「いらっしゃいませー」
そろそろ季節は暖かさから多少の暑さに気温を移しつつある今日この頃。衣替えも本格的に全国を巡り始めたのだが、そんな中俺はいつものブラウスとスカートにエプロンをまとい、今日も今日とてアルバイトである。
ようやく仕事も身に付いてきたこの時期が一番ヘタなミスを犯しやすいと何となく心得てはいるから、これまで以上に心を引き締めてコーヒーを煎れサンドイッチを作りまかないを食べるよう心掛けているつもりなのだが、いかんせん俺はまだまだ未熟である。
「鈴木さん、もっと一度にたくさんの飲み物運んでよ!お客さん待たせちゃうでしょ!?」
いつものように川口さんのお叱りを受ける。男の頃ならお盆に10個も20個も背の高いコップをのせてホールを駆け回ることができたのであろうが、今の俺の腕力ではそれは難しい。以前皿を落として割ってから俺は慎重さを重視するようになっているのだが、やはりそれだけではダメなのだ。
ふがいなさに自ずと吐息が漏れる。
「はぁ……」
「どうしたあゆむ。溜め息なんて吐いて」
休憩時間に大地がコーヒーを奢ってくれた。
気にかけてくれるのはヤツが俺の教育担当であり、個の職場に誘ったからであろう。素直にありがたいと思う反面、複雑な心境をアイスコーヒーと共にのみこんだ。
大地はその太い腕で、器用に何枚もの皿を運ぶことができる。たいして俺はなまっちょろい、あまり筋肉も付いていない白い二の腕が両肩からぶら下がっているだけ。男女の違いがあるといえども、大地にできていることが自分にできない……もとい、前の俺にできたことが今はできないことがイライラする。
「でも俺を殴るときは女とは思えないパワーじゃん」
「あんなもん、腰の回転と体重移動が大切なんであって腕力はそんなに必要ないんだよ。基礎的な筋肉両はどうしようもないよ」
「そうなのか、よくわからんけどべつにそこまで気にしなくて良いと思うぞ」
大地はさして深刻なことでもないだろうと俺を慰める。
「それにしても、川口さんもあんな言い方しなくて良いのにな」
確かに、さすがの俺も川口さんの俺と他の人に対する人当たりの違いにようやく気付いてきたところだ。
べつに腹が立つわけではないが、強いて言うなら心悲しいところがある。
「俺、川口さんに嫌われるようなこと、なんかしたっけ……」
人に好かれたいという欲望はそんなに持っていないつもりではあるが、人に嫌われても良いと開き直れるほど俺は強くはない。
先日、店長が一度川口さんに俺に対する様子についてなにか話をしていたようだが、特に何が変わるわけでもなく、だから俺が一回注意しようかとの大地の提案も火に油を注ぐだけだろう。かと言って俺が反発するのは最悪の展開を生むことが容易に想像できる。
八方塞がりとはこのことだな。
「いつまで休んでるの!?新しいお客さん来てるから早く注文取りに行って!」
噂をすればなんとやら。眉をつり上げた川口先輩が俺を呼んでいる。
「あゆむの休憩時間まだ残ってるじゃないっすか」
大地が不機嫌そうに言葉を返す。川口さんは驚いたように目を見開いて一瞬言葉を詰まらせ、また口を開こうとした。
「いや、すみません!すぐ行きます!」
大地に余計なことすんなと視線を飛ばして席を立つ。川口さんは鼻息荒く店の奥に消えていった。
こちらもまた不機嫌そうな大地を背に、罪悪感を、おぼえつつ、なんでありがとうを無言で伝えることは難しいのだろうとまた溜め息が漏れた。
その日その後、川口さんは俺になにも言わなかった。ただ、内心穏やかでないのは手に取るようにわかったし、それがかえって俺の頭を悩ませる。
黒いモヤモヤを脇腹に抱えたまま仕事をするのは普段より何倍も疲れるものだ。なんとなく仕事が手につかない気もするし、これからずっとこうだったらどうしようと考えるだけで憂鬱だ。
