丘を離れてから、ヴァッヘは夜通し飛んだ。
昼は飛ばない。昼の空は広すぎて、どこからでも見える。だから、夜のうちに飛べるだけ飛ぶ。最初の夜も、そうして陣に戻り、グロルたちを連れて、また丘へ下りてきた。
北へ行くほど、森は痩せていく。木の背が低くなり、岩が増え、地面の色が黒ずんでいく。そのぶん、魔族が増える。空気も、少しずつ濁っていく。南の森から見える北の空の、黒く溜まったものの真ん中に、主の陣はある。
夜半、ヴァッヘは岩陰で二体の魔族とすれ違った。
二体とも、ヴァッヘよりずっと魔力が大きい。すれ違うとき、向こうはヴァッヘを一度だけ見た。量って、すぐに目を逸らした。量るまでもない、という目だ。道端の石を見るのと同じ。
ヴァッヘは、岩陰に体を寄せて、二体が通り過ぎるのを待った。
それが、正しい。魔力の小さい者は、大きい者の道を空ける。大きい者は、小さい者を見ない。見ないことで、小さい者は生きていられる。
夜明け前、川のほとりで、一体の魔族に呼び止められた。
「お前、アウラ様のところの見張りだな」
若い魔族だ。魔力は、ヴァッヘより少し大きい。少しだけ大きい者ほど、それをはっきりさせたがる。
「グロルの隊が、南へ行ったと聞いた。お前が道案内をしたんだろう。グロルはどうした」
ヴァッヘは、少し考えた。
ここで全滅と言えば、話は先に陣へ届く。主の耳に、ヴァッヘより先に。そうなれば、ヴァッヘの口から報告する前に、ヴァッヘが何をしていたかが問われる。
「まだ南です。私は、先に知らせに戻るところです」
「そうか」
若い魔族は、それ以上聞かなかった。ヴァッヘの言葉の真偽を量るほどの手間を、ヴァッヘにかける気はないのだ。
嘘は、楽だ。
量られない者の嘘は、誰も確かめない。
北の陣は、山の中腹の、崩れた城にある。
人間が昔、魔族と戦うために建てた城だ。壁の半分は落ち、塔は二本とも根元から折れている。それでも、残った壁は厚い。断頭台のアウラが、ここを陣に選んだ。
ヴァッヘは、城の門をくぐる前に、一度だけ足を止めた。
門の内側に、兵が並んでいる。
数は、ヴァッヘには数えきれない。中庭から崩れた回廊まで、ぎっしりと。鎧を着た者、ぼろをまとった者、農具を握った者。人間の兵もいれば、魔族の兵もいる。共通しているのは、どれにも首がないということだ。
首のない兵たちは、身じろぎもせずに立っている。風が吹いても、鎧の端ひとつ鳴らさない。
ヴァッヘは、彼らの間を歩いて奥へ向かう。歩くたびに、ここにいる兵の魔力が、肌に触れてくる。どれもかすかで、どれも同じ形をしている。主の魔力の形だ。首を落とされたとき、彼らは主のものになった。
回廊の入り口に立っている一体の前で、ヴァッヘは足を緩めた。
擦り切れた灰色の外套。左の袖だけが、肘のところで結んである。見覚えのある外套だ。何十年か前まで、ヴァッヘと同じように街道の見張りをしていた魔族が、いつもこれを着ていた。左腕がなく、袖を結んで。
ある日、見張りの場所から戻らなかった。人間の魔法使いに見つかって、量られる前に逃げそこねたのだと聞いた。逃げ帰って、主に何かを報告して、それから、ここに立っている。
首のない外套は、ヴァッヘが通り過ぎても、何も言わない。
魔力は順番で、順番は魔力。
この城では、それがいちばんはっきりしている。
広間の手前の、崩れた控えの間で、ヴァッヘは丸一日待たされた。
南の街を量りに出ていたドラートが戻るのを、主は待っていたらしい。待つことには慣れている。壁の割れ目から射す光が、床の上を少しずつ動いていくのを見ていればいい。
