遊戯駒の章   作:にんら

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真実の値段

 正午の鐘が、ナシャタウンの空に響いた。

 

 中央広場には、人だかりができていた。秘聞の館の女主人が、砂漠の傭兵団の首領と話をする。そんな噂が、一晩で町中に広まっていたのだ。商人も、トレジャーハンターも、子供連れの母親も、遠巻きに広場を囲んでいた。

 

 旅人は、広場の東の端に立っていた。西の端には、フリンズの姿が見える。パイモンは、旅人の肩の上で、ぎゅっと拳を握りしめていた。

 

「……来たぞ」

 

 広場の南から、砂色の外套の一団が入ってきた。

 

 砂鱗団だった。二十人あまり。先頭にハッザーン。その後ろに、鎖に繋がれた黒い外套の男が、二人の団員に両脇を抱えられて歩かされていた。

 

 セネトだった。

 

 手首と足首に鉄の枷。左目を覆う藍色の布。二日前より、さらに頬がこけて見えた。けれど、残された右目だけは、必死に広場を見回していた。誰かを、探すように。

 

 群衆が、ざわめいた。

 

「鎖に繋がれてるぞ」

 

「あれが、館を襲った片目の剣士か」

 

「なんで、あんな……」

 

 広場の北から、もう一つの足音が近づいてきた。

 

 人垣が、自然と左右に割れた。

 

 ネフェルが、歩いてきた。

 

 深緑の髪。緑と金の衣装。黒い長手袋。いつもと同じ装いだった。けれど、いつもの涼しい笑みは、その顔のどこにもなかった。

 

 その右隣に、キャンディス。円い盾を背負い、色の違う二つの瞳で、まっすぐに前を見据えている。左の少し後ろに、ヤフォダ。拳を握りしめて、唇を噛んでいた。

 

 そして、少し離れた人垣の中に、ラウマの姿があった。

 

 セネトの右目が、ネフェルを見つけた。

 

 顔が、歪んだ。

 

「――ネフィ」

 

 声にならない声で、唇が動いた。来るなと言ったのに、と。

 

 ネフェルは、セネトに、ほんの少しだけ笑ってみせた。それから、広場の中央に進み出て、ハッザーンの正面に立った。

 

「来たね、首領」

 

「呼ばれたからな」

 

 ハッザーンは、腰の曲刀の柄に手をかけたまま、ネフェルを見下ろした。

 

「話とは何だ、女主人。セネトの誓約を買い取る話なら、もう断ったはずだ」

 

「買い取る話じゃない」

 

 ネフェルは、静かに言った。

 

「本当のことを、話しに来た」

 

 そのとき、広場の西の路地から、もう一人の人影が現れた。

 

 白い髪。褐色の肌。狼の頭を象った被り物。腰には、黄金の装飾が施された長柄の武器。砂漠を何日も駆け抜けてきたのだろう、外套の裾が砂にまみれていた。

 

「セノ……!」

 

 パイモンが、小さく声を上げた。

 

 大マハマトラは、広場の端で足を止めた。何も言わずに、ネフェルとハッザーンを見据える。約束の正午に、間に合ったのだ。

 

 ネフェルは、セノのほうをちらりと見た。それから、ハッザーンに向き直った。

 

 深く、息を吸った。

 

 旅人は、ネフェルの指先が、かすかに震えているのを見た。

 

 北の大陸情報網のボスが。秘聞の館の女主人が。何百もの嘘を涼しい顔でついてきた女が、たった一つの真実を前に、震えていた。

 

「十年前」

 

 ネフェルの声が、広場に響いた。

 

「教令院の特使を名乗って、イアブ族とウヌ族に嘘を吹き込んだのは、あたしだ」

 

 広場が、凍りついた。

 

「教令院の書庫から儀礼用の衣を盗んだのも、あたし。イアブ族の族長に、ウヌ族が井戸を奪いに来ると吹き込んだのも、あたし。ウヌ族の族長に、イアブ族が家畜を奪いに来ると吹き込んだのも、あたし。……勝ち祝いの宴で、あんたの親父の首が飛ぶのを、砂丘の陰から見届けたのも、あたしだ」

 

