白い骨と長い耳   作:霧中墓守

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※本作の本文は生成AI(Anthropic社のClaude)が執筆しています。
本作は『オーバーロード』(書籍16巻まで)と『葬送のフリーレン』(原作147話まで)のクロスオーバーです。独自解釈・原作改変を含みます。


第1話 終わりの夜に

 霧は日が落ちても晴れない。

 ヴァッヘは楢の枝に腰を下ろし、森の底を見ていた。下は白い。白い中を、ときどき鹿が通る。鹿には魔力がないから、彼は鹿を見ない。

 彼の仕事は古い街道の見張りである。南から人間が北へ入ってくる。その中に魔法使いがいれば、魔力の大きさを量って知らせる。それだけの仕事だ。

 断頭台のアウラの配下は多く、ヴァッヘはその末の方にいる。末の方にいる者の魔力は、末の方にふさわしい大きさをしている。それを不満に思ったことはない。魔力は順番で、順番は魔力なのだ。

 勇者が死んで、二十八年になる。

 人間はそれを長いと言うらしい。ヴァッヘにはよくわからない。勇者が生きていた頃、主は身を隠していた。勇者が死んだので、主はまた軍勢を集めている。それだけのことだ。

 夜半、森が変わった。

 音はしない。風も吹かない。ただ、さっきまで木の立っていたところに、木がない。代わりに石がある。

 ヴァッヘは目を凝らした。霧の切れ目に壁が見える。人間の背丈の何倍もある石の壁が左右に長く延び、その内側に、墓標のような塔がいくつも並んでいる。建てられたのではない。初めからそこにあったような顔で、そこにある。

 彼はいつものように魔力を探った。

 何もない。

 壁にも、塔にも、その奥にも、魔力がない。鹿と同じだ。いや、鹿よりもない。生き物の気配というものが、そこだけ抜け落ちている。

 ヴァッヘはしばらく動かなかった。

 魔力のないものは弱い。彼の知るなかで、それがいちばん確かなことだ。けれども弱いものは、こんなふうには現れない。

 枝の上で、報告の言葉を組み立ててみる。魔力のない、大きな、石の何か。口の中で転がすと、ひどく間の抜けた言葉になった。

 壁の一角で、門が開いた。

 黒い服の老人が一人、出てくる。白い髪と白い髭をきちんと整え、背筋がまっすぐに伸びている。人間に見える。魔力は、やはりない。

 老人は門の前で足を止め、あたりを見回した。それから、ヴァッヘのいる楢の木をまっすぐに見た。

 霧の向こうで目が合った、とヴァッヘは思う。思っただけかもしれない。

 彼は枝を蹴った。音を立てずに飛ぶのは、魔族にとって歩くのと変わらない。森の上へ出て、北へ向かう。振り返らない。

 追ってくる気配はなかった。

 それがかえって、胸の中に名前のない小さなものを残していく。

 北へしばらく飛んだところで、ヴァッヘは丘の上の枯れ木に降りた。

 報告には、まだ足りない。魔力のない、大きな、石の何か。それだけを持ち帰れば、上の者は彼の魔力の小ささを笑うだろう。笑われるのはかまわない。役に立たないと思われるのは困る。

 待つことには慣れている。

 彼は枯れ木の枝に身を沈め、霧の中の石の壁を、遠くから見つづけた。

 

◇

 

 最後の一人が去ってから、モモンガは長いこと円卓の前に座っている。

 円卓には四十一の席がある。今夜ここへ来たのは、彼を入れて四人。三人はそれぞれに少し話をし、それぞれに謝り、ログアウトしていった。最後まで残ってくれたのはヘロヘロだった。仕事で疲れている、明日も早い、と彼は言った。それでも来てくれた。

「また、どこかで会いましょう」

 そう言って、ヘロヘロは消えた。

 どこかで、とはどこだろう。ユグドラシルは今夜で終わる。

 テーブルに拳を振り下ろしかけて、止めた。骨の拳である。叩いたところで円卓には傷一つつかない。そういうふうに作ってあるし、作ったのは、ここにいない誰かだ。

 視界の隅の時計が、二十三時三十分を少し過ぎている。

 体感型のオンラインゲーム『ユグドラシル』は十二年続いた。モモンガはその中で、ギルド「アインズ・ウール・ゴウン」の長をしている。ここはその本拠地、ナザリック地下大墳墓の第九階層。四十一人の仲間が何年もかけて作り上げた場所だ。

