「ご苦労」
執務室で一人、アインズは口の中で言ってみた。
少し高い。もう一度。「ご苦労」。今度は低すぎて、怒っているように聞こえる。三度目で、ようやく、部長が年度末の挨拶で言っていたときの調子に近づいた。
(新人研修か、これは)
部下の報告を労う一言を、骸骨が鏡もない部屋で練習している。誰かに見られたら、たぶんナザリックの威信が傾く。
扉が叩かれたのは、四度目を言いかけたときだ。アルベドが、デミウルゴスとアウラを連れて入ってくる。セバスが戻った、という。
セバスが戻ったのは、地表の日がだいぶ傾いてからだった。
執務室の扉の前で一礼し、机の前まで進んで、もう一度頭を下げる。燕尾服の裾に、乾いた泥がわずかについている。セバスの服が汚れているのを、アインズは初めて見る。膝から下の泥は、柵の前に立っていただけではつかない高さだ。
「ただいま戻りました」
「ご苦労。話せ」
机の脇にはアルベドが、窓のない壁の前にはデミウルゴスが控えている。アウラは来客用の長椅子の端で、足をぶらぶらさせていた。座っていいとは誰も言っていないが、誰も咎めない。
「斧は、お届けいたしました」
「受け取ったか」
「村長の方が、受け取られました。持ち主の木こりの方は、最後まで手を出されませんでした」
アインズは頷く。
斧を返せ、と命じたのはアインズだ。村へ行く理由が要る。何の用もなく骸骨の使いが柵の前に立てば、村人は戸を閉めるだけだろう。落とし物を届けに来た、という形なら、少なくとも戸口までは出てくる。
「話は聞けたか」
「はい。初めは、どなたも口を開かれませんでしたが」
セバスは、ほんの少しだけ言いよどむ。
「昼過ぎに、ご年配の女性が一人、杖をついて柵のところまで出てこられまして。目がほとんど見えない方でございました。私の袖をつかまれ、そのまま、二刻ほどお話を」
「二刻」
「はい。途中で村長の方が止めに入られましたが、お止めになりませんでした」
アウラが、長椅子の上で小さく吹き出す。
(……どこの世界にもいるんだな、ああいう人)
会社の給湯室に、一度つかまると昼休みが終わるまで離してくれない人がいた。仕事のことは何も教えてくれない。そのかわり、社内の誰と誰が揉めているかは、全部その人が知っていた。
「では、聞いたことを話せ」
セバスの報告は、要点だけで済む。
あの村はシュタウプという。南へ二日歩くとグラナト伯爵の治める街があり、この一帯はその伯爵の領地に含まれる。北へ行くほど魔族が多い。魔族とは、言葉を話す魔物のこと。人を食う。角がある。
八十年ほど前に、魔族を束ねる王がいた。勇者の一行がそれを倒し、勇者自身はもう死んで二十八年になる。勇者がいなくなってから、北の魔族がまた動きはじめているらしい。
「魔王が、いたのか」
「そのように伺いました。勇者の名は、ヒンメル様と」
アインズは、その名前を頭の中で一度転がしてみた。
聞いたことのない名前だ。ユグドラシルのどのイベントにも、どの攻略サイトにも、そんな名前は出てこない。ここがユグドラシルではないことは、もうわかっている。わかっていても、知らない名前が一つ増えるたびに、足元の板が一枚ずつ外れていくような心地がする。
「勇者の一行には、ほかに誰がいた」
「僧侶と、戦士と、魔法使い。魔法使いはエルフであったそうでございます」
長椅子のアウラが、耳をぴくりと動かす。
「その魔法使いが、ご年配の女性の子どもの頃に、村を訪れたことがあるとか。宝箱はないかと尋ね、茸を見つける魔法を、銀貨三枚で買っていったと」
「茸の魔法に、銀貨三枚」
デミウルゴスが、眼鏡の奥で目を細める。
「ずいぶんと、物好きな魔法使いですね」
「そのエルフは、千年生きているとも申していたそうで」
千年。