そんなブルーな気持ちのまま過ごしていると、バイト上がり間際、客のほとんどいないこの喫茶店を訪れたのはくろちゃんだった。
レポートの提出期限が近いということで、こんな時間まで図書室にこもっていたらしい。彼女の真面目さには脱帽する。俺や大地はいつも前日に徹夜してなんとか書き上げるのが常だからな。
彼女は前回と同じくカフェオレを注文し、カウンター席で今日もお疲れさまですと笑顔をこぼす。
「なんか元気ないですね?やっぱりアルバイト大変ですか?」
「まぁね。仕事にはちょっと慣れてきたところなんだけど」
くろちゃんは心配そうに俺を見つめていたが、彼女のその気遣いだけでカラカラの心が潤うような気持ちになった。
「なにかあったら言ってくださいね?お力になれることがあればお手伝いしますし、せめてお話を聞くくらいはできますから」
笑顔が瀬戸物であることは明白であった。嬉しさと申し訳なさで俺も微笑みを返す。
「ありがとう、くろちゃん。じゃあなにかあったら相談させてもらうね」
わたしでよければ、いつでも。と、そう目を細める彼女のその心馳せだけで十分だ。
「ところであゆむさん、あのウェイトレスさんって前、早乙女さんと二人でいた人ですよね?」
実は最初に来たときから気付いていたらしい。いかに俺の注意力と記憶力が足りないかと苦笑いしか出ないが、とりあえずそんなネガティブな気持ちは笑って誤魔化すことにした。
「そうだよ。でもなんかあたし、あの人に嫌われちゃってるみたいでさ。ちゃんと話したことはないんだよね」
仕事中にも関わらず口が唇を突く。先程のくろちゃんの厚意に早速甘えてしまった。
ひそひそ話が彼女に届いてないことを確認するようにちらりと彼女を見ると、川口さんは川口さんで深い溜め息を吐いていた。
「えーっと……それは多分その、あゆむさんに嫉妬してるんじゃないですか?」
くろちゃんはさらに声を潜めて言う。
「あの人、きっと早乙女さんのことが好きなんですよ。だからあゆむさんに焼きもち妬いてるんです」
目から鱗どころか、魚が落ちた。そういえばそんな話をあの時していたっけ?なざこんな単純なことを失念していたのか、再び己の憶えの悪さに辟易とする。
ここの面接に来たときも店長に、俺と大地が付き合っているのかとかどうとか聞かれたっけか。仕事を覚えるのに必死だったと言うことで、記憶力の悪さに言い訳をしておくことにする。
「なるほどね、それだと合点がいくかな」
そして俺はひとつの憶測が脳裏をよぎる。
「そう言えば今日は早乙女さんいらっしゃらないんですか?いつもなら必要以上にちょっかいかけてくるのに……」
キョロキョロと店内を見渡すくろちゃん。
そうだ、この状況、くろちゃんと同じだ。この子が必要以上に大地に敵対心を剥き出す理由と、川口さんの俺に対する扱いの理由は同じ感情から来ているのだ。
ただでさえ対処法のわからない懸案事項であったのに、それが倍に増えたとなるともうお手上げどころか両腕を白旗に改造手術して敵小隊の眼前に飛び出したくなる。
「まぁ、大地もちょっとご機嫌斜めと言うかね……」
「そうなんてすか。今日こそはやっつけようと思ってたんですけど」
くろちゃんは僅かばかり残念そうな顔をしてストローをくわえる。
「くろちゃんは大地のこと嫌い?」
思わずそんな言葉が口をついた。
くろちゃんは唇からストローをこぼして驚いたような表情を見せる。
「え?いや、あの……」
分かりやすく狼狽えていた。要らないことを言ってしまったと内心後悔をする。
「……あの、別に嫌いでは……ないと思うんですけど、その……なんと言うか……」
彼女は想いを言葉にすることに戸惑っているようだった。