 仲間はもう、ほとんど来ない。来なくなった理由は、どれもまっとうだ。仕事。家族。病気。引っ越し。新しいゲーム。

 まっとうな理由に、文句は言えない。

 (俺、何やってんだろうな。いい歳して、終わるゲームの中で空いた椅子なんか数えて。明日も四時起きなのに)

 モモンガは立ち上がり、壁に掛かった杖を取った。七匹の蛇が絡み合い、それぞれの口に宝玉をくわえている。ギルドの象徴として、皆で素材を集めて作ったものだ。実戦では一度も使っていない。使うのがもったいなかったし、壊したら皆に申し訳なかった。

 最後くらいは、いいだろう。

 握ると、杖から黒い靄のようなものが立ちのぼる。手の中で何かがゆらめいている。モモンガは少し笑った。骸骨の顔は動かないから、笑う顔はない。それでも笑った。

 廊下に出ると、執事が控えていた。

 白い髪と白い髭の老人。黒い燕尾服を着て、背筋がまっすぐに伸びている。セバス・チャン。たっち・みーが作ったNPCで、その後ろに六人のメイドが並ぶ。戦闘メイドの六人組、プレアデス。

 NPCは何も言わない。決められた場所に立ち、決められた動作をするだけだ。

「ついてこい」

 言ってから、少し恥ずかしくなる。誰も聞いていない。聞いていないのに、一度言ってみたかった。

 セバスとメイドたちが、音もなく後ろに続く。命令を受けたNPCは主の後をついて歩く。そういうふうにできている。

 

 玉座の間は第十階層にある。

 天井が高い。高すぎて、上の方は暗くて見えない。左右の壁に四十一の旗が下がっていて、一人に一枚、紋章はそれぞれが自分で描いた。下手なものもあれば、うまいものもある。妙に細かいものもある。モモンガは旗の下をゆっくり歩きながら、一枚ずつ持ち主の名前を思い出していった。

 全部、思い出せる。

 思い出せたことに少しほっとして、ほっとしたことが少し悲しい。

 玉座の脇に、女が一人立っている。

 白いドレス。腰のあたりから黒い翼。こめかみには山羊のような角。長い黒髪が顔の両側へ流れている。

 守護者統括のアルベド。タブラ・スマラグディナが作ったNPCだ。

 玉座に腰を下ろし、モモンガはアルベドの設定を開いた。理由はない。最後に見ておきたかった。

 設定は長い。タブラは凝り性だった。生まれ、能力、好きなもの、嫌いなもの、口癖、服の素材。いくら下へ送っても終わらない文章を、モモンガは半分笑いながら読んでいく。タブラさんらしい、と何度も思う。

 最後の一行で、目が止まった。

 ひどい一文。タブラらしい、悪い冗談だ。これほど丁寧に作ったものの最後に、どうしてこれを書くのか。それを書くのがタブラという人だった。

 しばらく眺めてから、ギルド長の権限でその一行を消した。

 空いたところに何か書こうとして、手が止まる。

 時計は二十三時五十五分。

 彼は書いた。

 モモンガを愛している。

 書いてから、顔を覆いたくなった。

 (何やってんだ、俺は)

 誰も見ていないから書けた。終わるから書けた。それだけのことだ。

「……まあ、いいか」

 声に出すと、少しだけ軽くなる。

 

 二十三時五十九分。

 玉座の上から広間を見下ろす。旗。柱。床に跪くセバスとメイドたち。脇に立つアルベド。

 楽しかったな、と思う。

 本当に楽しかった。仕事から帰ってここへ来る。誰かがいる。くだらない話をする。どこかの城を攻めて、負けて、笑って、次の作戦を考える。誰かが新しい武器を自慢し、誰かがそれを笑う。彼の人生で楽しかったことの大半は、ここで起きた。

 零時。

 目を閉じた。骸骨の顔に瞼はないから、閉じたつもりになっただけだ。

 強制ログアウト。サーバーの停止。暗転。それから狭い部屋の、硬い椅子の上の、自分の体。明日の朝の四時起き。

 それを待つ。

 

