「本当にありがとうございました、鈴木さんがいなかったら私…………」
もう何度も聞いた言葉だ。アパートの301号室の前で黒川さんは深々と頭を下げた。
「別にいいよ。黒川さんの頑張りのおかげで一応解決したんだから。それに困ったことがあったら助け合うのがお隣さんってものでしょ?」
すみません、ありがとうございますとまた彼女は呟く。時間もそろそろ深夜に差し掛かろうと夜はさらに闇を深くしているようだった。
「あれだけやれば大丈夫だろうけど、またあの男が現れたらすぐに連絡して。一瞬で飛んでいくから」
ついさっき交換した電話番号とメールアドレスが彼女にとってお守りになってくれればいいのだが、いかんせん彼女の体験した恐怖は計り知れないのであろう。その証拠に
「あ、あれ?おかしいですね…………」
黒川さんの手は震えて鍵がなかなか刺さらない。
カチャカチャと乾いた金属音が響くだけで一向にドアは開こうとせず、彼女は焦りで余計にしどろもどろと汗をかいた。無理もないだろう、先程の出来事からまだ30分も経っていないのだから。
乗り掛かった船と言うわけではないが、そんな黒川さんを放っておくことができなかった。
「ねぇ、黒川さん。もしお邪魔じゃなければ部屋にお邪魔してもいい?」
振り替える黒川さんは顔を左右に振りながら答えた。
「お、お邪魔なんてとんでもないです!私の部屋で良ければ全然…………」
「ありがとう!夜も遅いしそんなに長居しないからさ、黒川さんともう少しお話ししたくて」
「私明日午後からの授業なんで大丈夫です!むしろ朝まで一緒に居て頂きたいくらいですよ」
そう言い終わるのが早いか、カチャリと錠が外れる音がした。
彼女の部屋は思っていた通りしっかりと整理整頓されていた。引っ越しをして間もないにも関わらずダンボールがひとつもなく、物はまだ少ないが可愛らしい小物や薄くピンクがかったカーテンがいかにも女の子の独り暮らしと言った感じだ。
「狭い部屋ですが…………」
「いやいや、間取りは同じはずなんだけどあたしの部屋より全然広く感じるよ」
小さな二人掛けのソファに通され、俺と彼女は並んで座った。コーヒーでもいれますねとすぐに腰を上げる彼女にお礼を言って、こんなフランクに女の子の部屋に入るのなんて妹の部屋以来だとか考えていた。それは女になったせいだろうか、それとも相手が黒川さんだからだろうか、なんてぼんやり思っているうちに湯気をたてたコーヒーが運ばれてきた。
「黒川さんピアノ弾けるの?」
部屋の片隅の電子ピアノを指差してそう訪ねる。
「はい、小さい頃からやっていて大学でもそういうサークルに入ろうと思ってます。鈴木さんはサークル入っているんですか?」
「この間まで入ってたけどもうやめちゃった。飲み会するだけのサークルだったし、もとから幽霊部員だったしね」
「やっぱり大学生って飲み会多いんですね。私も今日初めての飲み会だったんですけど、お酒全然飲めなくって。飲めないって断ったんですけど…………一口で頭痛くなっちゃいそうでした」
見上げる彼女は幼さの残るはにかみを見せる。
「無理して飲むものじゃないと思うよ。あたしも最初はそうだったなぁ」
酒が飲めれば偉いみたいな大学生特有の誤った認識はどうにかならんもんだろうか?加えて飲酒を強要するような輩も大勢いるから質が悪い。
こうやって純真無垢な新入生達が犠牲になるのだから俺が上の立場ならそんな風習は即様撤回してやるのにといつも思う。
「あ、あの、よかったら今度お酒を飲む練習に付き合ってくれませんか?」
「あたしで良ければいつでもお相手するよ」
真面目な彼女はこうして少しでも努力しようとしているのだ。なんと涙ぐましいことだろう。俺にできることならこんな申し出喜んで受けつかまつると言うもんだ。
「ありがとうございます。すみません、こんなお願いしちゃって」
彼女もいくらか落ち着いてきたのだろう。少しずつ笑顔を見せてくれるようになった。なんとなく俺も嬉しくなる。
「私、昔から引っ込み思案って言うか気が弱くて。ほんとは独り暮らしも反対されてたんですけど、少しでもちゃんとできるようにって両親に無理言ってこの大学受けたんです。でも鈴木さんがいたらまた甘えちゃうかもしれないですね」
「あたしは存分に甘えてもらって構わないんだけどね。あと、あたしのこと名前で呼んでくれていいよ。いつまでも鈴木さんだと堅苦しくなっちゃうしね。あ、申し遅れました。鈴木あゆむです」
黒川さんは笑いながら黒川雪子ですと自己紹介を返した。
「じゃああゆむさんって呼ばせていただきます」
「あたしは黒川さんのことなんて呼んだらいい?」
黒川さんは小首を傾げながらうーんと可愛らしく唸り、そうですね、なんでもいいですよと微笑んだ。
「じゃあくろちゃんって呼ぶよ。くろちゃんってなんとなく猫っぽいし」
「あ、それ可愛いですね!是非そう呼んでください!」
まるで子猫のような屈託のない笑顔を振り撒いてくろちゃんは喜んでくれた。
もしも女にならなかったらこんなに彼女と仲良くなれなかったのでは?と考えると、俺の災難も悪くないんじゃないかと思えてくるから不思議だ。