白い骨と長い耳   作:霧中墓守

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第3話 言葉を話す魔物

 骸骨は、それ以上何も言わなかった。

 名乗り合ったあと、しばらく霧の中に立っていて、それから隣の子どもに短く何か言った。子どもが「はーい」と答える。次の瞬間には、二人ともいない。足音も、草の揺れる音もしなかった。

 楢の根元には、ハンスと、草の上の小さな瓶と、リーゼだけが残っている。

「……行ったか」

 ハンスが、幹に背を預けたまま言う。

「うん」

「本当に、行ったか」

 リーゼは霧の奥を見た。骸骨の立っていたあたりには、羊歯が揺れているだけだ。

「たぶん」

 ハンスは長い息を吐き、それから歯を食いしばって立ち上がろうとする。左腕をかばい、右手で幹をつかみ、二度しくじって、三度目でようやく膝が伸びた。

「斧は」

「あそこ」

 少し離れた草の上に、斧が落ちている。リーゼが取りに行こうとすると、ハンスは首を振った。

「いい。置いていく」

「でも、ハンスの斧でしょう」

「あれを触ったのが、あの子どもだ」

 ハンスは、それ以上言わなかった。言わなくても、リーゼにはわかる。角のある子が、柄を片手でつかんだ斧だ。

 ハンスが先に歩き出す。足を引きずって、来た道を北へ。

 リーゼは、一度だけ振り返った。

 草の上で、瓶が霧の光を受けている。指の長さほどの、細い瓶。栓は固く締めてある。

 ハンスは振り向かない。

 リーゼはしゃがんで瓶を拾い、籠の底の、茸の下に押し込んだ。羊歯の葉の縁で、指先が少し切れる。血は、ほんの少ししか出ない。

 

 帰り道は、行きの倍かかった。

 ハンスは何度も立ち止まり、そのたびに南を振り返る。何も追ってこないとわかっていても、振り返る。リーゼも振り返る。霧の中に木が並んでいるだけで、骸骨も、耳の長い子どももいない。

 伐り場で、ハンスは足を止めた。

 もともと、ここを見に来たのだ。昨夜の地鳴りで、木が倒れていないかを。

 倒れている木は、一本もない。伐りかけの楢も、積んでおいた丸太も、昨日の夕方に見たときのままだ。地面が割れたあともない。

「……丘が、ひと晩で生えたってのに」

 ハンスは、伐り株の一つに右手をついた。

「木が一本も倒れてねえ。そんなこと、あるか」

 リーゼにはわからない。わからないけれど、ハンスがそれを怖がっているのはわかる。丘が生えたことより、何も壊さずに生えたことの方を。

 伐り場を過ぎたあたりで、ハンスがぽつりと言った。

「あいつ、なんで名乗ったんだろうな」

 リーゼは答えなかった。答えを知らない。

「魔族は名乗るもんだと、婆さんが言ってた。名前を教えて、こっちの名前を聞き出す。名前を知られたら終わりだって」

 ハンスの声が、少し揺れている。

「お前、名乗ったよな」

「……うん」

「なんで名乗った」

 リーゼは籠の取っ手を握り直した。籠の底で、瓶が茸にくるまれて、小さく転がる。

「呼ばれてなかったから」

 ハンスが、眉を寄せてリーゼを見る。

 うまく言えない。呼ばれていないのに名乗ったのは、呼ばれて返事をしたのとは違う。リーゼの中ではそうなのだが、それを口にすると、ひどく子どもっぽい理屈に聞こえる。

「……もういい」

 ハンスは前を向いて、また歩き出した。

 

◇

 

 村の柵が見えたとき、昼はとうに過ぎていた。

 最初に気づいたのはハンスの犬で、柵の隙間から飛び出してきて、ハンスの足にまとわりつく。ハンスは右手で犬の頭を一度だけ撫で、そのまま柵をくぐる。

 畑にいた者が顔を上げる。井戸端の女たちが手を止める。誰かが、村長を呼べ、と言った。

 父は鍬を放り出して走ってきた。ハンスの腕を見て、それからリーゼの顔を見る。リーゼの顔のどこかに怪我がないかを探す目だ。見つからないとわかると、父は少しだけ肩を下げた。