 何も起きない。

 モモンガは、つもりの目を開けた。

 広間はそこにある。旗も、柱も、跪くセバスたちも。

 時計を見ようとした。視界の隅にあるはずの時計がない。メニューを開こうとしても開かない。運営への連絡も、ログアウトの操作も、どこにもない。

「……え」

 声が出た。自分の声だ。けれども、ヘッドセットのマイクを通した声ではない。喉から出た声。

 骸骨に、喉はない。

 (いやいやいや、待て。待ってくれ。サーバー延長か? バグか? 最終日だぞ、運営は何やってるんだ。問い合わせ窓口は——いや、明日は朝から会議が——)

 胸の奥から何かが噴き上がり、口に届く前に、すっと消えた。消えたあとには何も残らない。

 モモンガは玉座の肘掛けを握った。冷たい。指の骨に、石の冷たさが伝わってくる。

 ゲームで、温度は感じない。

「モモンガ様?」

 女の声がした。

 アルベドが彼を見ている。

 NPCは喋らない。決められた台詞を流すことはあっても、主の顔を覗き込んで首を傾げたりはしない。

 アルベドは首を傾げていた。金色の瞳が、案じるように揺れている。

「どうかなさいましたか」

 答えようとして、また胸の奥で何かが噴き上がり、また消えた。

 二度目で、気づく。消えているのは自分の感情だ。

 落ち着け、と彼は自分に言った。

 (いや、俺は落ち着いてる。落ち着かされてる。どっちでもいい。とにかく今、取り乱しちゃいけない)

 なぜいけないのかはわからない。わからないまま背筋を伸ばす。玉座に座る者はこうあるべきだと、昔、仲間たちと笑いながら決めた姿勢だった。

「……アルベド」

「はい」

「何か、変わったことはないか」

 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出る。

 アルベドは少し考えた。考える、ということを彼女はしている。

「申し訳ございません。私には、変わったことは何も感じられません」

 その言い方があまりに自然で、モモンガはそれ以上聞けない。

 変わったのは自分の方か。世界の方か。

「セバス」

「はっ」

 跪いていた老人が顔を上げる。その目に光がある。

「ナザリックの外に出て、周囲を見てこい。範囲は、そうだな、一キロほどでいい。知的生物がいたら、敵対せずにここへ連れて来い。交渉はしなくていい。プレアデスからナーベラルを連れて行け。残りは第九階層の警戒にあたらせろ」

 言いながら、自分が何を言っているのかを考えている。地表の周辺は毒の沼地のはずだ。ゲームではそうだった。もし、そうでなかったら。

「かしこまりました」

 一礼して立ち上がるセバスの動作には、一つの無駄もない。たっちさんが見たら喜ぶだろうな、と思った途端に胸が痛み、痛みはすぐに消えた。

 セバスたちが出て行くと、広間はまた静かになる。

 モモンガは《伝言》を試した。運営に。ギルドの仲間に。誰にも届かない。届かないことが、手応えでわかる。何かを探して伸びていった細い糸が、どこにも引っかからずにほどけていく。

 ゲームの魔法に、手応えなどない。

 なのに、魔法は使えた。

 使えてしまうことの方が、彼には恐ろしい。

「アルベド。階層守護者たちを、一時間後、第六階層の円形闘技場に集めろ。第四と第八の守護者は除く」

「かしこまりました」

 深く頭を下げたアルベドの頬が、顔を上げるとき、ほんの少し赤い。

 モモンガは見なかったことにした。

 

◇

 

 第六階層には森がある。

 正確には、森を模して作られた階層だ。巨大な樹が何本も天井を支え、その間に蔦が垂れている。頭上には夜空。本物の空ではない。ブループラネットという仲間が、何か月もかけて描いた空だ。現実の空を見たことがないから描きたいのだ、と彼は言っていた。

 モモンガも、現実の空を見たことがない。彼の住む街の空はいつも灰色で、外を歩くにはマスクがいる。

 円形闘技場の中央で、彼は一人で待った。

 待つというのが、思ったより長い。何をしていればいいのかわからない。杖を持ち直し、肩の位置を直し、また杖を持ち直す。誰も見ていないのに。いや、もう誰が見ているかわからないのだ。

 (面接の待合室みたいだな。……違うか。これは面接する側だ。する側の方が緊張するなんて、聞いてないぞ)

