ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
北西へ七十キロという距離は、徒歩で逃げ続けてきた流民にとっては数日の道のりだったが、第五騎士団にとってはそれほど遠くなかった。団長アルブレヒト以下十二名は夜明けとともにパチカンを出発し、整備された街道が途絶えた後も、斥候職を持つ騎士を先行させながら速度を落とさず森へ入った。全員が複数の戦闘職を持つ古参NPCであり、最低でもレベル六十を超えている。
団長のアルブレヒトはレベル100。《騎士》《聖騎士》《重装戦士》《指揮官》を組み合わせた防御・集団戦特化型である。本人は自分を特別強いとは思っていなかった。パチカンには他にも同じレベル百の騎士団長も、黄道十二宮の天使も、第十三騎士団イスカリオテもいる。むしろ自分は「相手を壊さずに制圧する」という今回の任務に向いているから選ばれたのだと理解していた。
「団長、前方に焚き火の跡があります。三日以内でしょう。人間の足跡が十四、荷車が二台。裸足のものも混じっています」
斥候役の副官が地面を調べながら報告した。足跡の一部は歩幅が不自然に狭く、二人以上が同じ間隔で並んで続いている。
「鎖で繋がれていた可能性は?」
「高いかと。荷車の轍と同じ方向へ向かっています」
「追う。ただし、まだ接触するな。奴らが本当に人攫いかどうかを確認するまでは剣を抜くな」
副官は立ち上がりながら尋ねた。
「途中で新たな襲撃を始めた場合は?」
「そのときは止める。主の御命令は『事実を確かめ、捕らえられている者がいるなら救出せよ』だ。戦うこと自体が目的ではない。そこを間違えるな」
「御意」
アルブレヒトは短く頷いた。出発前、神聖四文字から何度も「強いからって雑にやらないで」と念を押されている。単純な命令に聞こえるが、実際には難しい。圧倒的に強い側は、相手の事情を考えずとも問題を解決できる。門を破壊し、抵抗する者を倒し、捕らわれている者を連れ帰れば済む。しかし、それを一度正義と認めれば、次からは「こちらが正しいと思った」という理由だけで他人の社会へ剣を向けられるようになる。その危うさを、主は恐れているらしい。
*
目的の砦は森の奥にあった。要塞と呼ぶには粗末で、高さ三メートルほどの丸太柵に囲まれ、内部には小屋が五棟、厩舎と倉庫、二基の見張り台がある。外から確認できる武装者だけで二十七名。建物内の気配を合わせれば、五十人は下らない。
アルブレヒトが遠眼鏡をゆっくり右へ動かしたところで、その手が止まった。柵の奥に三つの檻がある。中には人間がいた。座り込んだ男、幼い子供を抱いた女、鉄枷を嵌められた者も見える。
「人数は」
「確認できるだけで四十一。女性十二、子供七、残りは成人男性です。奥の小屋にも複数の人間がおりますので、総数はさらに多いでしょう。拘束されている側に武装はありません」
「奴隷交易所という可能性は?」
「否定できません。この地方で奴隷売買が合法かどうか、我々にはまだ判断できません。ただし、南側の小道で死体を三体発見しております。全員が鉄製の首輪を着けており、一名は背中に矢、二名は後方から斬られた痕があります。逃亡者を追って殺害したものと考えるのが自然でしょう」
アルブレヒトはしばらく砦を眺めた。パチカンの法で考えれば、人間を拉致し、檻へ入れ、逃亡者を斬る行為に迷う余地はない。しかし、ここはパチカンではない。相手がこの地域では正式な商人である可能性すらある。
「突入しますか」
「その前に話す。主は、話せる相手ならまず話せと言われた」
「応じますでしょうか」
「それを確かめるために行く」
アルブレヒトは立ち上がり、外套についた土を払った。
*
人買いの頭領ゲラルドにとって、その日はいつもと変わらない一日になるはずだった。昨夜届いた奴隷を明朝には南の市場へ運ぶ。若い男は鉱山、女は商家や娼館、子供も奉公先を探せば買い手はつく。近頃は国境周辺の争いと怪物被害が重なり、街道には身寄りを失った流民が増えていた。消えても探す者がいないため、商品を仕入れるには悪くない時期である。
ゲラルド自身、自分を悪党だとは考えていない。借金を返せず自ら身を売る農民もいれば、親が子供を売ることもある。戦争捕虜を奴隷として処分する領主も珍しくない。自分は昔から存在する商売の一端を担い、伯爵家へ税まで納めている。それだけのことだった。
