本作は『オーバーロード』(書籍16巻まで)と『葬送のフリーレン』(原作147話まで)のクロスオーバーです。独自解釈・原作改変を含みます。
霧は日が落ちても晴れない。
ヴァッヘは楢の枝に腰を下ろし、森の底を見ていた。下は白い。白い中を、ときどき鹿が通る。鹿には魔力がないから、彼は鹿を見ない。
彼の仕事は古い街道の見張りである。南から人間が北へ入ってくる。その中に魔法使いがいれば、魔力の大きさを量って知らせる。それだけの仕事だ。
断頭台のアウラの配下は多く、ヴァッヘはその末の方にいる。末の方にいる者の魔力は、末の方にふさわしい大きさをしている。それを不満に思ったことはない。魔力は順番で、順番は魔力なのだ。
勇者が死んで、二十八年になる。
人間はそれを長いと言うらしい。ヴァッヘにはよくわからない。勇者が生きていた頃、主は身を隠していた。勇者が死んだので、主はまた軍勢を集めている。それだけのことだ。
夜半、森が変わった。
音はしない。風も吹かない。ただ、さっきまで木の立っていたところに、木がない。代わりに石がある。
ヴァッヘは目を凝らした。霧の切れ目に壁が見える。人間の背丈の何倍もある石の壁が左右に長く延び、その内側に、墓標のような塔がいくつも並んでいる。建てられたのではない。初めからそこにあったような顔で、そこにある。
彼はいつものように魔力を探った。
何もない。
壁にも、塔にも、その奥にも、魔力がない。鹿と同じだ。いや、鹿よりもない。生き物の気配というものが、そこだけ抜け落ちている。
ヴァッヘはしばらく動かなかった。
魔力のないものは弱い。彼の知るなかで、それがいちばん確かなことだ。けれども弱いものは、こんなふうには現れない。
枝の上で、報告の言葉を組み立ててみる。魔力のない、大きな、石の何か。口の中で転がすと、ひどく間の抜けた言葉になった。
壁の一角で、門が開いた。
黒い服の老人が一人、出てくる。白い髪と白い髭をきちんと整え、背筋がまっすぐに伸びている。人間に見える。魔力は、やはりない。
老人は門の前で足を止め、あたりを見回した。それから、ヴァッヘのいる楢の木をまっすぐに見た。
霧の向こうで目が合った、とヴァッヘは思う。思っただけかもしれない。
彼は枝を蹴った。音を立てずに飛ぶのは、魔族にとって歩くのと変わらない。森の上へ出て、北へ向かう。振り返らない。
追ってくる気配はなかった。
それがかえって、胸の中に名前のない小さなものを残していく。
北へしばらく飛んだところで、ヴァッヘは丘の上の枯れ木に降りた。
報告には、まだ足りない。魔力のない、大きな、石の何か。それだけを持ち帰れば、上の者は彼の魔力の小ささを笑うだろう。笑われるのはかまわない。役に立たないと思われるのは困る。
待つことには慣れている。
彼は枯れ木の枝に身を沈め、霧の中の石の壁を、遠くから見つづけた。
◇
最後の一人が去ってから、モモンガは長いこと円卓の前に座っている。
円卓には四十一の席がある。今夜ここへ来たのは、彼を入れて四人。三人はそれぞれに少し話をし、それぞれに謝り、ログアウトしていった。最後まで残ってくれたのはヘロヘロだった。仕事で疲れている、明日も早い、と彼は言った。それでも来てくれた。
「また、どこかで会いましょう」
そう言って、ヘロヘロは消えた。
どこかで、とはどこだろう。ユグドラシルは今夜で終わる。
テーブルに拳を振り下ろしかけて、止めた。骨の拳である。叩いたところで円卓には傷一つつかない。そういうふうに作ってあるし、作ったのは、ここにいない誰かだ。
視界の隅の時計が、二十三時三十分を少し過ぎている。
体感型のオンラインゲーム『ユグドラシル』は十二年続いた。モモンガはその中で、ギルド「アインズ・ウール・ゴウン」の長をしている。ここはその本拠地、ナザリック地下大墳墓の第九階層。四十一人の仲間が何年もかけて作り上げた場所だ。