「何があった」

 ハンスは、村の真ん中の切り株に腰を下ろしてから話しはじめた。

 丘のこと。昨日までなかった丘。角のある子ども。十日前に北の森の縁で見たのと同じやつが、南の森に回っていたこと。斧をつかまれたこと。飛ばされたこと。それから、何もないところから現れた、骨の魔物のこと。

「骨?」

 誰かが聞き返す。

「骸骨だ。黒いローブを着て、目のところが赤く光ってた。杖を持ってた。手をこう、握っただけで、あの子どもが粉になって消えた」

 ハンスは、右手で空をつかむ仕草をした。

「それと、耳の長いガキが一匹。骸骨の言うことを聞いてた」

 家の前の腰掛けで日に当たっていたベルタ婆が、そのとき、ゆっくりと顔を上げた。見えない目を、ハンスの声のする方へ向けている。何か言うかと思ったが、婆は何も言わずに、また頭を垂れた。

 誰も、何も言わない。

 洗濯物を抱えたまま立っていた粉屋のおかみが、ぽつりと言った。

「……魔族の王さまだ」

 その言葉が、ゆっくり村じゅうに広がっていく。魔族の王。角の子どもを一瞬で消せるなら、もっと上の魔族だ。上の魔族が、手下の子どもを始末しに来たのだ。いや、手下を取られて怒っているのだ。違う、この村を自分のものにしに来たのだ。

 話すたびに、骸骨は大きくなる。

 リーゼは、黙って聞いている。

 骸骨は、子どもの形をしたものから、リーゼを庇うように立っていた。最初は『動くな』と言い、すぐに『下がっていてくれ』と言い直していた。

 そのことを言おうとして、口を開きかけ、やめる。

 言えば、「それが魔族の手だ」と言われるだろう。ハンスがそう言ったように。そして、たぶん、それは正しい。

 

 日が傾くころには、村の子どもたちが骸骨ごっこを始めていた。

 粉屋の末っ子のトーマスが、母親の黒い前掛けを頭からかぶって、両手を前に突き出している。ほかの子どもたちが、きゃあきゃあ言いながら逃げ回る。トーマスが「えいっ」と手を握るたびに、誰かが大げさに倒れてみせ、「粉になったあ」と言って地面を転がる。

 リーゼは井戸端で茸の泥を落としながら、それを見ていた。

 昨日の朝までは、魔族ごっこだった。角に見立てた小枝を頭に挿した子が、ほかの子を追いかける。追われる子は、「返事しない、返事しない」と唱えながら逃げる。ハンスが森の縁で角の子を見てから、村の子どもの遊びはそれになっていた。

 それが一日で、骸骨に入れ替わっている。

「リーゼねえちゃん、骸骨、見たんでしょ」

 トーマスが、前掛けをかぶったまま駆け寄ってくる。

「どのくらい大きかった? 家くらい?」

「……お父さんくらい」

「なあんだ」

 がっかりした顔をして、トーマスはまた子どもたちの方へ走っていく。家くらいの骸骨のつもりで、両手をうんと高く上げながら。

 戸口から、トーマスの母親が鋭く名前を呼んだ。駆け寄って前掛けをひったくり、トーマスの頭をはたく。トーマスは泣き出し、骸骨ごっこはそれで終わる。

 母親は、はたいた手を、しばらく握ったままでいた。そのこぶしが震えているのを、リーゼは見た。

 井戸端からの帰り、粉屋の裏を通ると、フリッツが荷車の車輪に油を差している。リーゼに気づくと、手を止めずに顎だけで挨拶をする。

 月の終わりには、まだ十日以上ある。

 

◇

 

