう答えた。覚えているな」

 

 ネフェルは、少しだけ黙った。それから、小さく笑った。苦い笑みだった。

 

「……勝った者だ、と答えたよ」

 

 旅人は、ネフェルを見た。

 

「勝った者の言葉が、真実になる。負けた者の言葉は、どれだけ正しくても、砂に埋もれて消える。……だから、あたしは勝つ側に立つ。嘘でも何でも使って、勝って、あたしの言葉を真実にする。そう答えた」

 

「面白い答えだった」

 

 トートが、喉の奥で笑った。猫が笑うのを、旅人は初めて見た。

 

「ゆえに、匣を授けた。お前は、その答えの通りに生きた。嘘を剣とし、勝ち続けて、この館を築いた。……実に、面白かった」

 

 トートは、盤の上に前足を乗せた。黒い駒の一つに、そっと肉球を触れる。

 

「では、問おう。もう一度」

 

 金色の光が、部屋中を満たした。

 

「真偽を定めるものは、何か」

 

 ネフェルは、すぐには答えなかった。

 

 盤を見た。駒を見た。それから、目を閉じた。

 

 記憶の盤の、三十番目の升目。小さな天幕。ランプの灯り。砂の上に描いた升目。彫りかけの駒。

 

 ――来てほしい。来てほしくない。どっちも、本当なんだ。

 

 ネフェルは、目を開けた。

 

「……負けてもいいと思える相手、だよ」

 

 静かな声だった。

 

「あたしは、ずっと勝つ側にいた。勝てば、あたしの言葉が真実になったから。……でも、一人だけ、どうしても勝てない男がいた。子供の頃から、何十回、何百回指しても、一度も勝てなかった」

 

 ネフェルは、黒い駒に、そっと指先を触れた。トートの肉球の、すぐ隣に。

 

「そいつの前でだけは、あたしは嘘をつく理由がなかった。勝てないんだから。勝つための嘘なんて、意味がないんだから。……だから、あいつの前でだけ、あたしは本当のことを言えた」

 

 ネフェルは、トートの金色の目を、まっすぐに見返した。

 

「真偽を定めるのは、勝ち負けじゃない。負けてもいいと思える相手の前で、それでも本当のことを言う覚悟だ。……今のあたしには、そう思える」

 

 長い沈黙があった。

 

 やがて、トートが、前足を盤から下ろした。

 

「……ふむ」

 

 金色の目が、ほんの少しだけ、やわらいだように見えた。

 

「前の答えより、つまらぬな」

 

 それから、喉の奥で、もう一度笑った。

 

「だが、前の答えより、ずっと良い」

 

 金色の光が、ふっと消えた。

 

 黒猫が、ぱちぱちと瞬きをした。それから、何事もなかったかのように大きな欠伸をして、盤の縁で丸くなった。

 

 いつもの、けだるそうなアシュルだった。

 

 

◇

 

 

 アシュルが元に戻ってからも、ヤフォダの心臓は、どくどくとうるさく鳴り続けていた。

 

 喋る猫に驚いたからではなかった。

 

 ――偽りに守られた者が、自ら真を語ればよい。

 

 ――誓約に縛られた者たちの前でな。

 

 姐さんが、あの砂鱗団の連中の前で、自分が犯人だと言う。そうすれば、あの片目の兄ちゃんは助かる。

 

 そして、姐さんは。

 

「……姐さん」

 

 ヤフォダは、ネフェルの背中にしがみついたまま、声を絞り出した。

 

「まさか、本当にやる気じゃねえよな?」

 

 ネフェルは、振り返らなかった。

 

 盤の前に座ったまま、丸くなったアシュルの背中を、そっと撫でていた。

 

「旅人。キャンディス。悪いけど、少しだけ、ヤフォダと二人にしてくれるかい」

 

 旅人とキャンディスが、顔を見合わせた。それから、黙ってうなずいた。パイモンが、心配そうに何度も振り返りながら、二人と一緒に部屋を出ていった。

 