「ねえ」
声がして、顔を上げた。
戸口に、若い女がもたれている。赤い林檎を片手に持って。首切り役人の一人、リーニエだ。
リーニエは、林檎をかじりながら、ヴァッヘの方へ歩いてきた。それから、ヴァッヘの前で、ヴァッヘと同じように膝をつき、ヴァッヘと同じように背を丸めた。
目の前に、自分がいる。
肩の落とし方。首の傾け方。手の置き方。何から何まで、ヴァッヘのそれと同じだ。リーニエの魔法は、相手の魔力の流れを読んで、その動きをそっくり写し取るものだと聞いている。
リーニエは、ヴァッヘの姿のまま、しばらくじっとしていた。
それから、つまらなそうに立ち上がる。
「つまらない」
林檎を、もう一口かじる。
「魔力が少なすぎて、写すところがない。あなたの動き、何にも詰まってない」
それだけ言って、リーニエは広間の方へ戻っていった。
ヴァッヘは、何も言い返さなかった。言い返す理由がない。言われたことは、正しい。
少しして、広間の中から、名前を呼ばれた。
広間の奥に、主がいた。
崩れた玉座の上に、少女の姿をした魔族が座っている。淡い色の長い髪。頭の両側から、二本の角が後ろへ流れるように伸びている。膝の上に、小さな天秤を載せていた。
断頭台のアウラ。
五百年を生きた、七崩賢の一人。ヴァッヘの主。この北で、いちばん上にいる魔族。
玉座の下に、三人の魔族が控えている。
一人は、黒い服を着た、背の高い男。物腰が柔らかく、いつも穏やかに笑っている。リュグナー。
一人は、若い女。壁にもたれて、赤い林檎をかじっている。リーニエ。
一人は、細身の男。両手の指に、光を受けてかすかに光るものを絡ませている。ドラート。
首切り役人と呼ばれる三人だ。この城で、主の次に魔力の大きい者たち。
ヴァッヘは広間の中ほどで膝をつき、額を床につけた。
「北の森の見張り、ヴァッヘ。戻りました」
「ドラートも戻ったわ。話しなさい」
断頭台のアウラは、天秤から目を上げずに言った。
「グロルたちは」
ヴァッヘは、床に額をつけたまま答える。
「全滅しました」
広間が、少しだけ静かになる。リーニエが林檎をかじる音だけが、一度、響いた。
「全滅」
「三体は消えました。グロル様は、生きたまま連れて行かれました」
「連れて行かれた」
断頭台のアウラが、初めて顔を上げる。
「誰に」
ヴァッヘは、少しだけ顔を上げた。
「見ていただいた方が、早いかと」
ヴァッヘの魔法は、一つしかない。
見たものを、そのまま相手の目に映して見せる。ヴァッヘが目にしたものを、色も形も、動きも、そのままに。
魔力は小さい。戦いには使えない。けれども、見張りにはこれ以上の魔法はない。言葉で報告すれば、言葉の分だけ嘘が混じる。この魔法は、嘘をつけない。ヴァッヘが見たものしか、映せないから。
断頭台のアウラは、ヴァッヘをこの魔法のために拾った。何百年か前のことだ。
ヴァッヘは、両手を床につけたまま、目を閉じた。
広間の真ん中の空気が、ゆらりと揺れる。
霧が映る。北の森の、白い霧。その中に、石の壁が浮かび上がる。人間の背丈の何倍もある壁。墓標のような塔。最初の夜に見たものだ。
「これが、丘になる前の姿です」
門が開き、黒い服の老人が出てくる。白い髪、白い髭。背筋がまっすぐに伸びている。
老人が、こちらを見る。
広間の空気の中で、映った老人が、まっすぐにヴァッヘの方を見ている。まっすぐに、広間の者たちの方を。リーニエが、林檎を口から離した。
「魔力は」
リュグナーが、穏やかに尋ねる。
「ありません」
「ない?」
「ありませんでした。少しも」