 夜になって、村長の家に大人たちが集まってくる。

 いつもなら、麦の刈り入れの相談か、誰かの家の屋根の葺き替えの相談に使う部屋だ。今夜は壁際まで人で埋まって、炉の火が人いきれで揺れている。リーゼは台所との境の戸口にしゃがんで、膝を抱えていた。

 最初に出たのは、村を捨てて南へ逃げるという話だ。

 言い出したのは若い者で、すぐに年寄りたちが首を振った。逃げてどこへ行く。南の街に、二十軒の家が転がり込める場所があるか。畑はどうする。冬はどうする。

「墓は、どうする」

 誰かがそう言うと、部屋が少し静かになった。

 村の墓は、北の森の縁にある。リーゼの母も、そこにいる。

 逃げる話は、それで終わった。代わりに出てきたのが、もう一つの話だ。

 南へ知らせを出すか、出さないか。話は、そこで二つに割れた。

 南へ二日歩けば、グラナト伯爵の領地の街がある。伯爵には兵がいる。魔法使いもいるらしい。知らせを出せば、誰かが来てくれるかもしれない。

「来てくれるもんか」

 鍛冶屋のじいさんが、炉の前で唾を吐いた。

「北の村のために、伯爵さまが兵を出すかね。息子を魔族に殺されてから、あのお人は魔族と聞くだけで目の色が変わるそうだが、目の色を変えるのと兵を出すのとは別だ」

「でも、黙ってたら」

「黙ってりゃ、骸骨は村に来ねえかもしれん。知らせを出して、兵が来て、兵が丘をつついたら、どうなる。つつかれた骸骨は、どこに怒る」

「なら、俺が行く」

 戸口の近くで立ち上がったのは、粉屋の上の息子のフリッツだ。十七になったばかりで、去年から南の街へ粉を売りに行く役を任されている。

「どうせ月の終わりには粉を売りに行くんだ。それを少し早めるだけでいい。伯爵さまの館に駆け込むわけじゃない。街の衛兵に、こういうことがあったと話すだけだ。兵を出すかどうかは、向こうが決めればいい」

「話が勝手に大きくなるぞ」

 鍛冶屋のじいさんが言う。

「街の連中は、北の村の話を面白がる。お前が骸骨と言えば、三日後には骸骨の軍勢になってる」

「じゃあ、黙ってろって言うのか」

「誰も、そうは言っとらん」

 声が重なり、炉の火の上で言葉がぶつかる。粉屋のおかみが息子の袖を引いて座らせようとするが、フリッツは座らない。

 やがて、言い合う声も尽きて、部屋が静かになる。

 父は、炉の向こうで腕を組んでいた。村長というのは、こういうときに何かを決める役目だ。決めた結果が悪ければ、村長のせいになる。父はそれを知っている。知っているから、まだ何も言わない。

 沈黙を割ったのは、部屋の隅から聞こえた、しわがれた笑い声だった。

「ふ、ふ」

 ベルタ婆だ。

 村でいちばんの年寄りで、腰が曲がって、目がほとんど見えない。いつもは寄り合いに来ても、炉の脇で居眠りをしている。今夜も、さっきまでは眠っているように見えた。

「何がおかしい、婆さん」

「おかしかないよ。昔のことを思い出しただけさ」

 ベルタ婆は、白く濁った目を、誰もいない天井の方へ向けた。

「あたしが、そこのリーゼくらいの歳だったころ。この村に、魔法使いが来たことがあってね」

 何人かが、またか、という顔をする。婆の昔話は長い。

 けれども、今夜は誰も止めなかった。

「耳の長い女の子だったよ。見た目は、あたしと同じくらいの歳でさ。髪が白くて、杖を持ってた。千年生きてるんだと言ってたけど、あたしは嘘だと思った。千年生きた人が、あんなにぼんやりした顔をしてるもんかね」