「頭領、また北の白壁の噂が出てますぜ」
部下が硬いパンを酒で流し込みながら言った。
「今度は何だ。一晩で巨大な城が生えたとかいう話か?」
「いや、それが流民が何百人もそこへ逃げ込んでるって。空を飛ぶ白い女を見た奴までいます。怪物を光だけで焼いたとか」
ゲラルドは鼻で笑った。
「酒場の話を真に受けるな。酔っ払いが三人いりゃ、竜だって踊り出す。それより明日の荷を確かめとけ。前みたいに途中で逃げられたら追う手間が――」
「頭領! 門の外に騎士がいます!」
見張りの声が響いた。
ゲラルドは舌打ちしながら剣を取り、柵際まで出た。そこにいたのは十二人だった。人数だけなら警戒する必要もない。しかし、近づいて初めて異様さに気づく。全員がほぼ同じ意匠の甲冑を身につけ、剣、盾、馬具に至るまで辺境の領主では揃えられないほど品質が高い。先頭に立つ灰髪の男が馬を降り、兜を外した。
「我々はパチカン第五騎士団。私は団長アルブレヒトという。確認したい。この施設に拘束されている者たちは、自分の意思でここに留まっているのか」
首元の魔道具を介して聞こえた言葉に、ゲラルドは一瞬呆気に取られ、それから笑い出した。
「パチカン? 聞いたこともねえな。北に変な宗教ができたって噂は本当だったか。お前ら、ここが誰の土地か分かって来てんのか?」
「知らない。だから尋ねている」
「……本当に何も知らねえのか。この土地じゃ奴隷売買は商売だ。俺たちは伯爵へ税も払ってる。余所者に口を出される筋合いはない」
「森の中に首輪を着けた死体が三体あった。一人は背中から矢を射られ、二人は後ろから斬られている。あれも合法なのか」
ゲラルドの笑みが消えた。
「逃げた奴隷だ。買った財産が逃げたら取り戻す。抵抗すりゃ罰も受ける。それがここのやり方だ」
「では、もう一つだけ聞く。檻の者たちが今ここから帰りたいと言ったら、帰すのか?」
「帰すわけねえだろ。金を払って仕入れた商品だぞ」
「分かった」
アルブレヒトが剣の柄へ手を置いた。ゲラルドの部下たちも一斉に武器を取る。
「おい、まさか十二人でやる気か?」
「できれば戦いたくない。門を開き、武器を置いてくれ。抵抗を止めた者は殺さない」
「殺さない、だと?」
ゲラルドの表情から笑みが消えた。殺せない、ではない。殺さない。目の前の男は、五十人以上いる自分たちの命を、まるで最初から好きにできるかのように言っている。
「舐めやがって。撃て!」
*
二十本近い矢が一斉に飛んだ。檻の中にいた少女エマは、弦の音を聞いて弟を抱き寄せた。十日前、村を襲われ、父親は抵抗して殺された。母とは逃げる途中ではぐれ、六歳の弟とともに捕まり、この砦まで鎖で繋がれて歩かされた。明日には南へ運ばれ、自分たちは別々の相手へ売られるらしい。
「十二人しかいないんだろ」
隣の老人が乾いた声で言った。
「無理だ。こっちは五十人以上いる。助けに来た連中まで捕まる」
エマも、そう思った。しかし、矢が放たれた後に聞こえたのは悲鳴ではなく、金属を叩く硬い音だった。恐る恐る檻の隙間から外を覗くと、門前の騎士はまだ立っている。盾には何本もの矢が刺さっていたが、鎧へ当たった矢は折れ、あるいは弾かれて地面へ転がっていた。
灰髪の騎士が盾を下ろす。
「交渉は終わりだ」
大剣を抜き、門の前へ立つ。エマには剣を振ったようにさえ見えなかった。ただ、耳を塞ぎたくなるような轟音がして、太い丸太で組んだ門が蝶番ごと内側へ吹き飛んだ。
砦の男たちが静まり返る。
十二人の騎士が、ゆっくり中へ入ってきた。
*
人数差は、戦闘が始まって十秒もしないうちに意味を失った。
一人の騎士が三人の槍兵の間へ入り、槍を叩き落としてから三人まとめて地面へ転がす。別の騎士は矢を避けることすらせず、盾で受けながら見張り台の下へ走り、数メートルの柵を一息に飛び越えた。魔術師らしい男が杖を掲げた瞬間には副官が懐へ入り、剣の腹で手首だけを叩いて杖を落とさせる。
「急所を狙うな! 抵抗を止めた者は拘束のみ。檻の周囲では武器を振るうな!」
アルブレヒトの命令が飛ぶと、騎士たちはさらに戦い方を変えた。
彼らにとって難しいのは倒すことではなく、殺さないことだった。レベル差が大きすぎる。力を入れすぎれば骨が折れ、剣の腹で打っただけでも場所を間違えれば人は死ぬ。第五騎士団の者たちは、まるで壊れ物を扱うように一人ずつ武器を奪い、倒し、拘束していった。
