ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ラグナル伯からの使者が北門へ到着したのは、第五騎士団が奴隷集積所から帰還して十二日後のことだった。
使節団は二十三名。紋章入りの外套をまとった騎士が十二名、従者と書記が九名、そして使者本人と副使である。白旗を掲げていたため、門衛も武器を向けることはしなかったが、彼らが近づくにつれて城壁上には少しずつ兵が集まった。敵意があるわけではない。単純に、パチカンへ正式な使節が訪れるのは転移以来初めてだったからである。
使節を率いる男はセドリックと名乗った。ラグナル伯家に二十年以上仕える四十代の文官で、外交と徴税を担当している。出発前、伯爵から言い渡された命令は簡単だった。「北方に現れた勢力の正体を調べ、可能なら奴隷と捕虜を取り戻せ。ただし、こちらから戦端を開くな」。特に最後の一言だけは三度念を押された。騎士十二人で五十人以上の武装集団を制圧したという報告が事実なら、二十三人の使節団など人質にもならない。セドリック自身も十分承知していた。
それでも、巨大な城壁が森の向こうから姿を現した瞬間には、思わず馬を止めてしまった。
「……聞いていたものより大きいな」
副使が呟いた。
「流民の話だから誇張されていると思っていたが、逆だったらしい」
灰色の城壁は左右の森を押し退けるように続き、その向こうには複数の尖塔と巨大な聖堂らしき建物が見えていた。街道すら満足に整備されていなかった北辺に、いつからこんな都市が存在していたのか。伯領の古い地図には何も記載されていない。半年前に巡回した徴税官も、こんなものはなかったと証言している。
さらに奇妙なのは城壁の外だった。難民の野営地を想像していたセドリックの前には、すでに小さな町と呼んでもよい集落が広がっていた。簡素ではあるが整然と並ぶ家屋、掘られた井戸、共同炊事場、新しく耕された畑。粗末な衣服を着た流民に混じり、白い服の修道士らしき者が子供たちへ文字を教えている。何より、道端に倒れて飢えている者がほとんどいない。
「三か月でこれを?」
副使の声には警戒より困惑が混じっていた。
「何者なんだ、こいつらは」
セドリックには答えられなかった。
*
使節来訪の知らせを受けた神聖四文字は、最初にヨハネスへ尋ねた。
『俺、出た方がいい?』
「正式な外交使節でございます。先方は我々の統治形態を確認する意図も持っているでしょう。主が御姿をお見せになること自体には意義がございます」
『でも、いきなり俺が出ると話がややこしくならない?』
「すでに我々は、唯一神を戴く宗教国家と名乗っておりますので」
『それもそうか』
問題は、神聖四文字の「神」という肩書きを、現地側がどのように理解するかだった。この世界の宗教については依然として分からないことが多い。流民から聞き取った範囲では複数の神や精霊が信じられているらしいが、それらが単なる信仰上の存在なのか、実在すると考えられているのかさえ地域によって違う。神聖四文字自身は、自分を本当の意味での神だと断言する自信がなかった。ゲームでは神という設定だった。今はその設定どおりの能力も持っている。だからといって、世界を創造した記憶があるわけでも、全知全能でもない。
『とりあえず、偉そうにしすぎない方向で』
「御意」
『あと黄道十二宮は呼ばなくていいからね』
「先ほど三柱ほどが『外交儀礼には天使の威光が必要では』と申し出ております」
『断って』
「すでに」
『さすが』
ヨハネスはわずかに微笑んだ。
「ただし、護衛は必要です」
『騎士で十分じゃない?』
「イスカリオテを会談場所の周囲へ配置いたします」
『……相手、ただの使者だよ?』
「だからこそ、表から見えない者が適しております」
反論しようとして、神聖四文字はやめた。第十三騎士団の存在は現地人には絶対に知られない。表では通常の衛兵だけが配置され、万一の際だけ影から動く。それなら、外交使節をレベル百の戦闘員で取り囲むという事実さえ相手には分からない。
『絶対何もしないでね』