 戸口で、リーゼは顔を上げた。

 耳の長い人。千年。旅の人から聞いた話と、同じだ。

「その子がね、村に着くなり、何て聞いたと思う」

 ベルタ婆は、くっくっと喉を鳴らした。

「『宝箱はあるか』って」

 部屋のどこかで、誰かが小さく吹き出した。

「ないって言ったら、ずいぶんがっかりしてさ。それから、この村に古い魔法は伝わってないかって。うちのばあさまが、茸のありかを当てる魔法を知ってたんだよ。ほんのちょっとした、子どもだましの魔法さ。それを教えたら、その子は、銀貨を三枚も置いていった。茸の魔法に、銀貨三枚」

 今度は、何人もが笑う。炉の火が、笑い声で少し大きく揺れる。父も、組んでいた腕をわずかに緩めている。

「その子はね、教わった魔法を、その場で使ってみせたんだよ。村の裏の森で、杖を振って、何かむにゃむにゃ言って、こっちだって歩きだして」

「茸は出たのかい」

 鍛冶屋のじいさんが、口を挟む。

「出たよ。一本だけ。しなびたのが」

 ベルタ婆は、曲がった指を一本立ててみせた。

「その子は、それを大事そうに手のひらに載せて、『いい魔法だね』って言ったんだ。お世辞だと思ったよ。でも、お世辞を言ってる顔じゃなかった」

 ベルタ婆は、笑いが収まるのを待ってから、少し声を落とした。

「その子が、村を出るときに言ったんだよ。『北の方には、魔族がいる。魔族に会ったら、話をしちゃいけないよ』って」

 部屋が、また静かになる。

「あれは言葉を話す魔物だ。言葉で人を食う。可哀想な声を出したら、それは人を食うための声だ。名前を呼ばれても、振り向いちゃいけない」

 婆の濁った目が、ふらふらと部屋の中を泳ぐ。

「宝箱で喜ぶような、ぼんやりした子がさ。そのときだけは、ちっともぼんやりしてなかった」

 

 寄り合いは、結局、何も決めずに終わった。

 フリッツは、誰よりも先に戸口を出ていった。母親が呼んでも、振り返らずに。

 知らせを出すかどうかは、明日の朝もう一度話す。それまで、誰も南の森へは入らない。決まったのはそれだけだ。

 大人たちが一人ずつ帰っていく。最後にハンスが立ち上がろうとして、顔をしかめた。

 左腕が、昼よりも太い。肘から下が、腫れて袖を押し上げている。顔が赤い。額に汗が浮いている。

「熱があるな」

 父が言った。ハンスの額に手を当てて、すぐに離す。

「今夜はここで寝ろ。家まで歩かせられん」

 ハンスは何か言いかけたが、言い返す力がもうないようだった。父とリーゼで両脇を支えて、炉の脇の藁の上に寝かせる。父が濡らした布を額に載せる。ハンスは目を閉じ、浅い息を繰り返しはじめた。

「骨が、ずれてるかもしれん」

 父が、ハンスの腕を見下ろしながら、低く言う。

「明日、婆さんに見てもらう。添え木を当てて……」

 そこで言葉が切れる。添え木を当てて、それで治るかどうか。治らなかったら、ハンスはもう斧を振れない。木こりが斧を振れなければ、どうなるのか。父はそれを口にしない。

「もう寝ろ」

 父は、リーゼの方を見ずにそう言った。

 リーゼは寝床へ行かず、炉の燃えさしを火箸でならしている父の背中を見ていた。

「……知らせ、出すの」

「わからん」

 父は火箸を置く。

「出しても、出さなくても、何かが起きる。どっちが軽いかは、起きてみるまでわからん」

 それから、ようやくリーゼの方を振り向いた。

「お前は、あの骸骨と話したのか」

 少し考えてから、リーゼは頷く。

「名前を聞かれて、名前を言っただけ」

 本当は、聞かれてはいない。けれども、そう言った方が父の顔が楽になる気がした。

 父は何か言いかけて、口を閉じる。

「……ハンスが、お前を連れて帰ってくれた」

 それだけ言って、父は藁の上のハンスに目を移した。

 

◇

 

