「どうせ私たちは、このクソみたいな街にずっとしばられてる。だったら、バカみたいなことして、窓のないビルに中指立てて、少しは楽しまなきゃ損じゃない」
助手席の背もたれに深く身を預けたまま、麦野沈利はなんてことのない調子でそう言った。
誰かを励ますような響きではなかったし、ましてや大仰な演説でもなかった。
散々な目に遭った夜、ため息をつくついでに、自分にとっての当たり前を口にした。
そんな軽い口ぶりだった。
少しだけ開いたパワーウィンドウの隙間からは、夜風が滑り込んでくる。
車内にこもっていた焦げ臭い火薬の匂いが、わずかに薄まった。
運転席に座る御坂旅人は、隣に座る沈利の横顔をふと見る。
暗い車内には、高架道路沿いに並んだ街灯の光が一定の間隔で差し込んでくる。
光は彼女の長い栗色の髪と彫りの深い横顔を淡く浮かび上がらせては、すぐに後ろへ流れ去っていった。
煤のついたジャケットの襟元。
乱れたままの前髪。
窓枠に肘をついて前を見つめる彼女の唇の端には、疲れ切ってもなお、不敵でどこか楽しげな弧が浮かんでいた。
沈利の横顔の向こうの窓には、夜の学園都市が広がる。
無機質な研究棟。
規則正しく明滅する航空障害灯。
遠くでゆっくりと回る風力発電のプロペラと、高速道路を縁取るオレンジ色の誘導灯。
旅人にとって、それは見慣れた景色だ。
物心ついた頃から、この街はそういう場所だった。
白い壁に囲まれた検査室も、記録用紙に並ぶ数値も、ある日を境に隣からいなくなった子どもたちの名前も、すべてはこの巨大な箱の中で管理されていた。
他の被験者よりいくらか手厚い処置や配慮を与えられていたところで、自分の居場所や使い道を自分で決められないことに変わりはなかった。
研究計画の優先順位が変わり、ITEMに三人目のメンバーとして放り込まれてからも、しばらくはその前提が抜けていなかったのだと思う。
与えられた仕事は抜かりなくこなす。
事前の調査も、侵入経路の選定も、撤収の手筈も、書類の後始末もやる。
戦闘になれば粒子の盾を張って沈利の射線を確保し、仲間の背中を守る。
滝壺の穏やかな気遣いには礼を言うし、後から四人目として入ってきたフレンダの騒がしい軽口に苦笑いを返すことだってできる。
けれど、胸の奥のいちばん深いところには、いつも冷えた錘(おもり)のようなものが沈んでいた。
どうせ、ここからは出られない。
どうせ、自分の人生は誰かの都合と計算の上でしか動かない。
ならば余計な期待は持たず、摩耗しないように適応し、せめて今日を生き延びていればいい。
そうやって無意識に引いていた一線は、旅人本人も気づかないうちに、呼吸の深さまで決めていた。
だが、隣にいる沈利は違った。
沈利は、この街が優しい場所だなどとは言わなかった。
自分たちがどこへでも行ける自由な人間だとも思っていない。
この学園都市に縛りつけられているという現実を、彼女は旅人と同じくらい、いやそれ以上にはっきりと知っていた。
知った上で、だったら馬鹿みたいなことをして、少しは楽しまなければ損だと言ってのけたのだ。
理屈ではなかった。
その一言で学園都市の仕組みが変わったわけでもないし、過去の記録が消えたわけでも、明日からの保証が手に入ったわけでもない。
それなのに、旅人の胸の内で、長年きつく結ばれていた何かがふいにほどけた。
自分でも驚くほど、肩からすっと力が抜けていく。
逃げられないのなら、ただ耐えて生き残るしかない。
ずっとそう思い込んできた。
その前提のすぐ隣に、最初から別の扉が開いていたかのような感覚だった。
縛られたままでも、自由はなくとも、この街の中で隣にいる連中と笑うことを選んでいいのだと、どうして今まで思わなかったのだろう。
旅人の視線が、沈利の横顔から車窓の向こうへと移る。
流れていくのは、数分前と何ひとつ変わらない学園都市の夜景だった。
灰色のビル群と、人工的な街灯の列。
ただ、ガラスをかすめる街灯の光が沈利の頬を薄く染め、その同じ光が窓の外の街並みへと続いたとき、これまで単調な明暗の連なりにしか見えなかった夜の街が、初めてほんのわずかに温かみのある色を帯びて見えた。
どうしてそんなふうに見えるのか、旅人にはうまく言葉にできなかった。
ただ、胸の奥がひどく静かで、少しだけ面映ゆいような戸惑いがあった。
