ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
プロローグ
その朝、パチカンの鐘はいつもより三十分早く鳴った。
まだ夜の名残が濃く、都市の大半が眠りについている時刻だった。中央大聖堂の大鐘ではない。最初に響いたのは北東城壁の警戒鐘であり、数呼吸遅れて西塔、南門、天使軍監視塔が次々と応じた。パチカンに暮らす者なら、それが時刻を知らせる鐘ではないことくらい眠りの中でも分かる。窓が開き、人々が通りへ顔を出し、夜勤の衛兵たちは走り始めた。
異変に最初に気づいた北東監視塔の衛兵は、鐘を鳴らしたあとも、自分が見ている光景をうまく理解できずにいた。
昨日まであったものが、何もない。
城壁の外を横切っていた石畳の街道も、遠方に見えていた友好都市の灯も、緩やかな丘陵も消えていた。代わりに広がっているのは、朝靄に沈む見知らぬ森林と、ところどころに露出した岩地、さらにその向こうに続く山脈だった。空の星の並びさえ違う。夜明けの方角から考えれば東西そのものは存在しているらしいが、それ以上のことは何一つ分からなかった。
「外部通信は?」
「すべて不通です。転移門も応答しません。地図照合、一致なし」
「他都市との回線は」
「ありません。まるで……」
若い衛兵はそこで言葉を切った。上官も続きを求めなかった。まるでパチカンだけが、地図の上から切り取られ、どこか知らない場所へ置き直されたようだった。
その頃、大聖堂最奥の神殿では、別の意味で状況を理解できずにいる者がいた。
*
彼は元々、神ではなかった。
ごく普通の人間だった。少なくとも本人はそう思っている。現実世界では仕事をし、帰宅すればオンラインゲームへログインし、休日になると長時間パソコンの前に座る。対人戦で頂点を目指すよりも、拠点を育て、NPCへ設定を盛り、組織を作ることの方が好きな種類のプレイヤーだった。
そうして長い時間をかけて作り上げたのが、宗教国家《パチカン》だった。
巨大な聖堂を中心に十二の騎士団、教皇庁、神学校、工房、農園、図書館、病院、地下施設を整備し、表には決して存在しない第十三騎士団イスカリオテまで用意した。さらに天使軍を組織し、その頂点にはレベル百の《黄道十二宮》を置いた。一人一人に過剰なほど設定を書き込み、口調も思想も好き嫌いも決めた結果、戦闘狂、怠け者、守銭奴、潔癖症、極端な教条主義者まで揃った恐ろしく癖の強い軍団になったが、彼らに一つだけ共通する設定があった。
唯一神への絶対忠誠。
その唯一神として登録されたプレイヤー名が、《神聖四文字》だった。
当然、本名ではない。宗教モチーフの勢力を作るなら、それらしい名前の方が面白い。それだけの理由で付けたものだった。しかも姿は人間ですらない。直径三メートルほどの、光をほとんど反射しない黒い球体。豪奢な神殿の中心に何の装飾もない黒い球が浮かんでいれば、逆に神秘的ではないかという、半分悪ふざけのアバターだった。
それが今、自分の身体になっている。
『ログアウト』
反応はない。
『メニュー。管理画面。強制終了』
何も表示されなかった。
『……困ったな』
目はないのに見える。耳はないのに聞こえる。黒い球体でしかないはずなのに、自分の周囲を三百六十度把握できる。ゲーム画面では感じたことのない蝋燭の熱や、空気の流れまでぼんやり分かる。
そして何より異常なのは、自分を囲むNPCたちだった。
「主よ。お目覚めでございますか」
最前列に立つ老人が深く一礼した。
ヨハネス二十三世はパチカン第九十七代教皇で、ゲーム設定上、歴代教皇の中でも特に穏健で、宗教的情熱と行政能力の均衡に優れた古参NPCである。白髪で皺が深く、目は穏やかだった。そこまでは神聖四文字が知っている。しかし今、その顔には明らかな戸惑いが浮かび、呼吸に合わせて胸が上下していた。
『ヨハネス。俺が分かる?』
「無論にございます。唯一なる我らが主よ」
『じゃあ聞くけど、今何が起きてる?』
