白い骨と長い耳   作:霧中墓守

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第6話 ヴァッへ

 丘を離れてから、ヴァッヘは夜通し飛んだ。

 昼は飛ばない。昼の空は広すぎて、どこからでも見える。だから、夜のうちに飛べるだけ飛ぶ。最初の夜も、そうして陣に戻り、グロルたちを連れて、また丘へ下りてきた。

 北へ行くほど、森は痩せていく。木の背が低くなり、岩が増え、地面の色が黒ずんでいく。そのぶん、魔族が増える。空気も、少しずつ濁っていく。南の森から見える北の空の、黒く溜まったものの真ん中に、主の陣はある。

 夜半、ヴァッヘは岩陰で二体の魔族とすれ違った。

 二体とも、ヴァッヘよりずっと魔力が大きい。すれ違うとき、向こうはヴァッヘを一度だけ見た。量って、すぐに目を逸らした。量るまでもない、という目だ。道端の石を見るのと同じ。

 ヴァッヘは、岩陰に体を寄せて、二体が通り過ぎるのを待った。

 それが、正しい。魔力の小さい者は、大きい者の道を空ける。大きい者は、小さい者を見ない。見ないことで、小さい者は生きていられる。

 夜明け前、川のほとりで、一体の魔族に呼び止められた。

「お前、アウラ様のところの見張りだな」

 若い魔族だ。魔力は、ヴァッヘより少し大きい。少しだけ大きい者ほど、それをはっきりさせたがる。

「グロルの隊が、南へ行ったと聞いた。お前が道案内をしたんだろう。グロルはどうした」

 ヴァッヘは、少し考えた。

 ここで全滅と言えば、話は先に陣へ届く。主の耳に、ヴァッヘより先に。そうなれば、ヴァッヘの口から報告する前に、ヴァッヘが何をしていたかが問われる。

「まだ南です。私は、先に知らせに戻るところです」

「そうか」

 若い魔族は、それ以上聞かなかった。ヴァッヘの言葉の真偽を量るほどの手間を、ヴァッヘにかける気はないのだ。

 嘘は、楽だ。

 量られない者の嘘は、誰も確かめない。

 

 北の陣は、山の中腹の、崩れた城にある。

 人間が昔、魔族と戦うために建てた城だ。壁の半分は落ち、塔は二本とも根元から折れている。それでも、残った壁は厚い。断頭台のアウラが、ここを陣に選んだ。

 ヴァッヘは、城の門をくぐる前に、一度だけ足を止めた。

 門の内側に、兵が並んでいる。

 数は、ヴァッヘには数えきれない。中庭から崩れた回廊まで、ぎっしりと。鎧を着た者、ぼろをまとった者、農具を握った者。人間の兵もいれば、魔族の兵もいる。共通しているのは、どれにも首がないということだ。

 首のない兵たちは、身じろぎもせずに立っている。風が吹いても、鎧の端ひとつ鳴らさない。

 ヴァッヘは、彼らの間を歩いて奥へ向かう。歩くたびに、ここにいる兵の魔力が、肌に触れてくる。どれもかすかで、どれも同じ形をしている。主の魔力の形だ。首を落とされたとき、彼らは主のものになった。

 回廊の入り口に立っている一体の前で、ヴァッヘは足を緩めた。

 擦り切れた灰色の外套。左の袖だけが、肘のところで結んである。見覚えのある外套だ。何十年か前まで、ヴァッヘと同じように街道の見張りをしていた魔族が、いつもこれを着ていた。左腕がなく、袖を結んで。

 ある日、見張りの場所から戻らなかった。人間の魔法使いに見つかって、量られる前に逃げそこねたのだと聞いた。逃げ帰って、主に何かを報告して、それから、ここに立っている。

 首のない外套は、ヴァッヘが通り過ぎても、何も言わない。

 魔力は順番で、順番は魔力。

 この城では、それがいちばんはっきりしている。

 

