考え込むようにくろちゃんの沈黙が続く。
彼女の中の葛藤はよくわかる。
自分で言うのもおこがましいが、きっとくろちゃんは俺に対して特別な感情を抱いている。彼女の俺への『好き』が、きっと『like』ではないことくらい、流石の俺も察している。
たとえ、女どうしでもその感情は世間一般に皆が持つ恋愛感情と何ら相違はないに違いない。
ただ彼女はその事を許容したい自我と、受け入れることへの恐さがその小さな体に、胸に、心に溢れていて、だから今こうして言葉を詰まらせているのだろう。
俺が彼女の気持ちに感付いていながら知らない振りをしていることが、どれだけ卑怯で罪深いことなのかと考えることもある。熱にうなされながらおぼろに打ち明けられた彼女のあの告白の日から、俺だって足りない頭で色々と想うところがあった。
でも、大地が不意に言葉にした同性愛に対する後ろめたさについて思い出す度に、くろちゃんへ渡すべき言葉や気持ちがどんな結果をもたらすか、そんな煩いの心地悪さばかり巡らせてしまうのだ。
「ねぇねぇおねえさん、その子ばっかりじゃなくて俺たちの相手もしてよ」
沈黙を破ったのはくろちゃんの吐露でも、俺の言葉でもなく、奥の席に座っていた知りもしない男達だった。
「おねえさん可愛いね、もうすぐバイト終わるんでしょ?この後どっか行こうよ」
くろちゃんの隣に腰を下ろした輩どもの年は俺と同じくらいだろうか?ガラの悪い三人の男は酒を飲んでいるようだった。
二次会ならカラオケかボーリングにでも行きやがれ、なんでまたこんな喫茶店に来てんだ。そう奥歯まで競り上がってきた言葉を噛み潰して笑顔を張り付ける。
「すみません、間に合ってますんで結構です」
「いいじゃんいいじゃん!おねえさん大学生?彼氏とかいんの?」
女になってから何度もナンパを受けてきたが、こいつらは今までで一番質が悪い。辛うじて営業スマイルを保ってはいるが、正直もう俺は爆発寸前だ。
ただでさえ今日は川口さんとの折り合いが最悪で、くろちゃんを追い詰めるような失言までしてしまって心に余裕がないんだ。
こんな時に弥生さんがいたらどんな風にやり過ごすんだろうな。ダメだ、俺は頭が悪いから何も好策が思い当たらない。少ないながら他にも客はいるし、なんの騒ぎだと皆こちらの様子を伺っている。怒鳴り付けてやれればどんなに気が楽だろうか。
でもせっかくこの仕事にも慣れてきたところだし、感情を爆発させてここをクビになったら他に働ける所なんて多分無いだろうし……
「他のお客様の迷惑になりますので……」
そう言うのが精一杯だった。
「別に誰にも迷惑かけてないじゃん?俺達、前からおねえさんのこと気になってたんだよね。名前なんて言うの?」
俺の迷惑になってるっつうの。それにくろちゃんも怯えてんじゃねえか。店内の雰囲気も最悪だし、ヒソヒソ声が聞こえてきて、どう見ても他の客に不快感を与えていることに気付いていないのかこの馬鹿どもは。
川口さんはキッチンに引っ込んじまったし、ホールに店員は俺だけだ。川口さん、店長呼んできてくれないかな。
「あの、ホントに迷惑ですので」
「あはは、困ってる顔も可愛いね」
紙一重で繋ぎ止めていた自制心がすり減っていく。口角をあげるのにもそろそろ疲れてきた。
限界だ。
「あ、あ、あの!」
突然のことに言葉を無くした。
「ほ、ほらウェイトレスさんこの後用事あるってさっき言ってましたよね?」
くろちゃんが俺にそう言った。
言葉を失った俺の正直な気持ちは、驚きだった。臆病で小さくて優しくて、そんな彼女が顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔で
声が上擦っている。俺を助けようと勇気を振り絞って、喉が枯れてしまったみたいだった。
「うるせぇチビ!お前に話してねぇんだよ!」
男の罵声でプツリと何かがキレた。
ほんの一瞬、目の前が赤黒く染まって、俺は拳を握り締める。
次の瞬間、男の一人が吹き飛んだ。悲鳴が店内に木霊する。椅子から転げ落ちた男はテーブルに激しく打ち付けられ、がらがらと大きな音とともに椅子やら机が散乱した。
俺はまたしても言葉と、そして呼吸を忘れていた。
何が起こったのかわからなかった。
俺はまだ拳を振り下ろしてはいなかったのだから。
「今なんつったテメェ!!」
叫んだのは大地だった。
荒く背中で息をしながら大きな拳を握り締めている。
拳を振るったのは大地だった。
「な、なんだお前!?客殴って良いと思ってんのか!?」
「客だぁ!?知ったこっちやねぇ、上等だ!ふざけてんじゃねぇぞ!俺の友達になんつったって聞いてんだよ!!」
大地はキレていた。
もしかして俺も初めて見るのかもしれない、早乙女大地の心の底からの怒りが目の前で爆発した。
俺の憤激を掻き散らすほどの衝撃と愕きで、高鳴る心臓とは裏腹に何故か冷静さが俺の中で燻っていた。