仲間はもう、ほとんど来ない。来なくなった理由は、どれもまっとうだ。仕事。家族。病気。引っ越し。新しいゲーム。
まっとうな理由に、文句は言えない。
(俺、何やってんだろうな。いい歳して、終わるゲームの中で空いた椅子なんか数えて。明日も四時起きなのに)
モモンガは立ち上がり、壁に掛かった杖を取った。七匹の蛇が絡み合い、それぞれの口に宝玉をくわえている。ギルドの象徴として、皆で素材を集めて作ったものだ。実戦では一度も使っていない。使うのがもったいなかったし、壊したら皆に申し訳なかった。
最後くらいは、いいだろう。
握ると、杖から黒い靄のようなものが立ちのぼる。手の中で何かがゆらめいている。モモンガは少し笑った。骸骨の顔は動かないから、笑う顔はない。それでも笑った。
廊下に出ると、執事が控えていた。
白い髪と白い髭の老人。黒い燕尾服を着て、背筋がまっすぐに伸びている。セバス・チャン。たっち・みーが作ったNPCで、その後ろに六人のメイドが並ぶ。戦闘メイドの六人組、プレアデス。
NPCは何も言わない。決められた場所に立ち、決められた動作をするだけだ。
「ついてこい」
言ってから、少し恥ずかしくなる。誰も聞いていない。聞いていないのに、一度言ってみたかった。
セバスとメイドたちが、音もなく後ろに続く。命令を受けたNPCは主の後をついて歩く。そういうふうにできている。
玉座の間は第十階層にある。
天井が高い。高すぎて、上の方は暗くて見えない。左右の壁に四十一の旗が下がっていて、一人に一枚、紋章はそれぞれが自分で描いた。下手なものもあれば、うまいものもある。妙に細かいものもある。モモンガは旗の下をゆっくり歩きながら、一枚ずつ持ち主の名前を思い出していった。
全部、思い出せる。
思い出せたことに少しほっとして、ほっとしたことが少し悲しい。
玉座の脇に、女が一人立っている。
白いドレス。腰のあたりから黒い翼。こめかみには山羊のような角。長い黒髪が顔の両側へ流れている。
守護者統括のアルベド。タブラ・スマラグディナが作ったNPCだ。
玉座に腰を下ろし、モモンガはアルベドの設定を開いた。理由はない。最後に見ておきたかった。
設定は長い。タブラは凝り性だった。生まれ、能力、好きなもの、嫌いなもの、口癖、服の素材。いくら下へ送っても終わらない文章を、モモンガは半分笑いながら読んでいく。タブラさんらしい、と何度も思う。
最後の一行で、目が止まった。
ひどい一文。タブラらしい、悪い冗談だ。これほど丁寧に作ったものの最後に、どうしてこれを書くのか。それを書くのがタブラという人だった。
しばらく眺めてから、ギルド長の権限でその一行を消した。
空いたところに何か書こうとして、手が止まる。
時計は二十三時五十五分。
彼は書いた。
モモンガを愛している。
書いてから、顔を覆いたくなった。
(何やってんだ、俺は)
誰も見ていないから書けた。終わるから書けた。それだけのことだ。
「……まあ、いいか」
声に出すと、少しだけ軽くなる。
二十三時五十九分。
玉座の上から広間を見下ろす。旗。柱。床に跪くセバスとメイドたち。脇に立つアルベド。
楽しかったな、と思う。
本当に楽しかった。仕事から帰ってここへ来る。誰かがいる。くだらない話をする。どこかの城を攻めて、負けて、笑って、次の作戦を考える。誰かが新しい武器を自慢し、誰かがそれを笑う。彼の人生で楽しかったことの大半は、ここで起きた。
零時。
目を閉じた。骸骨の顔に瞼はないから、閉じたつもりになっただけだ。
強制ログアウト。サーバーの停止。暗転。それから狭い部屋の、硬い椅子の上の、自分の体。明日の朝の四時起き。
それを待つ。
何も起きない。
モモンガは、つもりの目を開けた。
広間はそこにある。旗も、柱も、跪くセバスたちも。
時計を見ようとした。視界の隅にあるはずの時計がない。メニューを開こうとしても開かない。運営への連絡も、ログアウトの操作も、どこにもない。
「……え」