 最初に来たのは双子だった。

「モモンガ様ーっ!」

 観客席の上から、小柄な影が飛び降りてくる。褐色の肌、尖った耳、短い金髪。男の子のような服。地面に着いたときには、もう跪いている。

「第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ、参りましたっ」

 声が弾んでいる。

 その後ろから、そっくりな顔の子どもがもう一人、観客席の階段をおそるおそる降りてきた。こちらはスカートで、杖を胸に抱えている。

「ま、マーレ・ベロ・フィオーレ、です。お、遅れて、すみません……」

「遅れてないでしょ。あんたがとろいだけ」

 振り返りもせずにアウラが言う。マーレは「う」と小さく言って、姉の隣に膝をついた。

 ぶくぶく茶釜さんが作った双子だ。姉が男装で、弟が女装。理由を尋ねたら、茶釜さんは「趣味」の一言で片づけた。茶釜さんの弟のペロロンチーノが、横で頭を抱えていた。そのときの二人の声を、モモンガはまだ覚えている。

 双子は設定にあった性格のとおりだ。設定にないものもある。二人の肩が、かすかに上下している。呼吸である。

「よく来てくれた」

 アウラの長い耳がぴくりと動く。マーレは顔を上げかけて、また下げた。

 

 次に、闘技場の端の空間がゆがんだ。

 黒い楕円が開き、少女が一人歩み出てくる。銀色の髪、白い肌、深紅の瞳。黒いドレスの裾をつまんで、優雅に一礼。

「第一、第二、第三階層守護者、シャルティア・ブラッドフォールン。御身の前に」

 顔を上げると、彼女はまっすぐにモモンガを見て、うっとりと目を細めた。

「ああ、我が君。今宵もなんと麗しいお姿でありんしょう」

 骸骨が麗しいとは、どういう意味なのか。口調も好みも、ペロロンチーノの趣味がそのまま形になっている。

 (ペロロンチーノさん、こういうのが好きだったもんなあ)

「転移門まで使って来たの? 歩いてくればいいのに」

 アウラが言った。

「ちびすけには、わらわの気持ちはわからないでありんす」

「は?」

「なにか?」

「……オ二人トモ」

 低い声が割って入る。

 冷気が闘技場の床を這った。

 身の丈は人の倍ほど。淡い青の外殻に、四本の腕。蟻とも蟷螂ともつかない頭から、白い息が漏れている。

「御前デアル。慎メ」

 第五階層守護者、コキュートス。

 モモンガの前で片膝をつき、四本の腕のうち二本を地面に添える。

「第五階層守護者、コキュートス。御召シニ従イ、参上致シマシタ」

 一語ずつ、氷を割るように硬い。武人建御雷さんの作ったNPCだ。建御雷さんは武人が好きで、好きすぎて、設定が全部武人になった。

 最後はデミウルゴスだ。

 足音がしない。気がつくと、闘技場の入り口に立っている。

 浅黒い肌に、撫でつけた黒髪。丸い眼鏡。仕立てのいい背広。その裾から銀色の棘のある尾が覗いていなければ、人間の紳士にしか見えない。

「お待たせいたしました。第七階層守護者、デミウルゴス。御身の前に」

 胸に手を当てて深く頭を下げ、それから少しだけ顔を上げて、一同を見渡す。

「皆、揃ったようですね」

 ウルベルトさんの作ったNPCだ。悪の美学というものに、ウルベルトさんはこだわっていた。こだわりすぎて、ときどき皆を困らせた。その人の作ったNPCが、今、穏やかに微笑んでいる。

 アルベドが守護者たちの前に立つ。

「では、皆。至高の御方に、忠誠の儀を」

 

 五人が一斉に頭を垂れ、アルベドがその前で膝をついた。

 一人ずつ、名を名乗る。自分の階層を口にし、自分の忠誠を口にする。言葉は少しずつ違う。アウラは元気よく、マーレはつかえながら、シャルティアは歌うように、コキュートスは短く硬く、デミウルゴスは淀みなく。けれども、言っていることは同じだ。

 あなたに、すべてを。

 モモンガは黙って聞いていた。

 ゲームの中で、こういう場面を作ったことがある。仲間たちとふざけてNPCを並べ、それらしい台詞を言わせた。台詞は誰かが打ち込んだ文字で、NPCの口は動かなかった。皆で画面を見て笑った。ウルベルトさんが台詞に凝りすぎて、たっちさんにからかわれていた。