「……主がお尋ねになられるのでございますか」
『うん。俺も分からない』
玉座の間に沈黙が落ちた。
唯一神が「分からない」と言った。
宗教組織としてはかなりまずい発言だったらしい。
『いや、隠しても仕方ないでしょ。俺がやったことじゃないし。分からないものは分からない。分かってる事実だけ集めよう』
ヨハネスはしばらく神聖四文字を見つめ、やがて深く頭を下げた。
「承知いたしました。では、推測を交えず御報告いたします」
*
数時間の確認で分かったことは多く、同時に肝心なことは何一つ分からなかった。
パチカンは都市ごと移動している。建築物、倉庫、工房、農園、軍事施設に大きな欠損はなく、一般住民もほぼ全員が確認された。十二騎士団は健在。秘密裏に照会した第十三騎士団イスカリオテも問題なし。天使軍も存在し、《黄道十二宮》全員の生存が確認されている。
「主。周囲が未知なのであれば、半径数十キロを浄化してしまうのが最も迅速かと存じます」
六枚の翼を持つ天使が、眠そうな顔で物騒な提案をした。
『浄化って何するの』
「焼却を」
『却下』
「まだ出力について御説明しておりませんが」
『聞かなくても分かるから却下』
別の天使は「それでは周辺資源の占有権だけでも先に設定を」と言い始めたので、それも止めた。
外界については、本当に何も分からない。この世界に人間がいるのか、国があるのか、言語があるのか、宗教が存在するのかすら不明である。そもそも「現地勢力」という言葉を使うこと自体、まだ早かった。
『まず偵察だけ。何か見つけても、向こうから襲ってこない限り攻撃しない。建物とか畑とか道とか、人が作ったっぽいものを見つけたらすぐ報告』
「御意」
パチカン内部のシステムについても調査が進められた。ゲーム時代の職業とレベルは維持されている。騎士団長や黄道十二宮はレベル百、副団長級で八十から九十。古参NPCの多くは複数の職業を持ち、《騎士》《聖騎士》《神官戦士》《指揮官》などを組み合わせている。戦闘職だけでなく、《農夫》《鍛冶師》《錬金術師》《治療師》といった生産・支援職も技能を現実のものとして行使できた。
治療能力も健在だった。骨折、感染症、内臓損傷程度なら高位治療職にとってさほど難しくない。失われた四肢すら条件次第で再生できる。そして—―。
『蘇生も使える?』
「可能と思われます」
ヨハネスが慎重に答えた。
『なら安心だね。外で誰か死にそうになってても、最悪戻せる』
「お待ちください」
『何?』
「蘇生術を未知の者へ直ちに使用なさるおつもりですか」
『助けられるなら使うでしょ』
神聖四文字にとっては、それが自然な発想だった。しかしヨハネスだけでなく、同席していた枢機卿たちの表情まで硬くなった。
「主よ。この世界の死生観すら我々は知りません。死者が戻ることを冒涜と考える文化かもしれず、あるいは蘇生能力そのものを巡って戦争が起こる可能性もございます。王侯、富裕者、軍人、宗教指導者が、自らのために主の御力を求め始めれば、我々は誰を蘇らせ、誰を見捨てるのでしょう」
『でも、目の前に助けられる人がいたら?』
「そのときこそ慎重であるべきかと存じます。治療術とは異なります。死という境界を越える力は、知られた瞬間から我々だけの問題ではなくなります」
神聖四文字は不満だった。
助けられるのに助けない。その理屈は嫌いだった。
それでも、ヨハネスの言うことが間違っているとも思えない。
『……分かった。蘇生は当面、対外秘。パチカン内部で必要なら今まで通り使う。でも外の人が本当にいるなら、勝手には使わない。俺に確認して』
「御英断にございます」
『納得はしてないからね』
「存じております」
*
数日間の偵察で見つかったのは、怪物ばかりだった。
巨大な犬や猪に似たもの、人型に近いものもいた。どれも斥候を発見すると襲いかかり、パチカン側の兵士によって難なく討伐された。奇妙なのは死体が残らないことで、崩壊した体から紫色の結晶が残った。
