清々しい朝だった。二日酔いによる側頭部の痛みと、時計が丁度12時を指していることを除けばすばらしい1日の始まりだ。1日の予定を綿密にたて街に繰り出すような暖かな日差しに包まれた清々しい朝…………もとい昼。
記憶が欠如しているのは俺にしてみれば珍しいことである。酒はそんなに弱くない自負があったし、何より飲み過ぎることがこれまでにそうあったことではないからだ。そもそも飲みすぎたかどうかの記憶もないのでよくわからないが。
アパートの向かいの部屋がなんだか騒々しく、その物音で目が覚めたのだが、しばらくコンクリート打ちっぱなしの天井を見つめつつその雑音を聞いていた。ついこないだ向かいに住んでいた大学生が卒業して出ていったので、その空き部屋に入居者が引っ越し作業でもしているのだろうとシャーロック・ホームズもビックリの名推理を痛む頭で考察してみる。
いつまでも寝転がっていても仕方がないのでとりあえず体を起こし、冷蔵庫の麦茶でも飲もうと立ち上がる。ズキズキと側頭部が軋む。
ここで妙な違和感が眉間を曇らせた。袖が余っている。ズボンの裾も引きずっていた。昨日の宴会の時のままの服なのだが、全体的にブカブカだ。
ひょっとしたらまだ酔っぱらっているのか、もしくはまだ夢の中なのか。歩き辛いズボンの裾をめくり俺はまたキョトンとした。
すね毛がない。
色もいつもの足じゃない、透き通る様な真っ白だ。そして何より細すぎる。訳もわからず頭を掻きむしる。
髪が長い。
なんだこれは。
ふらつく足を慌ただしくバタつかせて洗面所に走る。
なんだこれ!?
言葉も出なかった。鏡には見たこともない女が写っていた。
いや、どことなく妹の面影が無いこともない。しかしそんなことはどうでもいい、確実にそれは俺の顔ではなかった。
胸を触る、柔らかい。股間に手を伸ばす、なにもない。
ひとしきりのパニック。
ここで少し冷静になる。あぁ、そうだ。これはまだ夢の中だ。頬をつねる、ひどく痛い。
再びパニック。
自分自身に何が起こったのか、どうしてこうなったのか。それが頭のなかをぐるぐると駆け回って答えの見えない無制限耐久レースが続く。必死に記憶を辿ろうと瞼を強く瞑ってみても脳の奥が痛むだけだった。
そうだ、大地だ!ヤツなら何か知っているかもしれない!
携帯電話を握り締め呼び出しボタンを押す。よくよく考えればあんなにヘベレケだったあいつのやくにたたなさは、恐竜の化石を掘るのに爪楊枝を用いるのと同等だということなど明白だったのだが、俺にはそんな思考能力すらなくなっていた。
『…………あいーこちら愛しの早乙女です』
寝ぼけた大地の阿呆みたいな声が受話器越しに聞こえる。こいつも今起きたばかりなのだろう。
「だ、大地か!?」
ここでハッとする。当たり前のことなのかはわからないが、声も女になっている。案の定そこまでの思考回路は開通していなかった。
『…………誰だお前』
「すみません、間違えました」
すぐに通話終了ボタンを押す。迂闊だった。いくら阿呆の大地でも知らん女から電話がかかってきて鈴木あゆむだとのたまっても信じるわけがない。
もう八方塞がりだ。どうしたらいいんだ。頭を抱えて様々な不安が押し寄せる。
このまま男に戻れなかったら?
家族には何て言えばいいんだ。来週には講義が始まる。残り3年間の大学生活はどうする?俺の人生はこんなわけのわからないことで終わってしまうのか?
