体が女になって腕時計もサイズが合わなくなり、もっぱらスマートフォンで時刻を確認する生活を営んでいるわけだが、未だに男の時の癖で左手首を見てしまう。不便だ不便だとは思っていたけれど、今この時ほどそれを実感したことはないだろう。
何故なら現在俺は電柱の上にしがみついているのだから。不自由な体勢のままポケットから携帯を取り出すと22時10分の文字が液晶に映っていた。
やはり女になることで体力と言うか身体能力と言うか、そういったものが男の時と比べ低下しているため、たかが電柱に登るのも一苦労である。以前も電柱に登ることなんてなかったのだが、きっと男の時ならこの2倍くらいのスピードでここまで到達できただろうと思うと少しげんなりする。
4月になったとは言っても今宵は少し肌寒い。それは気温とは別に酔いが冷めてきたせいもあるかもしれないし、少しかいた汗が体を冷やしているのかもしれない。僅かばかり体を震わせながら息を吐いてみるものの、呼吸は透明のまま空に消えていった。
しかし体とは逆に俺の心の中は熱く燃えている。
暗闇の奥に目を向けると、黒川さんの小さな姿が早足で近づいてくる。そしてその後方には彼女の証言通り、ひとつの影が不自然に蠢いていた。
ピタリと黒川さんが俺の登っている電信柱の下で立ち止まった。背後の不審な人影もほぼ同じタイミングで立ち止まる。
彼女はか細い声で背後に投げ掛けた。
「な、何か御用でしょうか…………?さ、さっきからずっと着いてきてますよね?」
しばらくの静寂が漂う。灯りの少ないこの通りは黒川さんとその影の二人きりだ。まぁ、厳密に言うと俺も上空にいるから3人なのだが。
しばらく沈黙が流れる。まるで地球が回転を止めたかのように長い時間が過ぎ去っていくのをただ待った。俺は固唾を飲んで遥か地上を見守る。
先程聞いた黒川さんの話はこうだ。
独り暮らしをはじめて2、3日たったくらいから視線を感じるようになった。最初は馴れない生活で敏感になっているのかもと考えていたがどうやら違うらしい。日に日にその感覚は強くなり、それを確信したのは実はついさっきのこと。仮入部したサークルの飲み会に誘われその帰りに背後で自分をつけている人影に気付いた。怖くなり、どうしたら良いかわからなくなってとりあえず自宅がバレないよう遠回りをしているうちに偶然見かけた俺に助けを求めたのだそうだ。
話を一通り聞いて、そこで俺はひとつ提案をした。
自分で迷惑だとそのストーカーに告げること。一度別れる振りをして、俺は影に隠れているからちゃんと自分一人の口でそれを告げることを。そして、俺が絶対に黒川さんを守ると言うことを約束したのだった。
そして彼女は今、勇気を振り絞っている。きっと俺の言葉を信じてくれている。場所をちゃんと指定したとは言え、まさか黒川さんも俺がこんなところに潜んでいるとは思ってもいないだろう。
こわばる彼女に影はボツりと投げ掛けた。
「あ、あの僕、ずっと君のこと見てた。大学で見かけてからずっと見てた。あの、黒川さんって言うんでしょ?よ、よかったら僕と付き合ってください」
思いもよらぬ黒川さんからの接触に影はそう答えた。男の声は弱々しく流れ、空間は不思議な緊張感に包まれている。
しかし今度の静寂は短かった。
「や、やめてください、後をつけるのとか、ほ、本当に迷惑なんです。怖いんです。」
黒川さんの消え入りそうな声は閑散とした住宅街に僅かに響く。
「…………あなたの気持ちにもお応えできません。ごめんなさい」
黒川さんが鞄の紐をぎゅっと強く握るのが見えた。俺は心の中でよく言ったとガッツポーズをし、拍手を送った。
黒川さんはきっと俺が想像していた通り、大人しくて自分の思っていることを素直に人に伝えることができない正確なのだろう。それはひとつの優しさでもあり弱さでもある。だからこそ今、彼女が置かれている状況は黒川さんにとってとても辛く怖いものだろう。見知らぬ男に追い回されて、誰でも恐ろしく思うシチュエーションで、この数日は耐えがたいものだっただろう。それを自らの力で解決しようと立ち向かう行為は俺には想像もできないくらい勇気を消費する瞬間なのだろう。
それでも彼女は心を振り絞っているのだ。
黒い影は一瞬驚いたようにたじろぎ、呆然と一抹の間を置いて今度は呼吸を荒くした。
「なんで!?ずっと見てたって言ったじゃん!?好きなんだよ?なんでそんなこと言うの!?」
語気が強まる。
黒川さんはその豹変ぶりに身動きひとつとれず立ち尽くしている。男は彼女に詰め寄ろうと電灯の下までじわりと歩を進め、今まさに彼女の腕をつかもうとした瞬間、俺は電柱から飛び降りそのまま男の顔面に蹴りを入れた。
「おいストーカー野郎。さっきから聞いてりゃ自分勝手なことばっかり言いやがって。この娘の気持ちはわかっただろ、勇気だしてちゃんと気持ち伝えたんだ。逆ギレなんてみっともない真似してんじゃねぇよ」
吹き飛び倒れ込む男を見下ろし、俺は黒川さんの前で仁王立ちのまま腕を組んだ。実は着地で足が酷く痺れているのだが、それを隠すように言の葉に力を込める。彼女もまた斜め上を行く俺の登場の仕方に驚きの声を隠せず、目を丸くしているのが背中から伝わる。
男が呻き声をあげているのを視界の端に、俺は黒川さんに目を向ける。
「よく頑張ったね」
彼女は涙目のまま何度も強く頷き俺の胸に抱き付いてきた。堪えきれなくなったのか声を圧し殺して泣いている。黒川さんの頭を撫でると、細い髪が滑らかに指の隙間をぬった。
「これ以上彼女を怖がらせてみろ、そんなもんじゃ済まねぇぞ」
顔を押さえてよろよろと立ち上がる男に声を低めて忠告する。
「な、なんだよ、邪魔すんな!女が調子乗んな!」
腕を振り上げそう怒鳴り、男は覚束無い足取りのまま俺に殴りかかってきた。
たった今忠告したばっかりだろうが。俺は拳を握り締め、大地を殴るときの3倍の力で男のみぞおちに正拳を突き刺した。
男はそのまま膝から崩れ、もう二度と起き上がることはなかった。