ナザリックの中に、朝は来ない。
第九階層の執務室で、アインズはそれを知った。窓がない。時計もない。ゲームの頃は画面の隅の数字が時刻を教えてくれたが、今は一般メイドが「朝でございます」と告げに来るまで、朝かどうかもわからない。
(会社なら、もう始業か)
始業もなにも、もう会社はない。そう気づいて、少し可笑しくなる。
机の前に、アウラが立っている。夜通し森を見回っていたはずなのに、疲れた様子は少しもない。疲れというものが彼女にないのか、あっても見せないのか。アインズにはまだ区別がつかない。
「ご報告しまーす!」
アウラは胸を張った。
「まず北の丘です。昨日の夜、枯れ木の上に、小さい影がずっといました。翼のある、人の形のやつです。マーレが土をかぶせ終わるまでじっと見てて、それから北へ飛んで行きました」
「……ずっと、いたのか」
「はい。手は出すなって御命令だったので、見送りました。あたしの子たちにも追わせてません」
言いつけを守ったのを褒めてほしい、と顔に書いてある。
(鳥じゃなかったのか……)
昨夜、星を一つずつ隠して遠ざかっていく影を、アインズは鳥だと思った。思っただけで、確かめはしなかった。隣にいたデミウルゴスは、何も言っていない。気づいていなかったからではないのだろう。
「よくやった、アウラ。命令を守ってくれて助かる」
「えへへー」
長い耳が、ぴくぴく動く。
「それから、村がありました。ここから北へ、人間の足で一刻くらい。家が二十ないくらいの小さい村です。畑と井戸と、犬がいます。犬はあたしの子たちに気づいて、ひと晩じゅう吠えてました」
昨夜の地鳴りは、きっとその村まで届いただろう。犬が吠え、人が起き、南の空を見上げる。そこまで考えて、アインズは少し落ち着かなくなる。見られていたのは、北の丘からだけではないのかもしれない。
「村、でございますか」
脇に控えていたアルベドが、半歩前に出る。
「人間の集落でしたら、いかようにも。支配下に置くのも、消すのも、一夜で済みます」
消す、という言葉があまりに軽い。
(いや、消さないで。なんで選択肢がその二つしかないんだ)
「……まずは、知ることが先だ。我々はこの地について何も知らない。知らないまま壊すのは、愚か者のすることだ」
「はっ。浅慮をお許しください」
頭を下げる直前、アルベドはほんの一瞬だけ残念そうな顔をした。見なかったことにする。
「それと、アインズ様」
アウラの声の調子が、少し変わる。
「変なのが、いました」
「変なの?」
「村の南の森に、角のある子どもがいるんです。あたしより小さいくらいの女の子。人間の言葉で、ひとりで何かしゃべってて」
アウラは首を傾げた。
「でも、匂いは獣なんです。人間の子どもの匂いじゃなくて。あたしの子たちも、あの子のまわりには寄りつきません。怖がってるんじゃないんですよ。なんていうか……餌でも仲間でもないものを見たときの、あの顔をするんです」
「何をしゃべっていた」
「お母さん、って」
執務室が、少し静かになる。
「何べんも。返事をする人なんか、どこにもいないのに」
アインズは椅子の背にもたれた。骨が革に当たって、小さく鳴る。
ゲームなら、クエストの始まりだ。森で迷子を見つけ、村まで送り届けると、報酬がもらえる。ユグドラシルにも、そういうクエストはいくらでもあった。たいていは迷子の正体が魔物で、送り届けた先の村が襲われる。運営は、そういう話が好きだった。
けれども、ここはゲームではない。少なくとも、ゲームだけではない。
「私が行く」
口から出た言葉に、自分で少し驚く。
アルベドの翼が、ばさりと開いた。
「なりません。正体の知れぬ土地に、至高の御方が御身ひとつで出られるなど」
「ひとつではない。アウラを連れて行く。《完全不可知化》を使えば、向こうからこちらは見えない」
「でしたら、せめて私も——」
「アルベド。お前は守護者統括だ。私の留守の間、ナザリックを預けられるのは、お前しかいない」
言いながら、これは課長が出張前に言っていた台詞だな、と思う。お前しかいない。言われるたびに、断れなかった。
アルベドは唇を結び、しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げる。
「……かしこまりました。ナザリックは、必ずお守りいたします」
顔を上げたときには、いつもの微笑みに戻っている。
「どうか、お早いお帰りを。お待ちしております、あなた」
(……あなた?)