どのくらい考え込んでいただろうか。不意な怒声がすぐ近くで響いた。
「てめぇコラあゆむ出てこい!!」
玄関のドアが突然開くと大地が飛び込んできた。
「俺と言うものがありながら何しやがってんだ!」
ワケわからんことをぬかすな。貴様は友達カテゴリのフォルダにぶちこまれた人間だ。
靴を放り捨ててズカズカと部屋に上がり込みクローゼットの中やトイレ、はたまた炊飯器の中まで捜索を開始した。
俺から電話が架かってきたかと思ったら知らん女の声がした。そりゃ不審に思うだろう。なんて考えながら呆気にとられていると、ようやく俺の存在に気付いた大地は鬼のような形相でこちらを睨んだ。
「てめぇか!」
いきなり俺の胸ぐらを掴むと一本背負いの要領でベッドの上に放り投げる。おそらくヤツなりの優しさと言うか手加減なのだろう、衝撃は布団にすべて吸収され痛みはなかった。スプリングが鈍く軋む音がして唐突な攻撃に反応もできないまま押さえ込まれ、あっという間に身動きひとつとれなくなった。
「あゆむの野郎、女なんか連れ込みやがって!言え!あいつはどこいった!?」
太い腕でガッチリと捕まれた手首がピクリとも動かせない。
「まて、大地!俺だ、俺が鈴木あゆむだ!」
一瞬だけ静寂。
「バカかお前は!意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇ!て言うかお前誰だ!」
想像通りの反応だ。勿論信じてもらえるとは思っていなかったが、やはりどことなく悲しい。
「いや、信じろ!おれもなんでこんなことになったのかわからないんだよ!」
「寝言は寝て言え!」
らちがあかない。
「本当だって!証明はできないけどどんな質問にも答えられる!鈴木あゆむ、9月10日生まれ血液型A型、好きな食べ物は豆腐で…………」
「そんなこと調べりゃ誰だってわかるだろうが。なんの証拠にもなんねぇよ!」
「お前が男が好きだってことも知ってる!」
またもや一瞬の沈黙。
「あゆむの野郎!人に言うなっていったくせに自分が言いふらしてるじゃねぇか!」
そうきたか。
「ちげぇよ!誰にも言ってねぇ、お前の知ってる俺はそんな簡単にお前の秘密をばらすようなヤツなのか!?」
「ちがう!あゆむはそんなやつじゃねぇ!それに俺は男が好きな訳じゃない!」
大地は息を荒げながら腕に力を込めた。
「あゆむのことが好きなだけだ!」
初めて大地に同性愛を告白された日、同じ言葉を聞いた。
「俺はあいつのことを信じてる!たしかにな、お前と話しているとなんだかあゆむと話しているような気分になる。信じられねぇけど、もしかしたらお前が本当にあゆむなのかもしれない。でもな、もし本当にお前があゆむなんだとしたら…………これから俺はどうしたら…………」
そこまで言うと大地は黙ってしまった。その声は心なしか震えているような気がした。
俺はこいつを親友だと思っている。絶対に大地にその想いを伝えることを言うことはないが、それはきっと大地も同じなのだと心のどこかでそう信じている。
だからこそ、大地にも俺のことを信じて欲しい。この胸を押し潰すような不安を伝えたい。
「不安なのは俺も同じだ。あわてて電話を切っちまったのは悪かったと思ってる。最初からちゃんと説明すればよかったって反省してる。でもだからこそお前にはわかって欲しい」
ほんのわずかに大地の腕が緩む。俺は久方ぶりの自由を手にいれうなだれる大地の目元を見た。
「あゆむが女になっちまったんなら…………俺はこれから何を…………」
落胆した声はかぼそく部屋に響いている。
「…………だから協力してくれ。どうやったらもとに戻れるか…………一緒に手伝ってくれ」
しばらくの静寂がゆっくりと過ぎ去った。大地は俺の一番の理解者で、俺も大地にとってそうでありたいと思う。
「…………だから信じてくれ」
大地が目尻をぬぐい俺を見つめた。
「そうだな、早く男に戻ってその気持ち悪い体をもとの、俺の愛した美しい細マッチョに…………」
「やっぱり男が好きなんじゃねぇか!!」
回転を加えた拳をみぞおちに叩き込む。
「ぐわぁぁぁぁ…………!!」
スローモーションで大地は宙を舞いフローリングの上に背中から着地した。小さく呻き声をあげ上体を起こし俺を見つめている。
ぬかった。女になっているから腕力も勿論落ちている。本来ならこれで大地はしばらくダウンするのが恒例なのだが、どうやらまだ生きているらしい。
「い、今の拳…………たしかにあゆむのものだ…………」
そんなこんなで俺と大地は和解した。
全くもって腑に落ちないけれども。