完全に油断した。
目が覚めたとき、既に時計の針は家を出る時間を指していたが、俺は全身のだるさに起き上がれずにいた。
頭がくらくらする。昨日の夜からなんだか喉がイガイガするし、頭も痛いし、試しにくわえた体温計のデジタルは39℃を映しながら視界を歪めていた。
大地の言った通り俺は見事風邪を引き当てたのである。あいつは予言者かなにかなんだろうか、ここまで忠告がドンピシャリ来れば多少悪寒と言うものも覚える。
こんなときに限って普段サボりがちな1限の講義を休むことに後ろめたさを感じるのは何故なのだろう。独り暮らしだとたかが風邪でもこんなに心細くなるのは何故なのだろうか。
喉はカラカラだったが、冷蔵庫に立つ気にもなれず何度か寝返りをうっているうちに呼び鈴が鳴った。
「おーす、元気にしとるか鈴木」
キッチョムだった。俺は半分開けたドアをゆっくりと閉める。
「いやいやいや!酷い!」
キッチョムが大袈裟に喚くので仕方なく部屋に入れる。相変わらずのボサボサ頭に無精髭で、どう見ても大学で教鞭を振るっているようには見えない。まず第一にアロハシャツで教壇に立つ講師を俺は見たことがない。
「……なんだよ、こんな朝早くに。俺、なんか昨日の夜から調子悪いんだよ。用があるならまた今度にしてくれ」
「え?なんや風邪か?添い寝しよか?」
もう本当に勘弁して欲しい。ただでさえ面倒くさいヤツなのにこのバッドコンディションでキッチョムの相手をする気にはならない。別にキッチョムのことが嫌いなわけではないが、病体で相手をするには一番避けたいやつではあるだろう。
下らないセクハラジョークを無視して俺はそそくさと布団に潜り込む。キッチョムは部屋を見回しながら溜め息を漏らした。
「ほんとに具合悪そうやな。こんな部屋散らかしとるから風邪引くんやで。どうせなら下着とか散らかってたら良かったのに」
冗談なのか本気なのかわからないところが腹が立つ。
「……ほんとに何しに来たんだよ、キッチョム今日講義あるんじゃねぇの?」
「そろそろ暑くなってきたから夏物の服持ってきたんよ。生着替えしてもらうつもりやったけどちょいと難しそうやねぇ」
そういえば手に大量の紙袋をぶら下げている。
「とりあえず薬とか買ってくるから寝ときや」
言い残してキッチョムは部屋を出ていった。
キッチョムのやつ、いつもよりちょっとだけ優しいな。俺は溜め息と微かな安心感を覚えて、なんか少し熱が上がった気がした。
チャイムの音で目が覚めた。テーブルの上に薬局の袋とメモが置いてあり、気が付くとでこに冷却シートが貼ってある。メモには走り書きで冷蔵庫にスポーツドリンクが入っている旨記されている。あのあと一度キッチョムは部屋に戻ってきてまた出ていったのだろう。俺はどれくらい寝てたんだろうか。
ボンヤリしているとドアが開いて誰か入ってきた。俺は起き上がれずに何となく半目で天井を見つめたまま、誰だかわからない客を迎えた。
「あゆむちゃん、具合悪い上に鍵開けっ放しで不用心にもほどがあるわよ?」
弥生さんが俺を見下ろしていた。
「……あれ、どうして弥生さんがいるんですか?」
「吉良先生に聞いたのよ、あなたが風邪引いてるってね。昼休みだから様子を見に来たの」
時計は昼過ぎを指していた。
「これ、吉良先生が買ってきてくれたんでしょ?少し飲んだ方がいいわ。あの人実は面倒見良いのよね。鍵を開けっ放しで出ていったところだけ詰めが甘いけれど」
彼女が手渡してくれたスポーツドリンクを僅かに口に含むといつもよりしょっぱく感じた。まだ熱は下がっていないようで体はだるさを覚えたまま喉の痛みだけがハッキリとしている。
「食欲はある?お粥でも作りましょうか?」
俺が返事をする前に弥生さんは台所へ消えていった。ご機嫌そうな食器の音を虚ろな頭で聞きつつ弥生さんって料理とかできるんだろうかと頭の片隅で考えてみる。眠気がさほど無いのはさっきまで寝ていたからだろうか、それとも弥生さんが部屋にいるからだろうか。
「出来上がるまでの間、ちょっとこの部屋掃除させてもらってもいい?あんまり散らかしてるから風邪なんか引くのよ」
さっきキッチョムにも同じこと言われたな。俺には反抗する元気もなく、されるがままにてきぱきと動く彼女の後ろ姿を眺める。
「……なんかすみません」
「いいってことよ。さて、エッチな本のひとつでも出てこないかしら?」
発送がキッチョムと大差ない。内心ドキリとしたが、別にやましいものは何もないはずなので大丈夫だろう、多分。
床に転がった雑誌や衣服を手際よく片付けながら忙しなく動く弥生さんを薄目で見ながら少しだけ動悸が速まる。
あらかた部屋が片付いたところで弥生さんはキッチョムが置いていった紙袋を覗き込んで独り言のように呟いた。
「あら、お買い物したの?可愛い服ばっかり。あゆむちゃん、結構お洒落さんだもんね」
軋む喉の奥を擦りながら返事をひねり出す。
「女になってから、キッチョムが俺の服とか全部用意してくれるんですよ」
彼女は目を丸くして俺を見つめた。
「えぇ!?あの人そんなことまでしてるの?このお店、結構いいお値段するわよ?」
まだ熱の残る頭で俺も驚きを隠せなかった。
「そ、そうなんですか!?確かにセンス良いなとは思ってましたが……」