アインズの指が、机の上で止まった。
千年生きる者なら、千年分のことを知っている。この世界に、自分と同じように別のところから来た者がいたなら。自分の仲間が、ここへ来ていたなら。千年のあいだに一人くらい、その魔法使いの耳に入ってはいないだろうか。
「そのエルフの名は」
「ご年配の女性は、覚えておられませんでした。ただ、村を出るときに『魔族と話してはいけない』と言い残していった、と」
魔族と話してはいけない。
森で、ヴィーゲと話した。あれは確かに、話してはいけない相手だった。
「それから、その女性は、こうも申しておりました」
セバスが、少しだけ声の調子を変える。年寄りの口真似をしようとして、途中でやめたような調子だ。
「名乗る魔物は魔族と同じだ、と村の者は言う。けれども、村長の娘から聞いた話では、あの骸骨は、聞かれてから名乗ったそうだね、と」
「……それで」
「それだけでございます。それから、蕪の漬け方の話に移られました」
アウラが、また吹き出した。
アインズは、何も言わなかった。聞かれてから名乗ったのは、何と答えればいいのかわからなかったからだ。それを、どこかの村の目の見えない老婆が、魔族との違いとして覚えている。
「覚えておこう」
「なお、村の子どもたちが、骸骨の話をしておりました。家ほども大きい骸骨だ、と」
(盛られてる……)
一日で、骸骨は家の大きさになったらしい。
「それから」
セバスが、言葉を継ぐ。
「木こりの方の腕が、治っておりました」
アウラが、長椅子から跳ね起きる。
「あ、飲んだんだ! アインズ様が、置いてけって言ったやつ」
「直接お伺いしたわけではございませんが、昨日、骨が外れていたはずの腕を、普通に動かしておられました。娘さんの方が、空の瓶を前掛けに入れておいでで」
「娘の方が飲ませたのか」
デミウルゴスが、興味深そうに言う。
「受け取りを拒んだ本人ではなく、名乗り返した娘が。なるほど。あの村で最初にこちらへ手を伸ばしたのは、あの娘ということになりますね」
アインズは、森でのことを思い出す。
木こりの腕を見てから、隣のアウラに短く言った。
『薬をやれ。受け取らなければ、置いてこい』
確か、そう言った。
あのとき、何を考えていたのだろう。この村に恩を売っておけば、あとで話を聞くときに役に立つ。そう考えたような気もする。骨の外れた腕を抱えて震えている男を、ただ見ていられなかっただけのような気もする。
どちらだったのか、もう、はっきりとは思い出せない。
どちらにしても、村の戸は一つ開いた。
「もう一つ、ご報告がございます」
セバスの声が、わずかに低くなる。
「村の若い方が一人、夜のうちに荷車を引いて、南へ出ていかれました。今朝、母親の方がたいそう取り乱しておいででした」
「あ、それ、あたしの子が見てます」
アウラが手を挙げる。
「夜中に、荷車がごろごろ森の道を通ってったんです。うちの狼が一匹、ずっと後ろについてって。街道に出て、南へ曲がって、そのまま朝まで歩いてました。今もたぶん歩いてます。生きてますよ」
生きている。
アインズは、それを聞いて頷いた。
「行き先は、伯爵の街か」
「たぶん。荷車に粉の袋を積んでました」
「セバス。お前の裾の泥は、その道か」
セバスは、ほんのわずかに目を伏せた。
「はい。柵の前を辞したあと、轍を街道まで辿ってまいりました。勝手をいたしました」
「何か見つけたか」
「いえ。轍が街道に出て、南へ曲がっているのを確かめただけでございます」
セバスは、それ以上何も言わない。
轍を確かめるだけなら、アウラの狼の報告で足りた。セバスは、それを知らずに辿ったのだろう。あるいは、知っていても辿ったのか。
「その若者は、街で何を話すでしょうね」
デミウルゴスが、穏やかに言う。