声が出た。自分の声だ。けれども、ヘッドセットのマイクを通した声ではない。喉から出た声。
骸骨に、喉はない。
(いやいやいや、待て。待ってくれ。サーバー延長か? バグか? 最終日だぞ、運営は何やってるんだ。問い合わせ窓口は——いや、明日は朝から会議が——)
胸の奥から何かが噴き上がり、口に届く前に、すっと消えた。消えたあとには何も残らない。
モモンガは玉座の肘掛けを握った。冷たい。指の骨に、石の冷たさが伝わってくる。
ゲームで、温度は感じない。
「モモンガ様?」
女の声がした。
アルベドが彼を見ている。
NPCは喋らない。決められた台詞を流すことはあっても、主の顔を覗き込んで首を傾げたりはしない。
アルベドは首を傾げていた。金色の瞳が、案じるように揺れている。
「どうかなさいましたか」
答えようとして、また胸の奥で何かが噴き上がり、また消えた。
二度目で、気づく。消えているのは自分の感情だ。
落ち着け、と彼は自分に言った。
(いや、俺は落ち着いてる。落ち着かされてる。どっちでもいい。とにかく今、取り乱しちゃいけない)
なぜいけないのかはわからない。わからないまま背筋を伸ばす。玉座に座る者はこうあるべきだと、昔、仲間たちと笑いながら決めた姿勢だった。
「……アルベド」
「はい」
「何か、変わったことはないか」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出る。
アルベドは少し考えた。考える、ということを彼女はしている。
「申し訳ございません。私には、変わったことは何も感じられません」
その言い方があまりに自然で、モモンガはそれ以上聞けない。
変わったのは自分の方か。世界の方か。
「セバス」
「はっ」
跪いていた老人が顔を上げる。その目に光がある。
「ナザリックの外に出て、周囲を見てこい。範囲は、そうだな、一キロほどでいい。知的生物がいたら、敵対せずにここへ連れて来い。交渉はしなくていい。プレアデスからナーベラルを連れて行け。残りは第九階層の警戒にあたらせろ」
言いながら、自分が何を言っているのかを考えている。地表の周辺は毒の沼地のはずだ。ゲームではそうだった。もし、そうでなかったら。
「かしこまりました」
一礼して立ち上がるセバスの動作には、一つの無駄もない。たっちさんが見たら喜ぶだろうな、と思った途端に胸が痛み、痛みはすぐに消えた。
セバスたちが出て行くと、広間はまた静かになる。
モモンガは《伝言》を試した。運営に。ギルドの仲間に。誰にも届かない。届かないことが、手応えでわかる。何かを探して伸びていった細い糸が、どこにも引っかからずにほどけていく。
ゲームの魔法に、手応えなどない。
なのに、魔法は使えた。
使えてしまうことの方が、彼には恐ろしい。
「アルベド。階層守護者たちを、一時間後、第六階層の円形闘技場に集めろ。第四と第八の守護者は除く」
「かしこまりました」
深く頭を下げたアルベドの頬が、顔を上げるとき、ほんの少し赤い。
モモンガは見なかったことにした。
◇
第六階層には森がある。
正確には、森を模して作られた階層だ。巨大な樹が何本も天井を支え、その間に蔦が垂れている。頭上には夜空。本物の空ではない。ブループラネットという仲間が、何か月もかけて描いた空だ。現実の空を見たことがないから描きたいのだ、と彼は言っていた。
モモンガも、現実の空を見たことがない。彼の住む街の空はいつも灰色で、外を歩くにはマスクがいる。
円形闘技場の中央で、彼は一人で待った。
待つというのが、思ったより長い。何をしていればいいのかわからない。杖を持ち直し、肩の位置を直し、また杖を持ち直す。誰も見ていないのに。いや、もう誰が見ているかわからないのだ。
(面接の待合室みたいだな。……違うか。これは面接する側だ。する側の方が緊張するなんて、聞いてないぞ)
最初に来たのは双子だった。
「モモンガ様ーっ!」