洋服を全部用意するなんてただの趣味や思い付きでやっていることだとばかり思っていたが、実はそうではないのだろうか。安い店で済ましてくれれば良いところを何故そんな財を費やす意味があるのか。よく考えてみればキッチョムはなかなか謎の多い男なのかもしれない。
そんなことを考えているうち、唐突に弥生さんが変な息を漏らした。
「かっあっふっ……!?」
「どうかしたんですか?」
長い髪で目元を隠しながら、背中は僅かに震えているようにも見える。
「あ、あゆむちゃん……具合悪いときに、こう頻繁に話しかけるのもアレだとは思うけれど……」
彼女は顔を真っ赤にしながらうつむいて言葉を濁している。俺はそんな様子がとても新鮮に見えたが
、同時に弥生さんの意図するところを掴めずに首をかしげた。
「これ……」
紙袋から何やら取り出した弥生さんの手元に目を細める。彼女が手にした薄いプラスティックの板には裸の女が大々的にプリントされている。隠しようもなくAVだった。
キッチョムの野郎、なんてもん持ってきやがるんだ。ベッドから這い出て放り出されたそれを睨み付けると、『禁断の美少女レズビアンカップル~お姉さまと妹の愛の巣~』と書かれている。最悪だ、タイミング的にもジャンル的にも。俺はすぐさま弁解をしようとしたが、うまく言葉が見つからない。
と、そのとき、鍋が吹き零れる音がして弥生さんは台所へ駆けていった。
タイミングの悪いそのホイッスルで俺は言い訳をすることも出来ずにただただ呆然と空を仰いだ。
またチャイムの音で目が覚めた。もう外はうっすら朱色に染まり、どこからか遊ぶ子供の声なんかが聴こえてくる。
熱もいくぶんか下がり、立ち上がることもそれほど苦ではなかった。今度の来客は勝手にドアを開くこともせず、俺がノブを回すまで部屋の外で静かに待っている。
「あれ、くろちゃんどうしたの?」
玄関の向こうには小柄な少女が立っていた。
「あゆむさん、風邪引いたって聞いて学校帰りに色々買ってきたんです。あの、もしご迷惑でなければお邪魔してもよろしいでしょうか?」
もうほとんどなおったから平気だよと彼女を部屋に通した。彼女もキッチョムと同様、手に袋を抱えている。お邪魔しますと行儀の良い小さな声が俺の背後で聞こえた。
「あゆむさんは寝ててください。何か食べやすいものを作りますから」
くろちゃんは袋から取り出した自前のエプロンを腰に巻き、うでまくりとともに意気込んだ。俺はお言葉に甘えてふたたび布団に入る。
「ありがとう、でも風邪うつしちゃうかも……」
「いっそのことわたしにうつして元気になっちゃってください!」
得意気な顔は母の日に手作りでお菓子を作ろうとする小さな女の子のようだ。彼女は鼻唄混じりに料理をして、小気味の良い音を漏らしている。一日中寝てたし、お粥くらいしか食べてないせいで食欲は極限であるからなんとも嬉しい気持ちが心を満たした。
俺は何度かくろちゃんの部屋に遊びに行ったことがあるが、彼女がうちに来るのはそういえば初めてだ。掃除をしてくれた弥生さんには感謝をしてもしきれない。しかしお礼を言うために次に会う時が憂鬱で仕方がない。
「今日の午前中に弥生先輩にお会いしまして、あゆむさんが病気で寝込んでるって教えてくれたんです。一緒にお見舞いに来たかったんですけど、わたし3限に授業が入っちゃってて……」
既に良い匂いのし始めたキッチンからくろちゃんの声が聞こえる。弥生さんのお粥も悪くはなかったが、いかんせんいろんな意味で味がしなかったのでくろちゃんの料理に期待は積もるばかりだ。
「お待たせしました。だいぶ具合も良さそうなので鍋焼うどんにしてみたんですけれど、季節的にはちょっとあついかも知れないです。でもたくさん汗かいた方がいいですから、無理しない程度に食べてください」
土鍋は彼女が持参してくれたもので、真ん中で揺れている卵が食欲をそそった。言わずもがな、味は申し分ない。
「食べたらちゃんとお薬飲んで早く休んでくださいね。大事をとって明日までは家で寝てなきゃダメですよ?」
「ありがとう、ごめんね心配かけちゃって。もうずいぶんと良くなったから大丈夫」
「だめですよ、風邪は引き初めと治りかけが一番大事なんですから」
くろちゃんは笑いながらも困ったように眉の尾を下げた。
「くろちゃんには敵わないな。このおうどんもすごく美味しいし、くろちゃんと結婚する人が羨ましいね」
「そ、そんなことないですよ。でも思っていたよりあゆむさんが元気そうで安心しました。こんなことくらいしかして差し上げられませんが何か困ったことがあったらすぐに言ってくださいね?」
食べ終わった食器を洗うとすぐにくろちゃんは帰っていった。お腹もふくれた俺は、またうつらうつらと夢を見ない眠りのなかに誘われていく。
確かに病気は辛いし寂しいし苦しいけれど、なんだかすごく幸せな一日だったなと今日と言う日を振り返りながら闇に落ちていく。まだ陽も暮れきる前の空が赤から紺に変わるのがうっすらと見えた。
またチャイムが鳴った。
辺りは既に真っ暗だ。気だるさもそこまで感じないし体調はほぼ平常運転に戻りつつある。が、こんな時間に今度は誰だ?
「よぉあゆむ!お前風邪引いたんだって?大丈夫か?」
大地が一升瓶を抱えて立っていた。