「森で骸骨を見た。骸骨が魔族を消した。骸骨の使いが村に来た。伯爵とやらの耳に入れば、兵か、魔法使いか、何かが北へ向かってくるかもしれません。今のうちに始末いたしますか。それとも、連れ戻しますか」
昨日アウラが言ったのと、同じ選択肢だ。連れて帰るか、置いていくか。言い方が丁寧になっただけで、中身は変わらない。
「放っておけ」
アインズは言った。
「街で、骸骨の話をさせろ。噂というのは、勝手に大きくなる。北の森に骸骨の王がいる。魔族を指一本で消した。そういう噂が大きくなれば、遠くまで届く」
遠くまで届けば、と、アインズは心の中で続ける。
もしもこの世界のどこかに、ギルドの仲間がいたなら。骸骨の魔法使いの噂を聞いて、思い当たる者が一人くらいはいるかもしれない。アインズ・ウール・ゴウンという名前と一緒に届けば、なおいい。
「……なるほど」
デミウルゴスが、ゆっくりと息を吐く。
「あえて噂を泳がせ、伯爵とやらに先に動かせる。こちらは丘の中で、相手の兵の数、魔法使いの格、動きの速さをすべて測れる。しかも、こちらから一歩も出ずに。人間一人を殺さずにおくだけで、それだけのものが手に入る」
(そこまで考えてない)
考えていないが、言われてみると、悪くない気もする。
「……そういうことだ」
「承知いたしました。では、その若者には、誰も手を出さぬように」
デミウルゴスが一礼する。アルベドも、アウラも続く。
セバスだけが、頭を下げる前に、一度だけ口を開いた。
「アインズ様。一つ、お許しをいただきたいことがございます」
「何だ」
「その若い方が無事であることを、村の母親の方に、お伝えしてもよろしいでしょうか」
執務室が、少し静かになる。
アインズは、セバスの顔を見た。皺の刻まれた顔に、何の色も浮かんでいない。ただ、まっすぐにこちらを見ている。
母親が取り乱していた、とセバスは言った。柵の向こうで、誰かがしゃがみこんだのかもしれない。
「必要ない」
アインズは言った。
「村の者たちは、骸骨を恐れている。恐れている方が、こちらの話をよく聞く。若者が無事だと知れば、少しは安心するだろう。安心すれば、また南へ知らせを出そうとする者が出る。今は、恐れさせておけ」
セバスは、何も言わない。
しばらくして、深く頭を下げる。
「かしこまりました」
それきり、セバスは顔を上げなかった。アインズが次の話に移るまで、ずっと。
「次だ」
アインズは言った。
「アウラ、警戒網の報告を」
◇
警戒網の報告が終わると、デミウルゴスが一つ願い出た。
「森で倒された魔族のことでございます。死体が残らなかったと伺いました。できれば、一体、生きたまま調べたい。この世界の魔族が何でできているのか、どこまで言葉を理解しているのか。それがわからなければ、北の勢力を測りようがございません」
アインズは、空になった自分の手を思い出す。
森で、あの子どもの形をしたものを握り潰したとき。死体が残らないと知って、最初に浮かんだのは、素材が取れないということだった。それなら、最初から生かしておけばよかったのだ。殺す前に、デミウルゴスに見せればよかった。
「そうだな。私の落ち度だ」
「とんでもございません。あの場では、娘を守るのが先だったかと」
「守る必要は、なかった。生け捕りにした方が、得だった」
口から出た言葉に、アルベドが少しだけ目を見開く。デミウルゴスは、眼鏡の奥で何かを測るように瞬きをした。
アインズは《伝言》を開く。地表の守りについている者へ。
「シャルティア」
『はいでありんす! アインズ様、何なりと!』
頭の奥で、弾むような声がする。
「今夜も地表の警戒を頼む。もし何かが丘に近づいてきたら、一体でいい、生かしたまま連れてこい。言葉を話す相手なら、なおいい」