「何なんだ、お前ら……!」
ゲラルドは青ざめながら剣を振りかぶった。アルブレヒトは避けず、大剣を横にして受ける。鈍い音が響き、ゲラルドの剣だけが半ばから折れた。
「降伏しろ。もう勝負になっていない」
「ふざけるな!」
ゲラルドは折れた剣を捨て、近くにいたエマを掴み上げた。腰の短剣を抜き、その刃を少女の喉へ押しつける。
「全員武器を捨てろ! こいつの喉を切るぞ!」
エマの身体が固まった。檻の中で弟が泣き叫ぶ。
アルブレヒトは足を止めた。
「少女を離せ」
「お前が剣を捨てろ!」
「それはできない」
「だったら――」
ゲラルドが短剣に力を込めようとした瞬間、小さな音がした。手から刃が弾き飛ばされる。二十メートルほど離れた場所では、副官が片手を振り抜いた姿勢で立っていた。投げたのは、地面に転がっていた小石だった。
次に気づいたときにはアルブレヒトが目の前にいた。エマを奪い返し、空いた手でゲラルドの胸を押す。ただそれだけで巨体は宙へ浮き、三メートルほど後ろへ転がった。
「……少し強かったか」
アルブレヒトが自分の手を見ながら呟いた。
ゲラルドは呼吸もできずに地面でもがった。その瞬間、ようやく理解した。相手は十二人しかいないのではない。十二人で十分だったのだ。
*
戦闘は七分ほどで終わった。砦の武装者は五十三名で、二名が死亡し、七名が重傷を負った。残る者は全員捕縛された。死者の一人は味方が放った矢に当たり、もう一人は逃亡中に斜面から転落して首を折っていた。第五騎士団側には、治療を必要とする負傷者すらいない。
「死者二名です」
副官の報告を受け、アルブレヒトは眉を寄せた。
「二人出したか」
「我々が直接殺害した者ではありません」
「それで終わらせるな。こちらには圧倒的な余裕があった。死者をゼロにできなかったか、帰還後に検証する」
「承知いたしました」
檻が開かれ、最終的に六十八人が解放された。流民、農民、旅人、借金奴隷、親に売られた子供、街道で攫われた者。事情は一人ずつ違っていた。
エマは弟と手を繋ぎ、アルブレヒトの前へ来た。
「私たち、これからどうなるの?」
「まず怪我を治す。その後、事情を聞く。望むなら我々の街へ来てもいい。パチカンという場所だ。行きたくない者には、可能な限り安全な場所を探す」
「そこへ行ったら奴隷じゃない?」
「違う」
「働かなくていいの?」
アルブレヒトは少し困った顔をした。
「食べて暮らすなら、いずれ何かはした方がいいだろう。子供なら、まず学ぶことになるかもしれん。ただし、誰かの商品として働かされることはない」
エマはしばらくその言葉を考え、それから弟の手を強く握った。
「じゃあ、行く」
小さな笑顔だった。
*
厄介だったのは、生き残った人買いたちの処遇だった。
「全員パチカンへ連行する。ここで我々が裁く権利を持っているか分からん。主と教皇庁へ判断を仰ぐ」
アルブレヒトの言葉を聞き、地面へ座らされていたゲラルドが笑った。
「今さら気づいたか。犯罪者はお前らかもしれねえぞ」
「どういう意味だ」
「俺たちはラグナル伯へ税を払ってる。奴隷を扱う許可もある。お前らは勝手に伯爵領へ入って、正式な商人を襲って、商品を奪ったんだ」
「許可証はあるのか」
「倉庫に帳簿と一緒に入ってる。伯爵の印章もある」
実際に文書は見つかった。現地語の解読はまだ十分ではないが、正式な印章らしきものがあり、解放された者の何人かも、それがラグナル伯家の紋章だと証言した。
副官が声を低くする。
「現地法では、我々が違法な武力行使を行ったことになる可能性があります」
「そうだな」
アルブレヒトはあっさり認めた。
「では解放者を戻しますか」
「戻さない」
「理由は」
「本人たちが戻りたくないからだ。法律を知らずに介入した責任はこちらにある。それを、助けを求めた者へ押しつける理由にはならん」
ゲラルドは呆れた顔をした。
「自分が犯罪者かもしれねえって分かって、それでも奴隷は返さないのか。お前ら、本当に馬鹿だな」
「そうかもしれん」
アルブレヒトは平然としていた。
「その判断も含めて、我が主に報告する」
*
三日後、北門に十二人の騎士が帰還した。後ろには六十八人の解放者と五十一人の捕虜が続いている。知らせを聞いたマルクスは訓練を放り出し、門へ駆けてきた。