「……なによ、旅人。人の顔をじっと見て」
旅人の視線に気づいたのか、沈利がシートに頬杖をついたまま、片方の眉を上げてこちらを見た。
少し掠れた、けれどよく通る声。
「いえ。沈利さんでも、さすがに疲れた顔をするんだなと思って」
「はあ? 誰のせいでこんな余計な運動する羽目になったと思ってんのよ。ぜんぶ後ろの席で縮こまってるバカのおかげでしょうが!」
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沈利が忌々しげに吐き捨てたその「余計な運動」。
それは、ほんの三十分前、学園都市には珍しくもない、非合法な活動に手を染めていたある研究所の地下フロアで起きたものだった。
『フレンダァァァッ!』
地下二階に沈利の怒号が響き渡ったのと、天井の非常灯が毒々しい赤色へ切り替わったのは同時だった。
依頼内容は、施設最奥にある記録媒体の回収と、証拠隠滅のための建物ごと爆破。
旅人が三日前に下見を済ませ、完璧に引き直しておいたはずの侵入計画は、頬を煤だらけにして転がり込んできたフレンダ=セイヴェルンの一言で吹き飛んだ。
『ち、違うの! たぶん私が予備ダクトを開けたときに何か引っ掛けたか、向こうの保安系が二重になってたか……とにかく、予定より早く隔壁ロックが降りちゃったっぽい!』
正面の隔壁は閉鎖され、訓練された六人の警備員が上下の通路から挟み撃ちに動いている。
保守ダクトも正面階段も塞がれた状況で、旅人が即座に切り替えた第三案は「床を直接撃ち抜いて地下三階の保管区画へ降り、東階段の追撃路だけを爆破で落とす」という荒業だった。
そこからの数分間は、まさに大わらわだった。
青ざめたフレンダが外部通信を遮断して東階段へ爆薬を仕掛けに走り、旅人は前日に体晶を使っていた滝壺理后に「今日は素の観測だけでいい」と声をかけて自身の粒子観測網を繋いだ。
旅人が拾った空間の輪郭を滝壺の『能力追跡(AIMストーカー)』が照準座標へ変え、沈利が『原子崩し(メルトダウナー)』の白光で地下三階への床スラブを一撃で蒸発させる。
穴へ飛び込みざまに放たれた警備の銃撃は、旅人が展開した『落下の膜』で安全な角度へ受け流し、滝壺の誘導に合わせた沈利の一射が遮蔽物ごと敵の射線を沈黙させた。
旅人が電子錠のラッチを粒子操作で外して目的の記録媒体を回収し、非戦闘員がいないことと警備六人の生存を確認した直後――連動して降りてきた防犯シャッターに挟まれかけたフレンダが、変な悲鳴を上げながら涙目で旅人の背中へ飛び込んできた。
最後は、旅人が予備として確保していた廃棄物の搬送トンネルへ沈利が隔壁をぶち抜いて駆け込み、地上へ抜けた瞬間にフレンダが起爆スイッチを押し込んだのだ。
「――とまあ、あそこは現場のライブ感っていうか! 見てよあの煙、最終的な爆破のタイミングは完璧だったでしょ!? 最後の最後に帳尻を合わせるのがプロの仕事っていうか、むしろスリルがあって盛り上がったっていうか!」
高架道路を走る車の後部座席から、フレンダが身を乗り出して力説していた。
金色の髪はあちこち跳ね、お気に入りのベレー帽は斜めにずれ、頬には黒い煤がすじになって残っている。
旅人や沈利の服も似たような有様で、廃車置き場の裏から引っ張り出してきた逃走用の車両には、撤収時の擦り傷がサイドミラーにくっきりと刻まれていた。
バックミラーの奥、遠ざかる区画の夜空には、今しがた潰してきた白い箱のような研究所の黒煙がまだうっすらと立ち昇っている。
「盛り上がってたのは警報と警備の増援だけよ、このタコ!」
助手席の沈利が後ろを振り返って睨みつけ、フレンダが「ひぃっ」
と大げさに首をすくめる。
「火の粉じゃなくて実害よ、実害! あんたがあそこで余計なヘマさえしなきゃ、予定通りスマートに抜けて、今頃はシャワー浴びて冷たい飲み物でも飲んでたのよ!」
その隣で、ずっと静かに窓の外を見ていた滝壺が、いつものゆったりとした口調で言った。
「でも、むぎのも途中から、隔壁ごと全部吹き飛ばしてた」
「滝壺!? あんたどっちの味方よ!」
「どっちでもないけど……フレンダの髪のリボン、端っこが少し焦げてる」
「えっ、嘘!? ちょっとこれ限定品だったのに! 絶対あのとき麦野が私のすぐ横にかっ飛ばした余波じゃん!」