『かしこまりんした。一体と言わず、まとめて——』
「一体でいい」
『……はいでありんす』
声がしおれて、切れる。
守護者たちが下がったあと、アインズは一人で執務室に残った。
机の上には、何もない。書類も、ペンも、紅茶もない。骨の指を、天板の上に並べてみる。
村が一つ。情報源になる娘が一人。治癒薬が一本減った。街へ向かう若者が一人。噂は、これから大きくなる。
指は、それで足りた。
森で、体が先に動いたことを思い出す。
斧を担いだ男が、泣いている子どもの前に立っていた。それだけで、守らなければ、と体が動きかけた。アウラが袖をつかまなければ、膜の外へ飛び出していたかもしれない。
電車の中で泣いている子どもがいたら、何もできなくても、少しだけそちらを見る。あの狭い部屋で暮らしていた男には、そういうところがあった。骸骨の体のどこかに、まだその男がいる。
それでいい、とアインズは思う。
ギルドの会議でくだらない冗談に笑い、誰かのログインを待って夜更かしをしていたのは、その男だ。四十一人の顔と声を覚えているのも、その男だ。その男がいなくなったら、皆のことを、誰が覚えていてくれるのか。
だから、手放すつもりはない。
骨の指を、もう一度、天板の上に並べる。
さっき、セバスが母親のことを口にした。無事を伝えたいと言った。そのとき、その男が何か言ったかどうか。アインズには、思い出せない。
代わりに、千年生きるエルフのことを考える。
宝箱を探し、茸の魔法に銀貨を払い、魔族と話すなと言い残していった魔法使い。勇者の一行にいたという。勇者は死んで二十八年。僧侶と戦士も、人間なら、もう生きてはいないかもしれない。そのエルフだけが、仲間のいなくなった世界で、まだ旅をしているのだろうか。
アインズは、骨の指を一本ずつ折りながら、何かを数えようとして、やめた。
自分は、死なない。
千年生きるというそのエルフも、たぶん、そう簡単には死なない。
◇
夜の柵は、昼よりも低く見える。
リーゼは、井戸へ行く途中で足を止めた。南の柵の前に、誰かがしゃがんでいる。肩掛けを頭からかぶって、杭に額をつけるようにして。
粉屋のおかみだ。
朝、執事が立っていたのと同じ場所。森の道の、入り口。
おかみは、何かを口の中で繰り返していた。聞き取れない。名前を呼んでいるのかもしれないし、祈っているのかもしれない。
リーゼは、声をかけなかった。かける言葉を、持っていない。
森の道は暗く、轍の跡ももう見えない。その先に街道があって、街道の先に街がある。フリッツは、そこにいるのかもしれない。いないのかもしれない。執事は、轍のことしか言わなかった。
粉屋の戸が開いて、トーマスが顔を出す。母親の背中を見つけて、裸足のまま駆けてくる。おかみは顔を上げないまま、片腕でトーマスを抱き寄せた。
二人の上で、星が一つ、流れる。
リーゼは桶を抱え直して、井戸の方へ歩き出した。後ろで、おかみの声が少しだけ大きくなる。今度は、はっきりと聞こえた。
フリッツ、と。
◇
夜の墓地は退屈でありんす、とシャルティアは思っていた。
霊廟の屋根の上に腰を下ろし、膝を抱えて、森を見下ろしている。墳墓はマーレの魔法で土に埋もれ、地表に出ているのは霊廟の屋根と、まばらな墓石の頭だけ。そのまわりを、草と霧が覆っている。
昼間、アウラがアインズ様に呼ばれて執務室へ行ったことを、シャルティアは知っている。昨日、森へお供をしたのもアウラだ。今日の報告にも、アウラは長椅子に座って出ていたという。
わらわは、地表で、ずっと見張り。
見張りが大事なお役目だということは、わかっている。第一から第三階層を預かる守護者として、地表を守るのは当然のことだ。わかっているのだが。