『魔石みたいなものかな』
「分析班へ回しております」
人間の痕跡は見つからない。街道も、畑も、煙もない。神聖四文字は、この世界には自分たち以外の人類が存在しないのではないかとすら考え始めた。
だから北門から緊急報告が入ったとき、会議室は静まり返った。
「城外北方、人間と思われる集団を確認しました。数、およそ三百。老人、婦女子を含みます。後方より怪物群が追跡中」
『人間? 本当に?』
「少なくとも外見上は」
遠見水晶に映された人々は、軍隊には見えなかった。衣服はぼろぼろで、荷物を抱え、裸足の子供もいる。怪我人を背負った者までいた。走っているというより、逃げ続けた末に最後の力で足を動かしているように見える。
その瞬間まで、神聖四文字はこの世界に現地民が存在することすら知らなかった。
『追ってる怪物を止めて。人には攻撃しない』
「直ちに」
空へ上がった天使兵と騎士団の先遣隊が、流民へ迫る怪物を短時間で排除した。あまりにも一方的な戦闘だったため、流民たちは助かったことより、空を飛ぶ翼ある存在を見て恐慌しかけたほどだった。
それでも、もう走れなかった。
彼らは巨大な城壁の前で立ち止まった。
そして門は閉じていた。
*
「疫病の可能性がございます。武装者もおります。また、彼らが何者か分かりません。追手を誘導するための囮という可能性も否定できません」
ヨハネスの意見はもっともだった。
『城外で隔離する?』
「それが安全かと。しかし重傷者の中には、今夜を越せない者もおります」
『じゃあ入れよう』
「主よ」
『隔離区画がある。武器は門前で預かる。病気は治療班が見る。監視もつける。それなら危険は減らせるでしょ』
「一度門を開けば、前例となります」
『うん。でも閉めたままだと人が死ぬ』
ヨハネスはしばらく黙っていた。
『善人かどうか分からない。でも、悪人かどうかも分からない。今分かるのは、怪我して、腹を空かせて、子供までいるってことだけ。それで十分じゃない?』
第九十七代教皇はゆっくり頭を下げた。
「御意」
巨大な北門が開いた。
流民たちはすぐには動かなかった。知らない城、知らない兵士、空には翼ある存在がいる。罠を疑うのは当然だった。一人の修道女が門の外へ歩き、武器を持っていないことを示してから水袋を差し出した。言葉は通じない。それでも水の意味は通じた。
最初に受け取ったのは小さな少女だった。一口飲んだ途端、泣き始めた。
それを合図にしたように、人々は少しずつ門をくぐった。
*
治療は順調だった。
流民たちにとって致命傷に見えた傷も、パチカン側にとっては治療可能なものが多い。高熱の子供が数分で眠りにつき、裂けた腕が光の中で塞がり、折れた骨が正しい位置へ戻っていく。流民たちは恐れながらも、やがて治療師へ頭を下げるようになった。
ただ一人。間に合わなかった女性がいた。
長期間の衰弱と失血、感染が重なっていた。治療師が診た時点で心肺は止まり、通常の治療術では戻せない。
「主よ。蘇生可能条件内です」
神聖四文字は即答した。
『じゃあ戻して』
「主よ」
ヨハネスだった。
『今なら助けられるんでしょ』
「先ほど申し上げたばかりです」
『でも目の前にいる』
「だからこそでございます。この者を蘇らせれば、三百人全員が死者を蘇らせる力の存在を知ります。彼らが故郷へ帰れば、その先に何人へ伝わるか分かりません」
『じゃあ記憶を――いや、それも駄目だな』
神聖四文字は黙った。
女性のそばには、小さな少年が座っている。
八歳くらい。母親の手を握っている。
『……助けられるのに』
「はい」
『嫌だな、これ』
「私もでございます」
ヨハネスの声は静かだった。
「だからこそ、今ここで決めるべきではありません。主が御慈悲だけで一人を救えば、明日は百人が主の前へ死者を運んでまいります」
神聖四文字は長い間答えなかった。
結局蘇生は使われなかった。
*
少年の名はマルクスだった。
母親が死んだことを、最初は理解しようとしなかった。