観客席の上から、小柄な影が飛び降りてくる。褐色の肌、尖った耳、短い金髪。男の子のような服。地面に着いたときには、もう跪いている。
「第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ、参りましたっ」
声が弾んでいる。
その後ろから、そっくりな顔の子どもがもう一人、観客席の階段をおそるおそる降りてきた。こちらはスカートで、杖を胸に抱えている。
「ま、マーレ・ベロ・フィオーレ、です。お、遅れて、すみません……」
「遅れてないでしょ。あんたがとろいだけ」
振り返りもせずにアウラが言う。マーレは「う」と小さく言って、姉の隣に膝をついた。
ぶくぶく茶釜さんが作った双子だ。姉が男装で、弟が女装。理由を尋ねたら、茶釜さんは「趣味」の一言で片づけた。茶釜さんの弟のペロロンチーノが、横で頭を抱えていた。そのときの二人の声を、モモンガはまだ覚えている。
双子は設定にあった性格のとおりだ。設定にないものもある。二人の肩が、かすかに上下している。呼吸である。
「よく来てくれた」
アウラの長い耳がぴくりと動く。マーレは顔を上げかけて、また下げた。
次に、闘技場の端の空間がゆがんだ。
黒い楕円が開き、少女が一人歩み出てくる。銀色の髪、白い肌、深紅の瞳。黒いドレスの裾をつまんで、優雅に一礼。
「第一、第二、第三階層守護者、シャルティア・ブラッドフォールン。御身の前に」
顔を上げると、彼女はまっすぐにモモンガを見て、うっとりと目を細めた。
「ああ、我が君。今宵もなんと麗しいお姿でありんしょう」
骸骨が麗しいとは、どういう意味なのか。口調も好みも、ペロロンチーノの趣味がそのまま形になっている。
(ペロロンチーノさん、こういうのが好きだったもんなあ)
「転移門まで使って来たの? 歩いてくればいいのに」
アウラが言った。
「ちびすけには、わらわの気持ちはわからないでありんす」
「は?」
「なにか?」
「……オ二人トモ」
低い声が割って入る。
冷気が闘技場の床を這った。
身の丈は人の倍ほど。淡い青の外殻に、四本の腕。蟻とも蟷螂ともつかない頭から、白い息が漏れている。
「御前デアル。慎メ」
第五階層守護者、コキュートス。
モモンガの前で片膝をつき、四本の腕のうち二本を地面に添える。
「第五階層守護者、コキュートス。御召シニ従イ、参上致シマシタ」
一語ずつ、氷を割るように硬い。武人建御雷さんの作ったNPCだ。建御雷さんは武人が好きで、好きすぎて、設定が全部武人になった。
最後はデミウルゴスだ。
足音がしない。気がつくと、闘技場の入り口に立っている。
浅黒い肌に、撫でつけた黒髪。丸い眼鏡。仕立てのいい背広。その裾から銀色の棘のある尾が覗いていなければ、人間の紳士にしか見えない。
「お待たせいたしました。第七階層守護者、デミウルゴス。御身の前に」
胸に手を当てて深く頭を下げ、それから少しだけ顔を上げて、一同を見渡す。
「皆、揃ったようですね」
ウルベルトさんの作ったNPCだ。悪の美学というものに、ウルベルトさんはこだわっていた。こだわりすぎて、ときどき皆を困らせた。その人の作ったNPCが、今、穏やかに微笑んでいる。
アルベドが守護者たちの前に立つ。
「では、皆。至高の御方に、忠誠の儀を」
五人が一斉に頭を垂れ、アルベドがその前で膝をついた。
一人ずつ、名を名乗る。自分の階層を口にし、自分の忠誠を口にする。言葉は少しずつ違う。アウラは元気よく、マーレはつかえながら、シャルティアは歌うように、コキュートスは短く硬く、デミウルゴスは淀みなく。けれども、言っていることは同じだ。
あなたに、すべてを。
モモンガは黙って聞いていた。
ゲームの中で、こういう場面を作ったことがある。仲間たちとふざけてNPCを並べ、それらしい台詞を言わせた。台詞は誰かが打ち込んだ文字で、NPCの口は動かなかった。皆で画面を見て笑った。ウルベルトさんが台詞に凝りすぎて、たっちさんにからかわれていた。
今、誰も笑っていない。