 今、誰も笑っていない。

 五人の背中が、わずかに震えている。

 恐れているのか、喜んでいるのか。どちらにしても本気だ。この者たちは本気で、自分に頭を下げている。

 (重い。重すぎる。俺はただの、ちょっとギルド長が長かっただけの会社員だぞ)

 胸の奥でまた何かが噴き上がりかけて、消えた。

「……面を上げよ」

 五人が顔を上げる。

「よく、集まってくれた」

 何を言えばいいのかわからない。わからないので、知っている言葉を探す。昔、ギルドの会議で、たっちさんやウルベルトさんが口にしていた言葉。会社で、部長が朝礼で言っていた言葉。

「ナザリック地下大墳墓は今、原因不明の事態の中にある」

 部長の朝礼は、いつもそこから始まった。原因不明の事態。今期の数字。取引先の不満。原因が不明であることを、部長は決して自分のせいにしなかった。モモンガはあの朝礼が嫌いだった。嫌いだったものが、今、自分の口から出てくる。

「現在、セバスに地表の調査を命じている。その報告を待って、今後の方針を決める。それまで、各階層の警戒を最大にしろ」

「はっ」

 五人の声が揃う。揃いすぎている。

 モモンガは内心で、深く息を吐いた。

 吐く息は、ない。

 

 セバスが戻ったのは、それから少し後のことだ。

 ナーベラルを従えて闘技場に入り、守護者たちの列の脇で膝をつく。

「ご報告いたします。ナザリックの周囲は、森でございました」

「森?」

「はい。沼地はございません。霧の深い、広い森でございます。半径一キロの範囲に、人の手になる建物は見当たりませんでした。知的生物も、確認できておりません」

 そこでセバスは、少しだけ言葉を切った。

「……ただ」

「ただ?」

「門を出ましたとき、北側の木の上から、何者かの視線を感じました。目を向けますと、気配は北へ去りました。翼のあるものが、霧の上を飛んで行ったように見えました。追うべきか迷いましたが、御命令の範囲を越えると判断し、追いませんでした。申し訳ございません」

「いや。それでいい」

 そう言いながら、背中に冷たいものを感じる。冷たいもの、という感じだけがある。背中に皮膚はない。

 見られていた。何者かがここを見て、去った。

「ナザリックを覗き見るなど」

 アルベドの声が低くなる。

「モモンガ様。ただちに追っ手を。アウラの魔獣ならば、一刻もかからず——」

「待て」

 モモンガは手を上げた。骨の手だ。

「追わなくていい」

「ですが」

「相手が何者か、わからない。我々も、ここがどこか、わからない。わからないもの同士だ。今、こちらから牙を見せる必要はない」

 本当は、怖かっただけだ。外に何がいるのかわからない。わからないものに、仲間の子どもたちを送り出したくない。

 デミウルゴスが、眼鏡の奥で目を細めた。

「なるほど」

 ゆっくりと頷く。

「あえて見逃し、こちらの存在を相手に持ち帰らせる。相手がどう動くかで、この土地の力関係が見える。しかもこちらは、何一つ手の内を明かさずに。……さすがは、モモンガ様です」

 (違う。全然違う。怖かっただけだって。なんでそうなるんだ)

「そ、そうだ。その通りだ、デミウルゴス」

 守護者たちが感嘆の目でこちらを見る。シャルティアは頬に手を当て、コキュートスの顎がかちりと鳴る。アウラは「なるほどー」と言い、マーレは「す、すごいです」と言った。アルベドは何も言わず、ただ少し誇らしげにしている。

 セバスだけが、黙って頭を下げていた。

 ここに玉座がないのが残念だ。座りたい。

 

「……皆に、一つ、伝えておくことがある」

 声が落ち着いているのが、自分でもわかる。落ち着かされているのかもしれない。

「セバスの報告を聞いた。この地は、我々の知る土地ではない。ここには、我々を知る者はいない。ナザリックの名も、私の名も、誰も知らない」

 守護者たちが静かに聞いている。マーレが杖を握る手に、力がこもるのが見えた。

「だから、私は名を変える」

 アルベドの翼が、かすかに揺れる。

「今日から、私をアインズ・ウール・ゴウンと呼べ」

 ギルドの名前だ。四十一人の名前である。

 もしどこかに、自分と同じようにこの場所へ来てしまった仲間がいたら。その名前を聞いて、気づいてくれるかもしれない。モモンガは彼一人の名前で、アインズ・ウール・ゴウンは皆の名前だ。皆の名前なら、誰か一人くらいは振り返ってくれるだろう。