「主の御命令なく動く者はおりません」
その言葉だけは信頼できた。
*
セドリックが通された謁見室は、伯爵の居城よりもはるかに広かった。しかし豪華さを誇示するような金銀は少なく、白い石柱と長い赤絨毯、巨大な十字の意匠が空間の中心を形作っている。壁際には騎士が並んでいたが、全員が微動だにしない。
もっと奇妙なのは、最奥だった。
玉座がない。代わりに黒い球体が浮いていた。
直径三メートルほど。表面は光を吸い込むように黒く、顔も手足も装飾もない。ただ静かに空中へ浮かんでいる。
セドリックは数秒、それを何かの宗教的な彫像だと思った。
『遠いところ、ようこそ』
黒い球体から声がした。
セドリックの思考が止まった。
隣の副使も固まっている。
前方に立つ白髪の老人が、一歩進み出た。
「ラグナル伯の使者殿とお見受けいたします。私はパチカン第九十七代教皇、ヨハネス二十三世。そして、こちらにおわす御方が我らが唯一なる主でございます」
セドリックは外交官だった。驚いた顔をするなと若い頃から教え込まれている。それでも黒い球体と老人を二度見した。
「……こちらの方が、パチカンの君主であられると?」
『君主って言っていいのかな。まあ、一番上ではあるよ』
想像していた答えではなかった。
セドリックは一度呼吸を整え、礼を取った。
「ラグナル伯が臣、セドリック・ヴァレンと申します。伯より、北方に現れたパチカンなる勢力との交渉を命じられ、参りました」
『神聖四文字です。よろしく』
一瞬通訳魔道具が壊れたのかと思った。
「……失礼ながら、今のお言葉は御名でしょうか」
『そうだけど』
「神聖、四文字?」
『うん』
セドリックは書記を見る。書記も困っている。
ヨハネスが静かに補足した。
「主の御名は我々にとって極めて神聖なものです。通常、信徒が軽々しく口にすることはございません。使者殿におかれましては、『主』とお呼びいただければ結構です」
「あ、ああ。承知した」
セドリックは早くも、自分が普通の隣国へ来たのではないことを理解し始めていた。
*
会談は、意外なほど現実的な話から始まった。
「まず、我が伯爵領内に存在した商業施設へ貴国の騎士が武装して侵入し、伯の許可を受けて営業していた商人を捕縛した件について伺いたい」
セドリックが切り出すと、ヨハネスは言い訳をしなかった。
「事実です。我々は当時、当地の法制度について十分な知識を持たぬまま行動いたしました。その点については、我らの調査不足を認めます」
あっさり認められ、逆にセドリックが言葉に詰まった。
「では、奴隷六十八名と、捕縛された商人五十一名を返還いただけると?」
「商人については返還交渉に応じます。彼らが我が方で罪を犯した事実はなく、今後の扱いについては話し合う余地がございます」
「奴隷は?」
今度は神聖四文字が答えた。
『返さない』
セドリックの眉が動く。
「彼らは我が伯爵領の法に基づき、正式に所有権を認められた財産です」
『その考え方を、俺たちは認めない』
「認めない、と?」
『人が誰かの物になるっていう部分。少なくとも、本人が嫌がって逃げてきた人を「この人の所有物だから返します」はしない』
「それでは、貴国は我が国の法を否定されるのですか」
『全部じゃない。奴隷商人を見つけたら片っ端から殴りに行く気もない。でも、パチカンの保護下に入った人を奴隷として引き渡すことはしない』
セドリックの口調が少し硬くなる。
「それは、他国の財産権を貴国の価値観によって一方的に無効とする行為です」
『そう言われると思う』
反発ではなく、本当に予想していたような声だった。
『だから困ってる。俺たちも、自分たちの常識だけが絶対だとは思ってない。でも、何でも「そっちの法律だから」で受け入れるのも違うと思うんだよ』
「では、何を基準になさるのです」
神聖四文字は少し黙った。
『本人がどうしたいか、かな』
「子供でも?」
『そこは難しい。犯罪者とか、借金とか、家族関係とか、いろいろあるだろうし。でも少なくとも、人間そのものを売り買いする権利よりは、その人自身の意思を重く見る』