五人の背中が、わずかに震えている。
恐れているのか、喜んでいるのか。どちらにしても本気だ。この者たちは本気で、自分に頭を下げている。
(重い。重すぎる。俺はただの、ちょっとギルド長が長かっただけの会社員だぞ)
胸の奥でまた何かが噴き上がりかけて、消えた。
「……面を上げよ」
五人が顔を上げる。
「よく、集まってくれた」
何を言えばいいのかわからない。わからないので、知っている言葉を探す。昔、ギルドの会議で、たっちさんやウルベルトさんが口にしていた言葉。会社で、部長が朝礼で言っていた言葉。
「ナザリック地下大墳墓は今、原因不明の事態の中にある」
部長の朝礼は、いつもそこから始まった。原因不明の事態。今期の数字。取引先の不満。原因が不明であることを、部長は決して自分のせいにしなかった。モモンガはあの朝礼が嫌いだった。嫌いだったものが、今、自分の口から出てくる。
「現在、セバスに地表の調査を命じている。その報告を待って、今後の方針を決める。それまで、各階層の警戒を最大にしろ」
「はっ」
五人の声が揃う。揃いすぎている。
モモンガは内心で、深く息を吐いた。
吐く息は、ない。
セバスが戻ったのは、それから少し後のことだ。
ナーベラルを従えて闘技場に入り、守護者たちの列の脇で膝をつく。
「ご報告いたします。ナザリックの周囲は、森でございました」
「森?」
「はい。沼地はございません。霧の深い、広い森でございます。半径一キロの範囲に、人の手になる建物は見当たりませんでした。知的生物も、確認できておりません」
そこでセバスは、少しだけ言葉を切った。
「……ただ」
「ただ?」
「門を出ましたとき、北側の木の上から、何者かの視線を感じました。目を向けますと、気配は北へ去りました。翼のあるものが、霧の上を飛んで行ったように見えました。追うべきか迷いましたが、御命令の範囲を越えると判断し、追いませんでした。申し訳ございません」
「いや。それでいい」
そう言いながら、背中に冷たいものを感じる。冷たいもの、という感じだけがある。背中に皮膚はない。
見られていた。何者かがここを見て、去った。
「ナザリックを覗き見るなど」
アルベドの声が低くなる。
「モモンガ様。ただちに追っ手を。アウラの魔獣ならば、一刻もかからず——」
「待て」
モモンガは手を上げた。骨の手だ。
「追わなくていい」
「ですが」
「相手が何者か、わからない。我々も、ここがどこか、わからない。わからないもの同士だ。今、こちらから牙を見せる必要はない」
本当は、怖かっただけだ。外に何がいるのかわからない。わからないものに、仲間の子どもたちを送り出したくない。
デミウルゴスが、眼鏡の奥で目を細めた。
「なるほど」
ゆっくりと頷く。
「あえて見逃し、こちらの存在を相手に持ち帰らせる。相手がどう動くかで、この土地の力関係が見える。しかもこちらは、何一つ手の内を明かさずに。……さすがは、モモンガ様です」
(違う。全然違う。怖かっただけだって。なんでそうなるんだ)
「そ、そうだ。その通りだ、デミウルゴス」
守護者たちが感嘆の目でこちらを見る。シャルティアは頬に手を当て、コキュートスの顎がかちりと鳴る。アウラは「なるほどー」と言い、マーレは「す、すごいです」と言った。アルベドは何も言わず、ただ少し誇らしげにしている。
セバスだけが、黙って頭を下げていた。
ここに玉座がないのが残念だ。座りたい。
「……皆に、一つ、伝えておくことがある」
声が落ち着いているのが、自分でもわかる。落ち着かされているのかもしれない。
「セバスの報告を聞いた。この地は、我々の知る土地ではない。ここには、我々を知る者はいない。ナザリックの名も、私の名も、誰も知らない」
守護者たちが静かに聞いている。マーレが杖を握る手に、力がこもるのが見えた。
「だから、私は名を変える」
アルベドの翼が、かすかに揺れる。
「今日から、私をアインズ・ウール・ゴウンと呼べ」