ヴァッヘは、映した老人の後ろを、もう一度よく見た。
老人の後ろに、もう一つ、何かがある。影のようなもの。人の形をしているのかもしれないし、霧の濃いところがそう見えただけかもしれない。最初の夜は、気づかなかった。
「……老人の後ろに、もう一つ、影のようなものがあった気がします。はっきりとは、わかりません」
ヴァッヘの魔法は、見たものしか映せない。見ていても、気づかなかったものは、映っていても、ないのと同じだ。
霧の中で、壁が土に沈んでいく。
地鳴りとともに、石の壁が、墓標の塔が、ひと晩で丘になる。
「これは、魔法ですか」
ドラートが、初めて口を開いた。指の間の糸が、わずかに震えている。
「わかりません。魔力は、感じませんでした」
「魔力を感じない魔法など、ない」
「はい。ですが、感じませんでした」
ヴァッヘは、それ以上言わなかった。
言えば、問われる。感じなかったのは、ないからなのか。それとも、お前の魔力が小さすぎて、感じ取れなかっただけなのか。
ヴァッヘには、その問いに答えられない。答えられないことを、知られたくない。魔力の小さい者が、魔力の大きいものを量りそこねた。そう思われれば、ヴァッヘの値打ちは、ただの役立たずの見張りに落ちる。
だから、言わない。
見たものを、見たままに映す。それだけをする。
「ヴァッヘ」
玉座の上から、主の声が降ってきた。
ヴァッヘは、映像を保ったまま、額を床に押しつけた。
「あなたは、あれを量れたの」
広間の空気が、また少しだけ静かになる。
量れなかった、と答えれば。お前の魔力が小さいからだ、と言われる。量れた、と答えれば。では、どれほどだったのかと問われる。どちらに答えても、ヴァッヘの値打ちは量られる。
ヴァッヘは、一つ息を吸った。
「量る前に、逃げました」
嘘だ。量った。量って、何もなかった。
「老人が、こちらを見ましたので。見つかった見張りは、役に立ちません。量るより、見たものを持ち帰る方が先だと考えました」
断頭台のアウラは、しばらくヴァッヘを見下ろしている。
魔力の大きい者の目だ。量るまでもない者を見る、あの目。
「賢明ね」
主は、それだけ言った。
それから、膝の上の天秤を、指先で軽く傾けた。
片方の皿が、何も載っていないのに、すっと下がる。もう片方の皿が上がる。ヴァッヘの胸の奥で、何かが細い糸で引かれたように、ぴんと張った。
何百年か前、ヴァッヘはこの天秤に載せられた。魂を、皿の上に。主の魔力と比べられて、比べるまでもなく、主の皿が下がった。それ以来、ヴァッヘの魂の端は、ずっとあの皿の上にある。
「グロルは、しくじったわね」
主の声は、穏やかだった。
「しくじった兵がどうなるか、あなたは知っているでしょう」
ヴァッヘは、知っている。中庭に立っている、首のない兵たちの中に、しくじった者たちがいる。
胸の奥の糸が、もう少しだけ張る。主が一言、首を落としなさいと言えば、ヴァッヘの手は、ヴァッヘの言うことを聞かなくなる。
ヴァッヘは、額を床に押しつけたまま、動かなかった。動けなかった、と言った方がいい。生きていたい。それだけが、頭の中にある。主に何と言えば生きていられるのか。それだけを、必死で量っている。
「でも、あなたは、しくじっていない」
天秤が、元に戻った。
胸の糸が、ふっと緩む。
「見張りは、見て、帰ってくるのが仕事。あなたは見て、帰ってきた。それに、あなたの魔法は、まだ使える」
まだ使える。
それが、ヴァッヘの首がつながっている理由のすべてだった。
ヴァッヘの嘘は、確かめられなかった。量られない者の嘘は、誰も確かめない。