 広間の手前の、崩れた控えの間で、ヴァッヘは丸一日待たされた。

 南の街を量りに出ていたドラートが戻るのを、主は待っていたらしい。待つことには慣れている。壁の割れ目から射す光が、床の上を少しずつ動いていくのを見ていればいい。

「ねえ」

 声がして、顔を上げた。

 戸口に、若い女がもたれている。赤い林檎を片手に持って。首切り役人の一人、リーニエだ。

 リーニエは、林檎をかじりながら、ヴァッヘの方へ歩いてきた。それから、ヴァッヘの前で、ヴァッヘと同じように膝をつき、ヴァッヘと同じように背を丸めた。

 目の前に、自分がいる。

 肩の落とし方。首の傾け方。手の置き方。何から何まで、ヴァッヘのそれと同じだ。リーニエの魔法は、相手の魔力の流れを読んで、その動きをそっくり写し取るものだと聞いている。

 リーニエは、ヴァッヘの姿のまま、しばらくじっとしていた。

 それから、つまらなそうに立ち上がる。

「つまらない」

 林檎を、もう一口かじる。

「魔力が少なすぎて、写すところがない。あなたの動き、何にも詰まってない」

 それだけ言って、リーニエは広間の方へ戻っていった。

 ヴァッヘは、何も言い返さなかった。言い返す理由がない。言われたことは、正しい。

 少しして、広間の中から、名前を呼ばれた。

 

 広間の奥に、主がいた。

 崩れた玉座の上に、少女の姿をした魔族が座っている。淡い色の長い髪。頭の両側から、二本の角が後ろへ流れるように伸びている。膝の上に、小さな天秤を載せていた。

 断頭台のアウラ。

 五百年を生きた、七崩賢の一人。ヴァッヘの主。この北で、いちばん上にいる魔族。

 玉座の下に、三人の魔族が控えている。

 一人は、黒い服を着た、背の高い男。物腰が柔らかく、いつも穏やかに笑っている。リュグナー。

 一人は、若い女。壁にもたれて、赤い林檎をかじっている。リーニエ。

 一人は、細身の男。両手の指に、光を受けてかすかに光るものを絡ませている。ドラート。

 首切り役人と呼ばれる三人だ。この城で、主の次に魔力の大きい者たち。

 ヴァッヘは広間の中ほどで膝をつき、額を床につけた。

「北の森の見張り、ヴァッヘ。戻りました」

「ドラートも戻ったわ。話しなさい」

 断頭台のアウラは、天秤から目を上げずに言った。

「グロルたちは」

 ヴァッヘは、床に額をつけたまま答える。

「全滅しました」

 広間が、少しだけ静かになる。リーニエが林檎をかじる音だけが、一度、響いた。

「全滅」

「三体は消えました。グロル様は、生きたまま連れて行かれました」

「連れて行かれた」

 断頭台のアウラが、初めて顔を上げる。

「誰に」

 ヴァッヘは、少しだけ顔を上げた。

「見ていただいた方が、早いかと」

 

 ヴァッヘの魔法は、一つしかない。

 見たものを、そのまま相手の目に映して見せる。ヴァッヘが目にしたものを、色も形も、動きも、そのままに。

 魔力は小さい。戦いには使えない。けれども、見張りにはこれ以上の魔法はない。言葉で報告すれば、言葉の分だけ嘘が混じる。この魔法は、嘘をつけない。ヴァッヘが見たものしか、映せないから。

