新世紀GPXサイバーフォーミュラ RED RAVEN ―名もなき翼― 作:天羽々斬
玄関の鍵を回すと、奥から湯の沸く音が聞こえた。
「ただいま」
「おかえり。今、お茶いれるところ」
セナは靴を脱ぎ、買ってきた紙袋を台所のテーブルに置いた。
ニーナは制服の上に薄いカーディガンを羽織っていた。食器棚からカップを二つ出し、紙袋をのぞく。
「卵のパン、あったんだ」
「最後の二つだった」
「じゃあ、一個ずつね」
小さな皿にパンが並ぶ。セナはジャケットを椅子の背に掛け、洗面所へ向かった。
顔を洗って戻ると、自分の席にも湯気の立つカップが置かれていた。
「今日は遅かったね」
「最後に空港まで行ったから」
「遠いほう?」
「ああ」
「お疲れさま」
セナが座ると、ニーナも向かいの椅子に腰を下ろした。
二人で食べ始めてしばらくしてから、セナは壁のカレンダーを見た。次の休みの欄には、何も書かれていない。
「今度、半日くらい出かけるかもしれない」
「休みの日に?」
「まだ決まってないけど」
「何かあるの?」
「車のテスト。報酬が出るらしい」
ニーナの手が止まった。
「どんな車?」
セナはジャケットのポケットから名刺を取り出した。帰庫して車を返す前に、小物入れから移しておいたものだった。
テーブルに置くと、ニーナは指先で自分のほうへ引き寄せた。
「レッドレイブン……」
赤い鳥のマークを見つめ、それから兄を見る。
「これ、飲み物の?」
「たぶん」
「たぶんって。ちゃんと話、聞いた?」
「今年からサイバーフォーミュラに出るって言ってた」
ニーナは口を開きかけ、いったん閉じた。
「……その車に乗るの?」
「テストなら」
冷めかけた茶を飲み、セナは続けた。
「今日、空港まで乗せた客なんだ。運転を見て、一度乗ってみないかって」
ニーナは名刺を裏返した。何も書かれていないことを確かめると、また表へ戻す。
「そんなこと、あるんだ」
「俺も初めてだよ」
「うん。そうだよね」
少し笑ってから、ニーナは名刺をテーブルに置いた。
「行くの?」
「条件を送ってくれるらしい。それを見てから」
「条件って、お金?」
「それも。場所とか、時間とか」
セナの端末が震えた。
画面に表示された名前を見て、名刺へ目を落とす。同じ名前だった。
トト・ウィリアムズ。
届いたのは短い礼の言葉と、テストの案内だった。施設の所在地、予定している時間、担当者の連絡先。報酬と交通費についても、別の欄に記載されていた。
セナは金額を読み、一度画面を戻して、もう一度確かめた。
「来たの?」
「ああ」
ニーナが身を乗り出す。セナは端末をテーブルの中央へ置いた。
「……半日で?」
「そう書いてある」
「すごいね」
「まだ受けられるか分からない。競技経験がないことは伝えたけど、ほかにも確認することがあるだろうし」
案内には、事前に説明と座席の調整を行い、その後に走行へ移るとあった。持参品の欄まで目を通してから、セナは端末を手元へ戻した。
ニーナはパンを小さくちぎっていた。
「危なくないのかな」
セナはすぐには答えなかった。
もう一度、案内を開く。走行内容についての詳しい説明は、当日までに別途行うと記されている。
「そこは聞く」
「うん」
「分からないまま乗ったりはしないよ」
ニーナはうなずいた。それで少し安心したようだったが、名刺を見つめる目には、まだ迷いが残っていた。
「ニーナ?」
「お兄ちゃん、車に乗る仕事、もう毎日してるから」
「ああ」
「休みまで仕事にしなくてもいいのに、って思っただけ」
セナは残っていたパンを食べた。
窓の向こうで、隣の家の車が出ていく音がした。そろそろニーナも出る時間だった。
「半日なら、帰ってから寝られる」
「そういうことじゃないんだけど」
困ったように笑い、ニーナは立ち上がった。
空いた皿を流しへ運び、鞄を取りに部屋へ戻る。その間に、セナはトトへの返信を打った。
案内を確認したこと。
提示された候補日なら、次の休みに参加できること。
そして、走行内容と安全上の説明を先に聞きたいこと。
送信する前に読み直し、最後へ一行加えた。
『参加にあたって、こちらで負担する費用はありますか』
ニーナが戻ってきた。
セナの肩越しに画面を見て、何も言わずに口元を緩める。
「何」
「お兄ちゃんらしいなって」
「大事だろ」
「うん。大事」
玄関まで見送りに行くと、ニーナは靴を履きながら振り返った。
「帰ったら、どうなったか教えてね」
「分かった」
「先に寝てていいからね」
「そっちこそ、遅れないように」
「まだ大丈夫」
扉が閉まり、階段を下りる足音が遠ざかっていった。
セナは台所へ戻り、カップに残っていた茶を飲んだ。
端末が震える。
『費用はすべてこちらで負担する。説明のために、まず電話できる時間を教えてほしい。夜通しの勤務だっただろうから、起きてからで構わない』
続けて、もう一通届いた。
『おかげで飛行機には間に合った。改めて、ありがとう』
セナは短く返信し、端末を充電器につないだ。
カレンダーの前に立ち、次の休日の欄へペンを当てる。
書く内容を少し考えてから、小さく記した。
車両テスト。
その隣に、案内にあった開始時刻を書き足した。