 ハッザーンの顔から、表情が消えた。

 

 砂鱗団の男たちが、どよめいた。曲刀の柄に、次々と手がかかる。

 

「あたしは、シムティ族の族長シムへの娘だ。井戸の水を一杯汲んだだけで、村ごと焼かれた部族の、生き残りだよ」

 

 ネフェルは、ハッザーンから目を逸らさなかった。

 

「偽りの特使は、あたしだ。セネトじゃない。あの男は、あたしの痕跡を消して回っただけ。それから、あたしの代わりに、あんたたちの前に名乗り出ただけだ」

 

「――違う!」

 

 叫び声が、広場を裂いた。

 

 セネトだった。両脇の団員を振りほどこうとして、鎖ががちゃがちゃと鳴った。

 

「違う! 特使は僕だ! その人は関係ない! 僕が――」

 

 うなじが、燃えた。

 

 焼き印が、真っ赤に光った。団への嘘に、蛇が目を覚ましたのだ。セネトが膝から崩れ落ちる。それでも、まだ叫ぼうとしていた。

 

「僕が……やったんだ……」

 

 焼き印が、さらに激しく燃え上がった。

 

 群衆が、息を呑んだ。誰の目にも、それは明らかだった。片目の剣士が否定の言葉を叫ぶたびに、その首の印が、罰を与えるように燃え上がる。

 

 ネフェルは、セネトを振り返った。

 

 悲しそうに、それでいて、ほんの少しだけ誇らしそうに、笑った。

 

「ほらね。……蛇は、正直だ」

 

 

◇

 

 

 うなじの奥で、何かが軋んだ。

 

 セネトは、石畳に両手をついたまま、その音を聞いていた。

 

 焼き印の熱が、変わっていた。罰の熱ではなかった。もっと深いところで、何かが枯れていくような、乾いた痛み。何年も体の奥に絡みついていた根が、一本、また一本と、内側から崩れていく感触。

 

 ――偽りが真によって暴かれたとき、根は枯れる。

 

 誓約の夜、ナフィサ婆が唱えた言葉。

 

 ネフィが、言ったのだ。広場の真ん中で。町中の人間の前で。団の全員の前で。

 

 偽りの特使は、あたしだ、と。

 

「ぐ……っ」

 

 声が、漏れた。

 

 根が剥がれていく。心の臓から。骨から。記憶から。何年分もの痛みが、一度に体の外へ引きずり出されていく。視界が、白く明滅した。

 

「セネトさん!」

 

 

 誰かが叫んだ。そして別の誰かが、駆け寄ってきた。やわらかな手がうなじに触れた。ラウマだった。温かな光が、焼き印の上に注がれる。剥がれた根の痕を、一つずつ塞いでいくように。

 

「案ずるな。根はもう枯れておる。……あとは、残った傷を癒すだけだ」

 

 ラウマの声が、遠くに聞こえた。

 

 両脇でセネトを押さえていた団員たちが、たじろいで手を離した。その隙に、白い外套の男が音もなく近づいてきて、セネトの手首の枷に手をかけた。フリンズだった。

 

「失礼。少し、お手を拝借します」

 

 鉄の枷が、澄んだ音を立てて外れた。足首の枷も。

 

 セネトは、ゆっくりと顔を上げた。

 

 うなじに手をやる。焼き印は、まだそこにあった。けれど、もう熱くなかった。脈打ってもいなかった。指先に触れるのは、ただの、古い火傷の痕だった。

 

 蛇が、いなかった。

 

 何年も、嘘をつくたびに、命令に背くたびに、皮膚の下でのたうっていた蛇が。

 

「……解けた」

 

 セネトは、呆然と呟いた。

 

 そのとき、広場の空気が、変わった。

 

 セネトのうなじから剥がれ落ちた黒い靄が、消えていなかった。石畳の上で、とぐろを巻いていた。記憶の盤で旅人たちが見た、あの誓約の蛇影だ。根を失って、宿る場所を失って――新しい器を、探していた。

 

 蛇影が、鎌首をもたげた。

 

 その先にいたのは、ハッザーンだった。

 

 ハッザーンは、曲刀を抜いていた。ネフェルの告白を聞いた瞬間から、ずっと。刃先が、震えていた。切れ長の目が、真っ赤に充血していた。

 