「ああん? あんたが塞いだ通路を私がこじ開けてやったんでしょうが! 感謝して拝みなさいよ!」
「拝むわけないでしょー!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるフレンダの声に、ハンドルを握る旅人は思わず口元を緩めた。
「まあ、フレンダが最後に東階段と支柱へきっちり爆薬を仕掛けてくれたおかげで、追撃を切って綺麗に抜けられたのは確かですよ。――ただ、その前の段階で俺が引き直した撤収ルートは、結局三回とも全部パーになりましたけど」
「うぐっ……! 旅人までそういうこと言う! だいたい、旅人の盾があるって分かってたから思い切って飛んだだけだし!」
「防犯シャッターに挟まれかけて、涙目で俺の後ろに飛び込んできた人間がよく言うよ」
「わーっ、わーっ! それは言わない約束でしょ! 私だって必死だったんだから!」
顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振り回すフレンダと、それを鼻で笑う沈利と、マイペースに「フレンダ、あのとき変な声出てた」
と追い打ちをかける滝壺。
つい十数分前まで、警報が鳴り響き、崩れる瓦礫と飛び交う銃火の中で、背中を預け合っていた連中だった。
フレンダの腕前を本気で疑っている者はいないし、沈利の荒っぽさが仲間を見捨てないための突破力だということも、滝壺の静かな観測がなければ全員無事には抜けられなかったことも、皆が分かっている。
その上で、煤だらけの顔を見合わせて、どうでもいい責任のなすりつけ合いをしている。
フレンダが「とにかく、結果オーライなんだから減給はナシってことで!」と胸を張る。
バックミラーの中で、その鼻先に黒い煤の指紋がくっきりと残っているのが見えた。
「――ぷっ」
旅人の喉から、小さな音が漏れた。
止めようと思ったときには、もう遅かった。
胸の奥からこみ上げてきた可笑しさがそのまま声になり、旅人は肩を揺らして笑い出していた。
「……あははっ。いや、ごめん。フレンダ、そんな鼻の頭を真っ黒にしたまま偉そうに胸を張るから」
「えっ、鼻!? ちょっと、なんでそれを先に言わないのよ!」
慌てて両手で顔を押さえるフレンダを見て、旅人はまた笑った。
場の空気を壊さないために浮かべる曖昧な微笑みではなかった。
張り詰めていた任務の疲れも、服についた埃も、これから書かなければならない始末書のことも全部ひっくるめて、今この車の中にいることがたまらなく可笑しくて、楽しくて、腹の底から自然に湧き上がってくる笑いだった。
四人とも、生きている。
誰も欠けず、誰も失われず、明日になればまた同じ顔ぶれで集まれる。
白い壁の施設では決して当たり前ではなかったその事実が、その夜はたまらなく嬉しかった。
一瞬だけ目を丸くした沈利が、すぐに口の端を吊り上げて、面白そうに笑った。
「あはははっ! なによ旅人、あんたがそこまでツボに入るなんて珍しいじゃない!」
「ほんとだよ、人がせっかくクールな仕事人として決めてたのにー!」
フレンダが半ば自棄っぱちになって笑い出し、滝壺も嬉しそうに目を細めて、くすくすと小さく声を重ねた。
狭い車内に、四人の笑い声が重なって響く。
特別な成果を上げたからでも、誰かに褒められたからでもない。
ただ、この三人と一緒に同じ車に揺られて、くだらないことを言い合っているこの時間そのものが、旅人には心地よかった。
窓の外では、薄く色づいた学園都市の夜景が、どこまでも途切れずに流れていった。
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狭い車内に響いていた四人の笑い声が、浅いまどろみの奥へと静かに遠ざかっていく。
旅人がゆっくりとまぶたを開けると、薄いレースのカーテン越しに、柔らかな朝の光が部屋の床に落ちていた。
ずいぶん懐かしい過去の夢を見ていたような気がする。
煤と火薬の匂いにまみれた車で夜の街を走り抜けたあの夜から、もう一年あまり。
微睡みの余韻の中で意識を戻した旅人のすぐ隣からは、規則正しい寝息が聞こえる。
シーツの上に、長い栗色の髪がゆるやかに広がっていた。
あの日、暗い車内で流れ去る街灯に照らされていた彼女の横顔が、そこにある。
今は朝の陽だまりの中で、すっかり無防備な寝顔をさらしていた。