聞き返そうとして、やめる。聞き返したら、もっと困ることになる気がする。
隣でアウラが、小さく「うわ」と言った。
頭の中に、《伝言》がひとつ届く。
『アインズ様! 森へお出ましと聞きんした! わらわもお供を——』
「シャルティア。第一から第三階層の警戒は、お前に任せている」
『……はいでありんす』
声が、目に見えてしおれていく。切れる直前、『ちびすけばっかり、ずるいでありんす』という呟きが聞こえた気がした。
(聞こえなかったことにしよう)
出がけに、アルベドが仮面を勧めた。
「御尊顔を下々の者の目に晒すのは、いかがかと。アインズ様がお持ちの、あの仮面などは」
泣いているような、怒っているような、奇妙な顔の仮面だ。ユグドラシルで、クリスマスの夜にひとりでログインしていた者だけがもらえた品。四十一人のうち誰がそれを持っていたか、アインズはよく覚えている。持っていた者同士で、ギルドの会議の日に全員でかぶって現れたこともあった。茶釜さんが笑いすぎて、会議にならなかった。
「不可知化で行く。仮面はいらない」
正体を隠すためというより、あの仮面をこの子たちの前でかぶりたくない。あれは、仲間と笑うためのものだ。
本当の理由は、誰にも言っていない。
昨夜、空の上から見下ろした霧の森を、自分の足で歩いてみたかった。
ブループラネットさんなら、きっとそうしただろう。
◇
朝の霧は、夜の霧より軽い。
リーゼは籠を腕にかけて、ハンスの背中を追っていた。ハンスは斧を肩に担ぎ、ときどき立ち止まっては、南の方を透かすように見る。
南の森を見てくる、と言い出したのはハンスだ。伐り場が南にあるから、昨夜の地鳴りで木が倒れていないか確かめたい。父は渋い顔をしたが、止めはしなかった。止める理由が、父にも見つからなかったのだろう。
「茸を採るなら、ハンスから離れるな」
それだけ言って、父は畑へ出て行った。
リーゼが一緒に来たのは、茸のためではない。地鳴りの来た方角を、自分の目で見ておきたかった。南から何かが来るのなら、それがどんな顔をしているのかを。
森の道は、踏み固められた細い筋だ。両側から羊歯が覆いかぶさり、朝露が膝を濡らす。どこかで啄木鳥が木を叩いている。いつもの森の音。
伐り場を過ぎ、さらに南へ半刻ほど歩いたところで、ハンスが足を止めた。
「……なんだ、こりゃ」
木の間から、丘が見える。
なだらかな、草の生えた丘。高さは大人の背丈の十倍ほどもあるだろうか。それが森の中に、ぽつんと一つ、盛り上がっている。
「昨日までは、なかった」
ハンスの声が低い。
「俺は毎日ここを通る。こんな丘は、なかった」
リーゼは丘の裾に近づき、しゃがんで土に触れた。冷たい。湿っている。表の土ではなく、ずっと深いところの、井戸の底の土の匂いがする。草は生えているのに、根が浅い。指で引くと、するりと抜ける。
昨夜の地鳴りは、これなのだ。
何かが、ひと晩で丘をこしらえた。何のために。誰が。
丘の上には何もない。風が草を撫でていくだけだ。けれどもその草の下に何かがいるような気がして、リーゼは手を引っ込めた。
「戻るぞ」
ハンスが言う。
そのときだ。
「おかあさん」
声がした。
小さな、女の子の声。丘の向こう、倒木の陰から聞こえる。
「おかあさん。どこ」
泣いている。しゃくりあげながら、何度も呼んでいる。
リーゼは立ち上がった。その腕を、ハンスがつかむ。
「返事をするな」
ハンスの手が、震えている。
「十日前のと、同じ声だ。あれは魔族だ。言葉をしゃべる魔物だ」
母は、反対のことを言う人だった。『名前を呼ばれたら、ちゃんと返事をしなさい。誰に呼ばれても、どんなに忙しくても。返事をしない子は、いないのと同じになってしまうから』
病で寝ついてからも、リーゼが呼べば、母は必ず返事をした。かすれた声で、ちゃんと。最後の夜も、そうだった。
だからリーゼは、呼ばれたら返事をする子に育った。その口を、今、ハンスの言葉が押さえている。
倒木の陰から、女の子が出てきた。
リーゼの腰ほどの背丈。裸足で、薄い麻の服を着ている。髪は灰色で、その間から、小さな黒い角が二本、覗いている。頬が涙で濡れている。