「お母さん、もう安全だよ。起きて」
通訳などまだいない。それでも、その言葉が何を意味しているかは分かった。
翌日、母親は埋葬された。十字教式の葬儀ではない。彼女が身につけていた護符や、流民たちが大切にしている作法を身振りで確認し、できる限り彼ら自身のやり方に合わせた。
ヨハネスが墓の前へ行くと、マルクスは土を見つめたまま尋ねた。数日のうちに互いに覚えた僅かな単語と身振りを繋いだ、不自由な会話だった。
「どうして、ちゃんと埋めたの」
「あなたの母上だからです」
「ここの人じゃない」
「それでもです」
「ここの神様を信じてない」
「それでもです」
少年は、初めてヨハネスの顔を見た。
「じゃあ、どうして助けたの」
「門の前にいたからです」
マルクスは長いあいだ黙っていた。
それが、彼にとって十字教との最初の出会いだった。
*
流民たちの生活が落ち着き、互いの言葉を少しずつ覚えてから、ようやくパチカン側も彼らの世界について知り始めた。故郷があり、支配者がいる。人間同士の争いもあり、奴隷制度も存在するらしい。彼ら自身の信仰もある。
神聖四文字は、布教を急がせなかった。
『食べ物と住む場所を全部こっちに頼ってる状態で「信じますか」って聞くのは駄目。断ったら追い出されると思うかもしれないから』
だから、洗礼の話が出たのは彼らが働き、自分たちで生活を立て直し始めてからだった。
そして最初に洗礼を望んだのはマルクスだった。
「なぜです」
司祭が尋ねた。
少年は母親の墓がある方角を見た。
「お母さんを、ちゃんと埋めてくれた。お母さんは、ここの神様を知らなかった。でも、捨てなかった」
「それだけでよいのですか」
「それだけじゃない」
マルクスは小さな拳を握った。
「強くなりたい。次は僕が、誰かを門まで連れてくる」
司祭は、その言葉の意味を完全には理解していなかった。
洗礼が施された。
その瞬間誰も予想していなかったものが現れた。
職業選択。
《農夫》
《兵士》
《斥候》
《職人》
《見習い司祭》
そして—―。
《騎士》
パチカンのゲームシステムが、この世界の人間にも反応した。マルクスは迷わなかった。
「騎士になる」
《騎士 Lv1》。
それが、現地民へ初めて与えられた職業だった。
後にレベル70へ到達し、現地出身者として最初の聖騎士となり、死後《聖マルクス一世》と呼ばれる少年の、最初の一歩だった。
*
転移からまだ一か月も経っていない。
神聖四文字は城壁の上から、見知らぬ世界を見ていた。
分かったことは少ない。
人がいる。怪物がいる。社会がある。宗教もある。
そして、自分たちの力は、この世界へあまりにも大きな影響を与えるかもしれない。
治療、蘇生、職業、天使、そしてレベル百の古参たち。その力は、使い方を間違えれば救うより早く壊すことができる。
「主よ」
ヨハネスが隣へ来た。
「今後の方針をお聞かせください」
『まだ分からないよ』
「それでも、我々には御言葉が必要でございます」
神聖四文字は少し考えた。
『じゃあ、これだけ。困ってる人がいたら助ける。でも、知らないものを勝手に悪いものって決めない。征服もしない。宗教も無理に変えない。まず話を聞く』
「蘇生は?」
『……隠す。でも、本当に必要なら毎回相談させて。俺はまだ諦めてないから』
「承知いたしました」
『あと天使たちに、勝手に国とか山とか焼かないようもう一回言っといて』
「それは主御自身からお命じになった方が確実かと」
『やっぱり?』
ヨハネスがわずかに笑った。
後世の歴史家は、この時代にいくつもの名前を与えた。《降臨の時代》《第一開門》《救済紀元の始まり》。神学者たちは、唯一神が最初に示した慈悲の意味について何千頁もの論文を書いた。
けれど、神聖四文字自身の記憶は、もっと単純だった。
知らない世界へ放り出され、何も分からず、自分より周囲の方がずっと自信満々だった。門の外に死にそうな人たちがいたから、門を開けた。
それがすべての始まりだった。