「……お前が」

 

 掠れた声だった。

 

「お前が、親父を……」

 

 ハッザーンが、一歩踏み出した。ネフェルに向かって。

 

 蛇影が、その足元に、するりと滑り込んだ。

 

 誓約を結んだのは、セネトだけではなかった。首領として、誓約を受けたハッザーンもまた、その根に繋がっていた。根が枯れたとき、行き場を失った呪いは、もう一方の端へ――怒りに燃える、誓いの主へと流れ込んだのだ。

 

 黒い靄が、ハッザーンの体を這い上がった。足から、胴へ、腕へ、首へ。ハッザーンのうなじに、黒い蛇の印が、焼き付くように浮かび上がった。

 

 ハッザーンの目が、黒く染まった。

 

「――ハッザーン!」

 

 ラシードが、叫んだ。

 

 ハッザーンは、答えなかった。喉の奥から、人のものではない唸り声が漏れた。曲刀に、黒い靄がまとわりつく。刃が、蛇の鱗のような紋様に覆われていく。

 

 砂鱗団の男たちが、悲鳴を上げて後ずさった。

 

 蛇に憑かれた首領が、ネフェルに向かって、曲刀を振りかぶった。

 

 セネトは、走った。

 

 考えるより先に、体が動いていた。何年もそうしてきたように。誰かと危険の間に、自分を置くために。

 

 けれど、腰に、曲刀がなかった。館で投げ捨てたまま――

 

「セネト!」

 

 ネフェルの声がした。

 

 振り返ると、ネフェルが何かを投げていた。

 

 空中で、くるくると回転しながら飛んでくる。砂漠の曲刀。柄に、左から右へ、少しだけ斜めに巻かれた布。

 

 セネトの曲刀だった。

 

 セネトは、それを空中で掴み取った。そのまま、ネフェルの前に滑り込む。振り下ろされたハッザーンの黒い刃を、曲刀で受け止めた。

 

 火花が散った。

 

 重かった。蛇の呪いが、ハッザーンの膂力を何倍にも膨れ上がらせていた。セネトの足が、石畳の上でずるりと滑った。

 

 背中に、温かいものが触れた。

 

 ネフェルの手だった。

 

「峰しか研いでないね、それ」

 

 耳元で、ネフェルの声がした。いつもの、涼しい、意地の悪い声だった。

 

「……斬るつもりは、ないから」

 

「知ってるよ」

 

 ネフェルが、セネトの隣に並んだ。両手を広げる。翠色の光の駒が、その周りに次々と浮かび上がった。

 

「なら、あたしたちで、あの蛇だけを剥がそう。……昔みたいに、ね」

 

 セネトは、右目でネフェルを見た。

 何年ぶりだろう。この女の隣に、並んで立つのは。

 

 腰の神の目が、オアシスの色に輝いた。

 

 

◇

 

 

 蛇に憑かれたハッザーンが、咆哮した。

 

 黒い刃が、横薙ぎに振るわれる。セネトが峰で受け流す。刃の軌跡に沿って、黒い靄が鞭のように伸び、ネフェルの足元の石畳を抉った。

 

 ネフェルは、後ろへ跳んだ。翠色の駒が、彼女の周りを舞う。

 

「旅人! フリンズ! 首領の動きを止めてくれ! 狙うのは首の蛇だけだ!」

 

「了解だぞ!」

 

 パイモンの声と同時に、旅人が広場の東から駆け込んできた。西からは、フリンズ。端正な外套の裾を翻し、長柄の得物を構えて、ハッザーンの背後に回り込む。

 

 ハッザーンの黒い刃が、旅人を狙った。

 

 その刃を、円い盾が受け止めた。

 

 キャンディスだった。

 

「アアル村の守護者として、ここは通しません」

 

 盾の表面に、水の光が走る。黒い靄が、盾にぶつかって弾け散った。

 

「みんな、下がって! 子供たちは、建物の陰に!」

 

 ラシードが、両手を広げて群衆の前に立ちはだかっていた。砂鱗団の若い団員たちが、何人かそれに倣った。首領に刃を向けることはできない。けれど、町の人間を守ることはできる。