口の中で、ちびすけばっかり、と呟きかけて、やめる。アインズ様が聞いているかもしれない。
霧の中で、何かが動いた。
シャルティアは顔を上げる。
北の丘の、枯れ木の上。小さな影が、枝の上に身を沈めている。翼のある、人の形。アウラの報告にあった、最初の夜の影と同じものだ。
見張り、でありんすね。
シャルティアは、影の方を見なかったふりをする。アインズ様は、最初の夜、あの影を追うなと命じられた。今夜は、何かが丘に近づいてきたら、と仰った。枯れ木の上の影は、まだ近づいてきていない。
しばらくして、森の奥から、別のものが来た。
四つ。霧の中を、まっすぐにこちらへ歩いてくる。足音を消そうともしていない。草を踏み、枝を折り、まるで自分の家の庭を歩くように、丘の裾まで来て止まる。
角がある。
四つとも、人の形をしている。背の高い男が二人、女が一人、それから腰に大きな鉈を下げた大柄な男が一人。服はこの国の人間の着るものに似ているが、どれも少しずつ古い。どこかで、誰かから取ってきたものなのだろう。
大柄な男が、丘を見上げる。
「ここだな」
「はい。ヴァッヘの報告どおりです」
背の高い男の一人が答える。
「魔力のない、大きな、石の何か。……今は、ただの丘ですね」
「埋まっただけだ。中にいる」
大柄な男は、丘の斜面を、足で軽く蹴った。
シャルティアの眉が、わずかに寄る。
「魔力がないということは、意志がないということだ。意志のない不死者は、ただの器にすぎない。アウラ様の天秤にかければ、すぐに兵になる」
大柄な男の声は、ひどく事務的だ。
「これだけ大きな器なら、千の兵より役に立つ。掘り出して、北へ運ぶ。今夜のうちに入り口だけでも見つけておけ」
「グロル様」
女が、霊廟の方を指さす。
「上に、何かいます」
四つの顔が、同時にこちらを向いた。
シャルティアは、屋根の上で立ち上がる。
黒いドレスの裾が、夜風に揺れる。銀色の髪が、月の光を受ける。深紅の瞳で、丘の裾の四つの影を見下ろす。
グロルと呼ばれた男は、しばらくシャルティアを見ていた。何かを探るように、目を細めている。
「……これも、魔力がないな」
グロルは、少しだけ首を傾げる。
「不死者か。小さいが、形はきれいだ。この丘の、付属品か何かだろう」
「付属品」
シャルティアは、その言葉を繰り返した。
「わらわを、付属品と申したでありんすか」
「言葉を話すのか」
グロルが、少しだけ眉を上げる。
「珍しいな。魔力のない死体が、言葉を話す。……まあいい。話せるなら、話は早い」
グロルは腰の鉈の柄に手を置いたまま、丁寧な口調に変える。
「我々は、断頭台のアウラ様の使いだ。アウラ様は今、北で不死の軍勢を集めておられる。お前と、お前の入っているこの器を、軍勢に迎え入れたい。アウラ様の軍に加われば、お前は永遠に戦える。朽ちることもない。誰かに埋められることもない」
死体。器。付属品。
シャルティアは、それらの言葉を一つずつ、頭の中で並べていく。
この者たちは、自分を数えている。兵として。死体として。アインズ様の御許にある、このナザリックを、ただの大きな器として。北の誰かの軍勢に、数を足すための。
「……ふふ」
喉から、笑いが漏れる。
その笑いが思っていたよりずっと低かったことに、シャルティアは自分で少しだけ驚いた。
「わらわを、数えたでありんすね」
「何?」
「わらわを、死体として。ナザリックを、器として。アインズ様の御許にあるものを、どこぞの北の女の、兵の数に」
グロルの顔から、丁寧な調子が抜ける。
「アウラ様を、女と呼んだか」
「アウラ?」
シャルティアは、首を傾げてみせる。
「ああ、そうでありんした。同じ名前の、ちびすけがもう一人おりんすね。あちらのちびすけの方が、まだ可愛げがありんす」
グロルが、鉈を抜いた。