 夜の井戸は、昼より水の音が高い。

 リーゼは、桶を抱えて井戸の縁に腰かけていた。桶の中には、水ではなく、籠から出した瓶が入っている。

 月が細い。霧は、昨夜よりも薄い。

 瓶を、月にかざしてみる。中の液体は、とろりとしていて、見る角度によって色が変わるように見える。栓には、細い紐が何重にも巻いてある。紐の結び目は、リーゼの知らない結び方だ。あの骨の指で、こんな細かい結び目が結べるのだろうか。結んだのは、たぶん耳の長い子の方だろう。

 『飲んで。腕、治るから』

 耳の長い子どもは、そう言った。あっさりと。茸の在りかを教えるような声で。

 可哀想な声は人を食うための声だ、とベルタ婆は言った。

 あの子どもは、可哀想な声は出していない。ハンスが受け取らなかったときも、『いらないの? じゃあ、ここ置いとくね』と言っただけだ。

 リーゼは瓶を膝の上に置く。

 母のことを思い出す。

 母が寝ついたのは、三年前の冬。咳が止まらなくなって、熱が下がらなくなって、春になる前に、目を覚まさなくなった。南の街まで薬を買いに行こう、と父が言い出したことがある。母の返事は、いいよ、だった。『二日かけて行って、二日かけて帰ってくるあいだに、雪で道が塞がるかもしれない。あんたが雪の中で動けなくなったら、リーゼはどうするの』

 だから、父は行かなかった。

 行かなかったことを、父は今も口にしない。リーゼも、口にしない。もし行っていたら。もし薬があったら。その「もし」は、家の中のどこかに、ずっと置いたままになっている。

 瓶は、ひとつだけだ。

 飲ませて、ハンスが角を生やしたら。目が赤く光るようになったら。

 飲ませなくて、三年前の冬と同じことが起きたら。

 リーゼは、紐の端をつまんだ。

 知らない結び方だったけれど、引くと、するするとほどけた。まるで、ほどかれるためにそう結んであったように。栓を抜く。匂いはしない。薬草の匂いも、酒の匂いもしない。

 瓶を傾けて、指先に一滴だけ落とした。

 冷たくも、温かくもない。少しだけ迷ってから、その指を舐める。

 味はしない。

 井戸の縁に座ったまま、リーゼは待った。百まで数える。角は生えてこない。目の奥も熱くならない。ただ、森で羊歯の葉に切られた指先の傷が、いつの間にか、どこにもない。

 その指を、リーゼはしばらく月にかざしていた。

 栓を戻して、立ち上がる。

 

 炉の火は、熾火になっていた。

 ハンスは藁の上で、顔を赤くして眠っている。父は、隣の部屋で寝ているはずだ。いびきが、戸の向こうから聞こえる。

 リーゼはハンスの枕元に膝をつき、もう一度、栓を抜いた。

 口元に、瓶を寄せる。

「……ハンス」

 小さく呼ぶ。返事はない。眠っている。

 ハンスは、怒るだろう。目が覚めて、知ったら、きっと怒る。それでいい、と思う。怒れるなら、それでいい。

 瓶を傾けた。

 液体が、ハンスの唇のあいだに流れ込む。ハンスの喉が、眠ったまま一度だけ動いた。

 それだけだった。

 光りもしない。煙も出ない。ハンスは角を生やさないし、目を開けもしない。ただ、浅かった息が、少しずつ深くなっていく。赤かった顔から、ゆっくりと赤みが引いていく。

 腫れていた左腕が、リーゼの見ている前で、細くなった。

 袖の中で、何かがかすかに鳴った。骨が、元の場所に収まる音だ、とリーゼは思う。そんな音を聞いたことはないのに、そうだとわかる。

 リーゼは空になった瓶を握ったまま、しばらくそこに座っていた。

 怖いのか、嬉しいのか、わからない。わからないまま、手が震えている。

 空の瓶を前掛けの物入れにしまい、リーゼは外へ出た。

 村は眠っている。南の森は、黒い。昨日の夜と同じように、何も見えない。

 遠くで、何かが軋む音がした。荷車の車輪のような音。すぐに霧に吸われて、聞こえなくなる。

 足元に、温かいものが寄ってきた。ハンスの犬だ。主人のいない家の戸口で、ひと晩じゅう待っていたのだろう。犬はリーゼの膝に鼻を押しつけ、それから並んで座り、南を向いた。