 

 ヤフォダの装置から、小さな機械の猫が何匹も飛び出して、逃げ遅れた子供たちの足元に駆け寄っていく。

 

「あたいだって、秘聞の館の者だ! 姐さんの邪魔は、させねえ!」

 

 広場が、戦場になった。

 

 けれど、誰一人、ハッザーンを斬ろうとはしなかった。

 

 旅人の剣が、黒い刃を弾く。フリンズの得物が、ハッザーンの足を払う。キャンディスの盾が、蛇の靄を受け止める。全員が、同じものだけを狙っていた。ハッザーンのうなじに巻きついた、黒い蛇だけを。

 

 ネフェルは、セネトの隣に立った。

 

「セネト。水を」

 

「ああ」

 

 それだけで、通じた。

 

 昔、アアル村で、何度もそうしてきた。キャンディスが盾で獣を受け止め、セネトが前に出て、ネフェルが知恵で仕留める。言葉はいらなかった。互いが次に何をするのか、指す前から分かっていた。盤の上の駒のように。

 

 セネトが、曲刀を振るった。

 

 水の帯が、広場いっぱいに弧を描いて降り注いだ。石畳が、ハッザーンの足元が、黒い靄が、澄んだ水に濡れていく。

 

 ネフェルが、両手を掲げた。

 

 翠色の駒が、一斉に弾けた。

 

 草の元素の光が、セネトの水と交わる。

 

 その瞬間――花が咲いた。

 

 真昼の広場に、月の光を宿した花が、次々と咲き誇った。石畳の隙間から。水溜まりの中から。黒い靄の只中から。淡い銀色の光を纏った、透き通るような花びら。砂漠では決して見られない、水と草が交わったときにだけ咲く花。

 

 群衆が、息を呑んだ。

 

 花が弾けた。

 

 月光の花びらが、光の奔流となって、ハッザーンを包み込む。蛇の靄が、光に灼かれて悲鳴を上げた。ハッザーンの全身から、黒い靄が剥がれ落ちていく。

 

 けれど、うなじの蛇の印だけは、まだ離れなかった。最後の根を、ハッザーンの首に食い込ませて、必死にしがみついていた。

 

「しぶといね」

 

 ネフェルが、舌打ちした。

 

 セネトが、一歩前に出た。

 

「ネフィ。最後は、僕が行く」

 

「……あんたの体、まだ――」

 

「大丈夫。今度は、嘘じゃない」

 

 セネトは、振り返って、笑った。

 

 残された右目が、まっすぐにネフェルを見ていた。泳いでいなかった。逸れてもいなかった。

 

 ネフェルは、何も言わずにうなずいた。

 

 セネトが、駆けた。

 

 ハッザーンの黒い刃が、セネトを迎え撃つ。セネトは、それを紙一重でかわした。舞うような足さばき。外套の裾が翻る。水の帯が、その軌跡に沿ってきらめく。

 

 ハッザーンの懐に、飛び込んだ。

 

 曲刀の峰が、ハッザーンのうなじを打った。

 

 刃ではなかった。峰だった。斬るためではなく、引き剥がすための一撃。水の力を纏った峰が、蛇の印の真上を、正確に捉えた。

 

 そこへ、ネフェルの最後の駒が、翠色の光の矢となって飛んだ。

 

 水と草が、もう一度、交わった。

 

 ハッザーンのうなじで、月光の花が、一輪だけ咲いた。

 

 蛇の印が、花に呑まれた。

 

 悲鳴のような音を立てて、黒い靄が、花びらと一緒に空へ舞い上がっていく。高く、高く。真昼の空の青の中に溶けて、やがて、跡形もなく消えた。

 

 広場に、静寂が戻った。

 

 ハッザーンの手から、曲刀が滑り落ちた。石畳の上で、からん、と乾いた音を立てる。

 

 ハッザーンは、膝をついた。黒く染まっていた目が、ゆっくりと元の色に戻っていく。切れ長の、少しだけ疲れた目に。

 

 広場のあちこちで、月光の花が、まだ淡く光っていた。

 

 セネトが、ハッザーンの前に、曲刀を下ろして立っていた。肩で息をしていた。けれど、倒れなかった。

 