 断頭台のアウラは、ヴァッヘをこの魔法のために拾った。何百年か前のことだ。

 ヴァッヘは、両手を床につけたまま、目を閉じた。

 広間の真ん中の空気が、ゆらりと揺れる。

 霧が映る。北の森の、白い霧。その中に、石の壁が浮かび上がる。人間の背丈の何倍もある壁。墓標のような塔。最初の夜に見たものだ。

「これが、丘になる前の姿です」

 門が開き、黒い服の老人が出てくる。白い髪、白い髭。背筋がまっすぐに伸びている。

 老人が、こちらを見る。

 広間の空気の中で、映った老人が、まっすぐにヴァッヘの方を見ている。まっすぐに、広間の者たちの方を。リーニエが、林檎を口から離した。

「魔力は」

 リュグナーが、穏やかに尋ねる。

「ありません」

「ない?」

「ありませんでした。少しも」

 ヴァッヘは、映した老人の後ろを、もう一度よく見た。

 老人の後ろに、もう一つ、何かがある。影のようなもの。人の形をしているのかもしれないし、霧の濃いところがそう見えただけかもしれない。最初の夜は、気づかなかった。

「……老人の後ろに、もう一つ、影のようなものがあった気がします。はっきりとは、わかりません」

 ヴァッヘの魔法は、見たものしか映せない。見ていても、気づかなかったものは、映っていても、ないのと同じだ。

 

 霧の中で、壁が土に沈んでいく。

 地鳴りとともに、石の壁が、墓標の塔が、ひと晩で丘になる。

「これは、魔法ですか」

 ドラートが、初めて口を開いた。指の間の糸が、わずかに震えている。

「わかりません。魔力は、感じませんでした」

「魔力を感じない魔法など、ない」

「はい。ですが、感じませんでした」

 ヴァッヘは、それ以上言わなかった。

 言えば、問われる。感じなかったのは、ないからなのか。それとも、お前の魔力が小さすぎて、感じ取れなかっただけなのか。

 ヴァッヘには、その問いに答えられない。答えられないことを、知られたくない。魔力の小さい者が、魔力の大きいものを量りそこねた。そう思われれば、ヴァッヘの値打ちは、ただの役立たずの見張りに落ちる。

 だから、言わない。

 見たものを、見たままに映す。それだけをする。

「ヴァッヘ」

 玉座の上から、主の声が降ってきた。

 ヴァッヘは、映像を保ったまま、額を床に押しつけた。

「あなたは、あれを量れたの」

 広間の空気が、また少しだけ静かになる。

 量れなかった、と答えれば。お前の魔力が小さいからだ、と言われる。量れた、と答えれば。では、どれほどだったのかと問われる。どちらに答えても、ヴァッヘの値打ちは量られる。

 ヴァッヘは、一つ息を吸った。

「量る前に、逃げました」

 嘘だ。量った。量って、何もなかった。

「老人が、こちらを見ましたので。見つかった見張りは、役に立ちません。量るより、見たものを持ち帰る方が先だと考えました」

 断頭台のアウラは、しばらくヴァッヘを見下ろしている。

 魔力の大きい者の目だ。量るまでもない者を見る、あの目。

「賢明ね」

 主は、それだけ言った。

 それから、膝の上の天秤を、指先で軽く傾けた。

 片方の皿が、何も載っていないのに、すっと下がる。もう片方の皿が上がる。ヴァッヘの胸の奥で、何かが細い糸で引かれたように、ぴんと張った。

 何百年か前、ヴァッヘはこの天秤に載せられた。魂を、皿の上に。主の魔力と比べられて、比べるまでもなく、主の皿が下がった。それ以来、ヴァッヘの魂の端は、ずっとあの皿の上にある。

「グロルは、しくじったわね」

 主の声は、穏やかだった。

「しくじった兵がどうなるか、あなたは知っているでしょう」

 ヴァッヘは、知っている。中庭に立っている、首のない兵たちの中に、しくじった者たちがいる。

 胸の奥の糸が、もう少しだけ張る。主が一言、首を落としなさいと言えば、ヴァッヘの手は、ヴァッヘの言うことを聞かなくなる。

 ヴァッヘは、額を床に押しつけたまま、動かなかった。動けなかった、と言った方がいい。生きていたい。それだけが、頭の中にある。主に何と言えば生きていられるのか。それだけを、必死で量っている。

