新世紀GPXサイバーフォーミュラ RED RAVEN ―名もなき翼― 作:天羽々斬
指定された駅の改札を出ると、トトが待っていた。
「おはよう、セナ」
「おはようございます」
セナは端末の時計を見た。約束の時刻まで、まだ十分あった。
「早いね」
「電車が遅れると困るので」
トトは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それは、私も見習わないとな」
駐車場へ歩きながら、セナは肩に掛けた鞄を持ち直した。中身は着替えとタオル、それに昨夜もう一度読み直した説明資料だった。
トトの車に乗ると、助手席にも同じ資料が用意されていた。
「走行内容について、追加で聞いておきたいことは?」
「中止する場合は、無線で伝えればいいんですよね」
「ああ。車に異常を感じた場合も、自分の体調がおかしいと思った場合も、すぐ知らせてほしい」
「分かりました」
「今日は君にも、うちを見てもらう日だと思っている。気になったことは遠慮せず言ってくれ」
セナはうなずき、シートベルトの位置を直した。
市街地を抜けると、窓の向こうに低い建物と、長く続くフェンスが見えてきた。
その奥に、コースがあった。
*
ガレージでは、数人のスタッフが車を囲んでいた。
トトが声を掛けると、中央にいた女性が端末から顔を上げた。
「来たわね」
「紹介する。今日、乗ってもらうセナだ」
「セナ・フェルスタッペンです。よろしくお願いします」
女性は差し出された手を握り、セナを頭から足元まで一度見た。
「こちらこそ。着替えの前に身体の確認をして、そのあとシートを合わせるわ。朝食は?」
「食べました」
「睡眠は?」
「七時間ほど」
「結構。気分が悪くなったら、走っている途中でもすぐ言って」
事務的な説明に、セナは少し安心した。
ガレージの奥へ視線を向ける。
照明の下に、一台のマシンが置かれていた。
低く伸びた車体に、まだ塗装されていない部分がある。外されたパネルのそばには工具が並び、後方ではスタッフが配線を確認していた。
セナは数歩近づき、コクピットをのぞき込んだ。
「これに乗るんですね」
「ああ」
トトが隣に立つ。
「レイブン。うちの最初のマシンだ」
セナは乗り込む位置と、足を掛けられそうな場所を見比べた。
「どこを踏んでいいですか」
近くのスタッフが顔を上げた。
「ああ、まだ乗らないで。あとで説明するから」
「分かりました」
セナは車体から離れた。
トトの隣へ来た女性が、小声で言った。
「ずいぶん落ち着いてるわね」
「そう見えるね」
「経歴の欄、本当にあれで全部?」
「本人には確認した」
女性はもう一度セナを見た。
彼は壁際のコース図を読んでいた。
*
シートの調整には、思ったより時間がかかった。
腰を収め、ペダルへ足を伸ばす。背中に当たる部分を直してもらい、ベルトを締める。その状態でハンドルを回し、指示されたスイッチへ順番に手を伸ばした。
「右側の二つは、今日は触らないで」
「はい」
「無線はここ。押してみて」
セナが操作すると、ヘルメットの中へ声が届いた。
『聞こえる?』
「聞こえます」
『こちらも良好』
正面の表示が切り替わり、電子音が鳴った。
『ドライバー認証、確認。システムチェックを開始します』
セナは画面を見ていた。
タイヤ、駆動系、各部の温度。説明で聞いた項目が順に表示される。
『チェック完了。走行可能です』
コクピットの脇に立った女性が、指を一本立てた。
「最初は確認走行。速度は指示した範囲まで。コースを覚えるつもりで走って」
「何周ですか」
「三周。そのあと一度戻ってきて」
セナはうなずいた。
スタッフが離れる。
前方で、誘導の腕が上がった。
レイブンがゆっくりと動き出す。
ガレージの出口を抜ける瞬間、セナはアクセルを少しだけ戻した。
*
「慎重ね」
モニターを見ながら、女性が言った。
レイブンは十分に速度を抑えていた。ストレートでも指示された上限に届く手前で加速をやめ、最初のコーナーへ入っていく。
トトは返事をせず、映像を見ていた。
一周目が終わる。
二周目も、ほとんど同じ速さだった。
計測担当のスタッフがデータを重ね、画面へ顔を近づけた。