ほかの三人も、それぞれに構えを取る。男の一人の手のひらに、光が集まりはじめる。この世界の魔法なのだろう。
シャルティアは、屋根を蹴った。
戦いは、短い。
最初の男の魔法は、光を細く撚って矢にするものらしい。放たれた矢は、シャルティアの胸に当たって、そのまま散る。肌には焦げ跡ひとつない。撃った男が、自分の手のひらを見下ろしている。その手のひらを、シャルティアは降りざまに、真紅の槍で貫いた。
貫いたところから、血は出なかった。
男の腕が、肩が、顔が、黒い粒になってほどけていく。槍の穂先には、何も残っていない。濡れてさえいない。
シャルティアの奥で、何かが少しだけ鎌首をもたげかけ、そのまま行き場をなくして沈んでいく。血の匂いがしない。熱もない。ただ、煤が舞うだけ。
なんと味気ないことでありんしょう、とシャルティアは思う。
背後で、女が地面に両手をついた。女の影が、墨を流したように草の上を走り、シャルティアの足首に絡みつく。絡みついたところから、影は石のように固くなっていく。足を縫いとめる魔法なのだろう。
シャルティアは、固まりかけた影ごと、足を一歩前へ出した。影が、薄い氷のように割れる。振り向きざまに、槍の石突きで女の顎を打ち上げる。女の体は霧の中へ飛び、地面に落ちる前に粒になって消えていった。
もう一人の男が、北へ逃げようとして背を向ける。その体が、輪郭から霧に溶けはじめる。霧に紛れて消える魔法か。半分ほど溶けた背中に、槍が刺さる。男は、霧になりかけた姿のまま崩れていく。
残ったのは、グロル一人。
グロルの鉈が、横薙ぎにシャルティアの首を狙う。振るわれるあいだに、鉈は目に見えて重くなっていく。刃の先がかすめた墓石が、音を立てて地面にめり込んだ。触れたものの重さを、何倍にもする魔法らしい。
シャルティアは、それを左手の指二本で挟んで止めた。鉈を握ったまま、グロルの腕が震えている。押しても、引いても、刃は動かない。
「一体でいい、と仰せでありんした」
挟んだ刃ごと、グロルを引き寄せる。大柄な体が前へつんのめり、膝が草をこする。グロルが、空いた手をシャルティアの肩へ伸ばす。触れたものを重くする手だ。その手首を、シャルティアは踏んだ。骨の折れる乾いた音が、霧の中に響く。
「本当は、まとめてお持ちしたかったのでありんすけれど」
グロルの角の一本を、シャルティアはつかむ。
そのまま顔を持ち上げて、自分の顔に近づける。グロルの目に、初めて、測りかねるものを見た者の色が浮かんでいる。
「魔力がないのに、なぜ」
「さあ。わらわにも、わかりんせん」
シャルティアは、にっこりと笑った。
「アインズ様が、お調べになりんす」
北の丘の枯れ木の上で、小さな影が、枝を離れる。
シャルティアは、それも見なかったふりをした。
グロルを引きずって霊廟の扉をくぐると、《伝言》がひとつ届いた。
『よくやった、シャルティア。一体で十分だ』
頭の奥で、アインズ様の声がする。
シャルティアは、引きずっていたグロルの角を、思わず握りしめた。角の根元で、みしりと音がする。グロルが呻いた。
「……はいでありんす」
声が、自分でも呆れるほど上ずっている。
明日の朝、アウラに会ったら何と言ってやろう。それを考えながら、シャルティアは長い階段を下りていく。足取りは、来たときよりずっと軽い。
◇
捕らえた魔族は、第一階層の、一番奥の牢に入れられた。
鎖で両手を壁に留められ、折れた手首はそのまま垂れている。角の一本の根元に、細いひびが入っていた。
アインズが牢の前に立ったとき、魔族はすでに目を覚ましている。
「俺を使え」
最初の言葉が、それだ。
「北の陣の場所。兵の数。アウラ様の——いや、断頭台のアウラの魔力の量。全部話す。そのかわり、俺を殺すな。お前たちの兵にしろ」