「アインズ・ウール・ゴウン……様」

 アルベドが、確かめるようにその名を口にした。

「至高の御方々の名を、御身お一人で背負われるのですね」

「……そうだ」

「では、私たちは、その御名が世界の隅々にまで響き渡るよう、力を尽くします」

 アルベドが頭を下げる。守護者たちが続き、セバスも、ナーベラルも続いた。

 世界の隅々にまで、と、モモンガは——アインズは、思う。

 (いや、そこまでは言ってない。言ってないよな? 知り合いが気づいてくれたらいいな、くらいの話で——)

 けれども訂正はしなかった。訂正の仕方がわからない。今ここで「いや、そこまでは」と言ったら、この者たちはどんな顔をするのか。それを想像するのが怖い。

 デミウルゴスが、小さく微笑んでいる。

 それを見て、何か大事なことを決めてしまった気がした。何を決めたのかは、まだわからない。

「マーレ」

「は、はいっ」

「ナザリックの外壁を、隠せるか。土で覆うような形で」

「で、できます。あの、たぶん、できます」

「頼む。アウラは周囲の警戒網を張れ。魔獣を使ってかまわない。ただし、何かを見つけても手は出すな。報告だけでいい」

「はーい!」

 双子が駆け出していく。マーレは途中で一度つまずいて、アウラに腕を引っ張られていった。

 守護者たちがそれぞれの持ち場へ散ったあと、アルベドだけがその場に残っている。

「アインズ様」

 新しい名前をもう一度口にして、彼女は少し黙った。

「何だ」

「いえ」

 アルベドは微笑んだ。

「とても、よいお名前です」

 その微笑みの奥で、何かが小さく閉じたように見える。見えた気がしただけかもしれない。

 玉座の間で書き換えた一行を、彼は思い出す。

 モモンガを愛している。

 アインズ・ウール・ゴウンを、ではない。

 

◇

 

 夜の井戸は、昼より水の音が高い。

 リーゼは桶を抱えたまま、井戸の縁に腰かけていた。眠れない夜には水を汲みに出る、と母が生きていた頃に決めた。決めた本人はもういないのに、決まりの方は残っている。

 シュタウプの村は、森の中の小さな開けた土地にある。家は二十に足りない。南へ一刻ほど歩けば古い街道に出る。北へは誰も行かない。

 このところ、北の森に何かがいる、と大人たちは言う。

 木こりのハンスが森の縁で子どもを見たのは、十日前のことだ。角のある、小さな女の子だった、とハンスは言った。木の間に立ってこちらを見て、「お母さん」と呼んだ。ハンスは返事をせず、斧を握ったまま後ずさり、村まで走って帰ってきた。

「返事をしてたら、どうなってたの」

 リーゼが聞くと、ハンスは答えなかった。代わりに父が、もう寝ろ、と言った。

 父は村長のオットーだ。村長というのは、答えにくいことを聞かれたときに、もう寝ろと言う役目なのだろう、とリーゼは思っている。

 井戸の水が、震えた。

 桶を置き、縁から覗き込む。水面に映った星が、細かく揺れている。

 足の裏に、低いものが伝わってくる。地鳴りというには静かで、雷というには長い。南の方からだ。北ではない。

 村の犬が一匹、南を向いて吠えた。すぐに、ほかの犬も吠えはじめる。

 家々の戸が開き、何人かが顔を出す。父も出てきた。寝間着の上に上着を引っかけて、南の空を見ている。

「地揺れか」

「南だよ」とリーゼは言った。「北じゃない」

 父は少し黙ってから、そうか、と言った。それが安心なのかどうか、リーゼにはわからない。父にもわからないのだろう。

 地鳴りはしばらく続き、やがて止んだ。犬も一匹ずつ黙っていく。最後まで吠えていたのはハンスの犬で、ハンスが戸口から名前を呼ぶと、ようやく尻尾を下げた。

 村が静かになると、霧の匂いがいつもより濃い。

「もう寝ろ」

 父が言った。

 リーゼは桶に水を汲み直し、家へ戻る。戸を閉める前に、一度だけ振り返った。

 南の霧は、白く静かなままだ。北の森は、黒く静かなままだ。

 南から来るものと、北にいるもの。どちらが先に村へ来るのだろう。

 考えかけて、リーゼは戸を閉めた。

 

