なんとか俺が無事に夏休みを迎えることができたのは、なんと言ってもキッチョムのお陰の一言に尽きるであろう。
ヤツの用意した偽造学生証破裂しそうな心臓と共に提示しつつ受けた単位取得のための期末試験にもなんとかギリギリの点数で滑り込んだ。ただ、あいつは……もとい、俺はとんでもないことをしているのではないかとの罪悪感で2、3日ろくに眠れもしなかったが、当の吉良助教授があまりにもあっけらかんとしているのを見ると、なんとなくこれは杞憂なのだと思い込むことが出来た。
他の学生諸君と同じく、むしろその何割増しかの解放感に身を浸しながら、消化試合として残った今期最後の講義を終えてひとつ大きな背伸びをする。
季節はもうすっかり夏である。世間では子供達はもうとっくの昔に夏休みの友を配付されているのだが、俺たちの夏休みはこれからだ!鈴木あゆむ先生の次回作にご期待ください!
「あの、すみません」
天を仰いでいると、ふいに誰かに呼び止められた。面識のない男だった。スラッとした長身の男で、薄い顔立ちが最近流行りの女受けの良い若手俳優を思い浮かべさせるような、いわゆるモテそうな男だった。
「突然すみません、実は初めて見たときから好きでした。付き合ってください」
人目もはばからずに男は、大学の構内でそう告げた。キョロキョロと周囲を見渡してみる。案の定、どうやらその告白は俺に向けられたものであった。
時間はその日の夕方、舞台はいつかの喫茶店へと移り変わる。
「ふぅん」
ことをひととおり聴き終え、弥生さんはアイスコーヒーに突き刺さったストローをくわえて話はわかりましたとひとつ相づちをうった。
「で、名前とメールアドレスの書いたメモを渡して去っていったと……」
テーブルの端っこで空調の風に遊ばれるメモ切れを指ではじく。
男の名前は『立花 陸』であり、携帯のアドレスはこのメモにあるもの、彼に関してわかっていることはそれだけだった。
すぐに返事をしてくれなくても構わない、そう言い残して立花は走り去っていった。
「正直、こんなこと相談できるのは弥生さんだけなんですよ……」
大地?却下だ。くろちゃん?それも却下。キッチョムは論外。理由は別に逐一箇条書きにするまでもないだろう。別に消去法と言うわけではないが、こういうときに一番頼りになるのは彼女なのだと、恐らくだれでもとりうる選択肢を握りしめて、俺はカフェオレの残りをすすり、おかわりを注文した。
「相談も何も、あゆむちゃん別にこの告白を受けるつもりはないんでしょう?」
弥生さんはつまらなそうに俺を見つめ頬杖をついた。
「まぁ、そうですけど……」
言葉に詰まる。女になってからこれまで何度もナンパをされたことはあれど、こうして面と向かってちゃんと告白をされたのは初めてだった。
「なんて言うかその、断り方を教えて欲しくて」
俺は彼女のストローについた薄い口紅を眺めながら漏らす。弥生さんは大きく溜め息を吐いて椅子の背もたれに体重をかけた。
「そんなの、自分で考えた方がいいわ。この立花くんだって、勇気を振り絞ってあなたに愛を打ち明けたのだから、あなたもちゃんと真摯に向き合うべき」
それがあたしのアドバイスよと付け加えて、彼女は俺を指差した。
なんとなくそう言われると思っていた。俺だってそれが正しいことくらいわかっていたのだが……なんとなく、何かにすがりたくなったのだ。
「ナンパとはわけが違うのだから、あたしが言えることはこれくらいね」
空になったコーヒーのグラスで、氷が崩れる涼しい音が響いた。
「そうですよね、ちゃんと自分の言葉で断ります!なんかすみません」
それでいいのよ、と弥生さんは笑った。
「あの、ところで……」
「なに?」
「俺って、そんなに可愛いですかね?」
弥生さんがキョトンとした顔で俺を見つめた。
しばしの沈黙。丸く見開いた目を今度は細めて、吹き出すように笑い出した。
「あははは、あゆむちゃん真面目な顔して変なこと聞くわね」
腹を抱えて笑う彼女を見ているとなんだか恥ずかしくなってきた。こんな風に感情を表にする弥生さんは珍しいのだが、そんな感慨に耽る暇もなく、どんどん紅くなる顔を隠す。
「そ、そんなに笑わないでくださいよ」
「ご、ごめんなさい……なんだか可笑しくって」
目尻をぬぐいながら呼気荒く謝る弥生さんは深く深呼吸を何度かして落ち着きを取り戻そうとしていた。
「自分ではわからないものかしら?あゆむちゃん、あなたはすごく美人さんだし、可愛らしいわ。でもなんだか、そんなこと言うのもすごく今更な気がする」
今になって自分であまりにも変な質問をしてしまったことに気付く。これじゃただのナルシスト野郎だ。今すぐ穴を掘って二度と出てきたくない。
「でも、あなたの魅力は外見じゃあない、きっとみんなそう思っているはず。立花くんに関しては一目惚れってことだけど、少なくともあたしはそう思うわ」
俺はカフェオレを一気に飲み干して胸の奥の火を消してしまおうと試みたが、それはまさに焼け石に水と言ったものだった。
「あたしだって、あゆむちゃんに、恋に落ちちゃいそうになることがあるもの。だから……」
弥生さんは優しく俺の頭を撫でた。
「だから、男の子に戻りたくなったら、あたしに教えてね」
俺は、明日から夏休みだと今更ながら頭のなかで繰り返して、今しがたの失言を忘れることに必死だった。