広間の真ん中では、丘になった墳墓の上を、映った霧がまだゆっくりと流れている。
「まだ、あります」
ヴァッヘは、映像を先へ進めた。
丘になった墳墓の上の、霧の海。その上に、星が出ている。最初の夜、北の丘の枯れ木から、最後に見たものだ。
霧の上に、影が二つ浮かんでいる。
一つは、翼のある、背広の男。もう一つは、黒いローブを着た、何か。
ヴァッヘの魔法は、遠くのものを小さくしか映せない。けれども、その黒いローブの何かが、杖を持っていることはわかる。そして、ローブの襟元から覗いている顔が、骨でできていることも。
「骸骨」
リーニエが、ぽつりと言った。
「不死者ね。骨だけになって、まだ杖を持っている」
断頭台のアウラが、玉座の上で身を乗り出す。目が、少しだけ細くなった。
「魔力は」
「遠すぎて、量れませんでした」
これは、嘘ではない。遠すぎた。それに、量るのが怖かった。それは、言わない。
映像の中で、骸骨が片手を上げた。誰に向けてかはわからない。それから、ゆっくりとこちらを向く。
ヴァッヘは、そこで枝を離れたのだった。映像が、星を一つずつ隠しながら北へ遠ざかっていく。
「……あれが、上にいる誰かね」
主が、呟いた。
次に、グロルたちと丘へ下りた夜を映した。
霊廟の屋根の上に、少女が立っている。黒いドレス。銀色の髪。深紅の目。
グロルたちが、丘の裾で彼女を見上げている。グロルが、何かを言う。少女が、何かを言い返す。ヴァッヘの魔法は声を映さない。けれども、少女の顔は映る。笑っている。ひどく低いところで、笑っている。
少女が、屋根を蹴る。
光の矢が少女の胸に当たって散る。少女の槍が、矢を放った者の手のひらを貫く。影の女の影が、少女の足に絡みつく。少女は、それを氷のように踏み割る。霧の男の背中に、槍が刺さる。
グロルの鉈が、少女の首を狙う。重さを増していく鉈を、少女は指二本で挟んで止める。
広間が、静まり返った。
リーニエは、もう林檎をかじっていない。手の中で、かじりかけの林檎が、少しずつ茶色くなっていく。
「……指二本」
リーニエが、小さく言った。
「グロルの鉈を」
「魔力は」
リュグナーが、また尋ねる。今度は、穏やかな声の底に、少しだけ硬いものが混じっていた。
「ありません」
ヴァッヘは、同じ答えを繰り返した。
映像の中で、少女はグロルの角をつかみ、顔を持ち上げる。グロルの目に、ヴァッヘがこれまで見たことのない色が浮かんでいる。
ヴァッヘは、そこで魔法を止めた。
それ以上は、見ていない。見ていられなかったわけではない。少女が、ほんの一瞬、枯れ木の方を見た気がしたのだ。見なかったふりをしているような顔で。
ヴァッヘは、そのとき、枝を蹴った。
◇
広間の空気が、元に戻る。
断頭台のアウラは、しばらく何も言わなかった。膝の上の天秤の皿を、指先で軽く弾いている。小さな、澄んだ音がする。
「魔力のない娘が、グロルを生け捕りにした」
やがて、主はそう言った。
「おもしろいわね」
口の端が、少しだけ上がっている。
「リュグナー」
「はい」
「あなたは、どう思うの」
リュグナーは、少しだけ首を傾げた。考えている顔だ。リュグナーは、いつも考えている顔をしている。
「申し上げにくいことですが、アウラ様。あの丘には、手を出さない方がよろしいかと」
「理由は」
「量れないからです」
リュグナーは、穏やかに言った。
「魔力がないのに、グロルを指二本で止めた。魔力がないのに、ひと晩で城を丘に変えた。我々は、魔力を見て相手を量ります。量れない相手と戦うのは、目を閉じて戦うのと同じです」