 ネフェルは、ゆっくりとセネトの隣に歩み寄った。

 

 それから、膝をついたハッザーンを見下ろした。

 

 

◇

 

 

 ハッザーンは、石畳に膝をついたまま、動かなかった。

 

 うなじの蛇の印は、もう消えていた。黒い靄も、どこにもない。残っているのは、十年分の疲れが一度に押し寄せたような、空っぽの顔だけだった。

 

 足元に、曲刀が転がっていた。柄に、金の装飾が施された曲刀。

 ネフェルは、それを見下ろした。

 

「……その刀。あんたの親父のだね」

 

 ハッザーンが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「十年前、宴の夜。親父さんが腰に下げてた。首が飛んだとき、焚き火の向こうに転がったのを、あたしは見た」

 

 ハッザーンは、何も言わなかった。

 

 ネフェルは、懐から古い木の匣を取り出した。

 

「ハッザーン。あたしは、あんたの親父の首を飛ばさせた。それは、あたしの罪だ。言い訳はしない。償えと言うなら、償う」

 

 ネフェルは、匣を石畳の上に置いた。

 

「でも、その前に、一つだけ見てほしいものがある。あんたの親父が、十年前より、もう少し前に、何をしたのか」

 

「……何を、言っている」

 

「この刀は、覚えてるはずだよ。持ち主が、何を斬らせたのか」

 

 ネフェルは、ハッザーンの曲刀に手を伸ばした。ハッザーンは、止めなかった。止める力も、残っていなかったのかもしれない。

 

 曲刀の柄を、匣の上にかざす。

 

 匣の文様が、翠色に光った。

 

 光が、広場いっぱいに広がっていった。旅人も、セネトも、キャンディスも、セノも、群衆も、砂鱗団の男たちも。誰もが、その光の中に、一つの光景を見た。

 

 

◇

 

 

 砂漠の、小さな村だった。

 

 日干し煉瓦の家が、十いくつか。真ん中に、乾ききった井戸。家畜の囲い。痩せた子供たちが、砂の上で遊んでいる。

 

 村の外れに、馬に乗った男たちが現れた。

 

 先頭の男の腰に、金の装飾が施された曲刀があった。若い日の、イアブ族の族長だった。

 

 村の男が一人、族長の前に進み出た。痩せた、人の好さそうな顔の男だった。両手を広げて、何かを懸命に訴えている。

 

 ――雨が降らなかったんです。うちの井戸は、もう三月も枯れていて。子供たちが、喉の渇きで倒れそうで。だから、ほんの少しだけ、イアブ族の井戸から、一杯だけ……。

 

 シムティ族の族長、シムへだった。ネフェルの父だった。

 

 族長は、馬の上から、シムへを見下ろした。

 

 ――盗んだ水は、一杯でも、盗みだ。

 

 曲刀が、抜かれた。

 

 族長の背後の男たちが、松明を掲げた。日干し煉瓦の家に、火が放たれる。子供たちの悲鳴。家畜の鳴き声。炎が、村を呑み込んでいく。

 

 シムへが、族長の馬の足元に縋りついた。――せめて、子供たちだけは。

 

 金の装飾の曲刀が、振り下ろされた。

 

 光景の端で、焼け落ちる家の陰に、一人の小さな女の子がうずくまっていた。深緑の髪。翠色の目。父が斬られるのを、声も出せずに見ていた。

 

 そして、族長の馬の後ろに、もう一人、小さな男の子がいた。

 

 父親の背中にしがみついて、馬に乗せられていた。五歳くらいだろうか。切れ長の目を見開いて、燃える村を見ていた。斬られる男を見ていた。泣き叫ぶ子供たちを見ていた。

 

 幼い日の、ハッザーンだった。

 

 

◇

 

 

 光が、ふっと消えた。

 

 広場に、静寂が落ちた。

 

 ハッザーンは、両手で顔を覆っていた。肩が、震えていた。

 

「……覚えて、いなかった」

 

 掠れた声が、指の隙間から漏れた。

 

「親父に、狩りに連れていかれた日だと思っていた。……煙の匂いと、子供の泣き声だけが、ずっと耳に残っていて。夢だと、思っていた」

 