「ライン、もう覚えたんですかね」
「まだ上げさせないで」
女性が無線を開く。
「セナ、車の感触は?」
『普通に走れています』
「操作で分かりにくいところは?」
少し間があった。
『二つ目の右で、切り始めてから前が入るまでに、少しあります』
女性は車両担当へ目を向けた。
担当者が表示を切り替える。
「どのくらい?」
『一度戻ったら、説明します。走る分には大丈夫です』
三周目を終え、レイブンがピットへ入った。
停止位置で車が止まると、セナは両手をハンドルから離した。
「酔ってない? 首は?」
「大丈夫です」
女性は端末を見せた。
「さっきの右、ここね」
セナは画面を確認し、うなずく。
「この手前で少しだけ切っています。そのあと、実際に曲がり始めるのがここです」
指で示した二点の間を、車両担当が拡大した。
「入力と応答の差を言ってる?」
「たぶん。二周目からは、それに合わせました」
スタッフはセナの顔を見てから、データへ視線を戻した。
確かに、二周目から操作の始まる位置が変わっていた。
女性がトトを見る。
トトは何も言わず、次の走行を待っていた。
*
二度目の走行では、速度の上限が引き上げられた。
セナは無線の指示を復唱してから、コースへ戻った。
最初の加速で、背中がシートへ押しつけられる。
タクシーとは違う。
視界の流れも、身体にかかる力も、アクセルへ触れたあとの変化も。
セナは息を吐き、前方を見た。
ブレーキを踏む。
車の前側へ荷重が移る。その変化が落ち着く前にハンドルを切り、出口へ向けて少しずつ戻していく。
先ほどより速度は高い。それでも、曲がり始めるまでの間は同じだった。
次の周では、操作をわずかに早めた。
レイブンの向きがそろう。
そこでアクセルを踏み足す。
『前方、クリア』
システムの声が聞こえた。
ガレージでは、計測担当が通過タイムを確認していた。
「あの、今の周……」
「分かってる」
女性は画面から目を離さなかった。
区間ごとの数字が更新される。
一つのコーナーだけが速いわけではなかった。まだ余裕を残している場所もある。それなのに、一周としてつながると、想定していた範囲の上側へ届いていた。
「セナ。今のペースを維持して。まだ上げなくていい」
『分かりました』
返事の直後、次の計測地点を通過する。
女性は無線を切り、トトへ向き直った。
「どこで見つけたの、この子」
「駅前」
「真面目に聞いてるの」
「私も真面目に答えているよ」
トトはモニターを見たまま言った。
「空港まで乗せてもらった」
*
走行終了の指示が出ると、セナは速度を落とした。
ピットへ戻り、車を止める。
ヘルメットを外したときには、額に汗がにじんでいた。思っていたより肩にも力が入っている。
渡されたタオルで顔を拭くと、トトが近づいてきた。
「どうだった?」
セナは少し考えた。
「思ったより、身体にきますね」
「車のほうは?」
「まだ分からないところが多いです」
その返事に、女性が端末を持って隣へ来た。
「どこが分からなかった?」
セナは画面のコース図を見た。
「ここと、その次です。同じように曲がると、二つ目で少し余ります。もう少し速く入れるのか、手前から変えたほうがいいのか」
女性がトトと目を合わせた。
セナは気づかず、図を指していた。
「あと、最初に言った反応の遅れですけど。これは調整できますか」
「できるわ。ただ、ほかの部分への影響も見る必要がある」
「そうですか」
「気になる?」
「合わせて走ると、その先で少し待つので」
女性は端末へ書き込んだ。
トトが尋ねる。
「もう一度、乗ってみたいかい」
セナは壁の時計を見た。
予定の終了時刻まで、まだ時間があった。
「今日ですか?」
トトは一拍置いてから、うなずいた。
「まずは、今日」
「それなら。休憩していいなら、乗れます」
「もちろん」
スタッフがレイブンへ戻っていく。
セナは渡された水の蓋を開け、椅子に座った。飲みながら、ガレージの奥へ目を向ける。
さっきの二つ目のコーナーを、頭の中でもう一度走った。
最初の進入を少し浅くすれば、次の向きが早く決まるかもしれない。
確かめるには、もう一度乗る必要があった。