「でも、あなたは、しくじっていない」

 天秤が、元に戻った。

 胸の糸が、ふっと緩む。

「見張りは、見て、帰ってくるのが仕事。あなたは見て、帰ってきた。それに、あなたの魔法は、まだ使える」

 まだ使える。

 それが、ヴァッヘの首がつながっている理由のすべてだった。

 ヴァッヘの嘘は、確かめられなかった。量られない者の嘘は、誰も確かめない。

 広間の真ん中では、丘になった墳墓の上を、映った霧がまだゆっくりと流れている。

 

「まだ、あります」

 ヴァッヘは、映像を先へ進めた。

 丘になった墳墓の上の、霧の海。その上に、星が出ている。最初の夜、北の丘の枯れ木から、最後に見たものだ。

 霧の上に、影が二つ浮かんでいる。

 一つは、翼のある、背広の男。もう一つは、黒いローブを着た、何か。

 ヴァッヘの魔法は、遠くのものを小さくしか映せない。けれども、その黒いローブの何かが、杖を持っていることはわかる。そして、ローブの襟元から覗いている顔が、骨でできていることも。

「骸骨」

 リーニエが、ぽつりと言った。

「不死者ね。骨だけになって、まだ杖を持っている」

 断頭台のアウラが、玉座の上で身を乗り出す。目が、少しだけ細くなった。

「魔力は」

「遠すぎて、量れませんでした」

 これは、嘘ではない。遠すぎた。それに、量るのが怖かった。それは、言わない。

 映像の中で、骸骨が片手を上げた。誰に向けてかはわからない。それから、ゆっくりとこちらを向く。

 ヴァッヘは、そこで枝を離れたのだった。映像が、星を一つずつ隠しながら北へ遠ざかっていく。

「……あれが、上にいる誰かね」

 主が、呟いた。

 

 次に、グロルたちと丘へ下りた夜を映した。

 霊廟の屋根の上に、少女が立っている。黒いドレス。銀色の髪。深紅の目。

 グロルたちが、丘の裾で彼女を見上げている。グロルが、何かを言う。少女が、何かを言い返す。ヴァッヘの魔法は声を映さない。けれども、少女の顔は映る。笑っている。ひどく低いところで、笑っている。

 少女が、屋根を蹴る。

 光の矢が少女の胸に当たって散る。少女の槍が、矢を放った者の手のひらを貫く。影の女の影が、少女の足に絡みつく。少女は、それを氷のように踏み割る。霧の男の背中に、槍が刺さる。

 グロルの鉈が、少女の首を狙う。重さを増していく鉈を、少女は指二本で挟んで止める。

 広間が、静まり返った。

 リーニエは、もう林檎をかじっていない。手の中で、かじりかけの林檎が、少しずつ茶色くなっていく。

「……指二本」

 リーニエが、小さく言った。

「グロルの鉈を」

「魔力は」

 リュグナーが、また尋ねる。今度は、穏やかな声の底に、少しだけ硬いものが混じっていた。

「ありません」

 ヴァッヘは、同じ答えを繰り返した。

 映像の中で、少女はグロルの角をつかみ、顔を持ち上げる。グロルの目に、ヴァッヘがこれまで見たことのない色が浮かんでいる。

 ヴァッヘは、そこで魔法を止めた。

 それ以上は、見ていない。見ていられなかったわけではない。少女が、ほんの一瞬、枯れ木の方を見た気がしたのだ。見なかったふりをしているような顔で。

 ヴァッヘは、そのとき、枝を蹴った。

 

◇

 

 広間の空気が、元に戻る。

 断頭台のアウラは、しばらく何も言わなかった。膝の上の天秤の皿を、指先で軽く弾いている。小さな、澄んだ音がする。

「魔力のない娘が、グロルを生け捕りにした」

 やがて、主はそう言った。

「おもしろいわね」

 口の端が、少しだけ上がっている。

「リュグナー」

「はい」

「あなたは、どう思うの」

 リュグナーは、少しだけ首を傾げた。考えている顔だ。リュグナーは、いつも考えている顔をしている。

「申し上げにくいことですが、アウラ様。あの丘には、手を出さない方がよろしいかと」

「理由は」

「量れないからです」

 リュグナーは、穏やかに言った。

「魔力がないのに、グロルを指二本で止めた。魔力がないのに、ひと晩で城を丘に変えた。我々は、魔力を見て相手を量ります。量れない相手と戦うのは、目を閉じて戦うのと同じです」