裸足なのに、足が少しも汚れていない。朝露の森を歩いてきたはずなのに。
女の子はリーゼを見て、泣きやんだ。
「おねえちゃん」
にこりと笑う。
「おねえちゃんも、おかあさん、いないんでしょう」
リーゼの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
◇
森は、思っていたより歩きにくい。
丘を降りてすぐ、アインズはそれを知った。地面が平らではない。木の根が這い、苔がその上を覆い、苔の下には去年の落ち葉が湿って溜まっている。一歩ごとに、足の骨が少しずつ沈む。ゲームの森は、どこを歩いても同じ硬さだった。
(……すごいな、これ)
足の裏から伝わってくるものが、一歩ごとに違う。柔らかい。硬い。滑る。沈む。どれも、誰かが設定したものではない。
楢の幹に、手を当ててみる。樹皮は思ったより冷たく、細かい溝に霧の水が溜まっている。骨の指の腹で、その溝をなぞる。指紋はない。それでも、ざらつきはわかる。
顔を近づけてみた。匂いは、やはりしない。
足を踏み出すと、枯れ枝がぱきりと鳴った。
「アインズ様、足音おっきいです」
「……そうか」
「あたしの子たちなら、そこ、踏みません」
言われて足元を見ると、確かに、枯れ枝の少ないところに獣道のような筋がある。アインズはそれをなぞって歩いた。少しだけ、音が小さくなる。
霧の奥に、鹿が一頭立っていた。首を上げて、こちらを見ている。アインズと目が合うと、鹿は跳ねるように身を翻し、白い中へ消えた。
逃げられたことが、少しだけ嬉しい。少なくとも、あの鹿には自分が見えていた。
「アインズ様、森、好きなんですか?」
少し先を歩いていたアウラが、振り返っている。
「……どうしてそう思う」
「さっきから、ずっと木を触ってるから。あたしの子たちが、初めての森に入ったときと同じ顔してます」
骸骨の顔に表情はない。それでも、アウラにはわかるらしい。
「好きだった人がいた」
アインズは言った。
「森を、というより、空や、木や、そういうもの全部を。この森を、見せたかった」
アウラは少し黙ってから、こくりと頷いた。
「ぶくぶく茶釜様も、第六階層の木が好きでした。ここにいると落ち着くって、言ってました」
初めて聞く話だ。たぶん、誰もいないときに、独り言のように言ったのだろう。NPCしかいない階層で。それを、この子は覚えている。
(俺の知らないあの人たちを、この子たちは知ってるのか)
何か言おうとしたとき、アウラが急に足を止めた。長い耳が、ぴんと立っている。
「……聞こえます。あの声」
来た道の方、丘の裾のあたりから、細い声がする。
おかあさん。
アインズは《完全不可知化》を唱え、アウラは木の上へ消えた。
◇
《完全不可知化》の内側から見る森は、少しだけ遠い。
音も光も、薄い膜を一枚へだてた向こうにある。もっとも匂いの方は、膜があってもなくても感じない。
アインズは丘の裾に立つ楢の梢のあたりに浮かび、下を見ていた。隣の枝には、アウラがしゃがんでいる。彼女の姿は、アインズの目にもときどき見えなくなる。木の葉の影に溶けるのが、レンジャーの技能なのだ。
少し前から、二人はここにいる。
木こりの男が一人。籠を持った娘が一人。それから、角のある女の子が一人。
最初に見たとき、アインズは動きかけた。斧を担いだ大人の男が、泣いている小さな子どもの前に立っている。子どもの形をしているだけだと聞いていても、その構図に、体が先に反応した。子どもを守らなければ、と。
それを止めたのは、アウラの手だ。ローブの袖を、小さな指がつまんでいる。
「待ってください」
囁き声が、すぐ耳元でする。
「あの子、泣いてるのに、ずっと二人の首を見てます」
アインズは女の子を見た。
しゃくりあげている。涙が頬を伝っている。小さな肩が震えている。どこから見ても、迷子の子どもだ。
けれども、目が違う。
涙で濡れた目が、男の首と、娘の首を、交互に見ている。値踏みするように。夕方のスーパーで、見切り品の棚からどれがまだ食べられるかを選ぶときの目だ。その目だけが、泣いていない。
(どっちが、化け物だ)
アインズは自分の手を見た。白い骨の指が、杖を握っている。