掛け布団から片腕だけを出して、旅人のシャツの裾を軽く掴んだまま眠っている。
恋人として互いの部屋に泊まり歩くのがすっかり日常になってからも、寝起きにこうして服の端を掴んでくる彼女の癖は変わっていなかった。
旅人は起こさないようにそっと指先を伸ばし、彼女の頬にかかった髪を耳の後ろへ払った。
くすぐったそうに長い睫毛が揺れ、ゆっくりとまぶたが開いた。
「……ん。……なに、旅人。もう起きたの」
「おはようございます、沈利さん。もう七時ですよ」
「七時なんてまだ早いじゃない……あと十分」
寝起きの少し甘えた声でそう言って、沈利は掴んでいたシャツの裾をぐっと引き寄せ、旅人の胸元に額を押しつけてきた。
暗部で『原子崩し(メルトダウナー)』の名を恐れられる第4位の普段の姿を知る人間が見たら、目を剥きそうなほど無警戒な仕草に、旅人の口元が自然とほころんだ。
「あと十分寝てたら、俺が朝飯を作る時間がなくなりますけど」
「……作るなら起きる。コーヒー、濃いめにして」
「はいはい。トーストと目玉焼きでいいですか」
「ベーコンも焼きなさいよ。カリカリにするやつ」
「注文が多いな」
「恋人の部屋に泊まってるんだから、それくらい当然でしょ」
布団から上半身を起こした沈利は、大きく伸びをしてから、寝癖のついた髪を手ぐしで雑に払った。
肩口からずり落ちた大きめのシャツを気にする様子もなく、あくびを噛み殺しながら旅人の背中を見送る。
旅人がキッチンに立ってコーヒーの湯を沸かし、フライパンにベーコンを並べると、香ばしい音と匂いが部屋に満ちていった。
いつの間にか洗面を済ませてきた沈利が、ダイニングの椅子に腰を下ろし、旅人が置いたマグカップを両手で包んだ。
「あんた、今日は何時に出るのよ」
「八時過ぎには。午前中に片づけておきたい照合データがあるんで。大学の講義は?」
「今日は二限からだし、ITEMの仕事も昼前からでいいわよ。……ったく、あんたがITEMから抜けてから、事前の書類だのルート確認だの、細かい雑務がいちいち面倒で仕方ないんだから」
コーヒーを一口飲んで、沈利がわざとらしく唇を尖らせた。
以前は、こうして同じ部屋で朝を迎えた日には、二人で並んでドアを出て、そのまま同じITEMのオフィスへ向かうのが当たり前だった。
今は違う。
あのSCHOOLとの抗争で、垣根帝督の『未元物質』の一撃から沈利を守るために隠していた力を解放して以来、旅人は公式に『超能力者(レベル5)』の第8位として認定された。
第4位と第8位が同じ実働部隊で背中を預け合うことを警戒した上層部の政治判断によって、旅人はITEMから切り離され、現在はアレイスター直轄の別組織である『サイクル(CYCLE)』へ身を置いている。
「手順書は一通り置いていったでしょう。それに、滝壺さんやフレンダもいるじゃないですか。なんだかんだ言って、ちゃんと回ってるんでしょう?」
「回してはいるわよ、私が誰だと思ってんの。ただ、あんたみたいに最初から最後まで、きっちり段取りを組んでおく人間がいなくなったって話」
皿に盛られた目玉焼きとベーコンをフォークで突きながら、沈利はそこでふっと視線を上げ、旅人を見た。
「……ま、組織が変わったところで、夜になればこうやって顔は見られるんだし。そこは別に、上連中の思惑通りになってやったわけじゃないから文句ないけど」
「俺もですよ。滝壺さんとフレンダにも、よろしく言っておいてください」
「言っとくわよ。今度また、時間合わせて飯でも行きましょ」
旅人が向かいの席で微笑むと、沈利は少しだけ照れ隠しのように鼻を鳴らし、「さっさと食べなさいよ、冷めるわよ」とトーストをかじった。
そして旅人が身支度を整えて玄関へ向かうと、見送りに出てきた沈利が、旅人の頬に手を添えて短く唇を重ねてきた。
コーヒーの香りがかすかに移る、気安くも確かな口づけだった。
「いってきます、沈利さん」
「ええ。いってらっしゃい」
かつて四人で一つの机を囲んでいた時間は、もうここにはない。
けれど、ドアの向こうで手を振る恋人の姿は、誰にも切り離せない現実としてここにある。
旅人はその温かな余韻を胸に収めて、夏の朝の街へと足を踏み出した。