 扉が、閉まった。

 

 ネフェルは、ようやく振り返った。ヤフォダの顔を見て、少しだけ笑った。

 

「ひどい顔だね、ヤフォダ」

 

「姐さんのほうがひどい顔だよ! 目、真っ赤じゃねえか!」

 

「泣いたからね」

 

 ネフェルは、悪びれもせずに言った。

 

 それから、盤の脇の小さな引き出しを開けて、何かを取り出した。

 

 鍵の束だった。秘聞の館の、全部の扉の鍵。金庫の鍵。帳簿の棚の鍵。それから、一冊の分厚い帳面。北の大陸情報網の、連絡先と符丁が全部書かれた帳面だった。

 

 ネフェルは、それをヤフォダの手のひらに乗せた。

 

 ずしりと、重かった。

 

「……なんだよ、これ」

 

「館の鍵と、情報網の帳面だ。万一のときは、あんたが館を継ぎな。あんたなら、できる」

 

 ヤフォダの手が、震えた。

 

「ふ、ふざけんなよ……」

 

「ふざけてないよ」

 

「ふざけてるだろ!」

 

 ヤフォダは、鍵の束を床に叩きつけた。金属の音が、部屋中に響いた。アシュルが、びくりと顔を上げた。

 

「なんだよ、万一って! なんで姐さんが死ぬ前提で話してんだよ! あたいは、館なんか継がねえぞ! 情報網のボスなんて、なりたくもねえ!」

 

 涙が、ぼろぼろとこぼれた。止まらなかった。

 

「あたい、姐さんに拾われてから、ずっと、ここが家だったんだ。宝盗団にいた頃は、どこにも居場所がなかった。でも、姐さんが、ここに置いてくれた。アシュルの世話を任せてくれた。……あたいがいなくなったら、誰がアシュルの世話をするんだいって、言ってくれた」

 

 ヤフォダは、ネフェルの外套の裾を、両手で握りしめた。

 

「じゃあ、姐さんがいなくなったら、誰があたいの給料払ってくれるんだよ! 誰があたいのしくじりを笑って許してくれるんだよ! 誰が……誰が、あたいに『あんたなら、できる』って言ってくれるんだよ……!」

 

 声が、途切れた。

 

 ヤフォダは、ネフェルの膝に、顔を埋めた。肩が、激しく震えていた。

 

 ネフェルは、しばらく黙っていた。

 

 それから、ヤフォダの頭に、そっと手を置いた。

 

「……そうだね」

 

 やわらかな声だった。

 

「あんたの給料、まだ払ってない月があったね。先月の分」

 

「……え」

 

「あれ、払わずに死んだら、化けて出られそうだ」

 

 ヤフォダが、顔を上げた。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、ネフェルを見上げる。

 

 ネフェルは、笑っていた。いつもの、涼しい、意地の悪い笑みだった。

 

「ヤフォダ。あたしは、死にに行くんじゃないよ」

 

 ネフェルは、ヤフォダの涙を、指で拭った。

 

「本当のことを言いに行くんだ。生まれて初めてね。……それで、もしハッザーンがあたしを殺そうとしたら、そのときは、ちゃんと抵抗する。あたしは、北の大陸情報網のボスだよ? 黙って首を差し出すほど、お人好しじゃない」

 

「……本当か?」

 

「本当さ」

 

「嘘じゃねえよな?」

 

「あたしがあんたに嘘をついたこと、あったかい」

 

「……いっぱいある」

 

「そうだったね」

 

 ネフェルは少しだけ笑った。それから、ヤフォダの手を両手で包んだ。

 

「でも、これは嘘じゃない」

 

 ヤフォダは、しばらくネフェルの顔をじっと見つめていた。それから、床に散らばった鍵の束を拾い上げた。

 

「……これは、預かっとくだけだからな」

 

 鍵を、ぎゅっと握りしめる。

 