「わたし、知ってるよ」
下で、女の子が言った。
「おねえちゃん、夜になると井戸のところに行くでしょう。桶を抱えて、ずっと座ってるでしょう。わたし、見てたの。十日、ずっと」
娘の顔から、血の気が引いていく。
「おかあさんのこと、考えてたんでしょう。わたしもね、ずっと考えてるの。だから、わたしたち、おんなじ」
女の子が一歩、娘の方へ踏み出す。
「ねえ、おねえちゃん。いっしょに——」
男が、斧を振り下ろした。
まっすぐに、女の子の頭を目がけて。大人の男が、子どもの形をしたものに向けて、全身の力で。悲鳴のような息が、男の喉から漏れている。
女の子は、斧の柄を片手でつかんだ。
それだけだ。振り下ろされた斧が、空中で止まる。男がいくら力を込めても、びくとも動かない。
「いたいのは、いやだよ」
女の子は、困ったように眉を下げた。
それから、柄ごと男を横へ払う。大人の体が枯れ葉のように飛んで、楢の幹に背中から叩きつけられた。鈍い音がして、男はずるずると根元に崩れる。斧が、少し離れた草の上に落ちる。
娘が、声にならない声を上げた。
女の子は、もう娘しか見ていない。両手を前に差し出して、甘えるように言う。
「おねえちゃん、だっこして」
アインズは、膜の外へ出た。
◇
娘と女の子のあいだに、アインズは降り立った。
《完全不可知化》を解いた途端、森の音が少しだけ近くなる。啄木鳥が、木を叩くのをやめた。
背後で、娘が息を呑む。振り返らなくてもわかる。黒いローブを着た骸骨が、何もないところから現れたのだ。息を呑むだけで済んでいるのが、むしろ立派だろう。
「動くな」
振り返らずに言う。言ってから、命令の口調だったことに気づいた。
「……少し、下がっていてくれ」
言い直す。背後で、草を踏む音が二歩分だけ遠ざかる。
女の子は、差し出した両手をそのままに、アインズを見上げた。
驚いた顔ではない。首を傾げて、何かを確かめている顔だ。
「……あれ?」
しばらくして、女の子は言った。
「あなた、魔力がないのね」
「魔力?」
「ないよ。ちっとも。そこの木と、おんなじ」
女の子は、少し気の毒そうに笑う。
「かわいそう。魔族なの? それとも、死んだ人?」
魔力がない。
ユグドラシルのMPなら、アインズは人並み外れて多い。使い切ったことがないくらいだ。それが、この子には見えていない。測り方が違うのだろう。見えていないものは、ないことになっている。
「わたしはね、ヴィーゲ」
女の子は、行儀よく名乗った。
「北の、断頭台のアウラ様のところへ行くの。えらい人が、仲間を集めてるんだって。でも、途中でおなかがすいちゃった」
頭上の梢で、枝がかすかに軋む。
アウラだ。いま、自分の名が呼ばれたのを聞いたのだ。
同じ名前の者がいる。それも、北で仲間を集めている、えらい人。アインズの中で、何かが冷たく並び替わる。昨夜、北へ飛んでいった影。北の空に溜まっていた、黒く濁ったもの。
「その娘を、どうするつもりだった」
アインズは尋ねた。声は低く、落ち着いている。
ヴィーゲは、不思議そうに瞬きをする。
「食べるの」
あっさりと答える。
「人間は、おいしいよ。あなたは食べないの?」
「食べない」
「じゃあ、ちょうだい」
ヴィーゲは、にこりとした。
「あなたは食べないんでしょう。わたしは、おなかがすいてるの。だったら、わたしが食べた方がいいよね」
筋は通っている。
通っているのが、ひどく気持ち悪い。
胸の奥で、何かが噴き上がりかけた。娘の母親のことを、この子は道具に使った。十日かけて覗き見て、いちばん痛いところを探し当て、そこに指を差し込んだ。噴き上がったものは、昨夜と同じく、口に届く前にすっと消える。消えたあとには、冷たく澄んだものだけが残る。
「断る」
ヴィーゲの顔が、くしゃりと歪んだ。
涙が、ぽろぽろとこぼれる。さっきまで笑っていた口が、震えながら開く。
「ごめんなさい」
しゃくりあげる。
「ごめんなさい、もうしません。もう食べません。殺さないで。おねがい」
小さな手が、アインズのローブの裾をつかむ。
「おねがい、おとうさん」
その言葉が、骨のどこかに当たった。