ギルドの名前だ。四十一人の名前である。
もしどこかに、自分と同じようにこの場所へ来てしまった仲間がいたら。その名前を聞いて、気づいてくれるかもしれない。モモンガは彼一人の名前で、アインズ・ウール・ゴウンは皆の名前だ。皆の名前なら、誰か一人くらいは振り返ってくれるだろう。
「アインズ・ウール・ゴウン……様」
アルベドが、確かめるようにその名を口にした。
「至高の御方々の名を、御身お一人で背負われるのですね」
「……そうだ」
「では、私たちは、その御名が世界の隅々にまで響き渡るよう、力を尽くします」
アルベドが頭を下げる。守護者たちが続き、セバスも、ナーベラルも続いた。
世界の隅々にまで、と、モモンガは——アインズは、思う。
(いや、そこまでは言ってない。言ってないよな? 知り合いが気づいてくれたらいいな、くらいの話で——)
けれども訂正はしなかった。訂正の仕方がわからない。今ここで「いや、そこまでは」と言ったら、この者たちはどんな顔をするのか。それを想像するのが怖い。
デミウルゴスが、小さく微笑んでいる。
それを見て、何か大事なことを決めてしまった気がした。何を決めたのかは、まだわからない。
「マーレ」
「は、はいっ」
「ナザリックの外壁を、隠せるか。土で覆うような形で」
「で、できます。あの、たぶん、できます」
「頼む。アウラは周囲の警戒網を張れ。魔獣を使ってかまわない。ただし、何かを見つけても手は出すな。報告だけでいい」
「はーい!」
双子が駆け出していく。マーレは途中で一度つまずいて、アウラに腕を引っ張られていった。
守護者たちがそれぞれの持ち場へ散ったあと、アルベドだけがその場に残っている。
「アインズ様」
新しい名前をもう一度口にして、彼女は少し黙った。
「何だ」
「いえ」
アルベドは微笑んだ。
「とても、よいお名前です」
その微笑みの奥で、何かが小さく閉じたように見える。見えた気がしただけかもしれない。
玉座の間で書き換えた一行を、彼は思い出す。
モモンガを愛している。
アインズ・ウール・ゴウンを、ではない。
◇
夜の井戸は、昼より水の音が高い。
リーゼは桶を抱えたまま、井戸の縁に腰かけていた。眠れない夜には水を汲みに出る、と母が生きていた頃に決めた。決めた本人はもういないのに、決まりの方は残っている。
シュタウプの村は、森の中の小さな開けた土地にある。家は二十に足りない。南へ一刻ほど歩けば古い街道に出る。北へは誰も行かない。
このところ、北の森に何かがいる、と大人たちは言う。
木こりのハンスが森の縁で子どもを見たのは、十日前のことだ。角のある、小さな女の子だった、とハンスは言った。木の間に立ってこちらを見て、「お母さん」と呼んだ。ハンスは返事をせず、斧を握ったまま後ずさり、村まで走って帰ってきた。
「返事をしてたら、どうなってたの」
リーゼが聞くと、ハンスは答えなかった。代わりに父が、もう寝ろ、と言った。
父は村長のオットーだ。村長というのは、答えにくいことを聞かれたときに、もう寝ろと言う役目なのだろう、とリーゼは思っている。
井戸の水が、震えた。
桶を置き、縁から覗き込む。水面に映った星が、細かく揺れている。
足の裏に、低いものが伝わってくる。地鳴りというには静かで、雷というには長い。南の方からだ。北ではない。
村の犬が一匹、南を向いて吠えた。すぐに、ほかの犬も吠えはじめる。
家々の戸が開き、何人かが顔を出す。父も出てきた。寝間着の上に上着を引っかけて、南の空を見ている。
「地揺れか」
「南だよ」とリーゼは言った。「北じゃない」
父は少し黙ってから、そうか、と言った。それが安心なのかどうか、リーゼにはわからない。父にもわからないのだろう。
地鳴りはしばらく続き、やがて止んだ。犬も一匹ずつ黙っていく。最後まで吠えていたのはハンスの犬で、ハンスが戸口から名前を呼ぶと、ようやく尻尾を下げた。
村が静かになると、霧の匂いがいつもより濃い。
「もう寝ろ」