「姐さんが戻ってきたら、すぐ返す。継いだりしねえ。絶対」

 

「ああ。それでいい」

 

 ヤフォダは、ネフェルに抱きついた。

 

 ネフェルは、何も言わずに、その背中を抱き返した。

 

 小さな背中だった。宝盗団から足を洗って、無鉄砲で、プライドが高くて、勇敢で、優しい子。

 

 ――あの男に、少し似ている。

 

 ネフェルは、そう思った。

 

 盤の縁で、アシュルが、二人を見上げていた。それから、満足そうに目を細めて、また丸くなった。

 

 

◇

 

 

 翌朝、秘聞の館の応接間には、いつになく大勢の顔が揃っていた。

 

 旅人とパイモン。ヤフォダ。キャンディス。それから、霜月の子らの里から再び駆けつけたラウマ。

 

 そして、もう一人。

 

 窓辺に、背の高い男が立っていた。古風な外套に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしている。立ち居振る舞いの一つひとつが、まるで古い絵画から抜け出してきたように端正だった。

 

 ライトキーパーの、フリンズだった。

 

 旅人が駆けつけてくれた礼を言うと、フリンズは穏やかに会釈を返した。

 

 旅人の隣で、パイモンが小声で言った。

 

「ネフェル、フリンズとも知り合いだったのか?」

 

「古い付き合いだよ」

 

 ネフェルが、肩をすくめた。

 

「あの男の礼儀正しさは、鎧みたいなもんさ。中身が何なのか、あたしは知ってる。でも、それで構わない。友人同士で一番大事なのは、信頼だからね」

 

 フリンズが、窓辺から振り返った。穏やかに微笑んで、優雅に一礼する。

 

「事情は、旅人さんから伺いました。秘聞の館の女主人が、生まれて初めて真実を語るために広場に立つ。……それを守る盾が必要だと」

 

「大げさだね」

 

「大げさではありませんよ。ナシャタウンの裏を束ねる方が、自らの罪を公に語る。それがどれほどの意味を持つのか、あなた自身が一番よくご存じのはずです」

 

 ネフェルは、何も言い返さなかった。

 

 ラウマが、静かに口を開いた。

 

「誓約の根が枯れるとき、セネトさんの体には大きな負担がかかるであろう。何年も命に絡みついていた根が、一度に剥がれるのだからな」

 

 ラウマは、ネフェルの目をまっすぐに見た。

 

「私は、そのときのためにそばにおろう。根が剥がれたあとの傷を、すぐに癒せるように」

 

 ネフェルは、ラウマを見返した。

 

 少しだけ、居心地が悪そうな顔をした。それから、小さく頭を下げた。

 

「……助かるよ」

 

 ラウマが、ふわりと微笑んだ。

 

「ふふっ。そなたに頭を下げられるのは、これで二度目だな」

 

「数えなくていいよ」

 

 パイモンが、思わず吹き出した。応接間の空気が、ほんの少しだけ、やわらいだ。

 

 

◇

 

 

 段取りは、こうだった。

 

 明日の正午、ナシャタウンの中央広場。ネフェルが、砂鱗団の前で真実を語る。旅人とフリンズは、広場の両脇で万一に備える。ヤフォダは、館の者として、ネフェルの背後に立つ。ラウマは、セネトのそばへ駆けつけられる場所に。キャンディスは――

 

「私は、ネフェルの隣に立ちます」

 

 キャンディスが、静かに言った。

 

「アアル村の守護者として。……そして、あの夜の真実を知りながら、黙っていた者として」

 

 ネフェルが、キャンディスを見た。何か言いかけて、やめた。代わりに、小さくうなずいた。

 

 最後に、ネフェルは懐から一通の書簡を取り出した。

 

 キャンディスが運んできた、教令院の書簡だった。封蝋は、まだ切られていなかった。

 

「……開けるのかい、姐さん」

 

 ヤフォダが、おずおずと聞いた。

 