ヴァッヘは、床に額をつけたまま、リュグナーの言葉を聞いていた。
量れない。
リュグナーは、自分の魔力が小さいからではなく、相手が量れないのだと言った。リュグナーほどの魔力を持つ者がそう言うなら、それは、ヴァッヘの魔力が小さいせいではないのかもしれない。
そう思うと、胸の中の、名前のない小さなものが、ほんの少しだけ軽くなった。
「それで」
断頭台のアウラが、先を促す。
「それよりも、南の伯爵の街です」
リュグナーは、話を変えた。
「ドラートが、街を量ってまいりました。城壁の魔法使いは、取るに足らない。兵も多くはない。伯爵は、息子を我々に殺されて以来、魔族を憎んでおります。ですが、あの男は、憎しみで動く男ではない。街の者を守るためなら、憎い相手とも手を結ぶでしょう」
「手を結ぶ」
「和睦です」
「また、あれをやるの」
リーニエが、林檎から口を離して言った。
「人間の真似をして、人間の言葉で頭を下げるの。私、あれは得意」
リュグナーの笑みが、少しだけ深くなる。
「和睦の使者として、私とリーニエとドラートが、街に入ります。伯爵は、我々を信じはしないでしょう。けれども、信じなくても、城門は開けざるをえない。城門の内側に入ってしまえば、あとはどうとでもなります」
言葉で、城門を開ける。
それは、魔族がいちばん得意とすることだ。ヴァッヘにもわかる。人間は、言葉に弱い。可哀想な声に弱い。和睦という言葉に、弱い。
「ドラート。街に、ほかに何かいたか」
断頭台のアウラが、ドラートに目を向ける。
ドラートは、指の糸をゆっくりと巻き取りながら答えた。
「何も。夜に、城壁の外を歩いていた男が一人いたくらいです」
「男」
「人間の商人です。魔力は、ありませんでした。糸のすぐ近くで立ち止まったので、少し見ていましたが、何も気づかずに宿へ戻りました。量る値打ちもない男です」
「魔力のない男」
断頭台のアウラが、少しだけ首を傾げる。
「ありませんでした。ただの人間です」
ドラートは、それ以上何も言わない。
ヴァッヘは、床の石の目を見ていた。
魔力のない老人。魔力のない少女。魔力のない男。
ドラートは、その男をただの人間だと言った。量って、何もなかったから。ヴァッヘも、最初の夜、老人を量って、何もなかった。何もなかったのに、老人はまっすぐにこちらを見た。
それを、ここで言うべきなのかどうか、ヴァッヘにはわからない。
言えば、また問われる。
◇
「和睦は、あとでいいわ」
断頭台のアウラが言った。
リュグナーの笑みが、ほんのわずかに止まる。ドラートの指の間で、糸が一本、きりりと鳴った。
「アウラ様」
「伯爵の街は、逃げない。あの男は、街を捨てて逃げるような男ではないのでしょう。だったら、いつでも行ける」
主は、膝の上の天秤を持ち上げた。
小さな天秤だ。二つの皿が、細い鎖で吊られている。何の飾りもない、古い銅の天秤。けれども、ヴァッヘは知っている。この天秤の皿に魂を載せられた者は、どちらの魔力が大きいかで、どちらがどちらに従うかが決まる。主より魔力の小さい者は、主の言葉に逆らえなくなる。自分の手で、自分の首を落とせと言われれば、落とす。
この城の首のない兵たちは、みんな、そうして主のものになった。
「先に、丘を」
断頭台のアウラは、天秤を目の高さにかざした。
「魔力のない、大きな器。指二本でグロルを止める、小さな娘。空に浮いていた、骨の魔法使い。全部、私の兵にする」
「ですが、量れないと」
「量れないのは、あなたたちでしょう」
主は、リュグナーの方を見もしない。