 吠えない。尻尾も下げていない。ただ、南を見ている。

 

◇

 

 朝、リーゼを起こしたのは、ハンスの声だった。

「なんだ、これ」

 台所の藁の上で、ハンスが座っている。左腕を胸の前に持ち上げ、手を握ったり開いたりしている。指は全部、ちゃんと動く。肘も曲がる。袖をまくると、昨夜あれほど腫れていた肌が、何もなかったように平らだった。

「治ってる」

 ハンスが、ぼんやりと言う。

 そばにあった水桶を、左手一本で持ち上げてみる。なみなみと水の入った桶が、肩の高さまで上がる。ハンスは桶を下ろし、もう一度持ち上げ、また下ろした。

「なんでだ。骨が、ずれてたはずだ。俺は、自分の骨の音を聞いたんだ」

 父も起きてきて、ハンスの腕を見て、言葉を失っている。

 リーゼは、戸口に立っていた。手の中に、空の瓶がある。隠そうと思えば隠せた。隠さなかった。

 ハンスの目が、リーゼの手に止まる。

 瓶を見る。それから、リーゼの顔を見る。

「……飲ませたのか」

 低い声だった。

「うん」

「あいつらの、薬を」

「うん」

 ハンスは、しばらく何も言わなかった。治った左手で、自分の右の手首をつかんでいる。そうしないと、何かに手を伸ばしてしまうのを、こらえているように見える。

「返事をするなと、言ったろう」

「言った」

「お前は、返事をしたんだ。あいつらに」

 リーゼは、首を振ろうとして、やめた。

 ハンスの言うとおりなのかもしれない。草の上に置いていかれた瓶を拾ったのは、置いていった者への返事だったのかもしれない。

 ハンスは、それから急に、リーゼの方へ顔を突き出した。

「俺の目、どうなってる」

「え」

「赤くねえか。光ってねえか」

 リーゼは、ハンスの目を覗き込んだ。いつもの、茶色い目だ。寝不足で少し血走っているけれど、光ってはいない。

「……いつもと同じ」

「角は」

「ない」

 ハンスは、自分の頭を右手で撫で回した。それから、ようやく息を吐く。安心した息なのか、そうでないのか、リーゼにはわからない。

「ハンスが、死ぬと思った」

 それだけ、言った。

 ハンスの顔が、くしゃりと歪んだ。怒った顔ではない。怒る前に、何かが崩れた顔だった。

 父が、ハンスの肩に手を置く。ハンスは振り払わなかった。

「……斧、取りに行かねえと」

 治った手を見下ろしたまま、ハンスがぽつりと言う。森に置いていく、と言ったのは、昨日のハンスだ。

 戸口に、粉屋のおかみが駆け込んできたのは、そのすぐあとだ。

「村長、フリッツを見なかったかい」

 息が切れている。寝間着の上に、肩掛けを引っかけただけの格好だ。

「朝起きたら、寝床が空でさ。納屋の荷車もない。粉の袋も、三つ足りない」

 父の顔が、すっと固くなる。

 南の街へ粉を売りに行く荷車だ。寄り合いでは、何も決まっていない。決まらないうちに、フリッツは自分で決めて出て行ったのだ。夜のうちに。誰も南の森へ入るなと言われた、その道を通って。

「……街道までは、一刻だ」

 父は、自分に言い聞かせるように言った。

「街道に出れば、昼は人も通る。あいつは道を知ってる」

 粉屋のおかみは、何も答えない。肩掛けの端を、両手で握りしめている。

「……俺が、街道まで見てくる」

 父はそう言って、上着を取りに奥へ入りかけた。

 

