病み上がりの学校はなんだかすごく久しい匂いを醸していて、実際にはたった一日しかたっていないはずなのだが妙に懐かしく感じてしまう。
廊下ですれ違ったキッチョムにお礼と怒りを込めた延髄蹴りをかましつつ如何に健康な体が大事なのかを再認識する。
「いや、女になったらやっぱレズビアンものが見たくなるんやないかなと思って……」
それがキッチョムの最期の言葉であった。
次に出会ったのが弥生さんである。
「もう体は大丈夫なの?」
まるであの事(AVのこと)などなかったように会話が始まり、俺は弁解するタイミングをすっかり失ってしまった。
お粥美味しかったですよと雑談を踏まえつつお礼を言って俺は手を振って別れた。
講義室では大地が既に突っ伏して眠っていた。
「悪い……ちょっと二日酔いで……」
あの後二人で明け方まで飲んだからな。まぁ、学校に出てきただけ御の字と言うところか。
その後、構内中くろちゃんの姿を探したがどこにも見当たらなかった。確か今日は彼女も講義が入っていたはずだからどこかで会えるだろうと思っていたけれど、まぁこんな日もあるだろう。
と言うわけで夕方帰宅後にくろちゃん宅のインターホンを押す。
「あ……あゆむさんこんにちは。具合は良くなりましたでしょうか?」
開いた玄関の先にいたくろちゃんは顔を真っ赤にして虚ろな目をしていた。
「く、くろちゃん大丈夫!?やっぱり風邪うつしちゃってた!?」
「いえいえ、あゆさんが良くなってなによりです。少し熱があるだけなので大丈夫ですよ」
まったく大丈夫そうではない。息も絶え絶えに彼女は微笑むが、見るからに辛そうだ。
「大丈夫じゃないから!早くベッドにいこう?」
くろちゃんの背中を抱きながら布団へと連れていく。触れてみると、俺が思っていたよりもずっと彼女の体は小さく、そして細かった。
「ごめんね、昨日看病してもらったからあたしの風邪うつしちゃったんだね。薬とか色々あまってるから持ってくるよ」
「そ、そんなあゆむしゃんもまだ完全に治ってないでしょうに……」
なんか日本語が面白い感じになっている。これは重病だ。
「いいから大人しく寝てて!」
すぐさまダッシュ。冷蔵庫の未開封のスポーツドリンクやゼリー、冷えピタと薬を抱えてまたくろちゃんのもとへ走る。
「食欲はある?とりあえず飲み物だけでも飲んでおいた方がいいよ」
「すみません、色々としてもらっちゃって……。朝からずっと寝てるので幾分かは良くなっていると思うんですけれど……」
彼女は今日一日ひとりぼっちだったのか。俺は皆が見舞いに来てくれたお陰で寂しくなかったし、むしろ騒々しいくらいだったけれど、独り暮らしの突然の病がいかに不安であるかは昨日再認識したつもりだ。
「ごめんね、心細かったでしょ?」
「……ちょっぴり」
くろちゃんは弱々しくはにかんだ。
「実家だとお母さんもいるし、別に平気なんですけど、やっぱり独り暮らしだと寂しいですね」
空も赤みがかり始め、何となく物悲しい時間帯。少しでも長く、せめて彼女が眠りにつくまではそばにいてあげよう。なんなら泊まり込みで看病したって良い。そう思えた。
「お母さんが、わたしが風邪をひいたときにはいつも鍋焼うどんを作ってくれて、だからあゆむさんにもと思いまして昨日作ってみたんですけれど」
くろちゃんは絶えず喋り続けた。それだけ不安なのだろう。きっと意識もあまりハッキリしていないはずなのに、沈黙が来ればまたひとりぼっちになってしまうと不安なのだろう。
小さい頃の思い出だとか、好きなテレビ番組の話だとか、いつも自分の話をするよりも俺に質問を投げ掛けてくる彼女とは違う、心細さに押し潰されそうな少女がここにはいた。
「あゆむさん、実はわたし、男なんですよ」
急にくろちゃんが思いがけないことを言い出した。
「なんかですね、今まで気付かなかったんですけれど、わたし多分男なんです」
それは俺の台詞なんだよ、と喉まで込み上げた言葉を飲み込んだ。くろちゃんの言わんとする意味が理解できたわけではなかったが、俺は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「それがすごく怖いんです。よくわからないんですけれど、とても怖いんです。……病気のせいですかね?すごく不安になって」
うわ言のように漏れる声は、意識を逸らすと耳から逃げていきそうなほど弱々しかった。
「ちょっとだけ泣いちゃいそうです」
うっすらと開いた瞳には、僅かに水滴が光っているようにも見えた。
「わたし、あゆむさんに会えて良かったです」
そこまで言うとくろちゃんは寝息をたて始め、続きの言葉を聞くことができなかった。俺はしばらく彼女の寝顔を眺めていた。
一度俺は自宅へ帰り、軽く食事を済ませシャワーを浴びた。何度もくろちゃんの言葉を反芻させながらその真意を考える。
本当はくろちゃんは男だった。考えられることではない。俺と同じ現象が彼女の身にも起きているなんてことは、とてもではないが考えられない。こんなとき弥生さんならどんな答えを導き出すだろうか。でも、くろちゃんの告白を彼女に打ち明ける気にはならなかった。そんなことするべきではないし、してはいけないとわかっていたからだ。
自分の体をまじまじと眺めてみる。どう見ても女のそれが眼下にあった。でも俺は男だった。心の中は男のまま、毎日を過ごしている。
パンケーキの良さもよくわからないし、恋愛ドラマもあんまり好きじゃないし、乱暴だし、女の人が好きだし……
……そうか、くろちゃんの言っている意味。本当は男なのだと言う意味。それが何となくわかった気がした。
くろちゃんの部屋にまた戻る。薄暗くなった部屋の中で、物音をたてないように気を配りながら、眠っている彼女のとなりに腰掛ける。寝息をたてる彼女の頬はじんわりと汗ばんで、まだ熱く火照っていた。
「……怖がらなくていいよ、くろちゃん」
小さく呟く。彼女を起こさないように、俺の声は微かに空気を揺らして闇に溶けていく。
「くろちゃんは女の子だよ。とても優しくて、可愛らしくて、本当に素敵な女の子だよ」
この子には助けられてばかりだ。最近の目まぐるしい環境の変化の中で、何度も訪れた心のモヤモヤをいつも晴らしてくれる。ひとりの先輩として、友人として、隣人として、女の俺に優しく接してくれる彼女の存在がなければ、俺はきっと女としてこうやって生きていることは出来なかっただろう。
「あたしもくろちゃんと出会えて本当に良かったと思ってるよ」
言葉は小さく、また闇に溶けていった。