「団長、勝ったの?」
アルブレヒトは馬を降りながら少し考えた。
「六十八人は助けた」
「じゃあ勝ったんでしょ?」
「そう簡単でもない。人を捕らえていた連中は、この土地では許可を受けた奴隷商人だった可能性がある。俺たちは外の法律も知らず、武器を持って乗り込んだ」
マルクスは納得できない顔をした。
「でも、人を売ってたんでしょ。だったら悪いじゃん」
「私も好ましいとは思わん」
「じゃあ、その国の法律が悪いんだよ」
アルブレヒトは少年をしばらく見つめた。
「自分が正しいと思うことと、それを剣で他人へ従わせてよいことは同じではない。だが、間違っていると思うことを目の前にして、『他人の国だから』と何もしないのも一つの選択だ」
「どっちが正しいの?」
「分からん」
「騎士団長なのに?」
「騎士団長でも分からんことはある。剣を振るうだけなら簡単だ。難しいのは、いつ抜くべきか考えることだ」
マルクスはしばらく考え込み、やがて呟いた。
「騎士って面倒なんだね」
「非常にな」
アルブレヒトは少しだけ笑った。
*
その日の夕刻、押収した文書と報告書が神聖四文字の前へ置かれた。
『合法だった可能性がある?』
「少なくとも奴隷取引そのものについては、その可能性が高いかと。ただし、人攫いや逃亡者の殺害まで伯爵が許していたかは不明でございます」
第九十七代教皇ヨハネスの説明を聞き、神聖四文字はしばらく黙った。
『……やっちゃったな』
「救出したことを御後悔で?」
『それはしてない。でも、「人を売ってるから悪い、止めていい」って、相手の社会を知らないまま考えたところはある。そこは怖い』
「では、六十八名を返還なさいますか」
『しない』
返事は即座だった。
「ラグナル伯から正式な返還要求があった場合でも?」
『本人が帰りたいなら別。でも「俺の所有物だから返せ」だけなら返さない。これから奴隷商人を見つけるたびに軍隊を送るつもりはないけど、パチカンまで逃げてきた人を所有者に返すのも嫌だ』
「それは一つの外交原則となります。我々は、人間の所有権より本人の意思を上位に置く、と」
『そうなるね』
「その原則は、いずれ外の国々との争いを生むかもしれません」
『分かってる。でも、完全に中立って無理なんだと思う。門を開けた時点で、もう何かを選んでるんだよ。死にそうな人を助ける。逃げてきた人を返さない。それだって俺たちの価値観だから』
ヨハネスは静かに考え、やがて頭を下げた。
「承知いたしました。ただし今後は、可能な限り現地法と支配関係を確認してから行動いたしましょう」
『……本当にその通りです』
*
ほぼ同じ頃、パチカンから遠く離れた屋敷で、ラグナル伯もまた報告書を読んでいた。
北方の奴隷集積所が壊滅した。武装者五十三名に対し、襲撃側はわずか十二人。死者二名を除く全員が捕縛され、奴隷六十八名が連れ去られた。襲撃者は奇妙な十字の紋章を身につけ、《パチカン第五騎士団》を名乗ったという。
「十二人?」
伯爵は報告書から顔を上げた。
「本当に十二人だったのか」
「複数の証言が一致しております。さらに妙なのは、意図的に殺害を避けた形跡があることです」
ラグナル伯の目つきが変わった。
殺せなかったのではない。殺さなかった。
長く兵を率いてきた者には、その違いが分かる。
「何者だ。このパチカンというのは」
「不明です。ただ、北の森の向こうに突如巨大な城壁都市が現れ、流民を受け入れているとの噂があります」
「王は?」
「それも分かりません。騎士たちは『我らが主』とだけ」
伯爵は報告書を机へ置き、しばらく北の方角を眺めた。
「使者を出す」
「討伐ではなく?」
「正体も分からん相手の騎士十二人に五十三人が手も足も出なかったのだ。討伐軍を送るなら、まず何人いれば足りるのかを知ってからにしろ」
皮肉ではなかった。
「まず話を聞く。何者で、何を望み、何の権利があって俺の領地へ入ったのか。そして――」
ラグナル伯は少し間を置いた。
「なぜ、奴隷を助けたのか」
この日、パチカンは初めて、助けを求める流民ではなく、この世界の支配者から一つの政治勢力として認識された。
城門の外にいたのは、救うべき人々だけではない。
法があり、権力があり、利害があり、それぞれの正義がある。
パチカンがこの世界で生きていく以上、いつか向き合わなければならないものだった。