「この天秤は、魔力を量る。魔力がないなら、皿には何も載らない。何も載らない皿と、私の皿。どちらが重いかは、量るまでもないわ」
広間の誰も、何も言わない。
理屈は、通っている。魔力がないなら、主の魔力の方が大きい。主の魔力の方が大きければ、天秤は主の方に傾く。傾けば、相手は主のものになる。
ヴァッヘは、床の石の目を見ながら、その理屈を、自分の中で一度なぞった。
なぞって、どこにも引っかかるところがない。
引っかかるところがないのに、胸の中の、名前のない小さなものが、また少しだけ重くなった。
リーニエが、林檎の芯を床に落とした。
「アウラ様」
リュグナーが、もう一度だけ口を開く。今度は、少しだけ声を低くして。
「南の街で、もう一つ、噂を拾っております。エルフの魔法使いが、北へ向かっていると」
広間の空気が、また変わった。
断頭台のアウラの指が、天秤の鎖の上で止まる。
「エルフ」
「名前まではわかりません。ですが、千年を生きるエルフの魔法使いは、この大陸に、そう何人もおりません」
主は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「フリーレンね」
その名前を、主は、まるで昔の知り合いの名を呼ぶように口にする。
「八十年前、勇者の一行にいたエルフ。私は、あの子の魔力を見たわ。私より、ずっと小さかった。勇者がいなければ、あの子に何ができるというの」
「強いの?」
リーニエが、新しい林檎を袖から出しながら尋ねた。
「弱いわ」
主は、迷わずに答えた。
リュグナーは、何も答えない。
ヴァッヘは、床の石の目を見ながら、一つのことを思い出している。
グロルたちが北の陣を出るとき、ヴァッヘは道案内として一緒にいた。森の中を歩きながら、グロルは一度だけ、あの名前を口にした。
『葬送のフリーレンにだけは、会いたくないな』
グロルは、殺されても主のためだと言える兵ではない。生きるためなら、何でもする兵だ。そのグロルが、何でもする兵が、あの名前だけは避けたいと言った。
主の魔力より、小さいはずの魔法使いを。
ヴァッヘは、それも言わなかった。
◇
「ヴァッヘ」
名前を呼ばれて、ヴァッヘは額を上げた。
断頭台のアウラが、玉座の上からこちらを見下ろしている。
「あなたは、丘への道を知っている」
「はい」
「近いうちに、私が行く。そのときは、あなたが案内しなさい」
「……はい」
ヴァッヘは、もう一度、額を床につけた。
「リュグナー。兵を整えておきなさい。中庭の半分でいいわ」
「……かしこまりました」
リュグナーの返事は、いつもより半拍、遅い。
主が、玉座の肘掛けを指で叩いた。
中庭の方から、音がした。
何百、何千という鎧が、一度に鳴る音だ。首のない兵たちが、いっせいに向きを変えた。誰が命じたわけでもない。主の魔力が、彼らの中を一度だけ流れた。それだけで、兵たちは主の望む方を向く。
南を。
崩れた壁の向こうで、首のない兵の列が、波のように南を向いていく。
主が行く。首のない兵を連れて。天秤を持って。
丘に、魔力のない老人がいる。魔力のない少女がいる。その上に、たぶん、誰かがいる。
ヴァッヘは、最初の夜のことを思い出す。
霧の向こうで、老人と目が合った。合った、と思っただけかもしれない。追ってくる気配はなかった。それがかえって、胸の中に名前のない小さなものを残していった。
その小さなものは、今も、ここにある。
少しずつ、大きくなっている。
広間を出て、崩れた回廊を歩いていると、後ろから呼び止められた。
「ヴァッヘ」
