ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
最初の流民を受け入れてから三か月が過ぎた頃、パチカンの北門外には、いつの間にか一つの集落が生まれていた。最初から町を造るつもりだったわけではない。城内の隔離区画だけでは収容しきれなくなったため、城壁沿いに仮設住居を建て、共同炊事場と井戸を設けただけだった。
ところが最初の三百余名がそこへ定着すると、彼らを頼るように別の集団がやって来た。四十人、百人、さらに数十人。怪物に村を追われた者、争いから逃れてきた者、奴隷商人の手を逃れた者、そして「北へ行けば食事と治療を与えてくれる巨大な街がある」という噂だけを頼りに何日も歩いてきた者までいる。
石と木で急造された家々の間では、まだパチカン側にも十分理解できない言葉が飛び交っていた。最初に保護した集団の言語はある程度解読が進んだものの、新しく来る者の中には別の言葉を話す者もいる。それでも生活は始まる。子供たちは言葉を覚えるのが早く、三か月前には身振りだけで水を求めていた少女が、今では修道女に向かって片言の共通語で夕食の内容を尋ねていた。
『……増えたね』
北門上からその様子を眺めていた神聖四文字が呟くと、第九十七代教皇ヨハネス二十三世は手元の報告書へ視線を落とした。
「本日の日没時点で、城壁外の居住者は千四百八十二名。城内の治療区画や保護施設に滞在する者まで含めれば、この世界の出身者は千八百を超えております。ここ一か月だけで六百名近く増えておりますので、現在の傾向が続けば仮設居住区では間もなく限界を迎えるでしょう」
『三か月前まで、この世界に人がいるかどうかすら分からなかったんだけどなあ。食料は大丈夫?』
「短期的には問題ございません。備蓄には余裕がありますし、農業職を持つ者たちの生産力もございます。ただ、主も御承知の通り、備蓄は永遠ではありません。現在、南西部の土地を調査し、新たな耕作地と集落を造成する計画を進めております」
『現地の人にも参加してもらおう。十字教に入った人だけじゃなくて、希望者なら誰でも。農業職がなくても、普通の農業技術を教えれば働けるよね』
「もちろんでございます。すでに農業技師と通訳を派遣しております」
ヨハネスは一呼吸置いてから、少し声を低くした。
「むしろ問題となっているのは、洗礼でございます」
神聖四文字も、それにはすぐ答えなかった。
最初の洗礼者となったマルクスに《騎士》という職業が与えられたことは、流民社会の中で驚くほど早く広まっていた。
八歳の少年がいきなり怪物を倒せるようになったわけではない。それでも変化は明白だった。身体の使い方を知らなかった子供が、木剣を持てば自然に構えを取り、教えられた動きを以前より早く吸収する。足運びや姿勢にはまだ幼さが残っているが、《騎士》という職業が基礎となる知識と身体補正を与えていることは疑いようがなかった。
『食事、治療、住む場所だけでも十分強いのに、洗礼を受けると職業まで手に入る。これじゃあ、信仰と利益を完全に分けるのは無理だよね』
「洗礼希望者は増加しております。すでに百名を超えました。ただし、主の御命令通り、希望したその日に洗礼を与えることはしておりません。最低限の教義教育を行い、本人の意思を複数回確認しております」
『それでも「強くなりたいから信じます」って人は出るでしょ』
「おります。かなりの数が」
『だよね』
少し離れた下の訓練場では、そのマルクスが木剣を振っていた。
*
「違う。剣を振る前に肩を動かすな。お前は今から右から斬りますと、相手に教えているようなものだ」
教官に木剣の先で肩を軽く叩かれ、マルクスは悔しそうに口を結んだ。《騎士》の職業が与えられたからといって、剣術が完成したわけではない。むしろ基礎を理解できるようになったからこそ、自分のできなさがよく分かるらしい。何度転んでも翌朝には訓練場へ姿を見せ、教官が来る前から一人で昨日教わった型を繰り返していた。
「もう一回やる」
「休憩しろ。腕が落ちている。その状態で続けても悪い癖がつくだけだ」