目を血走らせた大地はじっと男達を睨んだまま立ち尽くしている。殴られた男が頭をさすりながら立ち上がり、床に唾をベッと吐き捨てた。
「ぶっころす!」
その言葉を合図にして残りの二人が大地に殴りかかる。興奮した大地は身構えながらまた拳を握りしめた。
男の腕が大地に届いたその瞬間、俺はカウンターを飛び越えながら、男の顎にかかとを蹴り込んだ。すかさず着地と同時に体を回転させて、遠心力をそのままに大地に迫るもう一人の男の鳩尾に突き刺す。
二人の男は膝から崩れ落ち、今度は立ち上がることはなかった。先程までの怒号が嘘のように、静寂だけがホールを満たした。
「大地、腰の回転と体重移動が大切なんだってさっきちゃんと教えただろ?」
大地に殴られた男は目を丸くして、釣り上げられた魚のように口をパクパクさせながら俺を見つめている。
「お、お客様は神様だろうがよ!?」
「それはお店側が言う言葉だよ」
騒ぎを聞き付けた店長が厨房の奥から顔をやって来て言った。燦然とした店内を見渡して、こりゃまぁ派手にやったねと笑う。
「そこの二人引きずってさっさと帰んな。うちの店員は怒らすと怖いんだってわかっただろ?」
その言葉に男は覚えてろよと、ホントに言うヤツいたのかと感心するような捨て台詞を残して店から出ていった。気絶した二人を引きずるのは難しいらしくなかなか時間がかかり、それをただ見つめる店員達と数名の客という絵面は少々滑稽な光景ではあったが、俺はなんとか吹き出すのを堪えた。
男達が姿を消すのと同時に何故だか拍手が沸き起こった。
「……お、お騒がせしました、すみません」
とりあえず深く頭を下げる。大地も俺に続いて頭を低くした。
「あ、あゆむさん!」
くろちゃんはべそをかきながら俺に抱きついてきた。
「ごめんねくろちゃん。ありがとう、助かったよ」
泣きじゃくる彼女の小さな頭を撫でつつ、怖い思いをさせたねと謝罪を告げた。
なかなか鳴り止まない拍手の音を店長がパンパンと手を叩き静めながら言った。
「こら、二人ともお客さんを殴っちゃいかんでしょ。まぁ、さっきのが客と言えるかは別として、接客業としては失格だよ」
店長も店内の客に謝罪の言葉を述べた。
「でもまぁ、人間としては最高だよあんたら」
そう言うといつものように豪快な笑い声をあげて俺と大地の背中をバシバシ叩いた。そしてくろちゃんにあんまり泣くと美人が台無しだよと温かいコーヒーを差し出した。
「残ってるお客さんも、今日はお代は結構だよ!二人の給料から引いとくから」
俺達は反論もできずに顔を見合わせて笑った。
「あと、早乙女くんは後片付けあるから残業ね」
「えぇっ!?何で俺だけ!?あゆむは!?」
「だーかーら、こないだも言ったろう?女の子を遅くまで残すわけにはいかないって」
「いやいや、店長さっきの見たでしょ?こいつそこらの男より全然強い……」
そこまで言ったところで頭を叩かれて大地は黙った。店の中には笑い声が起き、とりあえずは一件落着と言ったところだろう。
しばらくして客は捌け、店内にはスタッフとくろちゃんを残すだけとなった。他の店員も格好良かったよと称賛の言葉を残してくれたけれど、川口さんはそれに加えて畏怖の眼差しを投げ掛けている。
きっと普段の仕返しでいつか俺に殴られるのではとでも思っているのだろう。いや、別にあなたにさっきみたいなことはしないよと心の中で弁解をしてみる。
そうこうしているうちに落ち着きを取り戻したくろちゃんは、目を腫らして俺にあらためて言った。
「あゆむさん、本当にありがとうございました。いつもいつも助けられてばかりで……」
「いやいやいや!今回はあたしが原因だからさ、気にしないでよ」
それでも彼女は謝ってばかりだった。俺にしてみれば、君が俺を守ろうとしてくれたんだよと告げると、くろちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「それと……」
くろちゃんは立ち上がり大地の前に歩み寄る。そして深く頭を下げた。
「早乙女さん、そのありがとうございました、あと、今までごめんなさい……」
大地はそれをキョトンとした顔で見つめ、次に困惑した顔で俺に視線を向ける。
「へ?いや、何で謝んの?」
顔を上げたくろちゃんははにかみながらやはり恥ずかしそうに言う。
「えっと……なんとなくです」
弥生さんに続きくろちゃんと大地の問題もひとまずは落ち着いたと言っても良いのだろうか?このくろちゃんの笑顔を見る限り、安心して良いと言うことなのだろう。安堵の息は溜め息よりも吐いて気持ちの良いものだ。ほっと胸を撫で下ろし、大地の横顔に視線を返す。
俺はキッチョムの言葉を思い出す。
人間万事塞翁が馬。なんだ、俺の座右の銘にでもなりそうだな、この言葉。
「でも、わたしの方があゆむさんのこと好きなのは変わりませんよ」
……どうやら一筋縄ではいかないようだな。