 ヴァッヘは、床に額をつけたまま、リュグナーの言葉を聞いていた。

 量れない。

 リュグナーは、自分の魔力が小さいからではなく、相手が量れないのだと言った。リュグナーほどの魔力を持つ者がそう言うなら、それは、ヴァッヘの魔力が小さいせいではないのかもしれない。

 そう思うと、胸の中の、名前のない小さなものが、ほんの少しだけ軽くなった。

「それで」

 断頭台のアウラが、先を促す。

「それよりも、南の伯爵の街です」

 リュグナーは、話を変えた。

「ドラートが、街を量ってまいりました。城壁の魔法使いは、取るに足らない。兵も多くはない。伯爵は、息子を我々に殺されて以来、魔族を憎んでおります。ですが、あの男は、憎しみで動く男ではない。街の者を守るためなら、憎い相手とも手を結ぶでしょう」

「手を結ぶ」

「和睦です」

「また、あれをやるの」

 リーニエが、林檎から口を離して言った。

「人間の真似をして、人間の言葉で頭を下げるの。私、あれは得意」

 リュグナーの笑みが、少しだけ深くなる。

「和睦の使者として、私とリーニエとドラートが、街に入ります。伯爵は、我々を信じはしないでしょう。けれども、信じなくても、城門は開けざるをえない。城門の内側に入ってしまえば、あとはどうとでもなります」

 言葉で、城門を開ける。

 それは、魔族がいちばん得意とすることだ。ヴァッヘにもわかる。人間は、言葉に弱い。可哀想な声に弱い。和睦という言葉に、弱い。

「ドラート。街に、ほかに何かいたか」

 断頭台のアウラが、ドラートに目を向ける。

 ドラートは、指の糸をゆっくりと巻き取りながら答えた。

「何も。夜に、城壁の外を歩いていた男が一人いたくらいです」

「男」

「人間の商人です。魔力は、ありませんでした。糸のすぐ近くで立ち止まったので、少し見ていましたが、何も気づかずに宿へ戻りました。量る値打ちもない男です」

「魔力のない男」

 断頭台のアウラが、少しだけ首を傾げる。

「ありませんでした。ただの人間です」

 ドラートは、それ以上何も言わない。

 ヴァッヘは、床の石の目を見ていた。

 魔力のない老人。魔力のない少女。魔力のない男。

 ドラートは、その男をただの人間だと言った。量って、何もなかったから。ヴァッヘも、最初の夜、老人を量って、何もなかった。何もなかったのに、老人はまっすぐにこちらを見た。

 それを、ここで言うべきなのかどうか、ヴァッヘにはわからない。

 言えば、また問われる。

 

◇

 

「和睦は、あとでいいわ」

 断頭台のアウラが言った。

 リュグナーの笑みが、ほんのわずかに止まる。ドラートの指の間で、糸が一本、きりりと鳴った。

「アウラ様」

「伯爵の街は、逃げない。あの男は、街を捨てて逃げるような男ではないのでしょう。だったら、いつでも行ける」

 主は、膝の上の天秤を持ち上げた。

 小さな天秤だ。二つの皿が、細い鎖で吊られている。何の飾りもない、古い銅の天秤。けれども、ヴァッヘは知っている。この天秤の皿に魂を載せられた者は、どちらの魔力が大きいかで、どちらがどちらに従うかが決まる。主より魔力の小さい者は、主の言葉に逆らえなくなる。自分の手で、自分の首を落とせと言われれば、落とす。