「まだできるよ」
「できるかどうかではない。休むのも訓練だ。騎士になったなら命令を聞け」
そう言われると、マルクスは渋々木剣を下ろした。訓練場の端へ座ると、隣で水を飲んでいた十三歳ほどの少年が声をかけてきた。彼も流民の一人で、少し前に洗礼を受けて《兵士》を選んでいる。
「なあ、マルクス。お前、どうして騎士にしたんだ? 騎士って訓練が厳しいし、農夫とか職人の方が安全だろ」
「強くなりたかったから」
「それはみんな同じだろ。俺だって怪物に追い回されるのはもう嫌だから兵士になった。でも、お前はまだ八歳じゃないか」
マルクスは少し考えてから、水筒の蓋を閉めた。
「最初にこの街へ来たとき、お母さんを守れなかった。怪物が来ても、僕は走るしかできなかったから」
「……それで騎士?」
「うん。でも今は、それだけじゃない。今度、門の外に誰か倒れてたら、僕が連れてきたい。お母さんみたいに、あと少しで助かる人を」
少年は何も言わなくなった。マルクス自身は知らない。母親がパチカンの蘇生術なら助けられた可能性があったことを。その事実は、第九十七代教皇とごく一部の上層部だけが抱えている秘密だった。
*
現地人への洗礼例が増えるにつれ、職業システムについても少しずつ分かってきた。最初に判明したのは、洗礼を受けた者なら誰でも同じ職業を選べるわけではないということだった。
長年農業に従事してきた者には《農夫》や《牧夫》が現れやすく、猟師だった者には《狩人》《斥候》、武器を扱った経験のある者には《兵士》や《戦士》が候補として示される。本人の性格や適性も関係するらしく、同じ経歴の者でも選択肢が完全に一致することはなかった。
宗教職はさらに特殊だった。《見習い司祭》や《修道士》が候補に現れるには一定の教義理解と信仰心が必要らしく、職業目当てで洗礼を受けた者にはまず出現しない。逆に、文字を読めない老婆が熱心に教義を学び、洗礼の日に《祈祷師》というパチカン側でも珍しい補助職を獲得した例もあった。
ただし、職業を得たからといって即座に強者になるわけではない。レベル一は、あくまで始まりにすぎない。基礎的な能力補正と技能は与えられるが、その先は経験を積まなければ成長しない。そして経験値の獲得には、職業に応じた活動が必要だった。《農夫》なら農作業、《鍛冶師》なら鍛造、《治療師》なら治療、《兵士》なら訓練や実戦。《騎士》には戦闘だけでなく護衛や任務の達成まで経験として認識されるらしい。
ゲームの中では数字だったものが、現実では一人の人間の生き方と結びついていた。
「低級訓練施設を、現地出身の洗礼者にも開放してはいかがでしょう」
軍務会議で提案したのは、古参NPCの一人だった。パチカンには、ゲーム時代に低レベルNPCを育成するため使っていた特殊な訓練人形が多数残されている。相手の力量に合わせて動き、安全に経験値を与える訓練設備で、一般型ならレベル二十付近まで成長を補助できる。
『レベル二十まで上げられるやつだよね』
「はい。高位型であれば五十まで対応できますが、こちらは数が少なく、古参騎士や将来の幹部候補向けに運用しております」
『一般型は開放していいと思う。兵士だけじゃなくて生産職も。それぞれの訓練設備を使えるようにしよう』
「現地出身者が短期間で我が国の一般兵に近い力量を得る可能性がございますが、よろしいので?」
『信者にしたのに、弱いままでいてほしいっていうのも変でしょ。それに、農夫や職人がレベル上がる方が今は大事だよ。食料も家も足りなくなるんだから』
そう答えながら、神聖四文字には一つだけ気になることがあった。
『ただ、この世界でレベル二十がどれくらいなのか分からないんだよね』
「流民の中にいた戦士経験者と比較する限り、我が方が優越しております」
『でも、それが世界全体の基準とは限らない。たまたま弱い地域の人だったかもしれないし、もっと強い国があるかもしれない。そこは決めつけないで』
「御意」
未知の世界へ転移して三か月。分からないことは、むしろ増えていた。