 ネフェルは、ハッザーンの前に膝をついた。目の高さを、合わせる。

 

「あたしは、あんたの親父を憎んだ。十年かけて、嘘で報いを受けさせた。……そして、あんたは、あたしを憎んで、十年かけて、ここまで来た」

 

 静かな声だった。

 

「憎しみの始まりがどこだったのか、あたしにも、もう分からない。井戸の水を一杯汲んだ父さんか。それを斬らせたあんたの親父か。それとも、雨を降らせなかった砂漠か」

 

 ハッザーンが、顔を上げた。

 

 濡れた切れ長の目が、ネフェルを見た。

 

「でも、終わりにすることは、できる。……あたしが、本当のことを言ったように」

 

 ハッザーンは、長い間、何も言わなかった。

 

 それから、足元の、父の曲刀に目を落とした。金の装飾が、真昼の陽光にきらめいていた。

 

 ハッザーンは、その曲刀を、両手でネフェルの前に置いた。

 刃を、自分のほうに向けて。

 砂漠の民が、争いを終えるときの作法だった。

 

 

◇

 

 

「――そこまでだ」

 

 低い声がした。

 

 大マハマトラが、広場の中央に歩み出てきた。セノの鋭い目が、ネフェルを、ハッザーンを、セネトを、順に見渡していく。

 

「秘聞の館の主、ネフェル。お前の告白は、マハマトラが確かに記録した。十年前、イアブ族とウヌ族を騙し、殺し合わせた罪。それは、教令院が裁く」

 

 ネフェルは、黙ってうなずいた。

 

「同時に、教令院は、さらに十年以上前、イアブ族がシムティ族の村を焼き払った罪も、記録する。……どちらの罪も、砂漠の法の外で、これまで誰にも裁かれてこなかった」

 

 セノは、懐から一枚の紙を取り出した。教令院の印が押されている。

 

「裁定を告げる。ネフェル。お前は、北の大陸情報網の財をもって、スメールの砂漠に井戸を掘れ。イアブ族も、ウヌ族も、シムティ族も、アアル村も、旅人も、誰もが等しく水を汲める井戸を。……一杯の水のために、誰も殺されずに済む砂漠を作れ。それが、お前の償いだ」

 

 広場が、ざわめいた。

 

 セネトが、息を呑んだ。

 

 ――砂漠の誰もが、井戸の水のことで死なずに済めばいいのに。

 

 あの砂嵐の夜、セネトの神の目が応えた願いと、同じだった。

 

 キャンディスが、セノの隣に並んだ。

 

「井戸の監督は、アアル村の守護者が引き受けます。……そして、井戸を守る者が必要です。砂漠の盗賊や、水を独り占めしようとする者たちから」

 

 キャンディスは、砂鱗団の男たちを見渡した。

 

「砂漠の戦を生き抜いてきた、腕の立つ者たちが」

 

 砂鱗団の男たちが、顔を見合わせた。

 

 最初に一歩前に出たのは、ラシードだった。

 

「……俺、やるよ。井戸を守る仕事なら、誰も殺さなくて済む」

 

 ラシードは、セネトを振り返って、少しだけ笑った。

 

「あんたの真似だよ」

 

 一人、また一人と、団員たちが前に出た。

 

 最後に、ハッザーンが、ゆっくりと立ち上がった。

 

 父の曲刀は、ネフェルの前に置いたまま。素手で、まっすぐに、ネフェルを見た。

 

「……砂鱗団は、今日で解散だ」

 

 静かな声だった。

 

「代わりに、井戸守りの一団を作る。……名前は、まだ決めていない」

 

 ネフェルは、小さく笑った。

 

「決まったら、教えてくれ。北の大陸情報網に、登録しておくよ」

 

 広場のあちこちで、月光の花が、ゆっくりと散り始めていた。

 セネトの隣で、ネフェルは、ようやく深く息を吐いた。膝が、少しだけ震えていた。

 

 セネトが、何も言わずに、その手を握った。

 

今後の方針

  • 今迄みたいにぴったり10話で本編まとめて
  • 5話くらいでポンポンいろんなキャラ書いて
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