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サイクル(CYCLE)のオフィスの一つは、駅から歩いて十分ほどの雑居ビルの目立たない一角にある。
看板はなく、ドアには表向きの当たり障りのない法人名プレートが掲げられているだけだ。
部屋の広さはさほどでもないが、壁際の書棚から端末の配線に至るまで、余計なものが一切なく整然と片づいていた。
学園都市の表層には決して出てこない情報が、この静かな部屋へ集められ、日々淡々と処理されていく。
「おはようございます、御坂先輩。第七学区の監視ログと、先週の研究施設間の移送データの照合分、先にまとめておきました」
デスクの端末から顔を上げたのは、海原光貴だった。
旅人と同じ富士見高校の一年生であり、正規メンバーが常時二名しかいないこのサイクルにおける、唯一の相棒でもある。
きちんとした白いシャツ姿で差し出されたタブレットには、旅人が昨日頼んでおいた以上の関連データが過不足なく整理されていた。
「ありがとう、助かるよ。海原は相変わらず仕事が早いな。異常値の抽出は俺が引き継ぐから、午後の調査リストを先に詰めてくれるか」
「分かりました。簡易照合だけなら私一人で回せますから、先輩は昨日の案件の三次報告を片づけてしまってください。……ところで先輩、今朝はずいぶん機嫌が良さそうですね」
資料のファイルを受け取りながら、海原がわずかに目を細めて言った。
「そう見えるか?」
「ええ。シャツの襟に、この事務室では普段嗅ぐことのない高いコーヒー豆の香りが残っていますから。また向こうから直接来たんですね」
「……よく気づくな、そういうところ」
「観察が仕事ですから。別に構いませんけど、あまり惚気た顔のままで機密端末に向かわないでくださいよ」
小さく肩をすくめる海原に、旅人は「気をつけるよ」と苦笑して自分の席に着いた。
この部屋には、机の上に足を投げ出して怒鳴る誰かの声もなければ、爆薬のカタログを広げて騒ぐ声もない。
聞こえるのは空調の低い稼働音と、二人分のキーボードを叩く乾いた音だけだ。
それでも、海原と呼吸を合わせて淡々と案件を捌いていくこの静かな時間を、旅人は嫌いではなかった。
ここにも確かな信頼があり、自分の手で仕事を選び取ってこなしている手応えがあった。
そのとき、デスクの端に置かれた古い型の黒い電話機が、控えめな呼び出し音を鳴らした。
着信表示のない直通回線。
この組織の専属ハンドラーからの連絡だった。
旅人はキーボードから手を離し、受話器を取って耳に当てた。
「――はい、御坂です」
回線の向こうから、低く落ち着いた男の声が聞こえてきた。
喉の奥で響くような、そして葉巻の紫煙の気配まで伝わってきそうな、木原脳幹の声だった。
『手配していた資料は届いているな。午後の件は、お前たちの裁量に任せる』
「了解しました。海原と手分けして、今日中に一次報告を上げます」
『うむ』
そこで一度、通話の向こうに短い沈黙が落ちた。
受話器越しに、かすかな呼吸音だけが聞こえる。
やがて脳幹は、業務連絡とは少しだけ違う静かな声色で尋ねた。
『……慣れたか?』
旅人はほんの一拍だけ言葉を置いた。
視線の先では、海原が邪魔をしないように画面へ目を戻し、静かに指を動かしている。
ブラインドの隙間からは、七月の眩しい日差しと、学園都市の青い空が細く覗いていた。
沈利とは今も変わらず隣で朝を迎えている。
滝壺やフレンダとも、縁が切れたわけではない。
ただ、あの四人で同じ現場を駆け回り、煤だらけの顔を見合わせて腹を抱えて笑い合った『仕事の時間』
だけは、もう戻ってこない。
その小さく鋭い痛みも、今ここにある幸福も、どちらも紛れもなく自分のものだった。
だから旅人は受話器を持ち直し、穏やかな声で答えた。
「仕事には、もう慣れましたよ」
回線の向こうで、脳幹が小さく息を吐いた。
それが納得の相槌なのか、わずかな苦笑なのかは分からなかった。
『……そうか。ならいい』
短い言葉を残して、通話は切れた。
旅人は受話器をゆっくりと置き、ブラインドの向こうに広がる街を一度だけ見やった。
『窓のないビル』が見下ろすこの街には、後ろ暗い研究所も、窮屈な柵もまだいくらでもある。
けれど、その中で誰と笑い、どう生きるかは、とうに決めてあった。
端末の画面に向き直り、旅人は次の調査ファイルを開く。