現地民が言うレベル1が、パチカンのレベル10に相当することも後に判明した。
*
外界についても、流民との会話からようやく輪郭が見え始めていた。この地域には村が点在し、小規模な都市もある。流民の多くが《ラグナル伯》という名を知っており、税を徴収する兵士の話もすることから、少なくとも何らかの領主権力は存在するらしい。ただ、その伯爵が独立した君主なのか、さらに上位の王に仕えているのかは分からなかった。
「流民たちは自分の村から数十キロ先の政治事情をほとんど存じません。文字を読める者も少なく、行政制度を説明できる者は今のところ見つかっておりません」
通訳を担当する修道士の報告に、神聖四文字は納得した。現代人であっても、自国の行政制度を正確に説明できる人ばかりではない。まして戦乱や怪物から逃げてきた農民に、国制を詳しく説明しろという方が無理がある。
『宗教は?』
「統一された信仰ではないようです。森の母と呼ばれる存在を信仰する村、川や山の精霊を祀る地域、祖先を崇拝する集団などが確認されております。ただし、これも彼らの出身地域についての話にすぎません」
『全部記録しておいて』
「異教の信仰を、でございますか?」
修道士がわずかに戸惑った。
『うん。名前も祭りも昔話も、本人たちが話してくれるならそのまま。十字教に改宗した人についても、前に何を信じていたか消さないで』
「後世に異教が残ることになりますが」
『残さない方が怖いよ。俺たちが広がったあとに「昔から十字教しかありませんでした」みたいになったら、何が本当だったのか誰にも分からなくなる』
修道士はしばらく考え、やがて頭を下げた。
「承知いたしました。可能な限り、我々の教義による解釈を加えず記録いたします」
『それでお願い』
このとき神聖四文字自身は知らなかったが、この命令から始まった小さな記録部署は、数百年後には《諸民族記録院》と呼ばれる巨大な研究機関へ成長することになる。
*
人が増えれば、善意だけでは社会は回らない。
最初に表面化したのは、小さな窃盗事件だった。
共同食料庫から干し肉と黒パンが消えた。警備担当が調べると、犯人は十二歳の少女だった。両親を失い、六歳の弟と二人だけで避難してきた子供である。
『配給は?』
「規定量を与えております。ただ、弟が病後で食欲を取り戻しており、本人が自分の分まで弟へ与えていたようです」
『それで足りなくなった、と』
「はい。しかし窃盗は窃盗でございます」
担当者の言うことも正しい。ここで「かわいそうだから」で済ませ続ければ、いずれ規則は意味を失う。
『じゃあ記録には残そう。罰は食料庫の手伝いで。働いた分の一部を返済に充てる形にする』
「軽すぎるとの批判が出るかもしれません」
『それより、孤児を普通の家族と同じ配給制度に入れてた方を直して。十二歳の子が弟の食事まで管理してる時点で、制度の方にも問題あるよ』
結局、少女は一か月間、放課後に倉庫整理を手伝うことになった。弟には保護者代わりとなる修道女が付けられ、孤児世帯への配給基準も見直された。
神聖四文字はその報告を聞きながら、ゲームの都市経営はずいぶん楽だったと思った。幸福度と治安度の数字を見て、建物を増やせば大抵は解決した。現実では、同じ「窃盗」という一件の後ろに、人の事情がある。
そして翌月。
もっと簡単には処理できない問題が、門の外から持ち込まれた。
*
男は夕暮れ前、北門へ一人で辿り着いた。上半身には古い鞭痕が無数にあり、片方の足首には切断された鉄鎖が残っていた。治療を受けて意識を取り戻した男から、通訳が断片的に事情を聞き出した。
奴隷だった。
それだけなら、すでにパチカン側も奴隷制度の存在自体は把握していた。問題は、彼が自らを「人攫いに捕まった」と説明したことである。さらに二日後、同じように逃げてきた三人が現れた。証言は概ね一致していた。北西へ七十キロほど進んだ森の中に武装集団が拠点を構え、街道沿いの小集落や避難民を襲い、若者や子供を捕らえて売っている。
会議室の空気が、それまでとは変わった。
「主よ。斥候による確認を提案いたします」