「ああ。もう、知らないふりをする理由がないからね」

 

 ネフェルは、封を切った。

 

 中には、二枚の紙が入っていた。

 

 一枚は、教令院の再調査の報告書の写しだった。十年前の事件の経緯。消えた儀礼用の衣。生き残りたちの証言。そして、結論の欄には、こう書かれていた。

 

 ――偽りの特使は、当時教令院に在籍していた砂漠出身の女子学生である可能性が高い。数年前に名乗り出た男の証言は、事実と食い違う点が多く、偽証と考えられる。

 

 ネフェルは、表情を変えずにそれを読んだ。

 

 もう一枚は、短い手紙だった。几帳面な、硬い字で書かれていた。

 

『秘聞の館の主へ。

 

 教令院は、十年前の件を裁く。それがマハマトラの務めだ。だが、自ら真実を語る者の言葉を、マハマトラは記録し、その重さを量る。逃げる者と、名乗り出る者は、同じ秤には乗せない。

 

 俺は、明日の正午までにナシャタウンに着く。

 

 ――セノ』

 

 ネフェルは、手紙を読み終えると、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく笑った。

 

「……大マハマトラ殿は、相変わらず堅いね」

 

「大マハマトラらしいですね」

 

 キャンディスが、少しだけ口元を緩めた。

 

「明日の正午、ですか。……まるで、ネフェルが何を選ぶのか、最初から分かっていたみたいですね」

 

 ネフェルは、手紙を丁寧に折り畳んで、懐にしまった。

 

 それから、立ち上がった。

 

「ヤフォダ。砂鱗団の野営地に、使いを出しな。伝言は一つだけだ」

 

 ネフェルは、窓の外を見た。灰色の雲の切れ間から、薄い陽光が差し込んでいた。

 

「明日の正午、ナシャタウンの中央広場で。秘聞の館の女主人が、首領に話がある。……団員を、一人残らず連れてこい、と」

 

 

◇

 

 

 崩れた倉庫の奥の柱に、セネトは鎖で繋がれていた。

 

 手首と足首に、太い鉄の枷。うなじの焼き印は、もう赤くはなかった。ハッザーンが唱えた砂漠の言葉が、蛇を眠らせていた。けれど、眠っているだけだ。セネトが再び命令に背けば、蛇はすぐに目を覚ます。

 

 館を襲った夜から、二日が経っていた。

 

 倉庫の隙間から、夕日が差し込んでいた。セネトは、柱に背を預けたまま、ぼんやりとその光を見ていた。

 

 ――斬りな。あんたになら、構わない。

 

 両手を広げた、ネフィの姿が、瞼の裏から離れなかった。

 

 あの瞬間、自分の腕は、確かに振り上がっていた。蛇に引きずられて。あと一瞬、自分が刃を止めるのが遅れていたら――

 

 セネトは、目を閉じた。

 

 足音がした。

 

 小さな、忍ぶような足音。倉庫の入口のほうから、誰かが近づいてくる。

 

 目を開けると、ひょろりとした若い団員が、水の入った革袋を抱えて立っていた。

 

「……ラシード」

 

「しっ。ハッザーンに見つかったら、俺まで鎖に繋がれる」

 

 ラシードは、セネトの前にしゃがみ込んで、革袋の口をセネトの唇に当てた。セネトは、ゆっくりと水を飲んだ。冷たかった。二日ぶりの水だった。

 

「ありがとう」

 

「……礼なんか、言うなよ」

 

 ラシードは、目を逸らした。少年の頃より背は伸びたが、目元はあの日と同じだった。矢の雨の中で、泣きじゃくっていた少年の目。

 

「なあ、セネト。秘聞の館から、使いが来たぜ」

 

 セネトの体が、強張った。

 

「明日の正午、ナシャタウンの中央広場で、館の女主人が首領に話があるってさ。団員を一人残らず連れてこいって」

 

「……なんだって」

 

 声が、掠れた。

 