命乞いの声ではない。値段を言う声だ。
森の子どもは、泣いて、謝って、父親を呼んだ。この魔族は泣かない。泣いても効かない相手だと、捕まったときにもう測ったのだろう。
「主を売るのですか」
デミウルゴスが、穏やかに尋ねる。
「売る?」
魔族は、意味がわからないという顔をした。
「北へ帰れば、しくじった兵は天秤にかけられて首を落とされる。ここで黙れば、お前たちに殺される。話せば、生きられるかもしれない。それだけだ」
アインズは、何も答えない。
昨日まで主と呼んでいた者の名から、たった今「様」を外した。そのことに、この魔族は何の重さも感じていないらしい。
牢の隣に、デミウルゴスが立っている。反対側には、シャルティアと、アウラ。アウラは、魔族の口から「アウラ様」という言葉が出るたびに、口をへの字に曲げていた。
「やっぱり、やだ」
小さく、そう言う。
「名前、取られてるみたい」
「取られてはおりんせんよ。向こうが勝手に同じ名前なだけでありんす」
「わかってるけど、やなの」
二人のやりとりの間も、魔族は話しつづけている。北の陣の場所。見張りの数。断頭台のアウラが首を落とした兵の数。聞かれてもいないことを、次々に並べていく。どれが本当で、どれが嘘なのかは、まだわからない。並べているあいだ、魔族の目は、一度もアインズの顔から離れなかった。
「一つ、伺っても」
デミウルゴスが、穏やかに口を挟んだ。
「あなたには、親がおありですか」
魔族は、言葉を止めた。
止めて、少しだけ首を傾げる。問いの意味を探している顔だ。
「親?」
「あなたを産んだ者。育てた者。あなたが、それを失ったら悲しむような者です」
「産んだ者なら、いたのだろう。顔は知らない」
魔族は、あっさりと答えた。
「それが、何の関係がある」
デミウルゴスは、それには答えずに、小さく頷く。
「では、もう一つ。あなた方は、人間を食べなくても生きていけますか」
「生きていける」
「では、なぜ食べるのです」
魔族は、今度は首を傾げなかった。
「人間がいるからだ」
当たり前のことを聞かれた、という顔をしている。
デミウルゴスの眼鏡の奥の目が、ひどく楽しそうに光る。
森の子どもは、おかあさん、と呼んでいた。その言葉の意味を、あの子どもは知っていたのだろうか。知らずに、ただ当たる言葉として使っていたのだろうか。
「デミウルゴス」
「はい」
「話は、お前が聞け。どこまで本当のことを言うのか、何を知っていて、何を知らないのか。全部だ」
「かしこまりました」
デミウルゴスが、牢の前に一歩進む。その顔を見て、魔族は少しだけ口をつぐんだ。この世界の魔族にも、何かを感じ取る力はあるらしい。
アインズは、牢に背を向けかけた。
それから、足を止める。
「一つだけ、聞いておく」
魔族の目が、こちらを向く。次は何を売ればいい、という目だ。
「耳の長い、エルフの魔法使いを知っているか。千年生きているという」
魔族の顔が、変わった。
ほんのわずかに。けれども、確かに。次の言葉を並べていた口が、何も並べずに止まる。鎖につながれた手首が、壁の石をこすって小さく鳴った。
「……知っている」
魔族は、低く言う。
「魔族で、知らない者はいない」
「名は」
魔族は、しばらく黙っていた。
何でも話すと言った魔族が、その名前だけは、すぐには口にしない。売れば生きられるかもしれない名前を、売るのをためらっている。首を落とされることより、その名前を口にすることの方を恐れているように見えた。
「葬送のフリーレン」
言い終えてから、魔族は、自分の折れた手首を見下ろした。まるで、その名前を口にしたことで、どこかの誰かに聞かれたのではないかと確かめるように。
次回、悪魔が人間の街へ。