セドリックは黒い球体を見つめた。
異形である。
声も奇妙だ。
自ら神を名乗る宗教国家の支配者。
もっと狂信的で、話の通じない存在を想像していた。
ところが言っていることは妙に俗っぽくそして厄介だった。
*
「では、別の問題に移りましょう」
セドリックは持参した羊皮紙を広げた。
「貴国へ我が伯爵領の農民が流出しております。領内の村から逃げ出し、北へ向かう者が増えている。中には納税義務を負う農奴もおります。このまま受け入れを続けられれば、複数の村が維持できなくなります」
『農奴って、奴隷とは違う?』
あまりにも率直な質問だった。
セドリックは一瞬黙った。
「土地に付属する民です。領主の保護を受ける代わりに、耕作と納税の義務を負います。自由民とは異なり、領主の許可なく土地を離れることは認められておりません」
『なるほど』
神聖四文字は、ヨハネスを見る。
『これ、どうする?』
セドリックは耳を疑った。
国家元首が外交相手の前で教皇へ普通に相談している。
ヨハネスも驚く様子はなく答えた。
「難しい問題でございます。すべて無条件に受け入れれば、周辺領主の統治基盤を破壊する結果となるでしょう。しかし、一度我々へ庇護を求めた者を本人の意思に反して送り返すことも、これまでの方針とは整合いたしません」
『だよね』
セドリックは思わず口を挟んだ。
「失礼ですが、貴国は人口を集めて領土を拡大する意図があるのでは?」
『ないよ』
即答だった。
「しかし現実には、貴国へ人が流入しております」
『俺たちも困ってる』
「……困っている?」
『三か月で二千人近く増えたんだよ。家も畑も作らないといけないし、言葉も違うし、孤児もいるし。人口増やしたくてやってるわけじゃない』
セドリックは返答に困った。
侵略国家なら理解できる。
労働力を奪うために農民を誘致しているなら、その意図を前提に交渉できる。
だが困っているのに受け入れている。
その方が理解しにくかった。
「では、なぜ拒まないのです」
『門の前まで来た人を追い返すの、嫌だから』
「それだけですか」
『今のところは』
セドリックは初めて目の前の存在を少し恐ろしいと思った。
力があるからではない。
合理的な損得だけでは動いていないからだった。
*
会談は昼を越えた。
最終的に、捕縛していた商人五十一名についてはラグナル伯側へ引き渡す方向で合意した。ただし、再びパチカン領内へ入り、保護された者を強制的に連れ戻さないことを条件とする。六十八名の解放者については、本人の意思を確認し、伯領へ戻る希望を示した者だけを帰還させる。伯側は不満を示したものの、これ以上の武力衝突を避けるため暫定的に受け入れた。
より大きな問題となったのは、今後流入する農民だった。
「では、少なくとも伯領に所属する者が貴国へ逃れた場合、その氏名と出身村を我々へ通知していただきたい。即時返還を求めるのではありません。まず身元を確認する」
セドリックの提案に、ヨハネスは頷いた。
「合理的でしょう。我々としても、犯罪を犯して逃亡した者まで無条件に匿う意図はございません」
『逃げてきた理由もちゃんと聞こう。犯罪者なのか、逃げないと死ぬ人なのかで全然違うから』
「その点は双方の担当者で協議する形にいたしましょう」
こうして、パチカンとラグナル伯領の間に初めて正式な連絡窓口が設けられることになった。
外交関係というには、まだあまりに細い。
だが剣ではなく言葉で作られた最初の道だった。
*
会談終了後、セドリックは一つだけ個人的な願いを申し出た。
「可能であれば、城外の居住区を見学させていただきたい」
ヨハネスは神聖四文字を見た。
『いいんじゃない? 見られて困るところじゃなければ』
案内役の修道士と数名の騎士が付き、セドリックたちは北門外へ出た。
そこで彼はマルクスを見た。
少年は訓練場で木剣を振っていた。動きは未熟だが、同年代の農民の子供とは明らかに違う。足運びに妙な安定感があり、何度同じ型を繰り返しても疲労が少ない。
「あの子供は?」
セドリックが尋ねる。