アインズに子どもはいない。妻もいない。おとうさん、と呼ばれたことは、生まれて一度もない。だからその言葉はどこにも落ち着かず、胸の中でからからと鳴る。
(……営業トークだ)
飛び込みの営業が、玄関先で口にする台詞と同じ。いや、もっと悪い。相手がいちばん言われたら困る言葉を、順番に試しているだけだ。おかあさん。おねえちゃん。おとうさん。
アインズは、ゆっくりと膝を折った。
ヴィーゲと目の高さが揃う。涙で濡れた灰色の目が、すぐ近くにある。
「抱いてほしいのか」
ヴィーゲが、ぱっと顔を輝かせる。
「うん」
両腕を、アインズの首へ回してくる。細い腕だ。子どもの腕だ。
その腕の片方が、首の後ろで、すっと平たくなった。
指が伸び、薄く、硬く、刃の形に変わる。音はしない。重さもない。ただ、首の骨のいちばん細いところへ、横から滑り込んでくる。
刃は、骨に触れて、止まった。
かつん、と小さな音。それだけだ。アインズの首には、傷一つついていない。上位物理無効化を抜けるほどの刃ではなかった。
ヴィーゲが、跳ねるように後ろへ飛び退く。
刃になった腕を見て、それからアインズを見る。
「どうして?」
魔力のないものに、刃が通らない。そんなことは、彼女の知っている世界では起きないのだろう。
そして次の瞬間、ヴィーゲはまた泣いていた。
「ごめんなさい、もうしません。殺さないで。おねがい、おとうさん」
恥じる様子がない。言い訳もしない。たった今、首を落とそうとした相手に、さっきと少しも変わらない声で。
アインズの背中を、冷たいものが這い上がる。皮膚のない背中を。
この子は、嘘をついているのではない。
嘘と本当の区別が、そもそもない。話が通じないのではなく、話という道具を、鍬や鎌と同じように持っているだけなのだ。
アインズは立ち上がり、右手を前へ差し伸べた。
「《心臓掌握》」
何もない空中で、骨の指を握り込む。
手の中に、柔らかいものの感触がある。脈打っている。小さい。それを、握り潰した。
ヴィーゲが目を見開く。
何か言おうとして、口を開いたまま、彼女の輪郭が崩れはじめる。指先から、髪の先から、角の先から、黒い粒になってほどけていく。煤のような、灰のような粒が、霧の中へ舞い上がる。
泣き声も、悲鳴もない。
ほんの数呼吸のあいだに、ヴィーゲのいたところには、何も残っていなかった。麻の服さえ、ない。
アインズは、空になった手を見た。
(……死体が、残らない?)
最初に浮かんだのは、それだった。ユグドラシルなら、倒した敵は死体を残す。死体からはアンデッドが作れる。素材も取れる。
浮かんでから、自分がそれを最初に考えたことに、少しぞっとする。アインズは、空の手を下ろした。
楢の根元で、木こりの男が呻いている。
《生命の精髄》で見ると、男の体力は半分ほどに減っている。
その体で、この男は斧一本を握り、子どもの形をしたものに向かっていった。
梢から、アウラが降ってくる。
音もなく草の上に着地し、ヴィーゲの消えたあたりを、くんくんと嗅いだ。
「匂い、もう残ってません。……変なの」
それから、木の根元の男と、立ちすくんでいる娘を、ちらりと見る。
「あの人間たち、どうします? 連れて帰ります? 置いていきます?」
どちらも、仕留めた獲物の話をするときと同じ声だ。この子にとって、人間はまだ森の獣とそれほど変わらないのかもしれない。
「……あとで決める」
「言葉をしゃべる獣なんて、初めて見ました。ナザリックにもいません」
「我々も、言葉は話すがな」
「あたしたちは違います」
アウラは、きっぱりと言った。
「あたしたちは、ちゃんと意味があってしゃべってます。アインズ様に言うことは、全部ほんとです」
そうだろう、とアインズは思う。思ってから、少しだけ引っかかる。
この子たちの言葉は、もとをたどれば、仲間たちが打ち込んだ文字だ。性格も、口調も、忠誠も。設定欄に書かれた言葉が、ある夜を境に、口から出るようになった。
それを本当と呼ぶのか。呼んでいいのか。
ヴィーゲの言葉には、中身がなかった。では、この子の言葉の中身は、誰が入れたのだろう。
アインズは、その問いを胸の奥にしまった。しまったことに、アウラは気づかない。
「それと」