「ハッザーンは、受けた。明日、全員で広場に行く。……あんたも連れていくってさ。鎖をつけたまま」

 

 セネトは、鎖を引いた。鉄の枷が、がちゃりと鳴った。

 

「だめだ。ラシード、頼む。館に伝えてくれ。来るなって。広場には来るなって――」

 

「無理だよ」

 

 ラシードが、首を横に振った。

 

「俺が伝えたって、あの人は来る。……あんたが一番よく分かってるだろ」

 

 セネトは、何も言えなかった。

 

 分かっていた。

 

 ネフィは、逃げない。昔から、そういう奴だった。

 

 ラシードは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

 

「なあ。あの女主人が、あんたの庇った人なんだろ」

 

 セネトは、答えなかった。

 

 沈黙は、嘘ではない。けれど、答えでもあった。

 

 ラシードは、小さくため息をついた。

 

「……俺さ、あんたのこと、ずっと仇の片割れだと思ってた。親父を殺された恨みを、あんたにぶつけてた時期もあった。でも、あんたは、俺の盾になって片目を失くした。何年も、誰一人殺さなかった」

 

 ラシードは、立ち上がった。

 

「だから、明日、何があっても……俺は、あんたの味方でいる。それだけは、言っとく」

 

 それだけ言って、ラシードは足早に倉庫を出ていった。

 

 

◇

 

 

 夜になって、ハッザーンが来た。

 

 ランプを一つ提げて、セネトの前に立った。しばらく、何も言わなかった。ランプの灯りが、セネトの顔と、ハッザーンの切れ長の目を、交互に照らしていた。

 

「聞いたか。明日のことは」

 

「……ああ」

 

「あの女は、何を言うつもりだと思う」

 

 セネトは、答えなかった。

 

 ハッザーンは、セネトの前にしゃがみ込んだ。目の高さを合わせる。最初の夜、野営地で初めて会ったときと同じように。

 

「セネト。俺は、十年、偽りの特使を憎んできた。親父の首を飛ばさせた奴を。部族をばらばらにした奴を」

 

 ハッザーンの声は、低かった。けれど、いつもの冷たさとは、少しだけ違っていた。

 

「お前が名乗り出たとき、俺は、ようやく憎む相手が見つかったと思った。……なのに」

 

 ハッザーンは、目を伏せた。

 

「お前は、この数年、誰も殺さなかった。俺がどれだけ殴っても、命令に背いて、蛇に焼かれても。ラシードの盾になって、片目を失くしても、恨み言一つ言わなかった」

 

 ランプの炎が、揺れた。

 

「俺は、お前を、憎みきれなかった」

 

 セネトは、目を見開いた。

 

 ハッザーンは、顔を上げた。切れ長の目が、まっすぐにセネトを見ていた。そこにあったのは、冷たさではなかった。十年分の、行き場のない何かだった。

 

「だから、余計に腹が立つ。お前が、本当の特使じゃないと分かっていて、それでもお前を縛り続けてきた自分に」

 

「……ハッザーン」

 

「明日、あの女が何を言うか、聞いてやる」

 

 ハッザーンは、立ち上がった。

 

「そのうえで、俺がどうするかは、俺が決める。……親父の仇を、この手で討つかどうかもな」

 

 ハッザーンは、背を向けた。ランプの灯りが、遠ざかっていく。

 

 倉庫に、闇が戻った。

 

 セネトは、鎖に繋がれたまま、闇の中で目を閉じた。

 

 ――来るな、ネフィ。

 

 心の中で、何度も唱えた。

 

 ――頼むから、来るな。

 

 けれど、その願いが叶わないことを、セネトは誰よりもよく知っていた。

 

 外套の内側で、布袋の中の駒が、かすかに鳴った。

 

 最後に彫った駒だった。まだ、送っていない。

 

 セネトは、鎖の届く限り手を伸ばして、その駒を握りしめた。

 

 明日の正午まで、あと半日。

 

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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