 この城の首のない兵たちは、みんな、そうして主のものになった。

「先に、丘を」

 断頭台のアウラは、天秤を目の高さにかざした。

「魔力のない、大きな器。指二本でグロルを止める、小さな娘。空に浮いていた、骨の魔法使い。全部、私の兵にする」

「ですが、量れないと」

「量れないのは、あなたたちでしょう」

 主は、リュグナーの方を見もしない。

「この天秤は、魔力を量る。魔力がないなら、皿には何も載らない。何も載らない皿と、私の皿。どちらが重いかは、量るまでもないわ」

 広間の誰も、何も言わない。

 理屈は、通っている。魔力がないなら、主の魔力の方が大きい。主の魔力の方が大きければ、天秤は主の方に傾く。傾けば、相手は主のものになる。

 ヴァッヘは、床の石の目を見ながら、その理屈を、自分の中で一度なぞった。

 なぞって、どこにも引っかかるところがない。

 引っかかるところがないのに、胸の中の、名前のない小さなものが、また少しだけ重くなった。

 

 リーニエが、林檎の芯を床に落とした。

「アウラ様」

 リュグナーが、もう一度だけ口を開く。今度は、少しだけ声を低くして。

「南の街で、もう一つ、噂を拾っております。エルフの魔法使いが、北へ向かっていると」

 広間の空気が、また変わった。

 断頭台のアウラの指が、天秤の鎖の上で止まる。

「エルフ」

「名前まではわかりません。ですが、千年を生きるエルフの魔法使いは、この大陸に、そう何人もおりません」

 主は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

「フリーレンね」

 その名前を、主は、まるで昔の知り合いの名を呼ぶように口にする。

「八十年前、勇者の一行にいたエルフ。私は、あの子の魔力を見たわ。私より、ずっと小さかった。勇者がいなければ、あの子に何ができるというの」

「強いの?」

 リーニエが、新しい林檎を袖から出しながら尋ねた。

「弱いわ」

 主は、迷わずに答えた。

 リュグナーは、何も答えない。

 ヴァッヘは、床の石の目を見ながら、一つのことを思い出している。

 グロルたちが北の陣を出るとき、ヴァッヘは道案内として一緒にいた。森の中を歩きながら、グロルは一度だけ、あの名前を口にした。

『葬送のフリーレンにだけは、会いたくないな』

 グロルは、殺されても主のためだと言える兵ではない。生きるためなら、何でもする兵だ。そのグロルが、何でもする兵が、あの名前だけは避けたいと言った。

 主の魔力より、小さいはずの魔法使いを。

 ヴァッヘは、それも言わなかった。

 

◇

 

「ヴァッヘ」

 名前を呼ばれて、ヴァッヘは額を上げた。

 断頭台のアウラが、玉座の上からこちらを見下ろしている。

「あなたは、丘への道を知っている」

「はい」

「近いうちに、私が行く。そのときは、あなたが案内しなさい」

「……はい」

 ヴァッヘは、もう一度、額を床につけた。

「リュグナー。兵を整えておきなさい。中庭の半分でいいわ」

「……かしこまりました」

 リュグナーの返事は、いつもより半拍、遅い。

 主が、玉座の肘掛けを指で叩いた。

 中庭の方から、音がした。

 何百、何千という鎧が、一度に鳴る音だ。首のない兵たちが、いっせいに向きを変えた。誰が命じたわけでもない。主の魔力が、彼らの中を一度だけ流れた。それだけで、兵たちは主の望む方を向く。

 南を。

 崩れた壁の向こうで、首のない兵の列が、波のように南を向いていく。

 主が行く。首のない兵を連れて。天秤を持って。

 丘に、魔力のない老人がいる。魔力のない少女がいる。その上に、たぶん、誰かがいる。

 ヴァッヘは、最初の夜のことを思い出す。

 霧の向こうで、老人と目が合った。合った、と思っただけかもしれない。追ってくる気配はなかった。それがかえって、胸の中に名前のない小さなものを残していった。

 その小さなものは、今も、ここにある。

 少しずつ、大きくなっている。

 