父が言った。
リーゼは桶に水を汲み直し、家へ戻る。戸を閉める前に、一度だけ振り返った。
南の霧は、白く静かなままだ。北の森は、黒く静かなままだ。
南から来るものと、北にいるもの。どちらが先に村へ来るのだろう。
考えかけて、リーゼは戸を閉めた。
◇
守護者たちが散ってから、一時間ほど後。アインズは地表に出た。
墳墓の中央、霊廟の屋根の上に立つ。足元には、ゲームで見慣れた墓地。古びた墓石。崩れかけた礼拝堂。それを霧が覆っている。
霧の外には森がある。
毒の沼地ではない。本物の森だ。木の幹は黒く濡れ、枝の先には小さな葉が無数についている。葉の一枚一枚が霧の水を含んで、重く垂れている。どこかで水の滴る音がする。鳥とも獣ともつかない声が、遠くで一度だけ鳴いた。
デミウルゴスが半歩後ろに控えている。
「お寒くはございませんか」
「寒くはない」
本当に寒くない。寒いという感じを、骨が受け取らないのだ。
墳墓の外縁で、地面が鳴りはじめた。
低い音。足の裏から、骨を伝って上ってくる。遠くに、杖を地面に突き立てたマーレが小さく見える。隣でアウラが腕を組んで見守っている。
土が盛り上がった。
外壁の根元から波のように土が持ち上がり、壁を這い上がっていく。ゆっくりと、けれども止まらずに。石の壁が土に沈み、墓地の外側がなだらかな斜面に変わっていく。
アインズは《飛行》を唱えた。
体が浮く。
浮くという感覚がある。ゲームの中では画面の位置が変わるだけだった。今は足の骨から重さが抜けていき、杖の重さだけが手の中に残る。
霧の中を上へ昇る。霧は冷たくも温かくもない。ただ白い。白い中で、自分の手の骨だけが黒い。
霧を抜けた。
空がある。
星が出ている。
数えきれないほどの星だ。白いもの、青いもの、少し赤いもの。大きいもの、小さいもの。それが黒い空いっぱいに散らばっている。細い月が、西の低いところにかかっていた。
下には霧の海。白い海の上に、背の高い木の梢がところどころ黒く突き出ている。北の方、遠い山並みの手前に、霧とは違う、黒く濁ったものが溜まっているのが見える。
アインズは長いこと、それを見ていた。
ブループラネットさんに見せたかったな、と思う。
あの人が何か月もかけて描いた空より、この空は少し雑だ。星の並びに規則がない。明るさも揃っていない。それが本物の証拠のように見える。
「……きれいだな」
口に出すと、すぐ後ろで声がした。
「はい」
デミウルゴスが翼を広げて浮かんでいる。いつの間に姿を変えたのか、背中に黒い革の翼が生えていた。
「この空も、この森も、この世界の何もかもが、アインズ様の御手に収まるのを待っているようでございます」
アインズは返事をしなかった。
そういうつもりで言ったのではない、と言おうとして、言えない。デミウルゴスの目があまりにまっすぐだ。宝石のような目で、そこに嘘はない。嘘がないことが、かえって重い。
下で、地鳴りが止んだ。
霧の切れ目から見下ろすと、墳墓のあった場所に、もう墳墓はない。森の中に小さな丘が一つ、盛り上がっているだけだ。マーレがその上でこちらを見上げ、手を振っている。アウラが弟の頭を軽く叩き、それから自分も手を振った。
アインズは片手を上げて応えた。
それから、空気を吸おうとした。
森の上の、夜の空気である。湿っていて、木の匂いがするはずの空気。現実の世界では決して吸えない、マスクもフィルターもいらない空気。ブループラネットさんが、一度でいいから吸ってみたいと言っていた空気だ。
胸が動かない。
肋骨はある。肺はない。吸う理由が、この体にはない。
もう一度試して、やめた。
吸えない空気の中に、彼は浮かんでいる。
遠くの丘で、何かが枯れ木の枝を離れた。黒い小さな影が、星を一つずつ隠しながら北へ遠ざかっていく。
隣でデミウルゴスが、同じ方角へ目を向けた。何も言わない。
鳥だろう、とアインズは思う。
この世界の鳥がどんな形をしているのか、彼はまだ知らない。