アウラは、少し言いにくそうに口をとがらせる。
「アウラって、言ってましたよね。断頭台の、なんとかって」
「言っていたな。同じ名前の者が、北にいるらしい」
「……なんか、やだ」
心底いやそうな顔だ。
アインズは、少しだけ笑った。笑う顔はない。それでも、笑った。
◇
骸骨が、笑ったような気がした。
リーゼは籠を抱えたまま、動けずにいる。
あの子は、黒い粉になって霧に消えた。リーゼの夜を全部知っていると言った子が、ひと握りの煤になって。
消したのは、骸骨だ。
黒いローブに、骨の顔。目のあるはずの穴の奥に、赤い光が二つ灯っている。手には、蛇の絡みついた杖。隣には、褐色の肌をした、耳の長い子どもが立っている。その子の耳は、リーゼの知っているどんな人間の耳より長い。
耳の長い人はエルフというのだ、と、昔、村を通りがかった旅の人から聞いたことがある。千年も生きて、見た目はほとんど変わらないのだという。そのときリーゼは、千年というのがどのくらいなのか、指を折って数えようとして、途中でやめた。
あの子が、エルフなのだろうか。それにしては、ずいぶん子どもらしい顔をしている。
骸骨の方は、昔話に出てくる魔物そのものの姿だ。
けれども、昔話の魔物は、子どもの形をしたものを殺したあとに笑ったりしない。少なくとも、あんなふうには。
「……リーゼ」
かすれた声がする。
楢の根元で、ハンスが体を起こそうとしている。顔が土で汚れ、左腕を胸に抱えている。腕の形が、少しおかしい。
「ハンス」
駆け寄ろうとして、骸骨の前を横切ることになると気づく。足が止まった。
骸骨が、ハンスの方を見る。それから、隣の子どもに何か言った。子どもは「はーい」と軽く返事をして、腰の袋から小さな瓶を取り出し、ハンスのところへすたすたと歩いていく。
「飲んで。腕、治るから」
ハンスは瓶と子どもを見比べ、それから骸骨を見た。
瓶を、受け取らない。
「いらないの? じゃあ、ここ置いとくね」
子どもは瓶を、ハンスの手の届くところの草の上に置いた。中の液体が、霧の光を受けて小さく揺れる。ハンスは、それを見ようともしない。
「……リーゼ」
ハンスの目は、骸骨から離れない。
「そいつにも、返事をするな」
低い声だ。
「言葉を話す魔物は、みんな同じだ。さっきのを見ただろう。話しかけてくるやつには、話しかけてくる理由がある。返事をしたら、終わりだ」
骸骨は、何も言わない。
ただ、そこに立っている。杖を持ち、霧の中に、黙って。赤い光がハンスの方を向き、それからリーゼの方を向く。
リーゼは、その光を見返した。
あの子の目は、泣いていても乾いていた。見ていたのは、リーゼの首ばかりだ。
この骸骨の目は、何を見ているのだろう。骨の穴の奥の光からは、何もわからない。わからないけれど、少なくとも首は見ていない。リーゼの顔の、真ん中のあたりを見ている。
それに、この骸骨は、まだ一度もリーゼに話しかけていない。
「……あなたも、魔族?」
声が出た。
ハンスが、うめくように彼女の名前を呼ぶ。
骸骨は、しばらく黙っていた。答えを探しているように見える。そんなはずはないのに、困っているようにさえ見える。
「……アインズ・ウール・ゴウン」
やがて、低い声でそう言った。
「それが、私の名だ」
答えになっていない、とリーゼは思う。魔族かどうかを聞いたのに、名前が返ってきた。
でも、あの子は最初から名乗った。ヴィーゲ、と。聞かれもしないのに。
この骸骨は、聞かれてから名乗った。
「アインズ……ウール、ゴウン」
舌の上で、ひとつずつ転がしてみる。聞いたことのない響きだ。どこの国の言葉かもわからない。
骸骨が、ほんのわずかに顔を上げた。
まるで、遠くで誰かに呼ばれたのを聞いたように。そして、しばらくそのまま動かない。
リーゼには、その意味がわからない。わからないまま、籠を抱え直す。
『呼ばれたら、ちゃんと返事をしなさい』と母は言った。
骸骨は、リーゼを呼んではいない。名前をひとつ、霧の中に置いただけだ。
「わたしは、リーゼ」
リーゼは、名乗った。
霧の向こうで、啄木鳥がまた、木を叩きはじめる。
回想で話している場面をわかりやすくするために『』を追加しました