◇

 

 守護者たちが散ってから、一時間ほど後。アインズは地表に出た。

 墳墓の中央、霊廟の屋根の上に立つ。足元には、ゲームで見慣れた墓地。古びた墓石。崩れかけた礼拝堂。それを霧が覆っている。

 霧の外には森がある。

 毒の沼地ではない。本物の森だ。木の幹は黒く濡れ、枝の先には小さな葉が無数についている。葉の一枚一枚が霧の水を含んで、重く垂れている。どこかで水の滴る音がする。鳥とも獣ともつかない声が、遠くで一度だけ鳴いた。

 デミウルゴスが半歩後ろに控えている。

「お寒くはございませんか」

「寒くはない」

 本当に寒くない。寒いという感じを、骨が受け取らないのだ。

 墳墓の外縁で、地面が鳴りはじめた。

 低い音。足の裏から、骨を伝って上ってくる。遠くに、杖を地面に突き立てたマーレが小さく見える。隣でアウラが腕を組んで見守っている。

 土が盛り上がった。

 外壁の根元から波のように土が持ち上がり、壁を這い上がっていく。ゆっくりと、けれども止まらずに。石の壁が土に沈み、墓地の外側がなだらかな斜面に変わっていく。

 アインズは《飛行》を唱えた。

 体が浮く。

 浮くという感覚がある。ゲームの中では画面の位置が変わるだけだった。今は足の骨から重さが抜けていき、杖の重さだけが手の中に残る。

 霧の中を上へ昇る。霧は冷たくも温かくもない。ただ白い。白い中で、自分の手の骨だけが黒い。

 霧を抜けた。

 空がある。

 

 星が出ている。

 数えきれないほどの星だ。白いもの、青いもの、少し赤いもの。大きいもの、小さいもの。それが黒い空いっぱいに散らばっている。細い月が、西の低いところにかかっていた。

 下には霧の海。白い海の上に、背の高い木の梢がところどころ黒く突き出ている。北の方、遠い山並みの手前に、霧とは違う、黒く濁ったものが溜まっているのが見える。

 アインズは長いこと、それを見ていた。

 ブループラネットさんに見せたかったな、と思う。

 あの人が何か月もかけて描いた空より、この空は少し雑だ。星の並びに規則がない。明るさも揃っていない。それが本物の証拠のように見える。

「……きれいだな」

 口に出すと、すぐ後ろで声がした。

「はい」

 デミウルゴスが翼を広げて浮かんでいる。いつの間に姿を変えたのか、背中に黒い革の翼が生えていた。

「この空も、この森も、この世界の何もかもが、アインズ様の御手に収まるのを待っているようでございます」

 アインズは返事をしなかった。

 そういうつもりで言ったのではない、と言おうとして、言えない。デミウルゴスの目があまりにまっすぐだ。宝石のような目で、そこに嘘はない。嘘がないことが、かえって重い。

 下で、地鳴りが止んだ。

 霧の切れ目から見下ろすと、墳墓のあった場所に、もう墳墓はない。森の中に小さな丘が一つ、盛り上がっているだけだ。マーレがその上でこちらを見上げ、手を振っている。アウラが弟の頭を軽く叩き、それから自分も手を振った。

 アインズは片手を上げて応えた。

 それから、空気を吸おうとした。

 森の上の、夜の空気である。湿っていて、木の匂いがするはずの空気。現実の世界では決して吸えない、マスクもフィルターもいらない空気。ブループラネットさんが、一度でいいから吸ってみたいと言っていた空気だ。

 胸が動かない。

 肋骨はある。肺はない。吸う理由が、この体にはない。

 もう一度試して、やめた。

 吸えない空気の中に、彼は浮かんでいる。

 遠くの丘で、何かが枯れ木の枝を離れた。黒い小さな影が、星を一つずつ隠しながら北へ遠ざかっていく。

 隣でデミウルゴスが、同じ方角へ目を向けた。何も言わない。

 鳥だろう、とアインズは思う。

 この世界の鳥がどんな形をしているのか、彼はまだ知らない。

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