ヨハネスの声も硬い。
『この地方で奴隷自体は合法なの?』
「それすら不明です。ただし、逃亡者の証言が事実なら、少なくとも本人の意思とは無関係に拉致しております」
『奴隷制度が合法なら、人を攫って奴隷にしても合法、って可能性もあるよね』
「あり得ます」
『嫌だな、それ』
神聖四文字は少し黙った。自分たちが気に入らないからという理由で、未知の社会の制度を武力で破壊する。それは最初に避けようと決めたことだった。しかし、制度の存在を尊重することと、目の前で人が攫われるのを放置することも同じではない。
「少なくとも、パチカンへ逃げ込んだ者を奴隷所有者へ返還する義務はないと私は考えます」
ヨハネスが言った。
『俺も返したくない』
「では、拠点について調査いたします。監禁されている者が存在するならば、その保護も視野に入れるべきでしょう」
『まず事実確認。できれば戦わない。でも本当に人を捕まえて売ってるなら、助ける。抵抗されたら必要な範囲で止めて。殺すのはできるだけ少なく』
「御意」
そのとき、会議卓の向こう側から低い声がした。
「では、第五騎士団がお引き受けいたしましょう」
立ち上がったのはアルブレヒトだった。古参の騎士団長である。無駄な装飾のない甲冑をまとい、灰色の髪を短く切り揃えている。レベル100。パチカン古参の団長級としては突出した能力ではないが、これまで接触した現地人とは比較にならない。
『何人連れていく?』
「十二名で十分でしょう」
『少なくない? 相手、五十人以上いるかもしれないよ』
「調査任務で大軍を動かす方が目立ちます。敵対行動を確認した場合も、私を含め十二名いれば保護対象を守りながら制圧可能です」
『自信あるね』
「数字だけを申し上げております」
その言い方が妙にアルブレヒトらしく、神聖四文字はそれ以上人数を増やすとは言わなかった。
『じゃあ任せる。ただし、強いからって雑にやらないで。相手にも事情があるかもしれないし、降伏した人は殺さない。捕まってる人たちは連れて帰っていいけど、無理に十字教徒にしたりもしない』
「すべて心得ました。主の御心を、我々の都合で広げることはいたしません」
アルブレヒトは胸へ拳を当て、一礼した。
*
翌朝、第五騎士団の十二名が北門から出発した。見送りの式典はない。偵察と救出を目的とした小規模任務であり、旗も最低限しか掲げていなかった。
訓練場からその姿を見ていたマルクスは、教官の袖を引いた。
「先生、あの人たち、どこに行くの?」
「人を攫っている者がいるらしい。確かめに行く」
「戦うの?」
「必要ならな」
マルクスは門から遠ざかる十二騎の背を見つめた。事情を聞けば、なおさら人数が少なく思えた。
「相手は何人いるの?」
「五十か、もっと多いかもしれん」
「十二人しかいないよ」
教官は少し笑った。
「そうだな」
「大丈夫なの?」
「アルブレヒト団長がいる」
それだけで説明になるらしい。
マルクスには、まだ分からなかった。
彼にとって強い人間とは、村にいた猟師や、流民を守りながら逃げてきた戦士たちだった。パチカンの古参NPCが何なのか、彼は知らない。レベルというものについても、自分が一から始まったという程度しか理解していない。
まして、アルブレヒトがかつてゲームの中で、一人で数百の敵を食い止めることを前提に作られた存在だということなど。知るはずもなかった。
*
十二人の騎士は森へ消えていった。
命令は単純だった。人を狩っている者が本当にいるのか確認する。
捕らえられている者がいるなら解放する。
不要な殺人を避ける。
領土を奪わない。
十字教への改宗を求めない。
それだけである。
神聖四文字にとっては、最初の流民を城門へ入れたときと大して変わらなかった。困っている人間がいるらしい。なら、できる範囲で助ける。
だが、城門を開くことと、武装した騎士を外の世界へ送り出すことは、同じではない。
パチカンはこの日初めて、自らの意思で城壁の外の争いへ足を踏み入れた。
後世の歴史家が《最初の介入》と呼ぶ小さな遠征は、わずか十二名から始まった。