「最初に洗礼を受けた現地出身者です。マルクスと申します」
「洗礼?」
「十字教への入信儀式でございます」
セドリックが何気なく尋ねた。
「それで剣術を?」
「洗礼そのものではありません。彼は洗礼後、《騎士》という職業を得ました。その職業によって基礎技能と身体補正が与えられております」
セドリックの足が止まった。
「……今、何と?」
修道士は、何がおかしいのか分からない顔をした。
「《騎士》でございます」
「洗礼を受けると、騎士になれるのか?」
「必ずではありません。本人の適性によって職業候補が異なります。農夫、職人、兵士、斥候など様々です。その後、経験を積めばレベルも上昇いたします」
セドリックは黙った。
視線の先ではマルクスが木剣を振っている。
その周囲にも、現地出身らしい男女が訓練していた。
「……これは、誰でも受けられるのか」
「洗礼を希望し、教義を学び、本人の意思が確認された者であれば。ただし職業のみを目的とした入信については、教会内でも議論が続いております」
セドリックは返事をしなかった。
この日の会談で最も重要な情報を、最後になって知ったからである。
*
帰路。
副使はしばらく馬を進めてから、小声で尋ねた。
「伯には、どこまで報告しますか」
「全部だ」
「洗礼の件も?」
「特にそれをだ」
セドリックの表情は重かった。
「奴隷を奪われたことなど、大した問題ではないかもしれん」
「大した問題ではない?」
「考えてみろ。あの宗教へ入れば、農民が職業を得る。兵士が強くなる。職人が技術を得る。それが本当なら、十年後どうなる」
副使は答えなかった。
「しかも、奴らは改宗を強制していない。食事を与え、病人を治し、逃げてきた奴隷を返さない。そのうえ、信じる者には力まで与える」
「……人が集まりますな」
「集めなくても集まる」
セドリックは北の城壁を振り返った。
「軍隊で村を奪うより、ずっと厄介だ」
*
同じ頃、パチカンでは神聖四文字が、別の意味で頭を抱えていた。
『職業システムのこと、使者に話したの?』
「案内担当の修道士が尋ねられ、事実を答えたようです」
『秘密にするって決めてなかったもんね……』
ヨハネスが静かに頷く。
「いずれ知られることではございました。現地出身者の洗礼者が増えれば隠し続けることは不可能でしょう」
『そうなんだけどさ』
神聖四文字は城壁の外へ意識を向けた。仕事帰りの農民たちが歩き、教会では子供が文字を習い、訓練場ではマルクスが剣を振っていた。
十字教を信じたから——。
職業が得られる。
強くなれる。
病気も治してもらえる。
怪物から守ってもらえる。
そして逃げ込めば奴隷でも返されない。
『これ、周りの国から見たら結構怖いね』
「はい」
『宗教を広めようとしなくても、勝手に広がるかもしれない』
「その可能性は高いでしょう」
『止めた方がいいかな』
ヨハネスはすぐには答えなかった。
「主。人が自ら信じることを、我々が恐れて禁じるのでございますか」
『……それも違うよね』
「ならば、我々がすべきは力を隠すことではなく、その力によって何をしてよいかを定めることかと存じます」
神聖四文字は少し黙った。
『ルールを作る?』
「必要になるでしょう。洗礼。職業。天使。蘇生。そして、いずれは使徒についても」
最後の言葉に神聖四文字が止まった。
『使徒は、まだ絶対やらせないでね』
「黄道十二宮には改めて通達いたします」
『特に金牛宮』
「すでに候補者を三十七名ほど記録しているそうです」
『早いよ』
ヨハネスはわずかに目を逸らした。
「本人いわく、『指名はしていないので命令違反ではない』とのことです」
『屁理屈覚えたなあ……』
神聖四文字は、まだ知らなかった。
このとき危惧したことが、ほとんどその通りになることを。
十字教は、剣によって広がるより先に、人を治し職業を与え逃げ場所を作ることで外の世界へ染み出していく。
そして、その力を欲しがるのは貧しい農民だけではない。領主も騎士も王も、やがて同じ問いを抱くことになる。
――洗礼を受ければ。
自分は、どこまで強くなれるのか。