振り返ると、リュグナーが立っていた。
黒い服の袖口から、赤い滴が一つ、宙に浮いている。リュグナーは、考えごとをするとき、いつもそうする。自分の血を一滴、指先から離して、宙に遊ばせる。
「先ほどの老人のことです」
リュグナーは、穏やかに言った。
「あなたは、量る前に逃げたと言いましたね」
ヴァッヘは、黙った。
「責めているのではありませんよ」
宙に浮いた赤い滴が、ゆっくりと形を変える。丸くなり、細くなり、また丸くなる。
「私が知りたいのは、あの老人の目のことです。あの目は、あなたを見ていましたか。それとも、あなたのいる場所を見ていましたか」
ヴァッヘは、最初の夜を思い出した。
霧の向こうで、老人はまっすぐに楢の木を見た。枝の上の、ヴァッヘを。
「……私を、見ていました」
「魔力のない者が、魔力の小さいあなたを、霧の向こうから見つけた」
リュグナーの笑みは、変わらない。けれども、宙の赤い滴が、ぴたりと止まった。
「アウラ様は、天秤で量れるとお考えです。それは、正しいのかもしれない。私にはわかりません」
リュグナーは、止まった滴を指先に戻した。
「量れないものは、言葉で量るしかない。和睦の使者というのは、本当は、そのための道具なのです。城門を開けさせる前に、相手が何を恐れ、何を欲しがっているかを、言葉で量る」
「……丘にも、ですか」
「いずれは」
リュグナーの手が、ヴァッヘの肩に軽く置かれる。
「あなたは、これからも見ていなさい。見たものを、見たままに。あなたの魔法は、嘘をつけない。この城で、それはとても貴重なことです」
手が離れる。
リュグナーは、穏やかな足取りで回廊の奥へ消えていった。
ヴァッヘは、肩に残った手の感触を、しばらく確かめていた。
あなたの魔法は、嘘をつけない。
たった今、魔法でないところで、ヴァッヘは主に嘘をついた。リュグナーは、それを知っていて、言ったのだろうか。
その夜、ヴァッヘは崩れた城壁の上に座っていた。
南の空は暗い。森も、丘も、ここからは見えない。見えないとわかっていて、ヴァッヘは南を見ている。
城壁の下の中庭では、首のない兵たちが、南を向いたまま立っている。昼に主が向けたまま、誰も向きを戻さない。
ヴァッヘは、自分の目の前の空気に、もう一度、最初の夜を映した。
誰に見せるためでもない。自分のためだけに。
霧。石の壁。門。黒い服の老人。
老人が、こちらを見る。
映した老人の目を、ヴァッヘは長いこと見ていた。魔力のない目。何も量れない目。それなのに、ヴァッヘの方をまっすぐに見ている目。
胸の中の、名前のない小さなものが、また少しだけ動く。
ヴァッヘは、それに名前をつけようとして、やめた。
人間の顔なら、何度も見たことがある。見張りをしていれば、魔族に出会った人間の顔は、いくらでも見る。目を見開き、息を止め、足がその場から動かなくなる。あれが、人間の言う恐ろしいというものなのだろう。
自分の胸の中のこれが、あれと同じものなのかどうか。ヴァッヘには、確かめようがない。確かめるための物差しを、魔族は持っていない。
映像を消す。
霧の老人が、夜の闇に溶けていく。
城壁を下りて回廊を戻る途中、ヴァッヘは一度だけ、広間の方を振り返った。
断頭台のアウラは、玉座の上で、天秤を磨いていた。
布で、皿の縁を、ゆっくりと。何百年もそうしてきた手つきで。銅の皿が、松明の光を受けて、鈍く光っている。
「魔力のないものを」
主は、誰に言うでもなく、呟いた。
「天秤は、どう量るのかしら」
磨き終えた皿が、鎖の先で小さく揺れる。
何も載っていないのに、揺れている。