 広間を出て、崩れた回廊を歩いていると、後ろから呼び止められた。

「ヴァッヘ」

 振り返ると、リュグナーが立っていた。

 黒い服の袖口から、赤い滴が一つ、宙に浮いている。リュグナーは、考えごとをするとき、いつもそうする。自分の血を一滴、指先から離して、宙に遊ばせる。

「先ほどの老人のことです」

 リュグナーは、穏やかに言った。

「あなたは、量る前に逃げたと言いましたね」

 ヴァッヘは、黙った。

「責めているのではありませんよ」

 宙に浮いた赤い滴が、ゆっくりと形を変える。丸くなり、細くなり、また丸くなる。

「私が知りたいのは、あの老人の目のことです。あの目は、あなたを見ていましたか。それとも、あなたのいる場所を見ていましたか」

 ヴァッヘは、最初の夜を思い出した。

 霧の向こうで、老人はまっすぐに楢の木を見た。枝の上の、ヴァッヘを。

「……私を、見ていました」

「魔力のない者が、魔力の小さいあなたを、霧の向こうから見つけた」

 リュグナーの笑みは、変わらない。けれども、宙の赤い滴が、ぴたりと止まった。

「アウラ様は、天秤で量れるとお考えです。それは、正しいのかもしれない。私にはわかりません」

 リュグナーは、止まった滴を指先に戻した。

「量れないものは、言葉で量るしかない。和睦の使者というのは、本当は、そのための道具なのです。城門を開けさせる前に、相手が何を恐れ、何を欲しがっているかを、言葉で量る」

「……丘にも、ですか」

「いずれは」

 リュグナーの手が、ヴァッヘの肩に軽く置かれる。

「あなたは、これからも見ていなさい。見たものを、見たままに。あなたの魔法は、嘘をつけない。この城で、それはとても貴重なことです」

 手が離れる。

 リュグナーは、穏やかな足取りで回廊の奥へ消えていった。

 ヴァッヘは、肩に残った手の感触を、しばらく確かめていた。

 あなたの魔法は、嘘をつけない。

 たった今、魔法でないところで、ヴァッヘは主に嘘をついた。リュグナーは、それを知っていて、言ったのだろうか。

 

 その夜、ヴァッヘは崩れた城壁の上に座っていた。

 南の空は暗い。森も、丘も、ここからは見えない。見えないとわかっていて、ヴァッヘは南を見ている。

 城壁の下の中庭では、首のない兵たちが、南を向いたまま立っている。昼に主が向けたまま、誰も向きを戻さない。

 ヴァッヘは、自分の目の前の空気に、もう一度、最初の夜を映した。

 誰に見せるためでもない。自分のためだけに。

 霧。石の壁。門。黒い服の老人。

 老人が、こちらを見る。

 映した老人の目を、ヴァッヘは長いこと見ていた。魔力のない目。何も量れない目。それなのに、ヴァッヘの方をまっすぐに見ている目。

 胸の中の、名前のない小さなものが、また少しだけ動く。

 ヴァッヘは、それに名前をつけようとして、やめた。

 人間の顔なら、何度も見たことがある。見張りをしていれば、魔族に出会った人間の顔は、いくらでも見る。目を見開き、息を止め、足がその場から動かなくなる。あれが、人間の言う恐ろしいというものなのだろう。

 自分の胸の中のこれが、あれと同じものなのかどうか。ヴァッヘには、確かめようがない。確かめるための物差しを、魔族は持っていない。

 映像を消す。

 霧の老人が、夜の闇に溶けていく。

 

 城壁を下りて回廊を戻る途中、ヴァッヘは一度だけ、広間の方を振り返った。

 断頭台のアウラは、玉座の上で、天秤を磨いていた。

 布で、皿の縁を、ゆっくりと。何百年もそうしてきた手つきで。銅の皿が、松明の光を受けて、鈍く光っている。

「魔力のないものを」

 主は、誰に言うでもなく、呟いた。

「天秤は、どう量るのかしら」

 磨き終えた皿が、鎖の先で小さく揺れる。

 何も載っていないのに、揺れている。

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