 犬が吠えたのは、そのときだ。

 一匹が吠え、すぐに村じゅうの犬が吠えはじめる。昨日の朝と、同じ吠え方だ。南を向いて、尻尾を下げて。

 父が戸を開けて、外に出る。リーゼも続く。ハンスも、治ったばかりの腕をかばいながら出てくる。

 村の南の柵の外に、男が一人、立っていた。

 白い髪と、白い髭。黒い服。背筋が、柵の杭よりもまっすぐに伸びている。歳は、ベルタ婆と同じくらいに見える。けれども、ベルタ婆のように腰は曲がっていない。

 男は、両手で何かを捧げ持っていた。

 斧だ。

 ハンスの斧。森の草の上に置いてきた、柄の古い斧。刃が、朝の光を受けて光っている。きれいに拭われて、柄の泥まで落としてある。

 村人たちが、家々の戸口から、遠巻きにその男を見ている。鍛冶屋のじいさんが、鍛冶場の前で火掻き棒を握っている。誰も柵に近づかない。犬だけが吠えつづけている。

 男は、柵の内側へ入ろうとしなかった。犬が吠えても、身じろぎもしない。ただ、斧を捧げ持ったまま、柵の外に立っている。いつからそこにいたのか、誰も知らない。

 ハンスの犬だけが、途中でふっと吠えるのをやめて、男の方を見たまま座り込んだ。

 男の立っているのは、南へ抜ける森の道の、ちょうど入り口だ。夜のうちに、フリッツが荷車を引いて出て行った道。父がこれから、上着を着て行こうとしていた道。

 父が、柵の方へ歩き出した。

 リーゼは父の背中を追った。追いながら、どうして自分が追っているのかは、わからない。

 柵の手前で、父は止まる。男との間には、杭が一本あるだけだ。

「……何の用だ」

 父の声は、低く、かすれている。

 男は、静かに頭を下げた。深く、ゆっくりと。腰から折るような、リーゼが見たこともない頭の下げ方だった。

「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。私、アインズ・ウール・ゴウン様にお仕えする者でございます」

 その名前に、後ろでハンスが息を呑むのがわかった。

「昨日、森でこちらの方がお忘れになった品を、お届けにまいりました」

 男が顔を上げる。皺の刻まれた顔に、穏やかな目がある。その目が、父の後ろのハンスの左腕に、一瞬だけ止まる。

 止まって、何も言わずに離れた。

「主より、この地のことをお教えいただけないか、と言付かっております。もちろん、ご迷惑でなければ、でございますが」

 父は、すぐには答えなかった。杭を握った手に、力がこもっている。

「……あの骸骨は、魔族の王か」

 男は、ほんのわずかに首を傾げた。

「魔族、というものを、私どもはまだよく存じ上げません。昨日、森で一体を見たきりでございます」

「見たきり」

「はい。主も、同じでございます。ですから、お教えいただきたいのです。この地に何があり、何がいて、何が恐ろしいのかを」

「聞いて、どうする」

「主が、お決めになります」

 男は、少しも迷わずに答えた。

「……南へ、荷車を引いた若いのが行ったはずだ。見なかったか」

 父の声が、少しだけ速くなる。

「森の道に、轍がございました。夜のうちのものと拝見いたします」

「それで」

「それだけでございます」

 男の声は、穏やかなままだ。

 轍のことしか、言わない。フリッツのことは、何も言わない。

 家々の戸口の方で、誰かがしゃがみこむ気配がする。粉屋のおかみだ、とリーゼにはわかる。振り返らなくても。

 リーゼは、父の隣に出た。

「あなたも、魔族ですか」

 昨日、骸骨にしたのと同じ問いだ。

 男は、リーゼを見下ろした。その目には、魔族の子どもの目のような乾いたものはない。骸骨の目のような、何もわからない光でもない。ただの、人の目に見える。

 それが、かえって怖かった。

「いいえ」

 男は、穏やかに言った。

「私は、執事でございます」

 リーゼは、父を見上げる。

「……執事って、何」

 父は、口を開きかけて、閉じた。

 柵の向こうで、男は斧を捧げ持ったまま、まだ立っている。

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